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狼であるということ。



niftyへの文書送付も終えたことだし、今日は、この4ヶ月間、何人かの方から本日まで
訊ねられたことについて、記しておくことにしたい。

−回避できるとは思わなかったか、回避しようとは考えなかったか−

という問いかけは確かに多かった。一言で言うなら「もう少し(ネットで)楽に生きたらどうか」
という類の内容である。こういうことになることは、正直、相手があるということを含んだ上で
も回避できないだろうという予感に終始支えられていたといっても過言ではない。

そのことを回避しようとも考えなかった。例えば、私が情報を頂戴し、何事もなかったように
例えば、オフで会ったときに、彼らとにこやかに対話を重ね、酒を呑むなどというのは、私に
とっては、耐え難い欺瞞ということになる。出来事は出来事として、はっきりさせるというのが
私の根本思想にはある。その上で、関係が発展するものもあれば、それで途絶えてしまうも
のもある。それはそれでいい。そういうことを隠して、社交的に振舞うなどという意識は私に
はなかった。

どちらかといえば、WAKEI氏にしてもtty氏にしても著美氏に対しても「裏切られた」とか「は
められた」などというマイナスの感情は私には全く生まれなかった。ある意味では「なるべく
してこうなった」というのが、本当の実感としてある。

裏切られたとか、はめられたというほど、こういう人々に対して、私は無条件に自分を晒し
たわけでもなければ、信じていたわけでもない。彼らに限らず、ネット上の交流というのは
そういう緊張感にも似たものが、常につきまとう。そういう意味では、今回の事件に接して
私自身は、彼らネットワーカーとしてのスタンスや実存意識というものを、私なりに捉える
ことができた。そのことは嘘偽りなく「収穫」であったと感じている。

私の方から「打開」に動くことは全く考えなかった。ただし、言いたいことがあるというなら
そのための色々な門戸は開放しておいたということである。WAKEI氏がCookie氏に対して
とったスタンスを拝借させていただいた(笑)

もう随分、昔の話である。WAKEIさんがSYSOPの頃、そして私がFSHISOなど知らない頃に
「改行論争」というものがあった。WAKEIさんと当時のスタッフの論争である。訴訟支援のお
手伝いをしようかどうか、思案しているときに、実社会で面識のある方から「ではこれを覚悟
の試金石にすればいい」と、その発言群の存在を教えていただいたことがあった。

「う−ん」正直、私は唸ってしまった。もちろんWAKEI氏にはWAKEI氏の主張はあるのだけ
れど、これは衝突したら大変だろうなと、私は一読、直感した。そういうことも今では遠い
遠い過去の残存である。

ただ、これを読んで私は、自分の役割だけをみて、自分の役割だけに徹するということだけ
は決めた。それ以上の色々な関係やしがらみは極力持つまい。頼ることもしないし、委ねる
こともしない、事に対して尽くそうとそう思った。たいしたことはできなかったが、そういう感情
が、私を真面目に取り組ませたという面は、無意識の中にあったと思う。

tty氏に関しては、今となっては、一体、氏はどうしてFSHISOのSYSOPに立候補したのかと
いうことが私にとっての「疑問」として残った程度で、それ以上の関心もなければ興味もない
というのが、偽らざる私の現在の心境でもある。

WAKEI氏もtty氏も、教育関係には造詣の深い職に就いていらっしゃる。
実は、この事件に遭遇しながら、色々な対処を考えながら、私は一冊の本を時に、後戻りし
ながらずっと読んでいた。「遠い山びこ−無着成恭と教え子たちの四十年−」である。
著者は佐野眞一、現在は文春文庫に収録されている。戦後民主主義の金字塔と言われた
山ひこ学級の卒業生たちを追跡したノンフィクション作品だ。

無着成恭に関しては様々な評価が存在しているが、氏が子供たちに一途に伝えてきたこと
とは以下のようなものである。

1.うそをつくな
2.かげ口をいうな
3.ごまかしをするな
4.するまえに考えろ
5.みんなで力をあわせろ

無着成恭の教え子たちは、忠実にこれを守ろうとする。ただ、そのことによって現実という
ものは「その結果、浮かび上がりたくとも浮かび上がることのできない」残酷さに否応なく
遭遇していくことになる。しかし、彼らは決して不幸せなどということはない。

それは卒業生の答辞を読めば、間違いなく伝わってくる。彼らは生きることに常に忠実で
あろうという命題を忘れることはなかった。

自分に忠実であり、自分を裏切らないということは、こういうネット上の世界、たかが何とか
であっても、それほど容易ではない。匿名掲示板で「あれだけ叩かれて気持ち悪くないか」
という指摘も頂戴したが、彼らの大部分は、展開に興味を示すことはあっても、その結果
何がどうなったところで、背負ったり抱えたりするということはないのだろうから、気にした
ことはなかった。そういう評価に右顧左眄しているようでは情けない。

そういう意味では悔いはないと申し上げていいと思う。niftyに「判断」は求めない、しかしい
くつかの提起はしておいた。さて、どういう返信があるか、おそらく時間は少々要するだろう
が、楽しみでもある。どういう結果を迎えるにしろ、ある棋士の台詞ではないが、狼であり続
けたいというのが、今の心境である。





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