1
秋。ザールブルグの街には、頻繁に市場が立つ。
周辺の村からは収穫された農産物を売りに来る農民たちが集い、この機を逃さず周辺諸国から
商人たちもぞくぞくと集まってくる。異国の模様がふんだんに入った、色とりどりの布地を絨毯
の上に広げて愛想のいい笑顔を振りまく者、並びに並んだ上等な銀食器を研磨剤で絶えず磨き続
ける者、珍しい形の酒瓶に入った酒をずらずらと並べ、客に利き酒を勧めつつ塩辛い声でぽんぽ
んと説明をほどこす者、いや、物を売る人々ばかりではない。玉乗りや手品師などの大道芸人た
ち、抜け目無く酒場の宣伝をする踊り子、賑やかな楽曲をかきならして通り過ぎる音楽隊、年季
の入ったカードを鮮やかな手つきでさばく辻占い師、それからさまざまな食べ物を売る露天商た
ち……。
エリーはそれらを横目でながめながら、両手で抱えた大きな袋を持ち直した。
「え〜っと、必要な材料は全部買ったよね……? ふぅ、重いなぁ。でも、マルローネさんは、
昨日からずっと新しい調合に取りかかってるから、手伝いを頼むわけにはいかないし……よいし
ょっと、きゃっ!」
エリーは、いきなり背後から、どん、とぶつかられて前につんのめり、転んでしまった。と同
時に袋の中身がばらばらと路上にばらまかれた。彼女にぶつかった人物は、慌しい調子で言った。
「ああっ! ごめんなさい! ……て、手伝います、申し訳なかったです、エリーさん!」
エリーは、自分にぶつかって来た異国の衣装を纏った人物の顔を見て、大きく瞬きをした。
「……サイード?」
サイードはすまなそうに肩を落とすと傍らにかがみこみ、せかせかとエリーの荷物を収集しは
じめた。
「ずいぶんたくさん星のかけらを買ったんですね? ん? これは、国宝虫の糸か……糸巻きの
芯がばらけてしまって……」
「あ、サイード、それはそんな風に乱暴に引っ張っちゃ……」
「ああっ! ごめんなさい、すぐに直します! これを、こうして、んん!? あれ! いや待
て、こう、こう、で、あれれ!?」
サイードは額に汗を浮かべ、国宝虫の糸をぐちゃぐちゃにしながら必死に手繰り寄せている。
が、それは彼の健闘に反比例して、頑張れば頑張るほど、泥沼にはまり込んで行くようであった。
エリーは慌てて言った。
「サ、サイード? もういいから、あとはわたしが自分でやっておくから、ね……?」
「いいえっ! 自分がやった失敗は、最後まで責任をもって収めます! え〜っと、これがこっ
ちにからんで、こっちから引っ張って、こうすれば、こう、ならな、い……?」
そのとき、頭上から聞きなれた声が響いてきた。
「サイード、ちょうど良かった。君の探しているアニスなら、さっきそこの広場で会ったよ?」
サイードは、手を止めて上を向くと驚いたように言った。
「ノルディスさん! でも、どうして私がお嬢さまを探してるって、知っているんですか?」
ノルディスは、くすりと笑った。
「……あれだけ大声でアカデミー中を探して回っていれば、誰だって分かるよ。アニスのほうも、
君を探していたみたいだけど?」
サイードは、立ち上がった。
「え!? 本当ですか! それで、お嬢さまはどちらへ?」
「君と入れ替わりでアカデミーに帰ったよ。もう、寮についているころじゃないかな?」
サイードは、手繰り寄せかけの国宝虫の糸の塊を握りしめると、唇をかみしめた。
「大変だ! はやくこれを全部回収して、アカデミーに向かわなくては!」
エリーは苦笑しながら言った。
「い、いいよ、サイード? 急いでいるなら、あとはわたしが全部自分で……?」
「いいえ! それでは急いですべてを元通りにさせていただきます! 私は、これでも手作業に
は自信が……んん!? なぜ、これがこうなってこっちに入ったら、これがそっちから!?」
事態をどんどん悪化させるサイードに、ノルディスは言った。
「なんだかアニスは急用みたいだったよ、サイード?」
「え! 急用、ですか!」
「うん。……もし良かったら、エリーの荷物は僕が直してあげるから、君ははやく、アニスのと
ころへ行ったほうがいいんじゃないかな?」
「あ、で、でも!」
エリーは、慌ててうなずいた。
「そうしなよ、サイード! それに、サイードが一生懸命拾ってくれたから、後は国宝虫の糸だ
けだし、もう手伝ってくれなくても大丈夫だよ?」
「……そう、ですか?」
エリーは、うんうん、とうなずいた。
「うん! はやくアニスのところに行ってあげなよ、きっとサイードに何か用があって、待って
るんでしょ?」
サイードは、口を真一文字に結ぶと、アカデミーのある方角をにらんだ。
「……お嬢さまが、私を……。分かりました、エリーさん。後を頼みましたよ、ノルディスさん!
それでは失礼いたします!」
風のように去っていくサイードの後姿をながめながら、エリーはため息をついた。
「ふぅ……。いい人なんだけどなぁ……」
ノルディスは、そっとエリーの横にかがみこむと、器用な手つきで国宝虫の糸を巻き始めた。
「ずいぶんからまっちゃったね……」
「あ、いいよノルディス! 自分でやるから!」
エリーが慌てて言うと、ノルディスはくるくると糸を巻きながら微笑んだ。
「もうすぐだよ。あ、エリー、市場で何か食べた?」
「えっ? 何で、ノルディス?」
「口の横、何かついてるよ?」
エリーは、慌てて口端を袖口でぬぐった。
「……あ、さっき食べたパイのかけらだ……」
ノルディスは、手の中の糸巻きをエリーに手渡した。
「はい、エリー」
「ありがとう、ノルディス……」
エリーが糸巻きを受け取ると、ノルディスは立ち上がった。
「いい天気だね。エリーは買い物?」
エリーも慌てて立ち上がった。
「うん。ノルディスは?」
「僕はエリーたちの工房に行くところだったんだ。ちょうど良かった。黄金色の岩、余分にある
かな?」
エリーはうなずいた。
「うん、たくさんあるよ」
「良かった。じゃあ、行こうか、エリー?」
「うん!」
エリーが笑顔でうなずくと、ノルディスは、ぷっ、と吹き出した。
「……エリー、膝小僧、真っ黒だよ?」
*
工房の前に来ると、二人は見慣れた人影が入り口の前に立っているのを目にした。その人はド
アの横の壁に片手をつき、うつむき加減でぶつぶっと何かを口の中で言い続けていた。
「……別段用事があって来ているわけだから何もやましいことはあるまい急ぎなんだから三日前
に二度と来るなと言われたことを気にしてもいられまいしそういうことをいちいち気にしていて
はまたしてもここに来づらくなってしまうし……」
エリーは、その人物に背後から朗らかに声をかけた。
「クライスさん?」
しかし、クライスは相変わらず壁に手をついたまま、ブツブツと独り言を言い続けている。
「……それにしてもあの人はあいかわらず少しも成長がないというかもう少し配慮があってもと
かそういうことを考えるのはやめようと今朝決めたわけだけれども……」
「クライスさん、うちに用事ですか?」
再度エリーが声をかけると、クライスはビクッとして振り返った。
「うわぁっ、だ、誰です! ……何だ、あなたたち、ですか……?」
クライスは顔を引きつらせてエリーたちを見ると、ふぅ、とため息をつき眼鏡の位置をなおし
た。ノルディスは言った。
「今日は、クライス先輩。先輩も、工房にご用ですか?」
「え、ええ、ええ、そうなのです、用事で……。私も研究で大変に忙しい身ですが、急に必要に
なったため、やむなく足を運んだのですが……?」
エリーは笑顔で言った。
「じゃあ、そんなところに立っていないで、どうぞ中に入ってください! 今、お茶を淹れます
から!」
クライスは気まずそうに言った。
「……いえ、結構です。引き取り物が出来ているかどうか、確認させていただきたいだけですか
ら、私はここで……」
「え? どうしてですか? 時間がないんですか?」
エリーが言うと、クライスはやや後退り気味になりながら言った。
「何しろ、私は研究で忙しい中うかがった訳ですし、あまり時間が……」
「でも、クライスさんが工房に来てくれると、マリーさんも喜びますよ?」
「え!? マルローネさんが、ですか……?」
エリーが笑顔で言うと、クライス、目を一瞬大きく瞬いた。エリーは屈託なく言った。
「はい! クライスさんがケントニスに行っていた間だって、マルローネさん、寂しがってまし
たから!」
クライスの青白い顔に、少し赤みが差した。
「寂しが、っ、て……、マルローネさんが、ですか……?」
エリーは、大きくうなずいた。
「はい! 暴れたりないって、工房の中で運動してましたよ?」
クライスは、がっくりと肩を落とした。
「暴れ足りないって、……あの人は……」
そのとき、ふいにすさまじい爆音が響いた。爆風で煽られ、工房の窓は一気に、ばん、と開け
放たれ、中からは黒煙がもうもうと舞い上がった。
「マルローネさん!?」
クライスは工房の入り口をこじ開けると、叫んだ。エリーとノルディスも、慌てて後に続いた。
「……ケホケホ、マリーさん、大丈夫ですか!?」
エリーも慌てて見回した。すると、マリーがその見事な金髪や白い顔を煤だらけにしながら、
よろよろと這い出してきた。
「うっ、ゲホッ、ゴホゴホッ! ご、ごめ〜ん、エリー、驚かせちゃって〜……」
ノルディスは尋ねた。
「大丈夫ですか? この臭いからすると、有毒な物質は使っていないようですが……ものすごい
煙ですね?」
マルローネは、うなずいた。
「そうなのよ。煙で魔物を威嚇できるような、新しい爆弾を開発していて、火薬の量を間違えち
ゃったのよね〜?」
クライスは、きっ、とマリーの顔をにらみつけた。
「間違えちゃった、ではありませんよ、マルローネさんッ! あれほど爆薬系の調合は慎重に、
といつも言っているのに、まだ乱雑かつ適当な手順で調合を行っていたのですか!? だいたい、
あなたは爆薬の調合に関して、手法が大雑把すぎるんです! 周囲に甚大な被害をもたらしてか
らでは遅いんですよ? ご近所にだって迷惑でしょう!? アカデミー内の実験室ならともかく、
ここは一般の住宅街です! そうしょっちゅう……」
「ちょっとクライス! あんた、この前ここには出入り禁止だって言ったでしょう! ……また
喧嘩売りにきたわけ!?」
マリーがクライスの言葉を遮って怒鳴ると、クライスはやれやれ、といった顔をした。
「……私も来たくはなかったのですが、急用があったのです」
「何よ? あんたの依頼品なら、まだ納期まで間があるじゃない?」
マリーが早速臨戦態勢になって言うと、クライスは、ふむ、と言って軽く鼻で笑った。
「やれやれ、私ならば依頼主の立場を考え、期限よりも余裕を見て仕上げておきますけどねぇ?」
「……何が言いたいのよ?」
いよいよキレそうな顔をしたマリーに、クライスはたたみかけるようにして言った。
「別に。まあ、アカデミーの卒業も大幅に遅れた方に、依頼品を早めに仕上げていただこうなど
と考えた私が、浅はかでした」
数秒後。
試作品の爆弾が工房前の通り中に、数発連続で炸裂した。
2
「で、この騒ぎは、単なる喧嘩だった、と……」
うんざりした顔で調書を取っているダグラスに、エリーはうなずいた。
「うん。この爆弾、煙と音はすごいけど、破壊力はたいしたことないんだよ? ほら、周りの建
物とか、道とかにも傷はついていないでしょ?」
ダグラスは、ぐしゃぐしゃと髪をかき回した。
「……そういう問題じゃねぇだろ?」
「怪我した人もいなかったんだし、問題ないよ、ダグラス!」
ダグラスは、大きくため息をついた。
「大有りだ。近所から騎士隊に通報があったんだぞ? ものすごい爆音がして、すさまじい量の
煙が上がってるってな?」
エリーはうなずいた。
「うん。マリーさんの開発した新型の爆弾だよ。煙と音がすごくって、たとえば森の中なんかで、
魔物の群れに取り囲まれたとき、これを投げればみんな逃げていくようにって! 今までの爆弾
だと、魔物もやっつけられるけど、周りの貴重な調合素材まで燃やしちゃったでしょ? 効率が
悪いからって、頑張って開発したんだよ?」
ダグラスは、口をへの字に結んだ。
「開発はいいけどよ、……いい加減、近所迷惑なマネはやめてくれよな?」
「……うん、いつもごめんね、ダグラス?」
エリーが言うと、ダグラスは、木製の調書台を軽く小脇に抱えた。
「で、その……おまえ、怪我なかったか?」
エリーは首を横に振った。
「え? ないよ! だってこの爆弾、破壊力ないもん!」
ダグラスは、エリーの泥のついた膝のあたりを注視しながら言った。
「……膝、すりむいてるのか、それ?」
エリーは笑いながら言った。
「ああ、これはね、さっき通りで転んだから。怪我まではいってないよ。大丈夫」
「そうか。……にしても、おまえ、よくあんなものすごい評判のヤツと一緒に住んでるな?」
エリーは少々不審そうな顔で言った。
「評判って……マリーさんは、そんなに恐い人じゃないよ、ダグラス?」
ダグラスは、ぼそりと言った。
「ま、おまえは俺を武闘大会で倒すようなヤツだからな……」
ダグラスの瞳に、ふつふつと何かが湧き上がる気配を感じ、エリーは恐る恐る言った。
「………ダ、ダグラス?」
「……ちくしょう、隊長を倒せば後は敵なしだと思ってたのに、俺としたことが……」
「……ダグラス……?」
そのとき、若い聖騎士が慌しく駆けてきた。
「おい、ダグラス! 城壁の穴から魔物が入ってきたそうだ! 小物だが数が多い! おまえも
撃退するのに手を貸せ!」
ダグラスは、すぐさま返事をした。
「分かった、すぐ行く! じゃあな!」
「うん! お仕事ご苦労様、ダグラス!」
エリーがそう言ったときには、二人の聖騎士は既に風のように走り去っていた。
*
「まあ〜た、街中に魔物が出てきたの?」
エリーの淹れたミスティカティを一口すすり、マリーは言った。
「最近、多いですね?」
エリーが言うと、先ほどまで片づけに加わっていたノルディスも、ティーカップを置いてうな
ずいた。
「本当ですね。今のところ、そうたいして強い魔物が入って来たことはないけれど……。最近、
どこの採取場所でも、魔物の数が増えてきているような気がするんです」
マリーは大きくうなずいた。
「そうなのよ! 数が多いのよ! 採取しているときに次から次からかかってきて、鬱陶しいか
らそれを蹴散らすために、あの爆弾を開発していたのに!」
ノルディスは、苦笑しながら言った。
「……でも、街中での使用は控えたほうが……?」
マリーは口を尖らせた。
「失敗作だったのよ。音は良かったんだけど、煙が出すぎて、貴重な調合素材まで強力な煤の威
力で真っ黒になっちゃって、しかも落ちづらいんだもん」
同時刻。アカデミー内、イングリドの研究室。
コツコツと規則正しくドアがノックされる音を聞いて、イングリドは言った。
「お入りなさい」
「失礼します」
彼女は、呼び出した人物が部屋に入ろうとするのを確認し、優雅な仕草で、手にしたティーカ
ップからミスティカティを一口含んだ。が、次の瞬間、それを、ぶっ、と吹き出した。
「……ク、ク、ク、クライス?」
「なんでしょう、イングリド先生?」
怪訝そうな顔で言うクライスに、イングリドは言った。
「な、何なのあなた、その顔は……?」
クライスは事も無げに言った。
「ああ、この顔の煤のことでしたら、別段問題はありません。それよりも、ご用件をお聞きした
いのですが?」
「でも、でもあなた! 真っ黒よ! 眼鏡のところ以外、顔が全部!」
珍しく冷静さを失って声を上げる恩師に、クライスはため息をついた。
……やれやれ。当分、人前に出られそうにないな……。
*
その日の夜、アカデミーの職員寮。
コンコン、と部屋の扉がノックされる音を聞いて、机に向かっていたクライスは、顔を上げた。
「どなたですか?」
一瞬間が空いた後、聞き慣れた声が扉越しに響いてきた。
「……あたしよ。ちょっと、いい?」
クライスは、かたん、と椅子から立ち上がった。
「マルローネさん!? どうしたんですか、こんな遅くに?」
「いいから、開けてよ?」
「鍵なら開いていますよ、どうぞ」
クライスがそういうが早いか、ばたん、と扉が開けられた。そしてマリーはつかつかと部屋に
入ってくると、クライスに言った。
「……その、昼間は悪かったわね?」
クライスは苦笑しながら言った。
「いえ。あなたが乱暴なのは、よく知っていますから。今さら驚くこともありません」
マリーはその台詞に一瞬ぎろりとクライスの顔をにらんだが、すぐさま、ふぅ、とため息をつ
いた。
「いつもだったら、そのあんたの嫌味ッたらしい物言いに、ものすごく腹が立つところなんだけ
ど、生憎その顔じゃ、怒る気にもならないわ」
クライスは言った。
「ええ。さきほども、イングリド先生に所用で呼ばれてうかがったのですが……驚かれて、本当
に大変でしたよ」
「悪かったわよ」
そう言って、マリーはクライスの眼鏡にいきなり手をかけた。
「なっ、何をするんですか、マルローネさん!?」
驚いてクライスが言うと、マリーはクライスの眼鏡をもったまま、ぶふっ、と吹き出した。
「……ぶはっ! ククククク……想像はしてたけど……クックックッ、お、おっかしい〜! 眼
鏡の形のまんま白くって、後は真っ黒〜!」
クライスは、憮然として言った。
「……あなたは、こんな深夜に私を笑いに来たのですか、マルローネさん?」
マリーは、喉元に笑いを押し込めながら、首を横にぶんぶん振った。
「ち、違う違う! あたしは、あんたのその顔の煤を落とす薬剤を調合したのよ! お詫びに落
としてあげるから、これ、使って!」
マリーが取り出した薬瓶を見て、クライスは怪訝そうな顔をした。
「あなたが、調合した薬、ですか……?」
「あ! な〜によう、信用してないの? さっき工房でも試してみたけど、ちゃんと落ちたんだ
からね!?」
マリーは口をへの字に結んだ。
「しかし、どんなに洗っても落ちなかったこの煤が……落ちるにしても、身体に害はないんでし
ょうね? あなたのようなガサツな方と違って、私は繊細に出来ていますから?」
クライスがそう言うと、マリーはいよいよ口を大きくひん曲げて、持参した布に薬液をたっぷ
りとしみこませた。
「いいから、あたしを信用して! その爆弾を作った本人がその煤を分解する薬を作ったんだか
ら、間違いないの! ほら!」
マリーは、クライスの顔を強引に引き寄せると、ごしごしと拭きはじめた。
「うっ、な、そんなに乱暴に拭かないでくださいよ、マルローネさん! 自分でやりますから!」
しかし、そんなクライスの訴えには耳も貸さずに、マリーはクライスの顔の煤を落とし続けた。
「うわあ! 落ちる落ちる! やっぱり、あたしの計算は正しかったのね!」
クライスは、顔をこすられながら怪訝そうに言った。
「……すでに臨床実験済み、ではなかったのですか?」
マリーは笑顔で言った。
「試したわよ、工房の床でね! でも、人間に使うのは初めてだから、これ!」
「なっ!」
驚いて目を見開いたクライスに、マリーは言った。
「あ〜もう、滲みるから、目は開けないほうがいいわよ、クライス?」
「いえ、そういう問題ではありません! 本当に大丈夫なんですか、その薬は!?」
マリーは、にっこり笑うと真っ黒になった布を見せた。
「へーきへーき、ほら! この通り、煤はキレイに落ちたわ! ちゃっちゃとやっちゃいましょ
う? あともう少しよ!」
そう言って、マリーは再びクライスの顔を引き寄せた。クライスは、深いため息をついた。
*
翌日、イングリドの研究室。
コツコツと、また規則正しく扉がノックされた。淹れたてのアザミ茶を飲んでいたイングリド
は、入り口に背を向けたまま、どうぞ、と言った。
「失礼します」
入って来た人物は、礼儀正しい口調でイングリドに言った。
「イングリド先生、昨日おっしゃった資料ですが、すべて整えました。ご覧下さい」
「まあクライス、さすがね、ありがと……ぶっ!」
振り返って、クライスから資料を受け取ろうとしたイングリドは、またしてもお茶を吹き出し
た。
「先生、どうかなさったのですか?」
イングリドは、わなわなと震えながらクライスの顔を指差した。
「ど、どうかなさったのはあなたのほうですよ、クライス! そ、そ、その顔は……!?」
クライスは怪訝そうに聞き返した。
「煤ならば、落としたはずですが……?」
イングリドは、ばたばたと手鏡を取り出すと、クライスに手渡した。
「ちょっと、これを見てご覧なさい、クライス!」
クライスは、それを受け取ると自分の顔を映した。
「……何か問題で、も、う、うわあああああッ!」
クライスの顔から黒い煤の後は消えていたが、代わりに、顔全体には虹のような七色の線が、
燦然と光り輝いていた。
「……あの人の作ったものを信用した私が、浅はかでした……」
クライスは、大きくため息をついた。
それから一週間、薄暗い図書館の中などでも顔から七色の光線を発する男として、クライスは
アカデミー中の噂の的となった……。
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