13 罪の周縁
闇の中、リリーはため息の気配を感じた。
……ヴェルナー?
「何だ?」
無意識のうちに声に出して名前を呼んでいたことに気がつき、リリーは慌てて言った。
「何でもないわ」
暗闇の中、ヴェルナーの不愉快そうな声が響いた。
「……どうせ、いろいろと嫌なものを見て、……嫌な気持ちにでも、なったんだろ?」
リリーは、彼の気配のする方向へと顔を向けた。
「何よ、その、嫌なものって……?」
ため息が、聞こえた。
「……他人の過去だの未来だのなんて、そう愉快なものじゃない」
息遣いが、大仰にリリーの耳の横で響いた。リリーはくすりと笑った。
「……色々、見たのね、ヴェルナー?」
腕を大げさに振り下ろす気配がして、やがて動作の主は、渋々とした口調で言った。
「悪かったな」
リリーは噴出した。
「ねえ、ヴェルナー?」
「あ?」
いつもの口調、いつもの相槌。でも。
ヴェルナー……、何だか少し、……元気がないわね?
そう考えながら、リリーは言った。
「……他に、誰もいないの、この'場所'?」
うん? という声が小さく響き、それから……短い沈黙の後、ヴェルナーは言った。
「ああ。俺たちしか、いないみたいだな。もっとも……いつ、'到着'するかは分からねぇ。ま、
ゆっくり、待つしかねぇか」
リリーは暗闇の中に、体温を感じた。
温度はゆっくりと彼女の横に寄り添い、所在なさげに、ごろん、と寝そべった。
「……ここ、どこかなあ?」
リリーが尋ねると、ヴェルナーは言った。
「どこだっていいさ。じき、呼び出されて別の場所に行くんだろ?」
リリーは言った。
「どうして他に誰もいないのかな?」
ヴェルナーの声は響いた。
「さあな」
リリーは口を尖らせた。
「……もう! ちょっとは、あたしたちがおかれた状況について、考えてくれてもいいでしょ
う!?」
短いため息の後、ヴェルナーの声は言った。
「……なあ、リリー」
何? とリリーが聞きかえすと、ヴェルナーは言った。
「俺が見たのは、おまえだった」
リリーは少しぎょっとして言った。
「え? ……あ、あたし……!? い、いつのあたしなの? 子どもの頃、とか?」
ヴェルナーは言った。
「たぶん、数年後くらいのおまえなんだろう」
リリーは、恐る恐る尋ねた。
「あたし……、何してた?」
ん? と短く返事をした後、ヴェルナーは言った。
「聞きたいか?」
リリーは少し声を荒げた。
「そりゃ、聞きたいわ、気になるもの!」
暗闇の中、くすり、と笑う声が静かに響いた。
「……まさか、おまえが、あんなことになっているとはな……?」
リリーは思わず、手探りでヴェルナーの腕を確かめると肘の辺りをつかんだ。
「え!? 何、どうなってたの、あたし?」
ヴェルナーの声は、淡々と響いていった。
「……聞かねぇほうが、いいと思うぜ?」
リリーはますます慌てながら言った。
「ちょっと!? 何よ、もう! そんな言い方されたら、余計に気になるじゃないの! ……意
地悪なんだから!」
リリーのつかんだ彼の腕は小刻みに揺れ、それにつられるようにして、喉の奥でくっくっと噛
み殺したような笑い声が響き、やがてヴェルナーは言った。
「じゃあ、教えてやろう。おまえはな、」
リリーは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……調合をしていた」
「え……?」
あっさり、ヴェルナーが言うと、リリーは一瞬目を瞬かせ、それから聞き返した。
「調合って……錬金術の?」
ヴェルナーは言った。
「……他におまえが、何の調合をするっていうんだ?」
リリーは口を尖らせた。
「もう、何よ! さんざん人を脅かしておいて、そんな当たり前の話なの!? ……他に何か、
あたしに変わったことはなかった?」
ヴェルナーは言った。
「いや、別に……おまえには、別段変わったところなんてなかったぜ?」
リリーは、安堵のため息をもらした。
「そう……。じゃあ、あたしはこれからも、錬金術を続けて行くのね。ま、それが分かっただけ
でも、よしとしましょうか」
リリーがそう言うと、ヴェルナーは小さくため息をつき、口の中でつぶやくように独り言を言
った。
……ただし、ザールブルグじゃない、どこか別の町の工房だったけどな……。
リリーは、うん? と言って聞きかえした。
「何、ヴェルナー? ……何を言っ、きゃっ……!」
ふいにヴェルナーに腕を引かれて、リリーは彼の胸に倒れ込んだ。
「……何も言ってないぜ?」
ヴェルナーに言われて、リリーは顔だけ上げると彼に言い返した。
「嘘。ブツブツ言ってたわ」
ヴェルナーは、そのまま彼女の肩に手を回すと、反対の手で彼女の顔の位置を確かめた。
「きっと、おまえの空耳だ」
リリーは言った。
「そうかな?」
「そうだ」
そう言ってヴェルナーは、彼女の顔を引き寄せた。
「……ヴェルナー?」
リリーが言うと、ヴェルナーは、あきれたような口調で言った。
「おい、目ぐらい閉じろよ?」
驚いたように、リリーは言った。
「真っ暗なのに、見えるの?」
ふん、と鼻先で言う声がした。
「……そんなにばたばた瞬きしてたら、分かる」
リリーは困ったように言った。
「……だって」
「だって、何だよ?」
そう言って、ヴェルナーがリリーの髪の毛を一束、持ち上げ、そのまま口づけようとした、そ
のとき。
「ミリュー! やっと出られたのね!」
朗らかなエルザの声が響き、辺りは急に明るくなった。
「はい! どうやらこの近くに、ライオスさんがいるはずです、うわっ、おっと!」
「きゃあっ! ヴェルナーさん、ミリュー、そこをどいて!」
「痛ぇっ!」
三人の叫び声が、ほぼ同時に響いた。
リリーが目を開けたときには、ヴェルナーの頭の上にミリューが、さらにその上にはエルザが、
重なり合って倒れていた。
「ミリュー! エルザ!?」
リリーが驚きの声を上げると、二人は慌ててその場所から立ち上がった。ミリューはまだ倒れ
ているヴェルナーに、恐る恐る言った。
「……あの、もしもし、大丈夫ですか、ヴェルナーさん……?」
エルザも怖々と声をかけた。
「あ、あの、ごめんなさい、ヴェルナーさん?」
リリーは言った。
「だ、大丈夫、ヴェルナー?」
その瞬間、ヴェルナーは鬼のような形相で起きあがった。
「……大丈夫じゃねぇ!」
「ああ、良かった! 無事だったみたいね!」
リリーが笑顔で言うと、ヴェルナーは頭をさすりながら怒鳴った。
「馬鹿、二人が降ってきているなら、ちゃんと教えろ、リリー!」
リリーは口を尖らせた。
「何よ、目を閉じろって言ったのは、ヴェルナーでしょ!?」
ミリューは、青ざめながらエルザに言った。
「……エ、エルザさん。僕……、また邪魔をしてしまったのでしょうか?」
エルザもこくこくとうなずいた。
「そ、そうみたいね……。ねえミリュー、ところで、この周りにぼこぼこ立ってる白い塊は何か
な?」
ミリューも、慌てて周りをきょときょとと見回した。エルザは、物珍しげに白い岩のようなも
のをつんつんとつついた。
「あっ! エルザさん、駄目です、それには触らないでください!」
そうミリューが怒鳴った瞬間、エルザが触っていたその塊は、バランスを失ってぐらりとヴェ
ルナーの上に転倒した。
「ヴェルナー!?」
ヴェルナーと言い合いをしていたリリーは、ぎょっとして声をあげた。
「うわっ! 何だこれは!」
「ヴェルナーさん、受け止めてください〜っ!」
ミリューの声に反応し、咄嗟にヴェルナーは、その白い塊を抱きかかえるようにして受け止め
た。
「……ったく、今度は何なんだ?」
ヴェルナーがそう言って、よっ、と言ってその塊を元の場所に立てると、ミリューはその大き
な目からぼろぼろと涙をこぼした。
「お、お、落ち着いてください〜っ、グシッ、みなさんっ! ヒック!」
ヴェルナーは、やれやれ、と言った顔で大きくため息をついた。
「……おまえが落ち着けよ、ミリュー?」
ミリューは、ぐしぐしと音を立てて泣きながら言った。
「ま、まさか、こんな恐ろしいことまでするなんて、ライオスさんは……」
エルザはハンカチを取り出すと、ミリューに差し出した。
「どうしたの、落ち着いて、この状況を説明してくれる、ミリュー?」
ミリューはハンカチを受け取ると小さくうなずき、涙をごしごしと拭いた。リリーは、改めて
周囲を見回した。彼女が座って居たのは磨き抜かれた石の床だった。その部屋は、どうやら城の
一室であるらしかった。堅固な造りの概観とは異なって、ダマールスのその城の内部には優美な
絵画や調度品が置かれ、窓枠には大変に美しい光沢のビロードのカーテンがかけられていた。
そうしたものは、シグザールの城にもあって、別段目新しいものというわけではない。
しかしながら。
ダマールスの城には、リリーの見慣れぬものがあった。
「……何、これ、この、白っぽくて、ごつごつしたものは……?」
その部屋には、数本の白い柱が立ってた。それらはちょうど人間の大人くらいの背丈のものが
三本、窓際には、それらより小降りのものが一本、にょきにょきと生えていた。ミリューは涙を
ぬぐうと、大声で言った。
「お、お、驚かないでくださいっ、これ、こここここの柱、全部、人間です!」
「え!? ……何ですって!?」
リリーが聞き返すと、ミリューは声を上ずらせた。
「……正確には、'元'人間です……! ヒック! 絶対に触らないでください! これらは全
部、塩の塊です……グシッ! 自然に出来た岩塩の柱と違ってとても壊れやすいですし、雨など
を浴びたら溶けてしまいます……。そうなったら、もう絶対に元に戻せません……ヒック!」
「……そんな……」
青ざめながらエルザは言うと、ヴェルナーは眉間に皺を寄せて塩の柱を見た。
「厄災と、冥界を司る神との契約、か……。西の方から来た行商人から、聞いたことがあるぜ、
そんな呪術をな」
ヴェルナーは、そうつぶやくと腕組みをした。
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