評論するページ

遺恨という問題について。



過去ログを読んでみると、時に、思いがけない「発見」にぶつかることがある。

どなたの発言だったか、失念してしまったが「フォーラムで議論相手を好きだの嫌いだのいって
も仕方がない」というものがあった。この意見に、私は全く同感できる。

主張されている「内容」を評価できるかどうかということとは、全く別の問題だ。議論する度に好きだの嫌
いだのと言っていては、それこそ、FSHISOというフォーラムで、活動する意味がない。

是々非々というのは、実は難しい。私も入会してしばらくは、そのことをずいぶんと考えさせられ
た。あることでぶつかってしまうと、その会員の言うことやること、どうもそこにバイアスというもの
がかかってしまう。それが「おかしなこと」であるというのは、もちろんわかってはいるのだが、い
ざ、場に対峙してみると、そのときの「議論がまざまざと」思い出されたりした。

「遺恨」というほど、もちろん、それはぶっそうなものではない。さりとて、不快感のようなものは少しばかり
は、妙にいつまでも残っている。そのような体験は、私にも何度かあった。

私の発言スタイルというのは、どちらかというと、RESタイプではないと、自分では思っていたのだが、そ
のことが、よりはっきりしたのは、こういう自覚が自分に生まれたからかもしれない。
誰が どうということではなく、とにかくそこに書いてあることを一度、自分で整理して、自分の考えをみ 極
めて、発言しよう、どこまでできたかというと疑問もないわけではないが、そのことだ
けは、はっきりと意識した。

確かに、好きだの嫌いだのいっても仕方ないことだなと。

そうなると、変に縛られることから解放されることもあって、ある意味、自分に対してはどんどん忠実にな
っていくということが、よくわかった。阿ることなく、気取ることなく、自分にとって無理のない飾らない主張
を展開しようと思ったのである。それができないと「是々非々」という関係は、実は成立しない。

FSHISOというのは「遺恨のフォーラム」だとも言われる。議論は議論として終わっても、それで
何も残らないかということになると、決してそうでもないという状況は、実は吐いて棄てるほどあ
る。「思想を論じるとはそういうことだ」という見解があるのかもしれないが、この説には、私は
あまり同意していない。いざとなったら、いつでもやめることができる、アクセスも自由である。
IDだって、今日では簡単に棄てられる。少なくとも、そういう環境であるものに対して、人は自
分の何かを賭けるにしても、それは、おのずと限られたものである。むしろ、そういう場である
ということを自覚して、どう参加していくかということを考えれば、場の理念やルールに対して
特に「言論の自由」との調整原理に対して、自分が守るべきと考えるものを主張し続けること
はあっても、遺恨などを残しては、やはり生産的な「場」は維持できない。

で、ここで問題なのは「遺恨」と「批判」が混同されることなのかもしれない。批判されれば遺恨
が生まれるのかどうか。それではあまりに幼いと言われても仕方がないのかもしれない。

で、私はどうかといえば、別にフォーラムの議論で「相手を恨む」というような感情にまで昇華し
たという経験はない。ひとつは「何があってもおかしくはないフォーラム」という認識があったか
らである。そこまで想定するということを覚えてしまうと、結構、楽しめるという面もあった。

5年以上、参加してきて、私が「この会員だけは許せない」と思っているのは、実は一人だけで
ある。しかし、それとて遺恨というようなものではない。おそらく、相手は、そういうことを想像だ
にしていないだろうし、それで相手が困るなどということもあるはずがない。

もし、このフォーラムがひとつの「運動体的な機能」例えば、社会に対する働きかけであるとか
具体的な目標設定だとか、そういうものがあれば、また状況は異なるのだが、そういうものから
も縛られているという「場」ではない。

思想の対立というのは、ある種、理念、価値観の対立ということも含まれる。それを必ずしも、
妥協を強いられて、互いが譲歩し、何かを共同で行うというような環境など求められてはいな
いのだ。それは、私はやむをえないことだと思っている。ただし、議論するということの面白さ
ということとは、これ全く別の話で、議論することによって互いが100%合意するなどという「幻
想」はもちろんないにしても、それぞれの「違い」を見極める「面白さ」、これは醍醐味のひとつ
だろう。それは「自分を知る」近道でもあるのだから。

そのときに、変な運営側の統制があってはならないことは、もちろんいうまでもない。






トップへ
トップへ
戻る
戻る
前へ
前へ
次へ
次へ