評論するページ

情と理



ここで、ひとつ申し上げておこう。

支援の部屋の参加者で、私の主張に異議がある、虚偽があるということであれば、私はその
参加者に対する「反論権」は必ず保障することを申し上げた。

それが「掲示板」では、厭だということであれば、このスペ-スを提供しよう。私は管理者なので
その数値は把握しているが、掲示板よりも、こちら本体のアクセスの方が圧倒的に多いという
データがある。このHPのアドレスに送付していただければ、原文を貼り付けることをここに約束
しておきたい。ただし、別にここでの反論を強制しているわけでもなければ、要求しているわ
けでもない。ただ、私はフェアに事を進めるという点について、おそらくは、tty氏や著美氏、
純さんやWAKEIさんとは違うこだわりを有していますので。

私は、このHPを開設して、ひとつ驚いたことがあります。ひとつはアクセスの数もあるけれど、
かってFSHISOで発言されていた(その中には、私がHNだけを存じあげていて、議論したことも
ない方もいらっしゃいました)方から何通かメールを受領したことである。

ああいう場所で真摯に議論した方は、なかなかそういうことを忘れるものではないのだというこ
とが、実はよくわかった。niftyを退会した方もいらっしゃいますし、今は別の場所で自身が
テーマをみつけられ、そこで議論されている方もいらっしゃる。何故、フォーラムを辞めたのか
を綿々と書いてくださった方もいれば、一言「ありがとう」というコメントを寄せてくださった方も
ある。

私自身、更新停止から今日までの間に、頂戴したメールを拝読しましたが、今日はその中にあ
った「情」と「理」という問題について、拙見を述べてみることにしたい。

例えば推進室という「閉じた空間」そこには、ひとつの安心感というものがある。性格上、そこで
は、自己情報というものを殊更に管理するという必要がない。別に個人が開示した情報がそこ
でとやかく問題にされることはないのだけれど、参加者の殆どが、自分の個人情報を知ってい
て、それが決して流出もしなければ、悪用もされないという場所は、書き手にとっては楽なもの
がある。私は公募したPatioは、漏れることがあるということを予測していたので、そういうも
のは書かなかったが、それでも参加者が「知っている」場で書くというのは、全く違う安堵感と
いうものがあったことを否定しない。

議論することに「個人情報」など不要だという説がある。それはそれでひとつの考え方であろう。
しかし、どんな人でも「こいつは何者か」ということを、かって一度も考えなかった者などおそらく
いないだろう。それは好奇心であったり、業であったりもする。ただし、そのことと、本人の論と
しての「正当性・妥当性の是非」というのは、全く別のことなのだという峻別ができるかどうかと
いうことなのだ。

閉鎖的な場において、情報管理に過度に神経を使わなくてすむというのは、ある意味、それだ
けで「親和性」というものを構築する。そして、そういうところばかりで発言していると、例えば私
にしても、外部で発言する行為そのものが面倒になる、億劫になるということが実際にあった。

居心地が妙によくなってしまうのである。何を書いても漏れるわけじゃなし、悪用されるわけで
もなし、厳しいことを誰も言うわけじゃなし、建前は建前、本音は本音などという、箍のはずれ
きった場というものがあれば、それは楽である。場がそれらを「守る」のだから。私は推進室
にはきちんとした理念と役割と目的があるのだから、そのことに抵抗した。

例えば著美氏が推進室という閉ざされた場所で、およそ似合わない罵倒にも似た発言を私に
対して残している。私は推進室でもFSHISOでも、発言のスタイルというのは、殆ど変わらない
ものだから、氏がこういう発言をするのをみると、罵倒云々というよりも、こういう使い分け自体
に極めて嫌悪感を抱いた。閉鎖的空間でなら、こういうことも許されるだろうという心根が実に
不快だった。罵倒そのものは、別に何ということはないのである。

およそ、罵倒などという表現手法に「言葉としての力」があるなどと、私は思ったことがない。

私は、今回の「支援の部屋」のアンフェアな対応について、実はこういう仮説をたてている。

支援の部屋に入会している会員というのは、言うまでもなくWAKEIさんを支援しているというこ
とであろう。WAKEIさんも純さんも支援者として認めたからこそ、入会を許諾したはずである。

しかし、晴れて支援者と改めて認定されたのであれば、この訴訟を支援するという本当の意味
とは何であったのかを、それぞれの会員が自分のこととして、主体的に考え、実践しなければ
ならないはずである。そこには「支援者として何が求められるか」ということを自分自身がイメ
ージするということも、もちろん含まれる。支援者ですといえば支援者になれるわけではない。

本当に支援者というのであれば、支援者らしくしなければいけない、それは自分を演じてでも
やらなければいけないことである。「俺は当事者のいないところでの悪口や非難が好きで好き
で仕方がなくとも」それは「支援の部屋」でやることではない。

で結局、「支援の部屋」では支援する側が、無意識に「この程度のことは書いても、当事者は
いないし、邪魔も入らないし、これくらいは許してもらえるだろう」という無意識の甘えがある。
管理者や被支援者は被支援者で「アンフェアなことでも、或いはアンフェアであっても、当人が
いないのだから、まぁいいか」などという、妙なもたれあいのようなものが生まれるのである。
本来の自己の主張は、こうして簡単に瓦解していくのだ。

支援された者の「情」と支援している者という「無関係な甘え」が、場を醜悪にする。そこに理な
どというものは、全く存在しない。見事に吹き飛んでしまう。

「自分の言論や言説によって、窮地に陥ったものを決して救うことはない」というのは、もちろん
私の専売特許ではない。これはWAKEIさんのFSHISOでの主張である。しかし、その一方で氏
は「スタッフの失策は、自分はそれが明らかにそう認められるものであっても庇ってきた」という
趣旨の発言をFSHISOに残している。本人の中で「情と理」が衝突していて、なかなかにこれは
興味深い。

以前、私がWAKEIさんが、私に当該ログを送付するなどということが、あるはずはないし、そん
なことも求めないし、そういうことをする人でもないと書いた。氏は支援者を氏なりの「方法で」
守るということは当然考えるからである。そんなことを氏に対して責めるつもりなどはない。
ただし、そのことに対して、WAKEIさんが「その場」でどう対応したかというのは、全く別の問題
である。そのことを是認したなら、氏はアンフェアだ。それ以外の言葉などない。

また、WAKEIさんの立場と、tty氏や著美氏が、私に対して、自己当該発言を送付しないという
姿勢とも全く別である。自分たちの発言によって、場が混乱し、あげくまだ、WAKEIさんや純氏
に頼る、守ってもらおうとする、およそ自分が発言するということについて無責任である。

自分の発言の「おとしまえ」をつけようとしないのだから。

「守りたい」ものというのは、人の考え方や立場によって異なるものであるということを私は承知
している。ただし、それならそれで、はっきりしてもらいたい。

「支援の部屋」を守るためには、反論権を規制し、限定し、事実も明示せず、経緯も伝えず、
もちろん、アカウンタビリティも果たさない。それが被支援者である、WAKEIさんの覚悟であり
矜持であるというなら、そういうことは素直に述べるべきだ。個人に対する非難・誹謗がそこ
にあろうとも、ただ、ひたすらに守秘義務を一律に課し、守る、そのことによってのみ支援の
部屋は守られるし、そのことは自分の中では決してアンフェアなことではない、そういう考え方
であるというならば、土台、フェアなどというものをWAKEIさんに求めた私が阿呆の骨頂という
だけのことである。

「ない」ものを求めることは、無理ですから。

ただ、前述したようなことであれば、WAKEIさんが今日まで述べてきたネットワークについての
考え方に「それが言葉としてのちから」を今後も維持できるかどうか、私は極めて疑問である
ということだけは述べておきます。







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