Barl Karth氏が2番会議室に引用していた「マタイ福音書27章24節」の一行。
対訳書には以下のように示されていた。
「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」
ここは、マタイ福音書の中でもひとつの「クライマックス」にあたるのだが、ここでそのこと
をあまり論じても仕方がない。訳文を示すだけにしておこう。
2番会議室の#16665にBarl Karth氏が「犯人探し」の続編を登録されている。現在の氏ほ
ど「倫理とか道徳」という言葉が似合わない会員もいないと私は思うが、この発言にはや
はり最低限の説明は必要であろう。
尚、私は、私に情報提供してくださった会員を「犯人」呼ばわりするつもりは毛頭ないので
私の地の文では「提供者」とさせていただく。
さて、Barl Karth氏は、情報提供者の提供行為を評価する、責任のとり方も立派なもので
あると述べている。このことについては、私も無論、異論などあるはずもない。だからこそ
私は「犯人探し」などするな、と述べた。しかしtty氏は、そのことを断行したようである。
もちろん、私が推進室に書き込んだ最後の書き込みによって、情報提供者がどういうスタ
ンスをとられるか。あらゆることを私は想定していた。そのことを承知していながら、私は、
確信的にそのことを推進室に書いた。これは事実である。
しかし、そのことによって、その行為を責めることができるのは、私に対しては、その情報
提供者だけである。はっきり書けば、その因果となるべき問題を姑息に作り上げたtty氏
や著美氏に私を責めるなどという資格そのものがない。おそらく、当該発言が「訴訟支援
の部屋」に登録された際に、誰もそのことについて「これは問題である」という発言を残した
者もいない。WAKEIさんも、おそらくは純さんも、そしてBarl Karth氏も、であろう。
そういう会員に私を責めるなどという資格はないのである。そのことによって、この場で行
われた行為というものは、いささかなりとも免責されることにはならない。
おそらくtty氏は「犯人探し」を行い、情報提供者を特定することで、この問題を終わらせる
という意図があったのだろうと思われる。そんな生半可な決着で、事をすませようとする、
卑劣さ、愚劣さに対して、私は少なくとも、この問題を「そんな不当なままに」終わらせるつも
りなどない。
更にいえば、tty氏や著美氏から、私に対して、自身の発言の意図とか背景、行為内容につ
いて、いかなる説明も私は受けていない。つまり、彼らは、自分の行為こそが「正しい」もの
であると確信しているのだろう。そういうものを、私はのほほんと見逃すつもりなどない。
たまたま、今はFSHISOで、私はtty氏に対して「ローカルルールに基く回答要請」を行ってい
る。その決着をつけ次第、私は必ず次のステップに進む。WAKEIさんも含めて、そのことをと
めた者は当事者の中にはひとりもいない。
情誼・信義のことは考えなかったかということだが、
おそらく、誰よりも私がそのことを考えた。少なくとも、私の推進室発言をみた段階で、tty氏
のキャラを考えるならば、まず「情報提供者の詮索をしない」「おこったことに対して、その内
容を考えれば詮索などすべきではない」「今回の問題を通して、参加者ひとりひとりが、この
patioのあり方を考える」ということを提起すべきなのである。そんなことは誰もしていないは
ずだ。その上で、情報提供者に対して、それを特定せず、引き続き、協力を要請するという
ことを瞬時に行わなければいけない。私が「訴訟支援の部屋」にいたならば、相手が誰であ
れ、情報提供者が誰であれ、そういうことを呼びかけた。そして、本人が退会するというので
あれば、私は直接に会ってでも、それを翻してもらうべくその方を説得しただろう。
そんなことを行った者は、おそらく一人もいないはずである。そういう人々が語る「情誼・信義
」など、私に言わせれば実に薄っぺらい、言葉遊びに過ぎない。
私は、この問題について、情報提供者と、多くのやりとりをした。そういうことは、ここには書か
ない。しかし、氏も私も、これ以上はないというほど真摯な、そして二人とも決して嘘をつかな
かったことだけは断言できる。あなた方のような「小手先」ではないのだ。
その上で、私が行ったことについては、私と情報を提供してくれた方との間で、私が終生、背負
っていけばいいことである。少なくとも、あなた方がとやかくいうことではない。
その上で、私と情報提供者のネット上の関係がどうなっていくのか。それも私と情報提供者の
問題である。非公開の場を悪用し、その場そのものを貶めたようなことは、情報提供者の方
は決してされることはなかったと私は確信している。そのことを「尊い」と思うことに、もちろん
変わりはない。
こういうことが゛「何故」おこったのかという「根本を考えず」「問題に直視せず、顧みることもな
く」「何の説明も果たさない」者から、批判される筋合いなどない。それは、私と提供者という
問題とは、全く別次元のことである。
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