■甍ヶ淵駅第1C展示室

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名鉄三河線新川町にあった臨港線の貨物列車  TADY BEAR様

碧南市ご在住のTADY BEARさんから新川町にあった臨港線の貴重な画像をお送りいただきました。衣浦臨海鉄道碧南線開業の前日、三河線刈谷以南の貨物営業最終日の撮影です。まさに役割を新しい鉄道に譲らんとする最後の姿です。記載なき限り1977.5.24撮影。
 なお、撮影ポイントを示す航空写真はこちらから別ウインドーでご覧いただけます。

デキ401が新川町に到着
臨港線の最終日、最後の機関車となるデキ401がやってきた。

刈谷方面から貨30のスジでやってきたデキ401が新川町に到着します。今日で臨港線の貨物もおしまいです。

本日の打ち合わせ
係員が作業の打ち合わせをしているのでしょうか。

本日の打ち合わせ。最終日なので、デキの一人旅でした。 到着後、右に見えている貨車を碧南方へ引き出し、バックして向かって左側のホームへ入ります。

本線直通の電車が到着
佐屋行き本線直通列車が客扱い中。デキに係員が乗り込みます。

本線直通の電車が到着しました。おそらく7:41分発の電車だと思います。この電車が発車すると間もなく入換作業が始まります。

バックして刈谷方面ホームへ
バックして刈谷方面ホームへ。

貨物ホームから碧南方へ引き出された貨車は後ろ向きに1番線?(刈谷方面)に入ります。
左奧に写っている焼きそば、お好み焼きのお店は少しリフォームしてますが健在です。

記念写真ではありません
デッキ上に係員が勢揃い

記念写真ではありません。踏切、ポイント、旗振り・・・人件費高そうです。デキの足元のポイントを手前側に向かってくるといよいよ臨港線に入線です。(ところで正式名称は何と言う線でしょうか?

少年たちに見送られて
少年たちに見送られて。

Cの位置より新川町方を向いた写真です。4両を牽引して入線したデキはBの位置にいた3両をプッシュして、間にはさまれて来ました。手前の貨車の扉から藁がはみ出ていますが積荷の練炭火鉢などの緩衝材に使われていた藁だと思います。最後なので見物の人が2〜30人いたと思います。

中間に機関車が入った状態
中間に機関車が入った入換作業がユニーク

Cの位置から港方向の写真です左側の建物でも積み下ろしをしていたと記憶しています。手前から3両目は蜘蛛の巣マークの古い名鉄マークでしょうか?

突放ならぬ「牽放?」
臨港線の終端部付近での入換作業

Dの位置より港方向の写真です。手前側の4両を牽引しながら放しています。これも突放と言うのでしょうか。後ろに見えるのが国道247号線その向こう側を衣浦臨海鉄道碧南線が走っています。

新川町に向けて出発
突放?した貨車を後ろに繋いで新川町に出発。

突放?した貨車を後ろに繋いで新川町に出発。

見物に来た家族連れの車も時代を感じさせますね。(碧)

地元産品の醤油工場
右側の建物は醤油工場

左の建物は現存です。その奥に練炭火鉢などを積み込んでいたホームと倉庫が現存しています。古い本ですがRailMagazine91 P58の大きな写真右側の建物です。引っ掛け式のテールを片方につけています。

新川交差点を横断
独特の字体の「名」が懐かしい。「刈谷駅常備」の文字も読み取れる。

Eの位置の新川交差点を渡りきったところです。このときほど広角レンズが欲しいと思ったことはありません。この頃は信号機の操作で車を止めていましたが、少し前までは手動の遮断機を使用していました。後ろ3両くらいはまだ交差点内です。

臨港線を撮影した最後の1コマ
臨港線を撮影した最後の1コマ

私にとって最後の見送り。夕方に最後の空車返送があったはずですが、その時間はどうしてもぬけられない講義があり、あきらめたのを思い出しました。

●臨港線で取り扱われていた貨物

説明内にある建物の位置関係 写真左後の名鉄運輸からプレハブの手前にかけて、石炭の山がS40年代までありました。名鉄運輸の左奥の三河品川燃料の取り扱いだと思われます。上左の写真右側の醤油工場への味の素タンク車は子供心に割と不気味で、一人で横をすり抜けるのが怖かったです。
 写真の解説中、練炭火鉢等を扱っていたのは板倉彦松商店で、練炭火鉢等を貨車とホームの間に渡し板を架けて天秤棒で担いで積んでいました。
 余談ですが、小学生低学年の夏休みは操車場でバッタ取りをよくしていました。夕方の貨物を目の前(1Mくらい)で眺めてから帰宅というのが日課でした。

写真・文:TADY BEARさん


●逆突放?による機回し

先端が行き止まりとなった引き込み線では機関車の前後を付け替えることはできないと思われましたが、走行中に連結器を切り離して貨車のブレーキを踏み(あるいは機関車が加速し?)、機関車がポイントを通過後、遅れてやって来る貨車を別の線へ格納するという方法が採られていたとは初めて聞きました。「逆突放」というよりも、あえて言うならば「牽放」とでもなるのでしょうか?同様の作業が海外では行われていたようですが、国内で、しかも身近な名鉄で行われていたとは驚きです。
 危険を伴うため、国内では突放もほとんど行われなくなった今、もし臨港線が残っていれば、臨港線へ入る段階で機関車を刈谷方へ回し、バックで入るという手順が採られることでしょう。
 しかしながら、昭和30年代と言われても疑問を持たないほどに古さが残されている沿線風景には驚きました。最後になりますが、貴重な写真をご提供いただきましたTADY BEARさんに謝意を表します。(碧)


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