「FSHISOの危機」という言葉が、初めて会議室で使われたのは、確か、WAKEIさんの発言では
なかったかと思っている。そのことについて、私は以前、会議室で私なりの推測を書いたことが
あったが、ここでは、もう少し踏み込んだことを書いてみる。私自身が、動いて得た情報が殆ど
だが、niftyも含めて、関係者が私に「嘘」を言う理由もないし、おそらく、これは事実だったのだ
ろうと思っている。別に、当時の一方の関係者を庇うような意図があるわけではない。
「哲学フォーラム」の設立準備が進められているであろうことは、当時のFSHISOを読めば、断片
的に知ることができた。WAKEIさんは会議室で、そのことについて「支援」を行うということをはっ
きり書かれてもいた。例えば、そこに「FSHISOのSYSOP立候補に対して、氏を推挙することがで
きなかった」という感情が、いくばくか働いたにしても、それは全然おかしくないと私は思っていた。ある意
味では、非常に「人間らしい」面を感じる。
で、私自身、Miranda氏が「哲学フォーラム」を設立することについて、それは「いいこと」だと
思っていた。現実に、その当時、ある会員から私に「設立にあたって支援をしてくれないか」
というメール を受領したこともある。そのときに私は「ご本人から私宛に明確な意向が伝えら
れれば、それは前向きに考える」という返信を出した。意欲のある者がフォーラムを立ち上げ
るというのは、いいことである。私は単純にそう考えていた。ただ、Miranda氏のあの発言スタ
イルでは、niftyがそれを容認しないであろうことも、充分にわかっていた。そのことを抜きに、
どういう準備をしても、実際には難 しいだろうと考えていたということである。その点を解決し、
本人が改善の意志を表明しない限りは企画書すら読まれないだろうという、それが現実だっ
た。niftyは私企業であり、生身の人間が組織しているのだから、想定できるいらぬリスクは背
負わない。当たり前のことである。
私があるフォーラムの設立に加わったとき、niftyの担当者は「流行るプランはあるのか」という
ことをはっきり問うてきた。これではまるで邦画の制作システムではないかと笑ったことがある。
話を戻そう。あるとき、niftyの知人から「WAKEI氏はSYSOPを辞任したのに、他フォーラムの
設立に名を連ね、しかも多忙とは思えないほどFSHISOでも発言している。これは一体どういう
ことなのか」と訊ねられたことがある。私に問うことかとも思ったが、以下のように答えた記憶
がある。
1.FSHISOのSYSOPというのは、それだけで激務である。理念や理想を現実化しようとすれば
残念ながら、揉め事は激烈になるし、衝突も頻発化する。普通のフォーラムと一緒にしては
いけない。
2.ご本人に聞いたわけではないが、引継ぎ後、あれだけ揉めれば出て行きたくはなくとも、やむ
をえない面もあるだろう。好き好んで発言しているとは思えない。訴訟を闘っている途中に、
FSHISOはなくなりましたでは、それはあまりに空しいことではないか。
3.おそらく、WAKEIさんには、Miranda氏の立候補に応えられなかったということで、氏の開設に
尽力されようと決意された面もあると思う。それは普通のまっとうな感覚であろう。
しかし、この話は、あまり理解していただけなかった。感覚というか温度差の違いである。niftyか
らみれば、FSHISOとて、数多あるフォーラムのひとつでしかないということでもある。
私は、危機の本質というのは、おそらくはそう発言数も期待できない、フォーラムをふたつも作る
ということに、niftyが難色を示したことを発端に、それでも「哲学フォーラム」を立ち上げるとした
らどうなるか、ということを巡っての争いだったのだと理解している。危機というのは、確かにその
とおりで「FSHISOが潰れている可能性」は進展如何によってはあっただろうということだ。
しかし、WAKEIさんは、そういうことは、おそらく知らなかっただろうと思う。ある時期までは。
権力闘争というものは、今まで、権力側の欺瞞や不当性をさんざん批判しながら、実際にそれを
奪うとなると、権力側以上の欺瞞や不当性、暗躍に手を染めてしまうという面がある。闘うために
は、手段を選ばない。どうしてもそういうことになってしまう。
そういう意味では、このフォーラムの立ち上げというものが、もっとオープンになされていれば、
例え、結果はどうあれ、妙な遺恨めいたものが残るはずもなかった。私はそのことを痛切に感
じている。無理をして道理の帳尻も合わせるというのは、やはりできないことなのだ。
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