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歴史上のIFということについて。



歴史の中に「もし」などという仮定をそこに持ち込んだところで、所詮そんなものは「後知恵」で
あり、時間が経過すれば、どのようにも言い繕うことができる、などという、何か社会科学上の
枠の中だけで捉えて、ある法則のみで解釈するというものについて、それは時々、ひどく傲慢
なことではないかと、私は思うことがある。

歴史学者の「歴史書」というものがさほど読まれず、それよりは、そこに生き生きと動いたであ
ろう「人々」を描いた、作家の歴史文学というものの方が、市井の人々には、遥かに読まれると
いうのは、そういうことの表れなのかもしれない。

そして「もし」というものを想定する限りは、この「もし」から派生するであろう、それ以降のことを
構築していくということが求められる。その構築したものから、「もし」以前の問題や、成立しなか
った「もし」以降の現状というものについて、何かを考えることができる。もちろんそこにはそれな
りの想像力も必要になるだろう。歴史を考える妙味の一面に、私はそういうものがあると考えて
いる。

私は哲学フォーラムの設立について、どうしてもわからない。不思議でならないことがいくつかあ
った。ここではそれを書いてみよう。

この哲学フォーラムには設立にあたって何人かの協力者がいた。確か、設立のためのPATIOも
存在していたと記憶している。もちろん、そこにも多くの会員が集ったことであろう。需要の実際
というものを示すには、ひとつの方法であろうと私も思う。

しかし、それ以前の問題。開設希望者、すなわち開設された際のSYSOP就任予定者の発言姿
勢、管理者、責任者となるには、あまりに口汚い表現、罵倒、少なくともそういうことをこれを機
に「はっきりと改める。改められていないとniftyが判断したときには、いつ閉鎖されても異議を
申し立てない」ぐらいの宣言、念書ぐらいはniftyに示さないと、或いは、その際には、即座に後
任をSUBSYSに継承する、またnifty直轄にするぐらいの姿勢を示さないと、開設希望者がSYS
OPになることは極めて困難である、ということを、少なくとも最初に誰もアドバイスしなかったの
だろうか。それを最初に示さない「協力や助言、資料の制作、提示」など、いくらやっても無駄で
あり、まず最初にこの問題をクリアすることが最重要課題であるとは、誰も思わなかったという
ことだろうか。

フォーラムを立ち上げるというのは、まさに現実の行為である。niftyは、そのことによって生じ
る「リスク」はなるべく軽減したいと考える。ではそのために解決しなければいけない問題とは
何かということである。私は、もし開設希望者から、何がしか協力要請があれば、何はなくと
も、そのことを申し上げたと思う。それは自分のスタイルだから変えられないというのであれば
その時点で、私は降りたとも思う。それ抜きに、希望者の願う世界は実現しない以上は、何を
やっても空しいものがあるからである。

逆に、それ抜きに「開設可能」などと本気で考えていたとしたら、およそ民間企業というものに
対する認識や理解が甘いと言わざるをえない。協力するというのは、本人の意向に沿って様々
なアドバイスをすることももちろん大切だが、一方、本人にとって耳の痛いことであってもそれ
は指摘する。それで衝突したところで構わないではないか。本当の協力というものは、そうい
うものではないのかという意識が、私にはある。

ただし、開設希望者の意図とは別のものとして、協力者は「哲学フォーラムを設立するという
ことが目的で、SYSOPについては、設立希望者が駄目だとniftyが言うのであれば、協力者の
誰がなっても当初は構わないし、のちのち時間をみて、設立希望者に禅譲する」というもので
あったのか。それなら話はまた別である。ただ、開設希望者と協力者との間に、そのあたりの
シナリオがどの程度打ち合わされていて、少なくとも開設希望者はそのことを承知していたの
かどうか。このあたりは不明であり、私にはよくわからない。ただし、もし開設希望者は自分が
SYSOPに就任することを前提に考え、協力者は、それはともかく哲学フォーラムをまずはたち
あげるのだという意識で、その確認がきちんと出来ていなかったとすれば、衝突するのは当然
でもあろう。

で、ここでひとつのIFを想定してみる。もし哲学フォーラムが、FSHISOと共に共存するという形
で設立していれば、どうなっていたか、である。開設希望者がSYSOPであれ、松岡氏がSYSOP
であれ、それはまぁ、どちらでもいい。

もし、開設していればだが、まずWAKEIさんは、SUBSYSなりBLという形で哲学フォーラムに
参画されたのではないかと私は思う。少なくとも、私は、WAKEIさんがどういう哲学を語られる
のか、関心を抱いたであろうから、それをみに入会したと思う。フォーラム創成期というものが
実際はどう進行していくのか、そこではどういうルールが作られるのか、そういうことへの興味
もあるからである。

で、FSHISOの会員は、相当数が哲学フォーラムにも同時入会することになったのではないか
と思う。今のFSHISO程度の発言者は見込めたのではないだろうか。

運営方針はどうするのか。非公開運営か、公開運営か、そのあたりは初期の問題として提起
されることになったはずである。私は非公開運営を仮に哲学フォーラムがとったときに、会員
の権利や手続きというものを、どうそこで具現化していくのか。それはぜひみてみたかった。
もちろん、私のことだから、公開運営を要請しただろうとは思うが。

少なくとも、哲学フォーラムを開設しようということは、悪いことでも何でもないし、当初、そのこ
とに何かの「悪意」があったなどとは、私は全く考えていない。しかし、悪意の不在というものだ
けが、それぞれにとっての理想の結末を迎えるなどという保障は何もない。あるきっかけとなり
思いもよらぬ方向に事が動いていくということは、世の中には吐いて棄てるほどある。

今ならば、私もFSHISOの存続を考えながら、一方で哲学フォーラムとの共存を考えるという
余裕も或いは生まれたかもしれない。しかし、当時は、そんな余裕は全くなかった。

ただし、今、同じ事をやれと言われても、全くそういう自信はない。若いから出来たということ
は、実はあるとそう思う。二度も三度もあんなことできるか、という自戒も含めての話だが。





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