評論するページ

人間の貴賎という問題。



苺BBSを覗くと、既にFSHISOでは「終了宣言」をした「特攻」の問題であるとか、
私が夢案氏に対して述べた「人間の貴賎」という発言を巡って、なかなか賑やか
な様相を呈しているようである。人権についての私のスタンスというものはFSHI
SOの5番会議室で、相当数の発言を私自身、残してもいるし、それをお読みに
なった方は、私を「差別主義者」などとは普通、考えないだろうが、何人かの知
人から「花田さんは実名で発言していることもあるし、この問題についてもう一度
きちんと整理しておくべきではないだろうか」というアドバイスも頂戴した。そこで、
今日は、この問題について、拙見を述べておきたい。

「職業に貴賎はない。しかし人間には残念ではあるけれど貴賎というものが存在
する」というのは、今日、私の持論と申し上げても過言ではない。実は、この点に
ついて、私は昨年、ここに名前を書けば誰もが知っているであろう作家と、この視
点について意見を交換したことがある。もちろん、私自身、この作者の著作物が
単行本になれば、必ず拝読していた。
その作者からは「花田さんの言うことは、全くそのとおりだと思う」というコメントを
得て、私の中では、更に納得を深めたという面もある。

ひとつ具体的な例を示してみよう。

今、手元にその本がみつからないのだが、沢木耕太郎氏の「馬車は走る」という
随想集の中で、石原慎太郎氏のルポルタージュが収録されている。石原氏が最
初の東京都知事選に立候補し、当時、現職の美濃部都知事に敗れたときのこと
である。

氏が選対の人間とレストランか何かで打ち合わせをしていて、席を立った。たまた
まその店のボーイさんと鉢合わせになった。手洗いか何かに立つのだったか。ボー
イさんは彼に通路を譲るべく、ふさがった両手はそのままに、身体を動かすのだけ
れど、タイミングが合わない。石原慎太郎はその動作に苛立ち、一喝する。
「お前、ボーイだろ。どけよ」と。

細かいニュアンスは異なるかもしれないが、石原慎太郎がそのような台詞を吐いた
記述は、今でもはっきりと私は記憶している。

福田和也ほど石原慎太郎を絶賛するつもりもなければ、彼の小説の二、三を拝読
した限り、それほど私の好む文体でもないのだけれど、氏の最新作のエッセイ、田
原総一朗との対談などには、私は目を通している。いわゆる文壇の回顧録として、
そういう作品を読むと、なかなかに面白い面も多い。政治家としての手腕について
は同意できるところもあれば、到底、受け入れられない面もある。およそ金銭という
ものについては、執着のない人なのだろうとは思うが。

しかし、私は、前述した沢木耕太郎の一文に接して以来、石原慎太郎という人には
どこかしら卑しい面があるのだろうと思っているし、この人はどこかで、弱者への配
慮とか、思いやりというものについて、決定的に欠けた面があるのではないかとも
考えている。そういう政治家がある意味、もてはやされる、待望される日本というの
も、些か不思議な気がしないでもない。この一点についての生理的嫌悪感のような
ものは、私は生涯拭えないだろうとも思っている。

私は、定期的に苺BBSには、ざっと目を通している。私について「どういうことを他者
が書いているのか、何を論じているのか」全く関心がないといえば、それは嘘になる
だろう。また、私について論じる何人かの「名無しさんたち」も、それを前提に書いて
いるのだろうと思う。別に「影でこそこそ」でも何でもない。従って、そのこと自体に私
は不快感を覚えたことは一度もない。必要に応じて、これはちょっと、というものがあ
れば、私はこの場で「反論」なり「真意」を提示することは可能であり、そのことによっ
て私は私を守ることなど、実はいくらでもできる。

人間というのは誰であっても、時に「いいこと」をしたいという欲求にかられるし、欲望
だけで動かされるというものでもない。美しいものに出会い、感動したいと思うことも
勿論ある。俗な面もある、好奇心ある、そして高貴な面もある、そういう意味では人間
の存在というのは「矛盾」だらけといっても過言ではないだろう。ただし、それを踏まえ
た上で「人間の欲得だけにしかイマジネーションが働かない人間」というものは、それ
は上品や高貴とは到底言い難い。私はそう考えている。

もちろん、私は「人間はみんな立派なことを考えるものだ」と、それを無条件に信じき
って人とつきあうなどというのも、実は愚かなことではないかと思っている。つまり、そ
ういう矛盾、全てをひっくるめた上で「人間の貴賎とは何か」ということを考えてもきた。

FSHISOというのは、それを考える意味では、格好のテキストであったとも思っている。
それを考えるということは「人間を知る」第一歩になるという面が、確かに存在した。

サン・テクジュべりの小説「人間の土地」(新潮社刊)に次のような一節がある。

:精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は作られる。

もう随分と昔のことになるが、私は当時アクティブだった発言者の、おそらくはFSHISOに
おける「第一発言」というものを探し、読み返すことに時間を費やしたことがあった。
ここでの第一発言、それは粘土にも似た、泥にまみれた、それでいて色々な可能性と、
魅力を備えた発言が圧倒的に多かったことに私は驚いた。ちなみに私の第一発言など
できるものなら削除したいぐらい、赤面する内容である。スタンスが定まっていない。

ところが時間が過ぎ、発言を重ねることによって、一貫したスタイルを守る人もいれば、
突然変異のごとく、跡形もなく変わる人もいる。何故、変わったのか、何が変えていった
のか、発言を注意深く読んでいけば、私なりに合点のいくものもあれば、どう考えても、
不明なものもあった。泥人形が崩れていくような決別もあれば、最後まで筋を通した者
もいた。

いつだったか、苺BBSで誰のことだったか「彼は、時々、寂しそうな横顔をみせることが
ある」とある人物を評した発言に出くわしたことがある。私も同じようなことを考えていた
こともあって、なるほどこういうネットウォッチもあるのかと感心したことがあった。

それを闇だの深淵だのと言うつもりは私には全くない。人間というものは、それほど単純
にはできていないのだから。





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