HPに数日書き込まなかったが、掲示板は拝読していた。
暗闇からの一撃氏が面白いことを書いておられる。
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さて、反論などと言うが、なぜFSHISOに限ってはFSHISO及びその周辺での反論に
限られているのだろうか。(苦笑)
まあ一応、「別の場」などと言う者もいるが、FSHISO内に限られた「極めて脆弱な体
質」のものに過ぎないのではないか。
花田もこの呪縛に囚われているに過ぎない。何しろ、「FSHISO以外のフォーラムに
は書かない」などと言っているのだから
過保護もいい所である。そして、「FSHISOルールがあって反論権が保障されるなら他
所でも書くかもしれない」などと頭の悪いことを言っている。
「FSHISOルール」などなくとも、ここで現に花田はこうして反論権を行使しているではな
いか。
FSHISOルールなど、不要ではないのかね?
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「FSHISO以外のフォーラムには書かない」というのが、何故、過保護なのか。また「反論
権が保障されるなら他所で書くかもしれない」(←というニュアンスとは少し異なるが)が、
これが「頭の悪い」というのは、不思議である。
例えばどこかのフォーラムに私が発言したとしよう。そこで発言を巡って対立が生じたとす
る。「私はAという発言者からこんなことを言われています。SYSOPさん何とかしてください」
などと言うのは「過保護を求める」といわれても仕方がないだろう。無論、私はそのようなこ
とをしたことはない。また、SYSOPが運営責任者の主観や私との思想的対立、好き嫌いだ
けで、私の発言を削除されては、そもそも議論などはできない。そういう可能性のある、或
いは、発言に関する「手続論」としてのルールが明文化されていないような場所では、私は
発言しようとは考えない。
「えふしそのルール」というのは、つまるところ対抗言論の具現化されたものであって、とりわ
け「活発な議論・対立」が生じるような「場」においては「議論による言論を手段としての解決」
について、それが最大限可能な環境というのは必要である。その際に、処分にしろ決定にし
ろ、それが手続きに従って、利用する全ての会員に開示されることは「公平性」といった面か
らも当然要求されることだ。
「えふしそのルール」というのは、言論による紛争の解決手段を参加者の議論によって策定
していったという性格を有している。もちろん「訴訟の権利」というものは、誰もが有するもの
であるし、そういう手段を行使する会員もいるだろう。しかし、対立が生じるたびに「訴訟」な
どということになれば、議論の場はどうしても重苦しいものになってしまう。そういう意味で、
このフォーラムにあっては「言論による解決」を発言者ひとりひとりが目指していきましょうとい
う、いわば掟のようなもので、それは「議論するフォーラム」のルールとしては、極めて妥当性
を有するということである。もっとも、暗闇からの一撃氏のように「FSHISOで一度も発言したこ
とのない方」にとっては、そこで議論しない限りは、もちろんあらゆる紛争に巻き込まれること
など「ない」わけで、そういう会員にとっては「えふしそのルール」があろうがなかろうが、あまり
関係はないかもしれない。
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古くより言論を戦わすに、A誌でXが主張し、B誌でYが反論する、という形式は存在している。
なぜ、特定の場における反論権など保障する必要などあろうか。そして、そのような保障の
下での言論など、脆弱に過ぎて世間一般ではまともに通用しない、子供のままごと遊びとし
か言いようが無いではないか。
どんなに良く言ったところで、書生論と評するのが上限である。(苦笑)
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もちろん、形式として、そういうものが存在することを私は承知している。しかし、議論というも
のは当事者間で解決するということが、ネットの場合双方向性という機能を考えれば、最もふ
さわしい。例えばある人間が「文藝春秋」誌上で「Aという人物」を批判する。この場合、批判さ
れた側は同じ「文藝春秋」というメディアで、その人間の主張に反駁を加える。そのことによっ
て、読者は双方の主張に対するジャッジメントが可能にもなるし、少なくとも「言われっ放し」と
いうことはない。そういう場をきちんと提供して、論者に平等な「場」を提供した事例としては、
「朝日ジャーナル」があった。それは私は何よりフェアなことだと考えている。
私は、このHPでtty氏や著美氏、WAKEI氏に対して、批判を展開しているが、その根本にある
のは「あなたがたがやっていることはアンフェアだ」ということである。本人が反論できない場所
で他者を誹謗、中傷、侮辱し、いざ、そのことについて開示を求めても、それには応えない。
それは「フェア」なことだろうか。
もっとはっきり書けば「訴訟に勝っても、自分たちがアンフェア(だと思っているかどうかしらない
が)なことしかできなければ」ネットワークの中においては、そんな「勝利」は、さほどの意味な
ど持つことができないと私は思っている。自分たちが闘ってきたという「スタンス」を自分たちで
壊しているのだから。しかも私は、そのことに対して「訴訟」などということを考えたこともなけれ
ば、それを権利として「行使しない」とこれだけ宣言しているのだから。
「フェアとかいさぎよさ」というものから、こんなに無縁な人々であったかということについて、私
は今でも驚いているし、そういうことを見抜けなかったということは、私にとって何より悔やま
れる。それは「脆弱に過ぎて世間一般ではまともに通用しない」などというものではない。
「精神の問題」である。
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