1 訪問者
寒い気配が、窓のない雑貨屋の中を横切っていった。
居眠りをしていた店主は、一瞬、ピクリと眉を片方持ち上げたが、すぐにまたまどろみの中
に還っていった。冷たい空気は、ゆっくりと店の階段を昇り、腕組みをした姿勢でカウンター
の前に腰掛けていた店主の鼻先をかすめ、やがて店内の埃っぽい空気の中に拡散して行った。
その気配が、店の扉が開いたことによって吹き込んできた、冬の外気であることに気がつかな
い彼ではなかったが、その日は、ひどく疲れていたのだ。やがて外気とともに、ぎしぎしと古
い階段を昇ってくる足音が二つ、店主に近づいてきた。それでも彼は夢うつつの状態から身を
起こさなかった。ふいに、彼の頭の上で、小さなため息の音がした。
「……もう、ヴェルナーさんったら、また居眠りしてるわよ! ねえ、どうする、ヘルミーナ
?」
今度は、ふん、と短く荒い鼻息の音がした。
「決まってるじゃない、起こすのよ! あたしだって暇じゃないんだもの! あたしはすぐに
帰って、ドルニエ先生に頼まれた常備薬の調合をしなくっちゃいけないのよ。あんたは暇かも
しれないけどね、イングリド?」
たん、と手の平でカウンターの上を叩く音が、勢いよく飛び跳ねた。
「何よ! あたしだって、暇じゃないのよ、ヘルミーナ! この後、リリー先生に頼まれた買
い物を済ませにイルマさんのところに行って、それから金の麦亭にお届け物をしなくっちゃい
けないんだもの!」
ふふん、と今度は鼻先で笑う声がした。
「ふ〜ん、ま、あんたにはお似合いよね? そういう、体力さえあれば馬鹿にでもできるよう
な単純なお遣いって……」
ごん、と拳でカウンターを叩く音が店中にこだました。
「……なぁんですってぇ〜!」
甲高い声が店中に反響した。
「ちょっと、イングリド! あなた人のお店の備品を、そうやってガンガン叩いていいと思っ
てるの、この暴力女!」
怒鳴り声がそれに応戦した。
「うっるさいわねぇ、この陰険女ッ!」
「うるせぇぞ! ケンカなら、店の外でやってくれ!」
つかみ合いをしかけた二人の少女がハッとしてカウンターの方を見ると、そこにはいつもに
も増して不機嫌そうな店主が、眉間に深い皺を寄せて、彼女たちをにらみつけていた。
*
「……なるほどな。明後日の14日は、リリーの誕生日だ、と。で、そのためのプレゼントを
探しに来たんだな?」
寝起きの機嫌の悪い顔をしたまま淡々と言うヴェルナーに、二人の少女は、硬直したままこ
くこくとうなずいた。ヘルミーナは愛想笑いをしながら言った。
「そ、そうなんです! 二人で先生のためにルージュを作ったんですけど、せっかくだから可
愛い容器に入れようと思って! それで、この店のがらくたの中にも、たまにはいいものもあ
るし、探してみようってイングリドが言い出したんです!」
店主は、不機嫌そうな顔をさらに凶悪化させて少女たちをにらみつけた。
「……あ? がらくただぁ?」
イングリドは顔面蒼白になって首を横に振った。
「ち、違います! あたしはこの店の商品ががらくたばっかりだなんて言ってません! それ
を言ったのはヘルミーナですよ、ヴェルナーさん!」
ヘルミーナは、きっ、とイングリドの顔をにらみつけた。
「何よ! イングリドだってがらくたって言ったじゃない!?」
イングリドもヘルミーナの顔をにらみかえした。
「がらくたなんて言ってないわよ! ただ、このお店には、古くて役に立ちそうもないような
変なものがたくさん置いてあるけど、でも、たまにはいいものもあるわよねって言ったのよ!」
ヘルミーナは声を張り上げた。
「そういう、役に立たなくて変なものを、普通はがらくたって言うのよ、イングリド!」
「うるせぇぞ!」
ヴェルナーはそう低い声でぴしゃりと言うと、両手の平でカウンターの上を叩いた。少女た
ちは、再び黙りこくった。
「……がらくたで悪かったな? そのがらくたを喜んで買っていって、錬金術の材料にしてい
るのは、一体どこのどいつだ?」
「……す、すいません」
ヘルミーナはそう言うと、肘の先でイングリドをつっついた。
「痛いわね、ヘルミーナ!」
イングリドが怒ってヘルミーナに向かって怒鳴ると、ヘルミーナは人差し指を口の前に当て
た。
「しぃ〜っ! 黙ってあたしみたいに謝りなさいよね! ほんっとに頭が悪いんだから!」
しかしイングリドは、それを聞いてますます顔を怒りで真っ赤にした。
「何ですってぇ! 誰が頭が悪いのよ!」
眉間に皺を寄せたまま二人の少女のやりとりを見ていたヴェルナーは、さすがにあきれたよ
うにため息をついた。
「おまえたち、毎日そんな調子なのか……? ったく、リリーも大変だよな……」
そう言いながら、ヴェルナーは椅子から立ち上がると、後ろの棚の奥からごそごそとなにや
ら取り出した。
「……化粧品の入れ物っていったら……、これなんか、どうだ?」
ヴェルナーはそう言って、小さな白い容器を少女たちに見せた。彼の手の平にすっぽり収ま
るほどの大きさのそれは、白い二枚貝のような形をしていた。ヴェルナーは、軽く両方の口端
を上に持ち上げると、少女たちの前で、その容器を手の平の上でぱかっと開けて見せた。それ
を見て二人の少女は、思わず目を丸くした。イングリドは思わず両手を胸の前で組むと、口元
をうっとりと緩めながら言った。
「素敵〜……。大きさといい、形といい、これならぴったりです!」
ヘルミーナもうなずいて、その大きな左右色の違う瞳をますます大きくした。
「綺麗……。貝の形を模しているんですね……。中のそれは……、鏡なんですか?」
ヴェルナーは、少し得意げに口端を持ち上げて笑いながら、二人に向かって言った。
「こいつは銀だ。丹念に磨き上げてあるからな、鏡みたいに顔がよく映る。銀に、表には高温
で陶製の素材を焼きつけてあるんだ。見た目よりずっと丈夫だから、ちょっとやそっと、落と
したくらいじゃ傷もつかない。ま、あいつはものの扱いが乱暴だからな。これくらい頑丈なも
ののほうがいいだろう?」
イングリドは満面の笑顔を浮かべて言った。
「あ、ありがとうございます、ヴェルナーさん! こんないいものを……って、何するのよ、
ヘルミーナ!」
目を輝かせてヴェルナーにお礼を言うイングリドに、横からヘルミーナは再び肘鉄を食らわ
せた。
「しーっ! うん、もう、馬鹿ねぇ! こんないいもの、いったいいくらすると思ってるのよ、
イングリド!?」
それを聞いて、とたんにイングリドは、しゅんとした顔をした。
「……ルージュ作るのに、宝石草のタネを買って、もうずいぶんお小遣い使っちゃったものね
え……。ねぇ、いくら持ってる、ヘルミーナ?」
ヘルミーナは、やれやれ、という顔をした。
「あんたって、本当に浅はかよね? いい? このお店の商品は、どれもこれも暴利を貪って
るって言っていいくらいに高いの! その上、奥からわざわざ掘り出し物を、店主自ら出して
くれたのよ! あたしたちの予算で買えるわけないじゃない!?」
イングリドは、ひどくがっかりした調子で言った。
「そうよねえ……。こんな普段役に立たないようながらくたに、嘘みたいな値段をつけてるお
店ですもんねえ?。あたしたち善良な子供に買えるような品物なわけないわよね……」
店主は、大仰にため息をついた。
「……おい! さっきから黙って聞いていれば、好き勝手に人の店の商品のことをあれこれ言
いやがって! いいからさっさと持っていけよ! そいつは非売品だからな。お代は……いら
ねぇよ」
ヘルミーナが、一瞬きょとんとした顔をして尋ねた。
「お代がいらないって……、どういうことですか?」
今度はイングリドが、ヘルミーナに肘鉄を食らわせた。
「馬鹿ねえ! タダってことよ! ……って、本当ですか、ヴェルナーさん!?」
ヘルミーナは、額に青筋を立てて後退りした。
「ま、まさかその代わりに、あたしたちに何かとんでもないただ働きをしろって言うんじゃな
いでしょうね、ヴェルナーさん?」
イングリドは、ヘルミーナに言った。
「ば、馬鹿、ヘルミーナ! 何てこと言うのよ!」
ヘルミーナは、涙を浮かべながらイングリドに言った。
「だ、だって、そうやって、あたしたちのような純真な子供の錬金術師に、こんな風に親切そ
うにタダで品物を与えて手なづけて、徐々に恩を売って仕事を断れなくして、そうこうするう
ちに、錬金術で普通は作っちゃいけないような危険な品物を作るように要求してきて、最後に
は、それを利用して、王室の転覆を狙われるかもしれないじゃないのよ!? いい? ……軍
事技術的優越は、政治交渉を有利に進める決定力をもっているから、政治的な駆け引きを進め
る上で新兵器を確保するのは戦略の極意だって、この間読んだ本に書いてあったもの!」
イングリドは、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「あ、そ、そうか、そうかもね! この大陸ではまだ錬金術は普及していないんだし、いかに
お得意さんとはいえ、細心の注意を払って接しなさいってドルニエ先生にも、リリー先生にも、
いつも言われているものね……。で、でも! そんな! まさかヴェルナーさんが、王室の転
覆を狙っているなんて、あたし、知らなかったわ! たしかに口は悪いし目つきも恐いし、何
かたくらんでそうな人だとは思っていたけど、でも、そこまで悪い人だったなんて! ……ど
うしよう、ヘルミーナ!?」
「おい! いい加減にしろ! おまえたちは俺を何だと思ってるんだ? それから……ヘルミ
ーナ、おまえ、つくづく思うが、普段いったいどんな本を読んでるんだ?」
ヴェルナーはそう言って、深いため息をついた。、少女たちはビクっとしてその場に凍りつ
いた。ヴェルナーは言葉を続けた。
「……そいつはな、とある商品を仕入れたら、その容器としてついてきたものだ。得意先の客
に渡したら、容れ物はいらないからって返してもらったんだよ。この容器はな、この辺りじゃ
珍しいかもしれねぇが、ここから西のほうの地方じゃ、ごくありふれた品だ。値段だってそん
なにたいしたことはねぇ。ま、俺が個人的に形が気に入ったんで、何となくとっておいたもの
だ。売り物じゃねぇから、金はいらないって、そう言ってるんだよ、分かったな!」
しばらくの間、沈黙が窓のない雑貨屋の中を占拠していたが、突如として二人の少女は、同
時に頬を紅潮させて満面の笑みを浮かべながら店主に言った。
「ありがとうございます、ヴェルナーさん!」
ヴェルナーはそれを聞いて、軽く頭を掻くと、ぼそりと言った。
「礼はいい。こっちもそれを聞いて助かったぜ。……ったく、誕生日が近いなら、一言言えっ
てんだよな、……あいつも」
イングリドが、なおも歓喜の表情を浮かべたまま、ヴェルナーに聞いた。
「え? 何か言いましたか、ヴェルナーさん? 痛! また! 何するのよ、ヘルミーナ!」
またしてもイングリドに肘鉄を食らわせたヘルミーナは、小声で言った。
「いいから、余計なことは言わないのよ、イングリド! ヴェルナーさんは気まぐれなんだか
ら、いつまた気が変わって、やっぱり返せなんて言い出さないとも限らないんだからね!」
イングリドはハッとした顔をして言った。
「そ、そうよね! ここはすぐ帰ったほうがいいわよね?」
ヴェルナーは、もはや完全にあきれ果てた、という顔をして言った。
「……おまえたちが俺のことをどういう風に考えてるのか、よ〜く分かったぜ。……まあ、い
いさ。ただな、問題は二つある。まず第一に、あいつはそんなものをもらっても、普段から化
粧なんかするのか?」
ヘルミーナは口を尖らせた。
「あげれば、するようになるかもしれないじゃないですか! あたしたちだって、先生がいい
歳をして、お化粧するよりも怪物をぶっ叩いてることのほうが多いことに、不安を感じている
んですよ!」
イングリドも口を開いた。
「そうですよ! この間だって、せっかくウルリッヒ様がうちの工房に来て、お茶なんか飲ん
でいい雰囲気だったのに! すぐにお帰りになっちゃうし! やっぱり、先生の服の裾や髪の
毛に産業廃棄物がこびりついたままの汚らしい格好だったから、興ざめなさったんじゃないか
って、二人で話し合ったんです!」
ヴェルナーの眉が、ほんの少しだけ跳ね上がった。
「……何だ? いつから客に茶まで振る舞うようになったんだ、錬金術工房は?」
ヘルミーナは言った。
「あたしたちや先生の手が空いていて、調合したお茶っ葉があるときは、結構、いつも淹れて
さしあげてますよ!」
ヴェルナーはぼそりと言った。
「俺は飲ませてもらったことはねぇぞ……?」
イングリドは言った。
「それはヴェルナーさんが、来るたびに先生をからかって怒らせるからですよ!」
ヘルミーナも口を尖らせた。
「そうですよ! この間だって、せっかくあたしたちが奥でお茶の支度をしていたのに、リリ
ー先生と口ゲンカになっちゃって、とてものどかにお茶をさしあげるような雰囲気じゃなかっ
たから、あたしたちとっても困っていたんですよ! ……ヴェルナーさん、客商売をなさって
るんですから、普段からそんな態度じゃ、まずいんじゃないですか?」
こほん、とヴェルナーは小さく咳払いした。
「まあ、ともかく、問題はもう一つある。リリーの誕生日は明後日だそうだが……、あいつ昨
日ここに来てな、明日の13日の朝早く、素材の採取に出発するから護衛を頼むって言ってた
ぜ。行き先は、‘最果ての地’だ。何でも、サラマンダーの舌を入手しなくちゃならないとか
で……」
イングリドは素っ頓狂な声をあげた。
「ええ〜!? 聞いていませんよ、そんなの! だって、昨日お城で特選会があったばっかり
だし……」
ヘルミーナは、腰に手を当ててた呆れた調子で言った。
「何言ってるのよ、いったい何年先生とつきあってるの、イングリド! 特選会の直後だろう
が武術大会の直後だろうが、雨が降ろうが槍が降ろうが、思い立ったらすぐに採取の旅に出か
けるのが先生の習性じゃないの!」
イングリドは頬を膨らませた。
「習性って……、ひどいわ、ヘルミーナ! リリー先生は野生動物じゃないわよ!」
ヴェルナーは静かに言った。
「ま、似たようなもんだがな……」
イングリドは、きっ、とヴェルナーをにらみつけた。
「もう、ヴェルナーさんまで! そんなことだから、先生としょっちゅうケンカになるんです
よ!」
ヘルミーナも、真顔になってヴェルナーに言った。
「そうですよ、ヴェルナーさん! 女性と仲良くするには、一に褒めて二に褒めて、三四がな
くて、五に褒めないと! そんなことだから、いい歳をしていつまでも独り身なんですよ!
っていうか、あたしだったら絶対に、このお店にお嫁に来たいなんて思わないわ。掘り出し物
を見つけるのもいいけど、少しは女性の心理について学ぶべきですよ、ヴェルナーさん!」
「……マセたガキだぜ……」
ヴェルナーがぼそりとつぶやくのを聞いて、イングリドは吹き出した。それを見て、ヘルミ
ーナは頬を膨らませた。
「え!? 今、何て言ったんですか、ヴェルナーさん! イングリドも! 何笑ってるのよ!」
しかしイングリドは、鈴を振るような声でころころと笑い続けたまま。
ヴェルナーも、その二人のやりとりを見て吹き出した。
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