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会議室新設について。RTのうつろいについて。



FSHISOの会議室新設で、最も難産を極めたといったら、現在の11番会議室だろうと思う。
そのことは、私にとっても思い出深いものがある。「越境会議室」という、それだけでは何の
ことか、わかりにくいのだが、提案者が牽引し、BLは3名という、それはそれは豪華な体制
だった。

FSHISOのアクティブとして、活躍されていた方々が会議室を提案する。提案するというのは
どういうことか。このフォーラムで提案されたものの、発言数が伸びずに、これはもうどうしよ
うもない、などというところは、私が入会して以降は、殆どなかったように思える。提案者が
当初、想定していたイメージとは異なるものだったのだろう、そのときは自ら「閉鎖申請」を
出されたが、それにしても提案者が投げ出したなどということはなかった。最後の最後まで
活性化に尽力していたという記憶が、私にはある。

もちろん、発言数が増えることが、会議室の唯一の評価であるということであるはずもない。
しかし、発言が長期に渡って途絶えるという会議室が「いい」ということにもならない。

私は、4番のBLのときには、やはり4番会議室のことをずっと考えていた。5番会議室を提案
したときには、これまた5番会議室のことを考えていた。提案したということは、そこで資源を
使っているのだから、少なくとも活発な議論ができる環境というものを考える。どちらかとい
えば、私は「対立がはっきりする事象」というものを素材に選ぶことが多い。というのは、そ 
の方が、書き手の「本音」が示されることが多いと思うからである。発言数が増えれば、そこ
から、普及する話題も拾いやすくなる。場を維持するということは、そこに書き手の発言が続
く雰囲気というものを作らなければいけない。そして、新しい書き手が参入しやすい世界とい
うものも、同時に構築しなければならない。

新しい会議室というものは、いわば白紙である。そこにどんな発言と歴史と記録が作られて
いくのか。そこに自分がどう参画していくのかということを考えることは、私の場合は楽しか
った。フォーラムが活気を生み出すという面がある。

私が入会したときには、平日でもRTは、必ずといっていいほど、参加者がいた。私もFRTに
何度か参加したことがありますが、システムとして、会議室発言よりは生々しいものがあり
ました。同じ時刻に、キーボードを叩いて「言葉」を発するというというのは、確かにある種の
奇妙な「共同体」にも似た概念を生み出すのですね。

私は、あるときにRTルール、FRTルールというものを起案したことがありましたが、これで、
参加者は減るだろうな、と思ってはいました。その影響というものは、確かにあったと思いま
すが、逆に、以後も参加された方々とのFRTというのは面白かったですよ。というのは、それ
が会議室で議論をする際に、役立った、知識として教えていただいた。そういうことは沢山あ
りましたね。

さきほど、掲示板でnani氏の「双方向性」についての「疑義」というコメントを拝読したのですが
実は、これは面白い視点だと思っています。いずれ拙見を、ここにまとめてみたいと考えまし
た。





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