時間の果実



      
   

   12 知識の果実


 一切のもののかたちが、溶けて消えていくようだった。リリーは自分の手の感触だけで、ミリ
ューにつかまっていることを確認していた。
 何も見えなかった。自分が落ちていっているのか、浮かんでいっているのかすら、分からなか
った。
 長い長い暗闇の時間が続き、ふいに光の波が泡立つように旋回しながらリリーの身体を覆って
いった。闇は静かに拭い去られ、彼女の目の前に絵画のように、風景が現れた。

 ……何、これ!? 出口、じゃないわよね……これは……森?

 彼女は、深い森の巨木の下に立っていた。背後から……優しい竪琴の音色が響いてきた。

 誰? ……エルフの、女の子!?

 リリーが振り向くと、そこには金色の長い髪を風にそよがせながら、竪琴を爪弾いているエル
フの少女が座っていた。人間で言うと、十四、五歳くらいであろうか。白いゆったりとしたロー
ブを着て編み上げのサンダルを履いたその少女は、白く端正な顔の眉間に皺を寄せ、目の前の陶
器の鉢植えの中の萎れた花を凝視しながら、必死で曲を奏でていた。音律は複雑に進行し、少女
の指は細かく動き、やがて高音を奏でた……かと思うと、ふいに、ぷつん、と調子はずれな音が
鳴って、曲は止んだ。少女は大きなため息をつくと、竪琴を横に乱暴に置いた。
「……やり直し、だわ」
 少女が顔を横に振ると、そこに同じく金色の髪を肩まで垂らしたエルフの少年が現れた。
「やっぱり、その竪琴はエクメーネだったんですね?」
 そう言って、少年は微笑むと、少女の傍らに腰かけ、手にしていた臙脂色の表紙の大きな本を
横に置いた。

 ……エ、エクメーネって……あれは、昔のエメさんなの!?

 リリーが驚いて見ていると、少女のエメは少年の顔を見て口を尖らせた。

「……どうせ、下手だって言いたいのでしょう、ライオス?」

 ……え、ええ〜! じゃあ、あれは……昔のライオスなの!?

 さらにリリーが仰天して見ていると、ライオスはくすくす笑いながら言った。

「下手というか……独特の弾き方をするからですよ。それ、先週サジエス先生が教えてくれた魔
法のおさらいですね?」
 エメは、ふう、と息を吐いた。
「……そう。見ての通りよ。……もうこれで五日目なのに、全然花が蘇生してくれなくって……
はあ〜、私ってつくづく駄目だわ。今日中にこれを蘇生させて提出しなければならないのに……」
 ライオスは、苦笑しながら萎れた花を見た。
「……蘇生というか……どんどん萎れていっているようですね、その、課題の花は?」
 エメは不機嫌そうに言った。
「そうなの。……もう嫌になってしまって。私、こういう細かい魔法は本当に駄目なのよ。もっ
とも、ものを癒したり、直したりするのはそもそも苦手だから仕方ないのだけれど。雷を落とし
たり、岩を割ったりするのは得意なのに……」
 ライオスは吹き出した。
「エクメーネは魔力が強すぎるんですよ。だからみんな以上に細かな加減を覚えないと、大変な
ことになる。サジエス先生も、それを分かっているから、敢えてこういう細かい魔法を何度もお
さらいさせるのでしょう?」
 エメは頬を膨らませた。
「……あのサジエス先生、長老会から派遣されて来たのだか何だか知らないけれど、意地悪すぎ
ますわ! なんでこう、細かくて退屈な課題ばかり、毎日毎日出すのかしら!」
 ライオスは言った。
「エクメーネ、そんなことを言ったらいけない。あの先生は、まだ二百歳そこそこで長老会に推
挙されたようなすごい方だ……行く行くは大賢人の座を継ぐという噂もあるのですよ?」
 エメは言った。
「だったら、ライオスだってすごいわ! 先生の出す課題はすべて完璧だし、何でもよく知って
るし! もう教えることはないって、サジエス先生にも言われていたじゃない!」
 ライオスは苦笑しながら、エメの竪琴を手にした。
「別に……すごくなんかないですよ。魔力はエクメーネのほうがずっと上だし、知識だってたい
したことはない。単に本を読むのが好きなだけです」
 そう言って、おもむろにライオスは竪琴を弾きだした。その音色は優しい旋律を奏で、萎れた
花はみるみる起き上がり、やがてその鮮やかな赤い色を蘇らせて満開に咲いた。エメは目を丸く
した。
「すごいわ! やっぱりライオスは器用ね?」
 そう言って微笑むエメに、ライオスは笑いながら言った。
「サジエス先生には、内緒ですよ?」
 そのとき。
「やれやれ、課題が出来ないからといってライオスにやってもらうとは……エメ、君は何をして
いるんだい?」
 あきれたような口調の声が響き、ふいに銀色の長い髪を束ねた背の高いエルフが現れた。エメ
は慌てて立ち上がった。
「サ、サジエス先生! ……ごめんなさい!」
 ライオスも即座に立ち上がった。
「違うんです、サジエス先生! エクメーネに頼まれたのではありません! これは私が勝手に
……」
 サジエスは、ぴしゃりと言った。
「ライオス、エメをかばうのは麗しい友情だけれど……。僕は、正直言ってちょっとあきれてい
るんだよ。……エメ、君は自分がやるべきことが分かっていない。目先の課題を形ばかりこなし
たって、そんなことは何の意味もないんだ。大切なのは、こういう細かい技術を身につけること
なんだよ? 君はとても不器用だし、ガサツだし、ものの扱いも大雑把だ。しかもしょっちゅう
癇癪をおこしては、無意識に雷を発生させている……。なまじ魔力が強いだけに、いつか攻撃魔
法を暴発させないとも限らない。少しはライオスを見習って、術を統御する術を覚えようという
気はないのかな?」
 エメは口を尖らせた。
「……やっていますわ! でも、できないんですもの!」
 サジエスは、やれやれ、と言った風に首を横に振った。
「ふう、君は本当に短気だね? ……今回は珍しく、根気強く苦手な回復魔法を何日もおさらい
しているから、その努力に免じてもう課題は修了だと言いに来たところだったのに……」
 エメは目を丸くした。
「え? もう……いいんですの?」
 サジエスは涼しげに微笑んだ。
「残念だね。やり直しだ。……今度は本当に、その花が完全に蘇生するまでは許さないからね?」
 そう言って、サジエスは、ぱちん、と指を鳴らした。すると……たちどころに花はひしゃげ、
黒焦げになってしまった。サジエスは言った。
「今度は、誰にも手伝ってもらってはいけないよ、エメ。いいね?」
 サジエスは、くるりと踵を返すと、すたすたとその場を去っていった。サジエスの姿が見えな
くなると、エメは言った。
「……ひ、ひどいわ。この花、完全に黒焦げで、炭みたいになってしまって……」
 エメは顔を引きつらせて、鉢植えを抱えて中身を見た。ライオスは言った。
「ご、ごめん、エクメーネ! ……余計なことをしてしまって」
 エメは、鉢植えをつかんだ手をわなわなと震わせながら言った。
「ああ、もう! 大っ嫌い、あの先生! 早く任期が終了して長老会に帰ってくれないかし
ら!?」

 エメがそう言った瞬間、光の塊がはじけ飛び、リリーの視界は再び暗闇に戻った。

*


 ダマールス王国の広間では、国王が玉座に座り、苛立った表情で肘掛を指先でつついていた。
周囲を重苦しい沈黙が包んでいた。王の背後を護っている近衛兵たちも、広間に整列している騎
士隊たちも、みな押し黙ったまま王の勅命をひたすらに待っていた。
王は、肘掛をつつくのをやめ、今度は手を上に上げると、自分の立派な口ひげを指先でひねり
出した。ふいに、広間の入り口を固めていた騎士の一人が、玉座の乗った壇の下まで歩み寄っ
てくると、うやうやしく片膝をついた。
「ライオス様がお戻りです!」
 ダマールス王は、口ひげをひねるのをやめて玉座に座りなおした。
「戻ったか! すぐに通せ!」
 王がそう命令すると、近衛兵は、は! と短く返事をし、すぐに入り口へと早足で去って言っ
た。やがて……ゆっくりと靴音を響かせて、ライオスが広間に入ってきた。
「……遅かったな、ライオス!」
 王が言うと、ライオスは口元に微笑を浮かべた。
「この者をこちらの広間にお連れしろとの仰せでしたが……少々手間取ってしまいましてね?」
 そう言って、ライオスは、自分の後ろに立っていたエメの腕をつかむと、王の前に引き出した。
エメは、その陶器のような白い頬を怒りで赤く染めながら国王を一瞥し、すぐに横を向いた。ダ
マールス王は、ほう、と言ってうなずいた。
「なるほど……。これが、例の宝珠の護り手の姉君、というわけか……?」
 ライオスはうなずいた。
「はい。先代の護り手の長子であり、里のエルフたちの中では、賢人に次いで強い魔力を持つエ
ルフです、が……」
 そう言って、ライオスはくすりと笑った。
「……私の所有する、'知識の果実'の力を持ってすれば、この者の魔術を封印するなど、たや
すきこと……」
 エメは、唇をかみしめてライオスの顔をにらんだ。
「……所有ですって、何と思い上がったことを! あなたが宝珠を所有しているのではなく、あ
なたが宝珠に所有されてしまっているのですわ、分からないのですか、ライオス!?」
 ライオスは、面白そうに口端を引き上げた。
「私が宝珠に……? 馬鹿なことを。いますぐこの場で、あなたのその口を二度と開けないよう
にすることくらい、簡単にできるのですよ、エクメーネ?」
 そう言ってライオスは、右手をゆっくりとエメの前にかざした。その手の平には……'知識の
果実'が、青白い光を放ち始めた。エメはその形の良い唇を引き結ぶと、ライオスの顔を、きっ、
とにらんだ。
「'知識の果実'は、本来エルフ族が触ってはならぬものなのですよ、分かっているのでしょう、
ライオス? ……その宝珠は、常に力を求めて盲目的に邁進する、底なしの渇望をもたらすもの。
人間が技術を身につけ得たのも、人間の国々に戦いや争いが絶えないのも、すべてはその'知識
の果実'のもつ巨大な力のせいなのです。……あなたはすでにその宝珠に心を食い荒らされてし
まった……もはや、私の幼馴染の真面目で優しかったライオスではなくなってしまった……なん
ということでしょう?」
「ともかく!」
 二人の話を遮って、ダマールス王がぴしゃりと言った。
「このエルフには、弟の護り手を呼び出してもらわなければならぬ! そうでなければ、そなた
の力は完全にはならない、そう言っていたな、ライオス?」
 ライオスはうなずいた。
「はい。……'知識の果実'は、'時間の果実'をともなって、初めて完全な'力'をもつもの
……。この二つを手に入れれば、この大陸全土を手中にするなど、赤子の手をひねるようなもの
です」
 王は言った。
「それでは、早速呼び出してもらおう。……ライオス、おまえの力で探索を重ねても、護り手は
一向に見つからぬではないか! いったい何日が過ぎたと思っているのだ!? その姉を少々
痛めつけても構わぬ、わしはもう待ちくたびれた! 今すぐに弟をおびき寄せよ! 聞けばシグ
ザール王国もわが方の進軍に気づき、先鋭の聖騎士隊を国境付近に進軍中というではないか!? 
もはや一刻の猶予もならぬ!」
 ライオスはうやうやしく言った。
「……もうしばしお待ちを、陛下!」
 ダマールス王は、だん、と玉座の肘掛を拳で叩いた。
「黙れ! その台詞も聞き飽きたわ! ライオス、今すぐに護り手を呼び出してみせよ!」
 ライオスは眉一つ動かさずに言った。
「……お待ちを、と申し上げております。奴らはかならず現れます。恐れながら、急いてはこと
を仕損じる、ということをご存じないのですか、陛下?」
 王はその言葉に怒り心頭に達した様子で、目をかっと見開くと立ち上がり、近衛兵に怒鳴った。
「衛兵! すぐさまこのエルフの女を地下牢に繋げ! それから騎士隊はライオスを捕らえ
よ! 話にならぬわ!」
 その言葉と同時に、ざっ、と兵たちが一斉に動き出した。屈強の近衛兵たちは瞬時にエメの腕
や肩をつかみ、同時に広間にいた騎士たち数名が、剣を抜いてライオスを取り囲んだ。
「きゃあっ!」
 エメの声が短く響いた。彼女は……魔法を封じられてなすすべもなく、兵たちに取り押さえら
れて引きずられて行きかけた。一方、よく手入れされた剣の刃の白光する中、ライオスは口元
に笑みを浮かべた。
「……急いてはことを、」
 そう言って、ライオスは右手を高々と上げた。
「仕損じますよ!?」
 そう言った瞬間、広間中を目もくらむほどの青白い光が包んだ。兵たちもエメも、その光に思
わず顔を伏せた、その次の瞬間には……。
「……ライオス! あなた、何ということを!?」
 エメは目を開け、その広間の様子に愕然として叫んだ。ライオスは微笑みながら言った。
「何ですか、エクメーネ。助けて差し上げたというのに……ご不満があるようですね?」
 エメは、その白い顔をさらに青白く血の気を引かせながら言った。
「……何てことをなさるの? 今ので城中の人間を石に変えましたわね?」
 そう言って、エメは、先ほどまで自分の腕をつかんでいた衛兵の形をした岩からそろそろと身
を引き離した。その振動で……、衛兵の兜がずるり、と頭から落ち、鈍い音を立てて床に落ちる
と砕け散った。
「ひっ!」
 驚いてエメがそれを見ると、ライオスはくすりと笑った。
「石ではありませんよ、よくごらんなさい、エクメーネ。……それらはみな、塩塊です。ほらほ
ら、そっと扱わないと……すぐに崩れますよ、こんな風に」
 そう言って、ライオスはつかつかと玉座に歩み寄り、さっきまで国王であった塩塊を指先で小
突いた。

 がん、と重たい音がして塩塊は玉座の前の床に転がった。それはさらに、階段をごろごろと転
げ落ち、やがて……床に当たり、がつん、と鈍い音を立てたかと思うと、粉々に砕けた。



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