掲示板にも、少しだけ書いておいたが、双方向性という問題について、考えてみたい。
例えば15chにしても2chにしても「そこに双方向性」がないかというと、私はむしろ懐疑的な
立場をとる。その発言を、みる者は「それが特定のID、ハンドルネーム」で峻別できないと
いうだけで、書き手の中には、それを求める傾向は、やはりみてとれるし「はげしく同意」な
どという用語は、ある意味、それらを希求する面の表れといえなくもない。
そして、匿名掲示板が「無法地帯」というわけでもない。私が2chで、定期的に巡回している
板がいくつかあるけれど、ある場所などは、匿名性の中であっても、参加者の「自治」という
ものが、生まれてきている。そこで何とはなく生まれた約束事、ルールというものが定着す
れば、それは実際に、静かに機能を果たしていくし、守られなければ、それは驚くほどに排
除されていくという冷徹なものがある。匿名掲示板であっても、実際にそれを書いた人間だ
けは、そのことを思い知らされるわけだ。
2chの管理者は西村氏、彼は社会人である。15chの管理者はふくやん、受験を控えた高校
三年生である。おそらく書き手もまた、そのことは認識しているわけだから、管理者に対す
る要求ひとつにしても、そこには無意識の区別というものも働いているだろう。
高校三年生の青年を、本気で苛めよう。悪意を持って追いつめてやろうなどとは、普通は、
そう考えないものではないだろうか。私は、氏とオフで会った時に聞いてみようと思っている
ことがひとつあって、氏が「えふしそ板」を設立したときに、実際、niftyの「現代思想フォーラ
ムを知っていたか、ということである。おそらく知らなかっただろう。求めに応じて作成しただ
けだと思っている。そういう、ある意味、純朴な面を有する青年を、場の書き手が本気で追
い込む、管理者が本当に困り果てて、閉鎖するような行為を行うとは、実は私は考えていな
い。甘いといえば甘いのかもしれないが、実際に2chと15chの書き込み内容をざっと比較し
てみただけでも、その違いというものは一目瞭然である。
書き手は「人間」である。そこには必ず「温もり」というものがある。そして匿名掲示板であれ
自分がそこの「アクティブ」であるかどうかは、少なくとも書き手本人だけは知っている。それ
は、やがて「場」に対する「愛着」に変わっていくだろうし、もし、15chが、例えば何らかの攻撃
や規制に晒された際には、必ず、そういう「場」を「守ろう」とする人々が出てくるだろう。
そういうこともまた、ひとつのみえない双方向性というものだと感じている。
ただ、フォーラムの場合は、IDとハンドルが示されるから、例えばある意見や要請に対する
賛否というものが、そこに示されたときに、「誰が賛成して、誰が反対しているのか」というこ
とがわかる。多数意見・少数意見というものもはっきりする。多数決で採択されるものではな
いにしても、そのことは、実は「はっきり」する。
もちろん、自説に固執するという面で、互いが衝突すれば、どこまでいっても「平行線」で果た
して、それを「双方向性」と言えるのかどうか、或いは掲示板でのnani氏の主張は、そういうも
のが含まれているのかもしれない。
しかし、往々にして「思想の対立」というものは、そう簡単にいつでも妥協できるというものでも
ない。私はFSHISOが、例えば何かの目的を「場」として設定し、それを実際に「運動」として推
進し、その実現を目指すというようなものであれば、それはそれで、全く違う様相のフォーラム
になっていただろうと考える。しかし、FSHISOには、そのような役割は存在しない。
いわば、何かに縛られるということがないのである。妥協を強いられるということも、もちろん
ない。それだけ「自由」といえば「自由」なのである。
だから、議論して「平行線である」と確認できれば、それは「双方向」のやりとりによって確認で
きたものなのだから、必ずしも「そこに全ての一致と共有」が成立するなどとも考えない。
対立する思想が衝突すれば、そのことによって「必ず理解が生まれる」というのは、おそらくは
幻想であろう。それは互いが「理解しよう」というスタンスに立ったとしても、である。
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