評論するページ

為す者は之れを破り、執る者は之れを失う。



表題は、Barl Karth氏に謹んで、捧げることにしよう(苦笑)

最近、私が参加した「出版推進室」の全ログをCD-ROMにまとめるという作業にとりかかって
いる。参画している私が、Barl Karth氏の「発言」だけを読んでいると、何のことか全然わか
らなくなってしまう。あれだけ恣意的な、伏字まみれの引用を行えば仕方ないのだが、最後
の引用文の中に以下のような発言があることは事実である。

まず「ネットワークでの評価などどうでもいい」などと、私が述べた事実は全く存在しない。

むしろ「ネットワークの評価、訴訟支援、出版支援」が、のちのちに誰からも批判されるよう
な、後ろめたいことをすべきではない、そういうスタンスで私は参加してきた。それが支援者
の「最低限の資格」だと考えていたからである。

「この活動のネットワーク内での評価が低下しないように、充分な注意を払ってきた」とある
が、もし、この発言者が、本気でそう思っていたとしたら、著美氏の度重なる発言を黙認し
てきたのはなぜか。一体、著美氏以外に、およそ「訴訟や出版支援とは何の関係もない」
発言をだらだらと重ね、あげく、運営問題を持ち込むような会員が他にいたか。

おそらく答えられないはずである。Barl Karth氏には(苦笑)

評価を得たいというのであれば、評価を得るにふさわしい「場」を構築するという参加者ひと
りひとりの「意思」がなければいけない。そして、誰がみるとか、公開、非公開を問わず、自分
を律するということが、参加者に求められるのは当たり前なのである。

そういうことは全部隠蔽し、事実をみつめることなく、何があっても「評価、評価、評価」とそれ
だけでは、いかにも滑稽という他はない。

私は、今でも不思議である。

「新宿の夜事件」によって被害を蒙った、蒙ったと書いているが、一体、当時、一方の被告と
して存在しているnifty株式会社の幹部に、今後の計画と、協力のお願いをするということの
一体、何が悪いのか。そのことの一体、何が胡散臭いのか。この感覚というものは、未だに
私は理解できない。

そして、そのことが「不満で不満で仕方がない」というのであれば、そのときにそう言えばいい
ことである。何故、言わなかったか。当時、私が出版社の窓口になるという立場だったからだ
ろう。もし「こいつがいないと困るからなぁ」などという、極めて打算的なものが働いて、そのと
きには何も言わなかったというならば、こういう「利用のされ方」ということを私は好まないし、
また、そういうこともしない。してはいけないことだと思っている。

ある目的の一致をみて、その目的のために参加者が集う。そこで各人ができることを行う、
そこでは依頼したり、依頼されたりということもある。そんなことは全く構わない。ただ、そこで
「いいたいことがあれば」はっきりいうべきである。そのときに、変な打算など持ち込むもので
はない。こういう話がもっと以前に出ていれば、私は私の信念に従って、ある意味、無駄な時
間を費やすということもなかったのだから。

それと、いきなり「暴露」などというのも事実も反している。私はその前に一度、はっきり警告を
しているのである。著美氏に。

「ぎりぎり考えて、自分が間違ったと思ったら、潔く、間違いを認め、謝罪すること。」というのは
発言者が言うまでもなく、そのとおりである。

では、今回の訴訟支援の部屋で行われた、私のいない場所での「誹謗中傷侮辱」に対して、
当該発言者は一切「間違いを認める」「謝罪する」などという表明など、全く行っていない。つ
まり、彼らは「それを正しいこと」だと考えているということになる。それが「訴訟支援」と矛盾
するということに、発言者も被支援者も管理者も気がつかない、というか、もう、そういうこと
すら、わからなくなってきているのだろう。面白い集団である。

「ある話題で対立し、険悪になっても、その話題が終了し、次の側面に移行したら、その険悪
さを引きずらないこと」というのも、そのとおりである。

tty氏の私に対する「敵」発言と、上記の発言を比較して、読んでいただければ、これまた読者
のみなさんには、興味深いかもしれない。

一言で言えば、推進室にしろ訴訟支援の部屋の、ある面々というのは、とてつもなく内弁慶な
のである。まぁ、だからこういう問題が噴き出したりもするわけだが。

挙句、問題がおこったら「支援室でやりましょう」などと、いけしゃあしゃあと述べる。こういう感
覚そのものが、私には信じられない。御都合主義の見本のようなものである。





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