tty氏がSYSOPに就任して直後、私は4番会議室のBLに立候補した。いつだったか、誰かに
「花田があのときにぐだぐだと理由を書いたことがきっかけで、以後、スタッフが立候補につ
いて、色々と表明するという面倒な前例ができた」と言われたことがあったが、それまではど
うしていたのか、という気がしなくもない。当時、Anonymous.P氏がBLを辞任された直後で
それならば、私がお手伝いしてみようと思い立ったのである。
確か、あのとき全会議室にBL就任のご挨拶か何かを登録して、tty氏からクレームをつけ
られたことがあった。そのクレームはもっともであったと今では思っている。というかあまり
意味のあることではなかった。そののち、Anonymous.P氏にRTか何かで、共同BLの就任
を要請し、ご本人が受諾してくださったことを記憶している。今なら、もうあんなことはしない
し、できないが、当時は、何か競うように書き込んでいた。暑苦しい会議室だった。
実は、このときのBL経験というものは、私が既に立ち上げているHPの運営で非常に役に
立っている。話題を盛り上げる。議論を広げていく。参加者の議論が自然に進むような雰
囲気を醸成する。ツリーを育てるという感覚に近い。私はBLの役割というものは、それに
尽きるといっても過言ではないと考えている。このツリーを育てるということは、私には実に
面白かった。何より素材を探し、調べ、料理し、それが波及していくというのは、みていても
楽しいものである。BLを辞めた途端に書かなくなるという感覚は、私にはよくわからないも
のがあった。
フォーラムというのは、誰かが話題を提供しなければ、そもそも、そこにツリーが生まれる
ことはない。当時、無意識の部分で、私はそのさじ加減をはかっていたのかもしれない。
そういう意味では、10番会議室で発言するよりは、その醍醐味は比較にならないものが
あった。
BLやSUBSYSを退いたあとも、書き続けたというのは、そのときの体験があったからだと
思う。人権会議室を提案したときには、更に、新しい書き手を積極的に迎え入れるという
ことを意識するようになった。私は、この会議室での発言がきっかけとなり、部落解放運
動に従事する方、何人かとお会いする機会を得た。多くの勉強をさせていただいたと、感
謝している。
日本共産党の「査問」を取り上げる際には、実は、ずいぶんと考えた。いつかやりたいテー
マとして捉えてはいたが、取り上げれば、相当に物議をかもすことは充分に想像できたか
らである。タブーを取り上げるというのは、確かにある種の決意を必要とする。しかし、その
ことがなければ、今日、私は宮崎学氏や川上徹氏とやりとりをする機会には恵まれなかっ
ただろう。不思議なものである。
|