時間の果実



      
   
   2 ELFLOCK

 高く澄んだ冬の晴天を、薄い色の雲が一つ、ゆっくりと空を二つに分けるようにして流れて
行った。リリーは小さく、よぉし、とつぶやいて立ち上がると、服の裾についた埃を払った。
後ろの木にもたれながら、片方の足の膝を立てて座っていたヴェルナーは、リリーの後ろ姿に
向かって言った。
「……出発か?」
 リリーは、顔の横に垂らした榛色の髪の毛の束を揺らして、ヴェルナーのほうを振り返っ
た。
「そうよ、休憩終了。さあ、行きましょう! ぼやぼやしてたら日が暮れちゃうもの!」
 リリーの傍らで、髪の毛のピンの位置を直していたエルザも、ぴょこん、と跳ね上がるよう
にして立ち上がった。
「そうよね、行こうか!」
 ヴェルナーは、二人の少女たちに向かってうなずいて見せると、右手をついて立ち上がった。
しかし、その瞬間。
「きゃあああ〜っ!」
 エルザの金切り声と同時に、空を切り裂いて、小振りな、しかし凶暴なうなりをあげた一本
の矢が飛んできた。
「危ねぇ!」
 咄嗟に、後ろからリリーの肩を抱えるようにして、ヴェルナーが矢を避けさせると、矢はさ
っきまでリリーの頭のあった位置を通過して、後ろの木の幹に突き刺さった。エルザは、冷や
汗をかきながらリリーの顔を見た。
「……リ、リリー! 怪我はない!?」
 硬直したままこくこくとうなずくリリーに、ヴェルナーは怒鳴った。
「おい、ぼんやりするんじゃねぇ! この矢は……エルフのものか? おかしいな、エルフの
縄張りは、もっと東に行ったあたりのはずなんだが……?」
 エルザが向こうのほうを指さして怒鳴った。
「ちょっと! ヴェルナーさん! リリー! あああああ、あれ! 見てっ!」
 二人がエルザの指さした方角を見ると、そこには……。
 リリーはつぶやいた。
「何、あれは……エルフの、大群……?」
 そこに見えたのは、土煙を上げてこちらに駆けてくる、数百人を下らないエルフの群れ。エ
ルフたちは、手に小振りな弓を持ち、何やら甲高い声で口々に叫び声を上げていた。エルザは
青くなって言った。
「……こっちに来るわ! どうしよう、リリー! あたしたちを襲いに来たの??」
 ヴェルナーは言った。
「いや、よく見て見ろ。あいつらの群れの前を、一匹、小さいエルフが走ってる……? やつ
らから、逃げてるみたいだな」
 エルザはヴェルナーの指さした方角を凝視して言った。
「あ、本当……! あのエルフの群れは、前を走っている、ちっちゃい青い服を着たエルフを
追っかけているみたいね。なんでかしら……? エルフ同士の、仲間割れ……!? に、して
は様子が変よ……?」
 ヴェルナーは、チッ、と舌打ちをした。
「やべぇな、あの追いかけられているエルフは、こっちに向かって来てるぞ! 巻き添えを食
っちゃかなわねぇ。……おい、リリー、奴らの進行方向から外れて逃げるぞ!」
 リリーは、しかし、前を見据えたまま言った。
「待って、ヴェルナー! ……様子が変よ? ねぇ、あの子、あの小さいエルフ、助けられな
いかしら?」
 ヴェルナーは、ぎょっとした顔でリリーに言った。
「何言ってるんだ、リリー? 魔物同士の小競り合いに首を突っ込んだってろくな事はねぇだ
ろ!?」
 リリーはヴェルナーの方を振り返って、彼の顔をにらみつけた。
「たしかにそれはもっとかもしれないけど……何だか本当に様子がおかしいもの! それにだ
いたい、あんな大勢でたった一人を追いかけるなんて、かわいそうだわ! ……エルフの中に
は人間と友好的な部族だっているのよ。言葉だって通じるし、現にこの間だって、隠れ里に住
んでいるエルフたちと交易したじゃない? 単なる魔物扱いするのは間違ってるわ!」
 ヴェルナーは、やれやれ、といった顔で小さくため息をついた。
「……好きにしろ。で、勝算はあるんだろうな?」
 リリーは、エルフたちを見て言った。
「あんなに大勢じゃ、とてもまともに戦ったって、勝ち目はないわ。それに目的は、あの、逃
げているエルフを助けることであって、あの大群を負かすことじゃないもの。……ここから見
えるあの窪地、あそこを先頭で逃げているエルフが通り抜けたところで、大群が来る寸前に、
フォートフラムを投げて、足止めをするわ。炎が消えない内に、あのエルフをつれて横の森の
中に逃げましょう。離脱するときは……、エルザ、お願いね!」
「分かった。やってみるわ、リリー!」
 エルザは口の両端を引き結ぶと、こくりとうなずいた。

*


 冬の午後の日差しは、細かな光の粒子を静かに空気中にばらまいていた。窪地を見下ろす場
所で、リリーは爆弾を手にタイミングを計っていた。横ではヴェルナーとエルザが、緊張した
面もちでエルフたちの動きを見守っていた。ふいに、ヴェルナーが言った。
「おい、何か変だぞ、あのエルフたち……?」
 エルザが言った。
「え、何が変なんですか、ヴェルナーさん?」
「しっ!」
 ヴェルナーは鋭い眼光でちらりとエルザの方を見やると、そのまま人差し指を口に当て、押
し殺したような声で二人に言った。
「息を殺して、よく、聞いて見ろ……!」
 
 ……キイイキイキイキキッキキキキイイキイイイイィィッキキ…………。
 
 その音は、不快な高音を響かせながら、乾燥した空気を浸食していった。音は次第に大きく
なり、やがて、あたりを嫌な歪んだ色調に染め上げていった。エルザが顔をしかめながら言っ
た。
「何、この音……! 金属を針金で引っ掻いたみたい……! あ、頭が! 割れるみたいに痛
いわ!」
 リリーも、額に汗を浮かべながら言った。
「こ、これはいったい、何……! まさか! あのエルフの鳴き声……!?」
 ヴェルナーは、静かにうなずいた。
「おそらくな。それに……、よく見て見ろ。あいつらの目の色……、尋常じゃねぇぜ!」
 リリーはそう言われて、エルフたちの目を注視し、叫び声をあげた。
「きゃあっ! 何、あのエルフたちの目……!」
 エルザも震えながら言った。
「ね、ねえ、リリー! エルフの目って、あんな、気持ちの悪い真っ赤な色をしてたかしら?」
 リリーも、青くなりながら首を横に振った。
「ち、違うわ。……黒とか、茶色とか、青とか、とにかく! 普通の人間と同じような色よ! 
ねえ、ヴェルナー! いったい、あれは……何?」
 ヴェルナーは言った。
「さあな。ま、ここから見て分かるのは、先頭を逃げてるエルフだけが、唯一まともそうな目
の色をしてるってことと、それから……おっと!」
 その瞬間、ひゅん、と高い音がして、また流れ矢が飛んできて、今度はヴェルナーの顔の横
をかすめた。ヴェルナーはそれをかわすと、強い口調で言った。
「今だ、フォートフラムを投げろ、リリー!」
「分かったわ! ……え〜いっ!」
 リリーの放ったフォートフラムは、窪地の中を焼き、炎は風に乗って辺り一帯を焦がしてい
った。その突然の炎の壁の出現に、猛り狂っていたエルフの群れは口々にギイギイと甲高い悲
鳴を上げ、その場に立ちすくんだ。エルザはその隙に、今さっきまで大群から逃げていた小柄
なエルフの手を取り、微笑んで見せた。
「さあ、君! 逃げるわよ!」
 エルフはぎょっとした顔でエルザを見た。
「え? あ、あなたは誰ですか!?」
 爆風は異様な明るさを伴って、うねるようあたりを煌々と不気味に照らし出し始めた。その
異様な光に、エルフは大きな叫び声を上げた。
「う、うわああああ〜〜〜〜〜!!!」
 エルザは、小さなエルフを抱きかかえると、彼に言った。
「落ち着いて! 大丈夫、これは単に目くらましの爆弾だから!」
 しかし、エルザの腕の中で、小さなエルフはそのまま失神してしまった。
 ヴェルナーはエルザに怒鳴った。
「おい、エルザ! そいつを俺によこせ! 俺が抱えて逃げるから! おまえはリリーを連れ
てあっちの森に逃げ込め!」
「分かったわ、ヴェルナーさん!」
 エルザはヴェルナーにエルフを渡すと、四人は東に広がる黒々とした森の中に逃げ込んでい
った。

*


 水音が、細く響いていた。森の中は、鬱蒼と生い茂った木々の葉が、ざわめきを伴った緑色
の影を地面に落としていた。薄日の射す静かな音をたたえた小川に、エルザはそっとハンカチ
を浸し、ぎゅっ、と絞った。澄んだ水が、ほと、ほと、と手元から流れ落ちるのを見て、エル
ザは少し微笑むと、リリーとヴェルナーのほうを振り返った。
「すっごくきれいな水よ! ねぇ、リリーもこっちに来てみない〜?」
 リリーはエルザに言った。
「本当? 今行くわ〜!」
 リリーは小走りにエルザのもとに駆け寄ると、ブーツを投げ捨ててトラウザーズの裾をまく
り上げ、小川の清らかな流れに足を浸した。
「きゃっ! 冷たい! ずっと埃っぽい平原を歩いてきたから、気持ちいいわねぇ、エルザ!」
 エルザは、ハンンカチをもう一度絞って微笑んだ。
「リリーったら、さっきの爆弾のせいで顔が煤だらけよ! せっかくだから、洗ったらどう?」
「えっ? 本当!」
 リリーは慌てて川の水で顔をばしゃばしゃと洗った。
「駄目駄目、全然落ちてないわ! 特に鼻の頭なんて、真っ黒なままよ〜?」
 エルザが笑いながら言った。
 木漏れ日の下、二人の少女の嬌声が上がった。それを耳にしながら、ヴェルナーはあきれた
ように言った。
「ったく、暢気な奴らだな……。あれだけの魔物の大群が行く手を遮ってるから、当分ここを
動けないってのに……」
 リリーは頬を膨らませるとヴェルナーの顔を見た。
「もう、ヴェルナーってば! 身動きが取れないから、川があって良かったんじゃない!」
 ヴェルナーはため息をついた。
「……おまえなぁ、おかしいとは思わないのか?」
 リリーは、きょとんとした顔でヴェルナーに言った。
「何が、おかしいのよ、ヴェルナー?」
 ヴェルナーは、やれやれ、といった風に首を横に振った。
「ここに落ち着いてから、どれくらい時間が経ったと思うんだ、リリー?」
 リリーは事も無げに言った。
「さあ……。さっきその子を助けたのがお昼過ぎだったから……かれこれ夕方の5時くらいに
なるかしら?」
 ヴェルナーは、腕組みをして言った。
「じゃあ、俺の言ってることの意味が、分かるだろ?」
 リリーは手についた水滴を軽く振り飛ばしながら言った。
「何よ、さっきから!」
 そのとき、エルザが叫んだ。
「あ! そうか! ……って、どうして!?」
 リリーは、ぎょっとしてエルザを振り返った。
「な、何よ、何がどうしたの、エルザ?」
 ヴェルナーは、ふん、と鼻先で苦笑した。
「……ようやく気がついたんだな、エルザ?」
 エルザは真っ青な顔をしてヴェルナーに言った。
「どういうことなんですか、ヴェルナーさん?」
 ヴェルナーは、事も無げに言った。
「さあな。ま、しかし、こいつは紛れもない事実だ。それだけは間違いない」
 リリーは頬を膨らませながら言った。
「もう! さっきから、何なのよ、二人とも!」
 ヴェルナーはリリーに近づきながら静かに言った。
「おい、上見ろ、リリー」
 リリーは、何よもう、と口の中でつぶやくと、木々の間から空を見上げた。
「それでも、分からねぇのか?」
 リリーはヴェルナーの顔を見た。
「別に、どうって言うこともない、普通の空じゃない。青くて、綺麗だけど」
 ヴェルナーは、あきれ果てたように、首を二、三度横に振った。
「……つくづく鈍いな、おまえ」
 リリーは口を尖らせた。
「失礼ね! ちゃんと分かるように言ってよ、ヴェルナー!」
 ヴェルナーは、リリーの顔をのぞき込むようにして言った。
「何で、もう夕方なのに、青くて、綺麗な空のままなんだ、リリー?」
 エルザも続けて口を開いた。
「そうよ、リリー! 見て、太陽の位置が、ずっと変わっていないのよ。おかしいわ! まる
で……、時間が止まっちゃったみたい!」
 リリーは慌てて、再び上空を見上げた。木々の間から顔をのぞかせている真昼の太陽は……、
たしかに、正午の位置に制止したままだ。リリーは、ごくり、と生唾を飲み込んだ。
「ど、どうして、ヴェルナー!?」
 ヴェルナーは眉間に皺を寄せた。
「知らねぇよ、そんなことは。しかし……、どうやらそいつと、関係があるような気がするぜ、
俺は」
 そう言ってヴェルナーは、眠り続けている小柄なエルフの方を見た。
「どうしてその子と関係があるのよ、ヴェルナー?」
 リリーが尋ねると、ヴェルナーは腕組みした手をほどいて、今度は頭の後ろで組み直した。
「因果関係は分からねぇが、そいつを助けてから、太陽の動きがぴったり止まっちまったのは
確かだからな。俺は、とりあえず目の前の現実は全部認める主義だ。……ま、その上で原因と
対策を考えようぜ」
 リリーは言った。
「対策って……、どうするの、ヴェルナー?」
 ヴェルナーは、両手を下におろして、リリーの顔を見た。
「森の外には異常な数のエルフが待ちかまえているし……、このエルフも目を覚ます気配はな
い。当面は……、こいつが目を覚ますのを、待つしかねぇだろうな?」
 リリーは唇を軽く噛みしめると、すまなそうに言った。
「ごめんなさい、ヴェルナー、エルザ。あたしがこの子を助けようなんて言ったばっかりに、
こんなことに巻き込んじゃって……」
 エルザは言った。
「いいのよ、リリー! あたしだって、この子を助けることには賛成だったんだもの!」
 ヴェルナーは、薄い笑みを浮かべた。
「ま、これに懲りて、今後お節介はほどほどにしとけよ、リリー。それに、こうなっちまった
以上は仕方ねぇ。気長に待つさ」
 ヴェルナーは、そう言って上空を見上げた。
「これが噂に聞く、‘エルフロック’……、エルフのいたずらってやつか……?」

 


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