例えば「苺ちゃんねる」にしても「2ちゃんねる」にしても「ドチャット」にしても、ここは不特定多数の
会員がアクセスするであろうことを前提に発言が行われている。いわば「公開されたコミュニティ
スペース」といえる。
そこに花田に関する「悪口雑言」がある。
「どうせ自分の悪口が書いてあるだろうし、そんなものをわざわざ読みに行くのは、自分が不愉快
になるだけである」だから、アクセスしないという考え方はあると思う。
「読みに行く」という考え方もある。私は実践したことはないが、苺ちゃんねるや2ちゃんねるという
「場」で直接、名無しさんを相手に反論するという方法がある。私が、そういう手法を選択しないの
は、非識別性という環境の問題があるからである。
読んだ上で、反論が必要な場合、例えば自分のHPでそれを行うという手法がある。この場合、苺
ちゃんねるの「えふしそ板」読者が、全て私の「評論HP」も巡回しているという保障はないのだけれ
ど「とりあえず、そういう発言については自分のHPで反論した」という事実は残るからである。
管理者を恫喝、板そのものを廃止に追い込むという手法、或いは管理人に泣きつくという方法もあ
る。しかし、どうにもこういう手法は、私からみると不健康な気がする。自分を貶すような板は潰せ
などという方法は、高圧的でもあり、私には全く馴染まない。
まぁ、反論の方法というものは、色々と考えられるわけである。
ただ「非公開での誹謗中傷」に対する反論というものは、本人がその場を知っている知らないは別
にしても、公開性が担保されている場所に比べれば、実は非常に難しい。正確に言えば「いない奴
の悪口」と「その場を読むことができない場での悪口」というのは、対処の難度がまるっきり違う。
「その場を読むことができない者の悪口」というのは、ある意味、未来永劫、その人間が読むことは
ないであろうという前提の元に書かれる。公開されている場というのは、今日はいなくても明日はそ
のことを知った本人が「読みにくる」という可能性は常にあるのだけれど、読むことができない場と
いうものには、そのような前提そのものが「存在しない」ということになる。
私が公開の場で「花田の読めない場所で、花田の誹謗中傷発言があるかの情報を得たが、そう
いう事実を知らないか」と訊ねたとしよう。仮にあっても言うわけはない。従って今回のような場合
私は、情報入手を秘匿して、例えばWAKEIさんなりtty氏なりに、そういうことを訊ねることになる。
で、結局のところ、この時点から「さぁ、一体、花田にそういう情報を流出させた者は誰か」という、
「犯人探し」になってしまうのである。私は彼らに最初に伝えた。「こと、この時点になっては犯人探
しなどしても意味はない。それよりも、何故そういう情報が私に流出したかを考えるべきだ」と。
しかし、結局、犯人探しはtty氏の手によって行われている。当然のことだが、その犯人を探して、
摘発したからといって、自分たちがしでかしたことへの免責には全くならない。
非公開の場における「誹謗中傷発言」に反論を行使しようとする場合、おそらくこういう道筋を辿る
のは必定である。では、手続きを踏んで「これは花田のいない場所での誹謗中傷だから、花田に
この発言を送付する」と誰かが申し出たとしよう。まず却下される。「非公開の場での発言だから」
ということになってしまう。
私は推進室で著美発言の開示を求めた。WAKEIさんは最後まで、頑強にそのことを許諾しなかっ
た。著美氏は沈黙して応えない。「そういう意図ではない」「冗談だ」ということになり、それは本人に
直接批判しろということになった。批判した事実が過去にもあり、馬耳東風であったことがはっきり
しているにもかかわらず、である。
私は「誹謗中傷侮辱」が言論を手段として、特に論争のようなケースになった場合、そういうことが
「ある」と思っている。つまり「ある」という前提で、FSHISOで活動していた。WAKEIさんがかって反論
掲示板で「思想議論というのは相手が傷つくことがあって当たり前」という趣旨の発言を残している
が、私もそういうものだと思っているし、私が入会した当時のFSHISOというのは、あちこちで議論が
活発な状況にあったから、エキサイトな光景というものは日常茶飯事であった。で、そういう際に、
表現の問題で運営にクレームをつけるような会員は非常に少なかったけれど、稀にそういうケース
の場合「この会員はSYSOPに泣きついた」という、私からみれば致命的ともいえる評価が蔓延した
ものである。えげつないといえばえげつないのだが、そういう場でもあった。自分のことは自分で解
決するという方法こそが奨励される場であることを、当時、私は痛感したものである。
>「人権と、場の目的や公益とどちらが優先するのか」
>ひとまず「場の目的を優先させる」のが「別の場論」なのでして、ボクはコレを
>検証してみたい。(ボクは一部肯定、大部分否定の立場です。今のところ)
これは非常にデリケートな問題でもあるのですが、私は「人権」も「場の目的や公益」も対立概念と
して捉えるのではなく、どちらも尊重するという努力が求められるのではないか、と思います。
で、人権を尊重するという立場から「やばそうな発言は片っ端から削除する」ということを行う管理者
もいるわけですが、これはこれで「言論・表現の自由」との調整原理の問題があります。
前回の「優越」の問題に書いた、私に対する批判的見解項目に、私はどう考えたかということは、
改めて書きますが、現時点では、私は以下のように考えています。
1.「非公開の場で自分が誹謗中傷されたことを知ったとき」には、誹謗・中傷された側にその内容
や、それを巡っての処理・経緯について、発言者・管理者・主宰者は説明義務を負うし、された
側は、それらを知る権利を有する。ただし、それを行使するもしないも、それは被発言者が自己
決定すればよい。
2.「場」の問題については、それが「公開の場」で行われることが、まずいというのであれば、その
理由は被発言者に対して、明確に開示する。それは、つまり「開示することが」「その場の目的
と公益に反する」ということについて、説明責任を果たすということでもあります。改めて書きます
が、公開することが「場の目的や公益に反する」とは、私は考えていません。彼らが違うというな
ら、彼らの違うという「ロジック」は開示してもらう必要がありますね。
3.その結果、被発言者と彼らが同意に達した場合は、今度は、私が公開の場で、どういう経緯で、
何が議論されて、いかなる合意に至ったかという説明責任を有すると思っています。
それで、はじめてこういう問題が、ネット上で、ある程度共有できると、私は考えています。
|