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敗者復活という視点



暗闇からの一撃氏のコメントに

>また、敗者復活が容易であるという点から見ると、新しい論者の育成も可能で、それ
>が場の活性化につながる、という側面もあると思います。

というものがあった。しかし、そもそも「敗者」や「勝者」といった基準がFSHISOに存在するの
かと言われれば、私は疑問を感じる。曽野綾子氏の小説だったか「勝者もなく、敗者もなく」
という純文学作品があったが、私は、この表題どおり、そんなものだと思っている。

もちろん、議論の中で、その主張の正当性を巡る問題というのは、常に出現してくるのだが、
もし、その経緯の中で「自分に誤りがあった」と明確に気づけば、そう述べればいいし、それ
が他者の権利を侵害するものであったなら、真摯にそのことを認め、謝意を表明すればいい
と私は思う。

例えば、私はティモ氏という会員から示された「保留要請」を当時の判断で、拒否したことが
ある。それは、のちにご本人はもちろん、何人かの方との議論を経て、その判断は明確に
間違った、誤ったものであったことに気がついた。そのことは、決して忘れてはいけないし、
自分がそのことを「はっきりと認める」という行為によってしか、自分の糧にもならない。

そういう意味では、ネットも実社会も同じである。

私がFSHISOに限っては「実名入会」し、そのことをあえて隠しもせず、今日ではそれを公開情
報としているのは、何か変な「使い分け」をしたくなかったという面があった。それほど自分が
器用であるとは思わなかったし、実名で罵倒はしないけれど、匿名だから、そこにどれだけ口
汚い発言を残し、およそ「言葉」というものを大事にしない行為を「それは実在の「私」がやった
かどうかわからないのだから」などというスタンスを、潔しとしないからだ。

そういうことをやれば、本来の匿名性が有するメリットが、そういうつまらぬ行為によって否定
されてしまうのである。そんな馬鹿げた話はない。

敗者復活というのは、ある意味では「傷つきたくはない」という背景がそこにあると思う。他者に
対する不利益は散々書くのだけれど、その結果、それが自分にふりかかってくることは、一切
拒絶したいというものではないだろうか。

確かに自分というものからは、どこかで解放されるという面があるだろう。しかし、それだけだと
匿名空間というものは、単なる「憂さ晴らし」の場に堕してしまう。

それは何か勿体無いことのようにも思えるのだ。時代の進歩により、せっかく人々が「自ら不特
定多数の場に、瞬時に言葉を発信する、やりとりする場」を得たのである。そういう機能は、旧
マスコミ四媒体にはない。速度と、情報量という点では、テレビメディアを時に凌駕する。

それは思想・信条を超えて、かかわる者が統制されることなく、主張を自由に語る場として育て
ていく。そのことが、未来の世代に対して、課せられているのではないかといえば、大袈裟だろ
うか。

いつだったか、こういう話を臆面もなくしたことがあったのだが、そのときに「実社会でも相手の
悪口というものは、そりゃ面と向かっては言わないのではないか」と問われたことがある。

それはそうだろう。批判と悪口というものは、確かに境界も難しい。いない奴の悪口というのは
確かに盛り上がる面というのもあるのかもしれない。私は「悪口」というものは、それはあると
思っている。そういうことを道徳的にどうこう言いたくもない。

ただ、それならそれで、面従腹背みたいにことをすべきではない。悪口云々というよりは、そう
いう事の方が、遥かに他者を怒らせることになる。





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