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Die Unschuld des Werdens



VNSINFUR氏の発言を転載しての拙文を書き上げたが、さきほど、FSHISOを巡回した限り
許諾条件が整っていないので、公開は待つことにする。

niftyは、私の要請をおそらく拒否できないだろう。また、訴訟支援の会の窓口となる会員、
(patioの管理者なのか、実際の発言者なのか、実質の主宰者なのか)も、おそらくniftyの
関与を無視、拒絶することはできないのだろう。その検討に目処がついたので、ある意味
では、ホッとした。その根拠を冒頭の文書には詳細に記している。

「反論」のあとがきをみれば、nifty訴訟を考える会の代表はtty氏であり、尚且つ、今回の
発言の当事者でもある。
niftyを介して、氏に私の要請事項を伝えることまでは、既に決めた。ただ、今やっている10
番の議論を終わらせてからである。

ネットというのは、当然のことだが、なかなか、自分の意図や狙いや思いどおりにはいかな
いものである。当事者間での議論に至らなかったことは、やはり遺憾だとは思うが、これば
かりは、相手のあることなので、致し方ないことであろう。

この半年ぐらい、断続的にではあるが「Die Unschuld des Werdens」を読んでいる。邦題を書
くのは、いい年をして、という気恥ずかしさもあるので控えたい。

その中に次の一節があった。

「誹謗することを人々が何のために必要とするのか、私にはわからない。人々が誰かを傷つ
けたいのなら、人々はじっさいただその者に関してなんらかの真実を述べさえすればよい」

傷つけるために、という意図など私にはないが、こういうことはいえるかもしれない。

「じっさいただその者に関してなんらかの真実を述べることによって」私を誹謗中傷侮辱した
者が「傷つく」というなら、そのことに私は何らの自責の念を覚えない。

これも正確に書けば「誹謗中傷侮辱に対する反論権を制限する者たち」ということになる。
ただし、依然としてtty氏に対して「ファイト」が沸かない。困ったことではある(笑)

実際には、いくつかの年齢差があるからかもしれない。ネットではそれは無関係なのだが。





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