百年前



      

   
   3


 午後の暖かな陽射しが、テーブルの上で踊っていた。エリーは工房の二階にしつらえた、お気
に入りのお茶会部屋で、目の前の人物に尋ねた。
「で、マリーちゃんの麻疹は、もう大丈夫なんですか、シアさん?」
 シアは、優雅なしぐさで髪の毛を軽くかき上げると、ええ、と言って微笑んだ。
「もうすっかり、元気になったわ。今、実家の母が見ていてくれているの。良かったら出かけて
きなさいって言ってくれて……。いいお天気ねえ。こんな風におしゃべりするの、とっても久し
ぶりのことのような気がするわ」
 マリーはシアの顔をのぞきこんだ。
「何日も寝てないかったんでしょ、シア? ……シアこそ、体調は大丈夫なの?」
 シアは、くすりと笑った。
「そうやって、いつも私の身体を気遣ってくれる癖、治らないわね、マリー?」
 マリーは、軽く口を尖らせた。
「だって、気になるわよ」
「私は昔みたいに病弱じゃないのよ、マリー。あなたのおかげでね?」
「……分かってるけど、でも……」
「平気平気。娘のためだったら、私、何だってできるわ」
 そう言って静かに微笑んでいるシアの顔を見て、マリーは小さくため息をついた。
「……ほんっとうに、‘お母さん’の顔になっちゃったわね〜、シアってば」
「うふふふ、‘母は強し’よ。マリーも、産んでみれば分かるわ」
 マリーは苦笑しながら言った。
「そうかなあ?」
「そうよ」
 シアは、ひらり、とお茶を一口啜った。
「マリーは、予定、ないの?」
「何が?」
「子ども」
 マリーは、ぶっ、とお茶を吹き出した。
「あるわけないでしょう!?」
 マリーにそっとハンカチを手渡して、シアはくすくすと笑った。
「なぁんだ、ないの?」
「ないわよっ!」
 マリーは、シアから手渡された刺繍入りの白いハンカチで、顔の周りをぬぐった。エリーが、
おずおずと口を開いた。
「……マリーさん、好きな人って、いないんですか?」
「何よ、エリーまで唐突に?」
「いえ。……何となく」
「いるわけないじゃない!」
 シアは、目を少し大きくした。
「いないの、マリー?」
「……そんなに驚くようなこと? そりゃ、一緒にいて楽しい人とか、気心が知れてる友達はた
くさんいるけど、好きっていうのはねぇ……?」
 マリーが考え込んだ、そのとき。
 工房の扉が慌しくなる音が、階下から響いて着た。エリーは慌てて立ち上がった。
「はーい、今開けます」
 そう言ってエリーが階段を下りて一階に来るのと同時に、工房の扉が開いた。エリーがその人
物に「今日は」と言おうとした瞬間、その人は有無を言わさない調子でエリーに言った。
「マルローネさんの容態は、どうなったのですか!?」
「……え? ク、クライスさん?」
 クライスの剣幕に気圧されつつ、エリーは尋ね返した。
「麻疹をこじらせて高熱を出して生死の境をさ迷っているとのことですが、意識はあるのです
か? 薬を持ってきたので、試してみてください。こちらの水薬は麻疹の症状それ自体に対処す
る薬ですが、熱で体力を消耗しているならばこちらの解熱剤と栄養剤を少量づつ摂取したほうが
良いでしょう。間違えないように、瓶の蓋の色を変えておきました。こちらの赤い蓋の瓶が解熱
剤になります。それから、これが湿布です。額に貼って熱を下げるのに使ってください……」
 持参した袋から、ごとん、ごとん、と薬を取り出して矢継ぎ早に机の上に展開するクライスに、
エリーはたじろぎながら言った。
「あの……クライスさん?」
 クライスは、くるり、とエリーの方に向き直った。
「ああ、ご心配なく。これらは別件の錬金術の研究を行っていて、偶然出来上がったものです。
何もわざわざあの人のために時間を割いたわけではありません。私は大変に忙しい身ですし、今
取りかかっている研究で、たまたまこれらの薬を作っただけなのです。もしこれらの薬の効用が
確認できたら、研究の臨床実験にもなります。本当に、ご心配なく」
「な〜によ! あんた、あたしの身体で薬の効き目の実験をしようって言うの!?」
「まあ、そんなところでしょうか。一般の方には少々心配ですが、あのマルローネさんならば、
多少効き目が強い薬でも、大丈夫そうと言うか、殺しても死なな、ななな、なな、マルローネさ
ん!? 寝ていなくて、大丈夫なんですかッ!?」
 声を上ずらせて驚愕するクライスに、マリーは冷ややかに言った。
「……なんであたしが寝てなくちゃいけないのよ?」
「で、で、でも、さきほどサイードが、あなたが麻疹にかかって生死の境をさ迷っている、と?」
 マリーの後について二階から降りてきたシアが、笑いながらクライスに言った。
「うふふふ、それは間違いよ。麻疹にかかったのは、私の娘のマルローネよ。それも、もうすっ
かり良くなったの」
 クライスは、愕然とした顔のまま、シアとマリーの顔を交互に見た。それから、ふぅ、とため
息をつくと、眼鏡の位置を直した。
「……やれやれ。とんだ時間の無駄でしたね? まったく、人騒がせな……」
「人騒がせなのは、あんたよ! 用事がないならとっとと帰んなさいよね?」
 憮然とした顔でマリーが言うと、クライスは心なしか肩を落として踵を返した。
「分かりました。では、失礼……」
 慌ててエリーが言った。
「あの、もし良かったら、クライスさんもご一緒にお茶をいかがですか?」
 クライスは、え? と言って振り返った。シアも笑顔で言った。
「そうよ、せっかくマリーを心配してくれたんだもの。うちの人がグラッケンブルクで買ってき
た、珍しいお菓子のお土産があるの。一緒にどう?」
 クライスは、首を横に振った。
「いえ。私は研究の続きがありますので……」
 もごもごと言いかけたクライスにいらついたように、マリーは言った。
「ほら、忙しいんだって! エリーもシアも、こんなヤツ引き止めなくっていいわよ!」
 クライスは、シアの顔を見た。
「ええ、そのグラッケンブルクに関することなのですよ、今私が取りかかっている研究は。シア
さん、ご主人はグラッケンブルクに行かれて、ご無事でお戻りだったのですか?」
 シアは、きょとん、とした顔で言った。
「ええ。でも、なぜ?」
「今、グラッケンブルクでは、大変な伝染病が流行っているらしいのです。アカデミーの研究員
たちに、特効薬をつくるよう、王宮から要請がありましたものですから……」
 シアは驚いた顔で言った。
「知らなかったわ。うちの人は先週帰ってきたのだけれど、何も言っていなかったもの……」
 クライスは、また眼鏡の位置を直した。
「いえ、ご存知ないのも当然かもしれません。通常の移動速度では、あの街からザールブルグま
では片道で半月以上かかります。シグザール王に早馬で伝令が来たのは昨日未明、病気の流行は
ちょうど二週間ほど前からだったそうですから……ご主人が発たれてからのことなのでしょう。
何よりでした」
「まあ……」
 クライスは、滔滔と話を続けた。
「ブレドルフ国王は、ドムハイトご出身のご婚約者、リューネ姫のたっての願いにより、アカデ
ミーの叡智を結集させて、特効薬の開発に取り組むことを要請されました。この問題は、単に人
道支援にとどまらない、シグザール-ドムハイト間の政治的な要素も含んでいます。ご存知の通
り、長い間両国は交戦状態にあったため、いくら休戦条約を締結し、両国王が姻戚関係を結んだ
としても、長年培われた恨みや敵意はなかなかぬぐい去ることはできません。しかし、この機会
にシグザール王国の錬金術を用い、多数の人命を救うことができたならば、両国間の友好関係は
一挙に向上することでしょう。他方、アカデミーの側といたしましても、まだあまり錬金術に馴
染みのないドムハイト王国に錬金術の素晴らしさが流布することは、非常に好ましいことでもあ
ります」



   4


 二日後の夜。
「すまないな、こんな形で護衛の契約を打ち切ってもらうなんて……」
 そう言って小さくため息をついたハレッシュに、マリーは言った。
「そんなの気にすることないわよ! 疫病が流行ってるんじゃ、フレアさんが心配だものね?」
 ハレッシュはうなずいた。
「ああ。……それにしても、こんなに栄養剤や解毒剤やアルテナの傷薬までいただいてしまって、
本当にいいのかい?」
 エリーは笑顔で言った。
「いいですよ! 少なくて、申し訳ないですけど……?」
「本当にありがとう。さっき、ディオさんにも会いに行ったら、食料や薬をたくさんもらってし
まってね。‘おまえを許したわけじゃないが、とにかくフレアを頼む’って言われて……」
 マリーはため息をついた。
「……かかったら高熱が続いて四、五日で死んじゃうんでしょ、その疫病って? 大変よね……。
もう、すぐに発つの?」
 かしゃん、と甲冑が鳴る音がして、ハレッシュは大きくうなずいた。
「ああ。明日の早朝にね。聖騎士隊の先発調査隊も一緒だから、まあ、普段採取に出かけるより
は、よほど安全かもな? ははは……」
 そう言って、いつものように快活に笑って見せるハレッシュに、エリーは心配そうな顔で言っ
た。
「あの、もし良かったら、手紙を書いてくださいね? フレアさんやロマージュさんの様子、わ
たしも心配ですから!」
 ハレッシュは笑顔で言った。
「ああ、もちろん書くさ! ディオさんにも約束させられてしまってね」
 マリーは悔しそうに言った。
「本当は、あたしたちも一緒に行きたいのよ! でも、伝染病がシグザール王国領内に入ってく
るのを恐れて、今、国境を越えた移動には制限がかかってるのよね……。あんたみたいにドムハ
イトに家族がいる人か、王宮から特別に許可をもらった人でないと、グラッケンブルクには行け
ないことになっちゃってて……。ああもう! 聖騎士隊の先発部隊っていったって、一週間前に
起きたダマールス王国との小競り合いで、騎士隊の主力部隊は出張っちゃってるっていうのに!
エンデルクもダグラスもいないのよ!? まったく、狙いすましたみたいよね? フレアさん、
大丈夫かな……?」
「ありがとう、気持ちだけでも嬉しいよ。フレアにも伝えておく」
 ハレッシュが言うと、エリーは心配そうな顔をした。
「今、アカデミーでは病気の症状を聞いて、薬の調合が進められていますけど、……時間がかか
りそうなんです。できれば錬金術師が同行したほうがいいんでしょうけど……?」
「ああ、それなら大丈夫。ブレドルフ王からさっき言われてね。医術に詳しい錬金術師が何人か、
俺たちと一緒に来てくれることになったんだ」
「え? 誰が行くことになったんですか?」
 エリーが尋ねると、ハレッシュは首をひねった。
「いや、聞いていない。誰が来るのかは、まだ聞かされていないんだ」
 そのとき。
 ばん、と大きな音がして、工房の扉が開いた。
「ちょっと、エルフィール! ノルディスは来ていないかしら!?」
「アイゼル……! どうしたの、そんなに慌てて?」
 ものすごい剣幕で工房に入って来たアイゼルに、エリーは気圧されながら尋ねた。
「ノルディスがいないのよ! ねぇ、例のグラッケンブルクの調査隊に同行したいって、自分か
ら志願したという噂があるんだけど、あなた知ってる!?」

*


 街外れの丘の上を、風が吹き上げていった。それは秋の終わりのざわざわとした草の感触とと
もに、つん、と一筋、冷たい冬の気配をはらみ、エリーの頬に打ちつけていった。エリーは思わ
ず身震いをした。見上げると、細い月がしらじらと夜空に突き刺さるようにしてかかっていた。
丘にある大樹の上、針のような月は吐息をもらすようにして細い光を地面に投げかけていた。エ
リーが再び地上に目をやった、その刹那。
 大樹の陰に、気配を感じた。
「ノルディス……?」
 彼女が近づいていくと、一瞬間が空き、それからいつもの笑顔が木の陰から現れた。
「やあ、エリー。こんな時間に、どうしたの?」
「ノルディスこそどうしたのよ! さっきアイゼルが心配して探してたよ!?」
 木陰のせいで、ノルディスの表情は見えなかった。
「そうか……。ごめんね。でも僕、今日はアカデミーの寮には戻らないから」
「え……!?」
「明日は夜明けとともに騎士隊と出発なんだ。寮の開門時間より早いからね。ブレドルフ王のご
配慮で、今晩は騎士隊の宿舎に泊めてもらって、そのまま出発するんだ」
 エリーは息を飲んだ。
「ノルディス……、じゃあ、アイゼルが言ってたことって……?」
「うん。本当は、エリーにも教えないで行こうと思ってたんだけど……」
 エリーはその小さな手をきつく握り締めた。
「どうしてそんな大事なこと、わたしたちに教えてくれなかったの!?」
「……ごめんね、エリー。急に決まったことだったし、それに……君に心配されたくなかったん
だ」
「友達の心配をするのは当たり前だよ! それに、言わないで行くほうがよっぽど心配するでし
ょう! ねぇ、考えなおせない、ノルディス? アカデミーでも、今薬の開発をしているんでし
ょ? たしかに、ノルディスは医学に詳しいけど、でも……」
 顔はよく見えなかったが、ノルディスの声は、きっぱりとした音調で言った。
「心配してくれてありがとう、エリー。……でもね、決めたんだ。王宮からアカデミーに公式な
依頼があって、誰か錬金術師に同行して欲しいという話があったとき、僕は、これは自分がやる
べき仕事だと思った。最初はイングリド先生も、もう少し経験のある人を派遣したほうがいいっ
て、反対していたんだけどね……。最終的には、僕の説得に折れてくれたんだ。僕を含めて五人、
医学が専門の錬金術師が同行する。もう、これは正式な決定なんだ。本当にごめんね、君に言わ
なくて」
 エリーは、口端を引き結んでノルディスの話を聞いていた。突風が吹き、ノルディスの着てい
るローブの裾がはためいた。ノルディスは、静かに言った。
「……エリー、僕はね、たった少しの知識の欠如が、多くの人の命を奪うなんていうことが、ど
うしても我慢ができないんだ。疫病は、人間が病気について無自覚であることから生まれる……。
どうやらドムハイト王国領は、現在全域に渡ってこの疫病が流行っているらしい。何でも、百年
前にも同じような病気が流行って、人口の半分が亡くなってしまったらしいんだ。これを繰り返
すわけにはいかない。感染症のほとんどは、発生源は自然の摂理でも、広範囲に広まる原因はす
べて人間の無知だ。いわば、人災なんだ。……僕は、これが許せない。どうしても、許せないん
だ。正しい知識を広めれば、病気それ自体はなくならなくっても、病気が理不尽に広まっていく
ことは防げる。僕は、そんな理不尽な理由で命を落とす人が大勢いることが許せないんだ」
 エリーは言った。
「……分かった。ノルディスの考えは、よく……。だったら、わたしも連れて行って! 手伝い
たいの、その仕事! たしかにわたしが医学が専門じゃないけど、でも! 薬を調合したり、病
人の看護をしたりとか、とにかく何でもやるから!」
「それは無理だよ、エリー。向こうの状況も分からないし、何ヶ月、いや、何年も向こうに行っ
ていることになるかもしれない。僕たちは調査して、必要な物資や有効な薬のレシピを報告する
から、君はこのままザールブルグにいて、特効薬の開発を手伝ってほしい」
「……ここで待ってるだけなんて嫌だよ、ノルディス!」
 静かに、しかし強い声が響いてきた。
「死ぬかもしれないよ、エリー?」
「ノルディスこそ!」
 また一瞬の間が空いて、ノルディスの声が低く響いた。
「じゃあ、……僕と結婚する、エリー?」
「え……?」
 エリーは驚いて前方を凝視したが、相変わらずノルディスの顔は見えない。エリーが聞き返そ
うと口を開いた瞬間、畳み掛けるようにノルディスは言った。
「結婚して、一緒に来てくれる?」
「……な、なんで、ノルディス?」
 エリーがたじろぎながら言うと、ノルディスの声は低い音調のままエリーに近づいてきた。
「それぐらい、僕と一緒にいる覚悟があるの? いつ帰れるか分からないんだよ?」
 エリーは後退りしながら、慌てて言った。
「……そうやって、わたしが一緒に来ないようにごまかそうと思って……、からかってるでし
ょ?」
 エリーが言うと、くすり、といつものような笑い声が静かに響いた。エリーは、ほっとして後
退りしかけていた歩みを止めた。ノルディスの声は、いつもの、優しい調子に戻って言った。
「からかってなんか、いないよ」
「からかってるよ! ……この間から、ノルディス、変だよ。だいたい、この前いつわりの銀貨
を教えてくれたときも……ん!」
 エリーが頬を膨らませた、瞬間にその頬をノルディスの器用そうな白い指が包みこんだ。エリ
ーは驚いて後ろに飛びのいたが、ノルディスは彼女の肩口と頭の後ろを抱え込んで、唇をかさね
た。
 細い月からの光が、とつとつと二人を照らしていた。しばらくして、小さくため息をつくとと
もに、ノルディスはゆっくりとエリーから身体を離した。
「……これでも、からかってないかな?」
 そう言って微笑むノルディスのよく見えない顔を見上げながら、エリーは慌てて首を横に振っ
た。ノルディスは、気まずそうにため息をついた。
「ゴメン。じゃあ、僕、もう行くね」
 そう言って踵を返したノルディスに、エリーは声を振り絞った。
「あ、ま、待って! どうして? どうして……、こんなこと、するの!?」
「大好きだよ、エリー」
 振り返り際、ノルディスはにっこりと微笑んだ。木陰から出て、白い顔が月明かりに照らし出
されていた。その額や瞳に反射する月明かりを見ながら、エリーは叫んだ。
「わたし、……ノルディスのこと、ずっと親友だと思ってた……!」
「そうだね。……僕も、そう思いたかった。さようなら、エリー」
 再びノルディスが踵を返すと、秋のザールブルグの気配は、一層冷たく周囲に浸透していった。
 
 


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