11 流星時間
通常であるならば、半日ほどの時間が経っていたであろうか。相変わらず時間が止まったまま
の夜の町で、リリーは宿屋の台所の窓辺に座って外を見ていた。
「今のうちに、休んでおいたほうがいいぜ、リリー?」
彼女の背後から、ヴェルナーがリリーに声をかけた。
「……ヴェルナーは、いいの?」
リリーは、振り返って彼の顔を見た。ヴェルナーは薄く笑った。
「あんなもん見せられて……すっかり、目が覚めちまったからな」
リリーは、くすっと笑った。
「でも……可愛かったわよ、ヴェルナー」
「あ?」
ヴェルナーは、一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに何か気がついたように、憮然とした表情に
なった。
「……うるせぇな」
リリーは、さらに笑いながら言った。
「ねえ、いくつぐらいだったの、さっきのヴェルナー? 十二、三歳くらい?」
ヴェルナーは、バツが悪そうに頭をぐしゃぐしゃと掻いた。
「……覚えちゃいねぇよ、そんなの」
リリーは事も無げに言った。
「じゃああたし、帰ったら、カリンに聞くわ」
「なっ……!」
ヴェルナーは少々ぎょっとした顔をしたが、リリーの笑いを噛み殺したような顔を見ると、す
ぐに大きく息を吐き出し、横を向いた。
「……好きにしろ。あいつだって、覚えちゃいないさ」
リリーは、くすくす笑いながら、また窓の外を見た。星明りが、静かに彼女の鼻筋の辺りを舐
めるように象っている。ヴェルナーは、その彼女の肩先に手を置いた。
「……何、ヴェルナー?」
振り返りかけた彼女の頬に額をつけながら、ヴェルナーはリリーの肩を抱きかかえた。
「どうせなら、な」
ぼそり、と彼は言った。
「……おまえの子どものときでも、見たかったな?」
リリーは慌てて言った。
「別に、あたしの子どものときなんて、面白くもなんともないわよ! お転婆だったし、毎日泥
まみれになって遊んでただけで……」
ヴェルナーは、少し目を細めた。
「……今と変わらねぇな?」
リリーは、口を尖らせた。
「失礼ね! 今はさすがに……泥んこになって遊んでなんかいないわよ!?」
ヴェルナーは笑いながら言った。
「泥の代わりに、産業廃棄物や煤まみれになって、調合してるじゃねぇか?」
リリーは頬を膨らませながら言った。
「もう! それは仕事よ! 遊んでいるわけじゃないわ!」
ヴェルナーは言った。
「遊んでるみたいなもんだろ、好きでやってるんだからな?」
リリーは、小さくため息をついた。
「……そりゃ、好きでやってることだけど」
ヴェルナーは、そのリリーの頬を撫でながら言った。
「……おまえは……羨ましい奴だよな」
リリーは、目を見開いた。
「どうして? ヴェルナーこそ、いつもお店は暇そうなのに、それなりに商売は上手くいってい
るみたいで、羨ましいわよ! あたしたちは、アカデミーの建設費用に貯金しなくっちゃいけな
いし、本当に大変なんだもの!」
ヴェルナーは、薄い笑みを浮かべながら言った。
「……目標がある奴ってのは……羨ましいんだよ、とくにおまえのように、サルみたいに目標に
向かって突っ走って行ける奴はな?」
リリーは、怒った顔で肩に置かれたヴェルナーの手を振り払うと、彼の顔をにらんだ。
「またサルって言ったわね? あたしはサルじゃないって何度も言ってるでしょう!?」
ヴェルナーは、涼しい顔で言った。
「怒るなよ。そうやって真っ赤な顔してると……サルそのものだぜ?」
「……もう!」
リリーが膨れて横を向くと、ヴェルナーは言った。
「ところで、リリー?」
「サルじゃないわよ?」
リリーは横を向いたまま言った。ヴェルナーは苦笑しながら言った。
「分かったから、おい、リリー?」
「何よ?」
リリーはヴェルナーの顔を見た。
「必ず、ザールブルグに帰ろうな?」
リリーは、一瞬目を丸くした。
「え……?」
ヴェルナーは言った。
「このまま行ったら、イングリドやヘルミーナたちがあんな目に遭っちまうんだ。何としても、
あの化け物を倒すからな」
リリーはうなずいた。
「当たり前よ! 必ずやっつけて見せるわ! ヴェルナーに言われなくたって、あたし……」
ヴェルナーは、ゆっくりとリリーの肩を引き寄せた。
「そうだな。……当たり前、だな……?」
そう言って、彼は微笑んだ。ふと見ると、リリーの琥珀色の瞳に、彼の顔が映っている。ヴェ
ルナーは彼女の髪の毛を指先でそっとつまみ上げながら、彼女の顔を間近でのぞきこんだ。そし
て彼が、リリーに口づけようとした、その瞬間。
がたん、と背後で音がした。
ヴェルナーがぎょっとしてその場に凍り付いていると、開け放たれたドアの向こう側からひそ
ひそ声が聞こえてきた。
……もう、ミリューったら、そんなに身を乗り出したら、二人に見つかっちゃうわよ!
ご、ごめんなさい、エルザさん……。今の、お二人に聞こえてしまったでしょうか?
聞こえてないと思うけど……、でももうちょっと顔を引っ込めたほうがいいわね?
そうですね……。気をつけます。
あ〜、あたしね、恋人同士がキスするところを近くで見るの、初めてなのよ〜! ヴェルナー
さん、いつもおっかない顔してるのに、やっぱり好きな人と二人っきりだと違うわね〜! 後で
イルマに話そうっと! うふふふ……。
あ、僕、見たことあります。姉さまと義兄様が、その、……キスしてるところ……。
やだ、赤くなってどうしたのよ、ミリュー?
エルザさんこそ、もう少し小さい声で話さないと、お二人に聞こえま……。
「聞こえてるぞ、ミリュー! エルザ!」
ヴェルナーの怒りの声が、宿屋の建物中に響き渡っていった。
しばらく気まずい沈黙が続いた後で、消え入るような声がドアの外から聞こえてきた。
「……ご、ごめんなさい、ヴェルナーさん!」
その声と同時に、ミリューがおっかなびっくり顔を出した。
「……ごめんね、リリー?」
エルザもバツが悪そうな笑顔を浮かべながら部屋に入ってきた。 リリーも苦笑しながら言っ
た。
「……あ〜、いいわよ二人とも、謝らなくても? ねえ、ヴェルナー?」
ヴェルナーは、憮然とした顔のままブツブツ言った。
「ちくしょう……エルザに見られたってことは、帰ったらイルマに話すよな? イルマに話した
ら、ザールブルグ中の娘連中に知られたも同然だな……?」
リリーは、腕組みをしたまま独り言を言い続けているヴェルナーの顔を見た。
「ヴェルナー?」
しかし、ヴェルナーは自分の世界に入ったまま、独り言を言い続けていた。
「……ったく、面倒くせぇ、暇な連中だよな。他人の噂が大好きだからな、奴らは……。しかし、
待てよ? こうなったら、いっそ堂々とできるかもしれねぇな? ……なるほど、考えようによ
っちゃ好都合か……? いや、しかしな……」
「ああっ! ヴェルナー!」
リリーが叫んだ。ヴェルナーは不機嫌そうに言った。
「ちょっと、黙っててくれ、リリー」
エルザも叫んだ。
「ヴェルナーさん、でも!」
ヴェルナーはエルザの顔をにらんだ。
「うるせぇな、何だ、そんな大げさに……」
ミリューも窓の外を指差しながら言った。
「だって、ヴェルナーさん! 外! 外を見てください!」
ヴェルナーは、振り返って窓の外を見た。
「何だみんな……って、あ! すごい流星群じゃねぇか! ミリュー、あれか、サジエスが言っ
てたのは!?」
ミリューはうなずいた。
「そうです! みなさま、急いでさっきの広場に行きましょう!」
*
空の南半分を埋め尽くして、流れ星が明々と降り注いでいた。広場に立った四人は、それを見
上げて驚愕の表情を浮かべていた。
「な、何これ……流れ星がこんなに明るいなんて……気持ち悪いわ〜」
エルザが言うと、ミリューはうなずいた。
「これは普通の流れ星ではありません。ライオスさんが、僕たちを探して時空の隙間に探りを入
れている証なのです……。先にサジエス義兄様にお聞きしておいて、本当に良かった。僕はこれ
から、ライオスさんが放った導きの糸を逆に辿って、彼の居場所を探し出し、みなさまをお連れ
します。後は……打ち合わせたとおりに!」
エルザはうなずいた。
「分かったわ! あたしがあの巨人を引き付けておびき寄せるから、リリーとヴェルナーはタイ
ミングを見計らって、そのブローチを巨人の額の文字に投げてね!」
ミリューは口を真一文字に結ぶと、広場の中央で静かに目を閉じた。
辺りは相変わらず、無風だった。風のない中、奇妙に明るい流星群は四人の影をゆらゆらと揺
さぶった。ミリューは口の中で何やら呪文を詠唱しだした。その声は……次第につぶつぶとした
泡状の細かい波紋を、闇の中に展開させた。
三人の見つめる中、ミリューの呪文が形作った泡は、生き物のようにぐにゃぐにゃと動いてい
った。それはあるときには棒状にまっすぐ上方に伸び、またあるときは拡散して岩場に砕け散る
波のように、形を変えては次第に大きく、明るく発色していった。
しかし。
ふいに、エルザが言った。
「ね、ねえ、リリー……。さっきから、耳障りな音がしない?」
リリーは、え? と言って耳をすませた。
「……別に何も……ん? あ、たしかに!」
ヴェルナーは、チッ、と舌打ちをした。
「……聞こえるぜ、金具を引っかくみたいな声が……。例の奴らか……!?」
その瞬間、
「きゃあああああ〜! リ、リリー!」
エルザがリリーの上着の袖を引っ張った。
キイキイキキィ、キキキキキキキィィキイキキキッキキキィッキキイキキィイイイ…………。
その声は、突然大音量となって四人を圧倒した。同時に……。
「目、目が、またあの真っ赤な目が……気持ち悪い〜!」
エルザは、いよいよ強くリリーの袖を掴んだ。リリーはごくりと唾を飲み込んだ。
「お、お、落ち着いて、エルザ! いざとなったら、あたしが爆弾を投げて時間を稼ぐから!」
ヴェルナーはナイフを構えながら言った。
「おい、ミリュー! ……まだなのか!?」
ミリューは額から脂汗を流しながら言った。
「もう少し……、もう少しです。……もう少しで見えそうなんですが……?」
そのとき、リリーが叫んだ。
「ヴェルナー! 右!」
「…………!」
振り向きざま、ヴェルナーが反射的に放ったナイフは、飛び掛ってきた一匹の赤い目のエルフ
をなぎ払った。しかし、それを合図のようにして、凄まじい声が上がった。
キキキキキキーーーー!!! グギギギギギギギィッ!!!!!
赤い目をしたエルフたちの群れは、耳をつんざくような声を上げ、雪崩のように四人に押し寄
せてきた。
「きゃあああ〜!」
エルザが叫ぶのと、
「え〜い!」
とリリーが爆弾を投げるのと、
「見えました、僕につかまってください!」
とミリューが叫ぶのが同時に起こった。
四人をめがけて突進してきた赤い目のエルフたちは、まばゆいばかりの七色の光と、轟音を上
げてはじける爆薬を同時に目にした。エルフたちはフォートフラムの爆音に驚いて一時立ちすく
んだが、すぐに体勢を立て直した。
しかし。
すでに彼らが主の命を受けて捕まえにきた四人の姿はかき消されていた。目標を見失った赤い
目のエルフたちは、甲高い声を上げながらその場をうろうろとさ迷い歩いたが、何も見つからな
かった。
流星が、止んだ。
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