時間の果実



      

   14 再会


 ふいに、がたん、と背後で音がした。リリーは驚いて振り返った。強い風に煽られて部屋の窓
が開き、重たいカーテンが吹き上がったところだった。ミリューはそれを見て、大声で言った。
「ああっ、リリーさん! 窓、窓を閉めてくださいッ!」
リリーは慌てて窓に駆け寄ると、窓を閉め、ミリューの方を振り返った。ミリューは、目尻に
溜まっていた涙をエルザのハンカチで再びでぬぐった。
「ありがとうございます、リリーさん。……風でこの人たちの身体が倒れて崩されたりしたら、
大変ですから……」
 ヴェルナーは、やれやれ、と言った風に肩をすくめると、眉間に皺を寄せた。
「おい、ミリュー、……ライオスや、おまえの姉さんを、とっとと探そうぜ。こんな物騒な魔術
を使うような奴を、放っとく訳にはいかねぇからな?」
 エルザは感心したように言った。
「……こんなやる気のあるヴェルナーさんって、初めて見たわ……」
 リリーはエルザに言った。
「そりゃあ、ヴェルナーだって、いつもお店で居眠りしてるわけじゃないわよ、エルザ! やる
気を見せる時だってあるわ! がらくたを好事家に法外な値段で売りつけるときとか、珍しいが
らくたをお店に持ち込まれたときとか……?」
「おまえら……!」
 ヴェルナーがそう言って振り返って二人をにらみつけた瞬間、横にあった塩の塊が、彼の肘先
に当たってバランスを崩し、ぐらりと倒れかけた。そのとき、
「ああ〜っ!」
 と、ミリューが叫ぶのと、
「きゃあ〜!」
 と、リリーが叫ぶのと、
「ヴェルナーさん、横!」
 と、エルザが叫ぶのと、
「うわっ!」
 と、ヴェルナーが言って身体を塩の塊の下に滑り込ませ、それが床に転倒するのを防ぐのとが、
同時に起きた。
 部屋の中を、一瞬、冷たい沈黙が支配した。
 やがてそれを打ち破るようにして、ごん、と音を立て、ヴェルナーはその塩の塊を元の場所に
戻した。
「……くそ、何で俺がこんなことを……?」
 そう言って、ヴェルナーは額の汗をぬぐった。

*


 しんとした気配の中、四人は城の廊下を歩いていた。辺りには生きた人間の気配はなく、ただ、
ごつごつとした塩の塊が点在しているだけだった。塩の塊は、あるものは剣を下げ、またあるも
のはうやうやしく銀のお盆を抱えた形のまま、静かにその場で凍りついていた。リリーはため息
をついた。
「ねぇ、ミリュー……。このお城の人たちって、全員こんな風に塩の塊にされちゃったの?」
 ミリューは悲しげにうなずいた。
「はい。……残念ながら、この魔術は、ライオスさんを殺すか、あるいは'知識の果実'を完全
に取り上げるか、どちらかをしなければ解けません」
 エルザは尋ねた。
「'知識の果実'を完全に取り上げるって……どうすればいいの、ミリュー?」
 ミリューはエルザの顔を見上げた。
「僕の身体に宿っている'時間の果実'に、'知識の果実'を取り入れます。もっとも……今の
僕の力で、それができるかどうかは、分かりませんが……」
 リリーは心配そうに尋ねた。
「……すごく難しいの、それって?」
 ミリューは、こくんとうなずいた。
「はい。……世界の原理を司る、全く相反する二つの法則を、僕の身体の中で純化しなければな
りませんから……」
 ミリューは、長いため息をついた。
「ああ、もっとたくさん勉強をしておけば良かった。姉様が、いつも心配して怒っていた訳が分
かりました。……僕は、この宝珠を身に受けるには、やっぱり未熟者なんです!」
 ヴェルナーは、ミリューに言った。
「まあ、落ち着けよ、ミリュー。……考えたんだが、おまえはやっぱり、その宝珠を護るのにふ
さわしいと思うぜ、俺は」
 ミリューは、少し驚いたような顔で言った。
「ど、どうしてですか、ヴェルナーさん?」
 ヴェルナーは目だけで少し微笑んだ。
「だって、この術を解くには、ライオスを殺すか、'知識の果実'を取り上げるかのどちらかを
しなくっちゃならねぇんだろ? ……おまえ、ライオスを殺すって選択肢を、最初っから考えて
ないからな?」
 ミリューは目を丸くした。
「そんなこと、考えられるわけ、ありません。だって、ライオスさんは……今はああなってしま
ったけれど、でも、本当は、とてもいい方なんですよ。僕は、姉様のお仕置きの雷で怪我をする
たびに、ライオスさんに手当てをしていただいていましたし……」
 ヴェルナーは言った。
「恐らくな、その宝珠は護り手を選ぶんだ……とても厳密に。その宝珠の力は、強大だ。その気
になれば、世界を支配できるくらいにな。だから……ほんの少しでも自分の欲望や野心が負けれ
ば、心を支配される。……ライオスは、書に魅入られて、宝珠を手にした。そして、ついにはこ
んな恐ろしい術を平気で使うような奴になっちまった。……とても真面目でいい奴だったんだ
ろ? そんな奴が、支配されるような代物だ。……きっと、普通の意味での優しい性格なんて、
意味がなくなるんだよ、その宝珠の力は。その点おまえは、宝珠に選ばれるほど、芯からすごい
奴なんだ、きっとな?」
 ミリューは、おずおずと口を開いた。
「そう、なんでしょうか?」
 ヴェルナーは、口端で笑った。
「……そうでも思わないと、やってられねぇからな、この状況は」
 そのとき。
 がつん、と四人の進行方向の先の扉の向こうから音が響いてきた。
「何だ!?」
ヴェルナーがそう言った瞬間、がしゃん、と大きな音がして、同時に女性の悲鳴が聞こえた。
「な、何!?」
 リリーが言うと、ヴェルナーは声を潜めた。
「……おい、向こうに、……いるな?」
 ミリューは、うなずいた。
「はい。……宝珠が……反応しています。姉様と……ライオスさんも一緒に……!」
 四人は、慎重に歩いて広間の扉の前に来た。そして、息を殺してほんの少しだけ扉を開け、中
の様子をうかがった。広間の向こうには謁見用の玉座が据えられ、そこから長々と金の縫い取り
のついた、赤い絨毯が扉まで敷かれていた。重々しい石造りの柱や壁に囲まれたその部屋は、驚
くほど採光が豊富で、高い位置につけられた窓から幾筋もの光が投げかけられていた。そのまぶ
しさに、四人は揃って顔をしかめた。
 神々しいまでの謁見の間は、しかし、異様なほどの夥しい塩の塊で満たされていた。それらは
すべて、甲冑や剣を身につけ、今にも玉座のほうになだれ込みそうな臨戦態勢をとったまま、立
ちつくしていた。
「……あの、塩の塊は、やっぱり……?」
 エルザが、恐る恐る口にすると、ミリューはうなずいた。
「はい。……その通りです」
 そのとき。
「ライオス! 大臣や書記官たちの身体まで壊すなんて、あなたは何てことをなさるの!?」
 鈴を振るような声が、玉座の付近から響いてきた。
「姉様!」
 ミリューは、顔をこわばらせてそちらを見た。玉座の場所には、白いローブをまとった貴婦人
と、彼の敵が立っていた。
「……ゴミを片づけただけですよ、エクメーネ?」
 そう言って、ライオスはくすりと笑った。エメは、その白い顔を、いよいよ陶器のように青白
くした。
「あなた、自分が何をしているのか、ご存知なんですの、ライオス!?」
 ライオスは、苦笑しながらゆっくりとエメに近づいた。
「考えてみれば、そういう風に私の名前を呼んでいただけるのも、久しぶりですね、エクメーネ」
 エメは、そのライオスの様子に気圧されて、じりじりと後退りした。
「……名前を呼ぶも何も……、あなたは、この城に招かれて以来、里に帰って来なかったではあ
りませんか!?」
 ライオスは、つ、とエメの白い右手首をつかんだ。
「その、ずっと前からですよ、エクメーネ……。サジエス先生と結婚する少し前くらいから、あ
なたは私の名前を全く呼んでいませんね。昔は、あれほど毎日呼んでくれていたというのに…
…?」
 エメは、ライオスの手を振り解くと、きっ、と彼の顔をにらみつけた。
「……何が言いたいんですの、ライオス!」
 ライオスは、口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「何も……。ただ、全ては私の計算どおりに行ったわけだ」
 エメは、ますます険しい表情で言った。
「……計算?」
 ライオスは、ゆっくりとうなずいた。
「そう、計算ですよ。……宝珠の力を受けるのはミリューだ。それは、私には分かっていました。
あなたは選ばれない。あなたは賢いけれど、でも、ミリューのほうが、護り手としてはふさわし
い……、他の兄弟の誰よりも。しかし、彼はまだ成長過程だ。幼い身にあれを受ければ、時空の
果てに飛ばされてしまう。それを救えるのは、サジエス先生だけだ。……そして、サジエス先生
ならば、かならず、それをやる。エンクレーヴの果てに飛ばされても、ミリューと'時間の果実'
を護る……。そうやって、サジエス先生を時空の果てに追いやって、ミリューを我が手に入れ、
宝珠を取り上げれば、……サジエス先生は、永久に、そこから出られない」
 エメは、顔を引きつらせて言った。
「……ライオス、あなたは、あんなにサジエスを慕っていたではありませんか。それなのに、ど
うして? ……やはり、書に魅入られて邪悪な心を植えつけられてしまったのですね?」
 ライオスは、細いため息をついた。
「どうして? ……まだ分かりませんか? 全てはあなたのせいですよ、エクメーネ」
 エメは、ライオスをにらみつけた。
「この期に及んで、なぜ自分の咎を人のせいにするのですか、ライオス!?」
 ライオスは、微笑んだ。
「この咎は、全てあなたのせいですよ、エクメーネ。それは、揺るがぬ事実です。……あなたが、
私を裏切ったから」
 エメは、目を大きく見開いた。
「裏切った!? 私が、いつあなたとの約束を違えたりしたというのです、ライオス!」
 ライオスは、エメに、ゆっくりと近づいた。
「裏切ったではありませんか、エクメーネ。私と、結婚すると約束したくせに……!」
 エメは、驚嘆した顔で、再び後退りした。
「け、結婚って……、知りませんわ、そんな話!? あなた、何を寝ぼけたことをおっしゃって
るんですの、ライオス!?」
 ライオスは、にっこりと笑った。
「しましたよ、あなたの70歳の誕生日に」
 エメは、口をぱくぱくさせながら言った。
「え!? ……そ、そんな子どものころの話を、あなた……?」
 ライオスは、ゆっくりとうなずいた。
「はい。……そうですよ。私はずっとそのつもりでいたのに……あなたは……!」
 エメは、きっ、とライオスをにらみつけた。
「わ、私が70歳のときには、あなたは80歳ではありませんの!? 80歳過ぎまでおねしょ
が治らなかったあなたにした結婚の約束が、果たして有効と言えますのっ?」
 ライオスは、急に耳まで赤くなって怒鳴った。
「……何でそういう余計なことは、しっかり覚えているんですかっ! エクメーネ!?」
 一連のやり取りを扉の影から見ていたヴェルナーは、ぼそりとつぶやいた。
「何だありゃ……。要するに、痴話喧嘩か?」
 ミリューは尋ねた。
「チワゲンカって、何ですか?」
 エルザは、困ったように肩をすくめた。
「要するに……仲の良い人同士がする喧嘩のことよね……。ほら、ヴェルナーさんとリリーがよ
くやってるみたいな?」
 ヴェルナーは不機嫌そうに言った。
「おい、余計なことを教えるな、エルザ!」
 リリーはつぶやいた。
「……痴話喧嘩っていうか……三角関係だったのね?」
 ミリューは言った。
「サンカクカンケイって、何ですか?」
 エルザは微笑みながら言った。
「う〜ん、後で教えてあげるわ」
 ヴェルナーはエルザを横目でにらんだ。
「いいから、余計な話をするんじゃねぇ!」
 エルザは声を潜めた。
「でも、それじゃあライオスさんも、かわいそうよね?」
 ヴェルナーは、ため息をついた。
「気の毒だか何だか知らねぇが、はた迷惑な話だぜ……ったく」
 そのとき。
 グギャア、とも、ギシャア、ともつかないおぞましい声が響き、大広間の片隅にむくむくと不
吉な岩の塊が湧き上がって来た。ライオスは、その方向を見ると、怪訝そうな顔をした。
「……どうした、ゴーレム……? そうか……やっと待ち人が来た、というわけか?」
 ギャシャアア、という声を上げ、ゴーレムは、その高い天井につきそうなほど高い上体を起こ
した。ライオスは、リリーたちのいる扉を見て静かに言った。
「ミリュー、そこにいるのは分かっている……おとなしく出てくれば、命は助けてやろう」
 四人は、息を飲んだ。



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