ユリアンナ・アヴデーエワ in 東京オペラシティ


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[2011年11月19日 記]

前にアヴデーエワのプラハでのリサイタルの記事で「半年後の日本での演奏会も聴きたい」と書いたが、はたして2011年11月5日、東京オペラシティでのリサイタルを聴いた。 プラハの時は黒の燕尾服に黒のパンツという男性のような恰好だったので、 今回はどんな服装で出て来るだろうか。 客席が暗くなってそれほど時間をおかずに現れた彼女は、 黒の短めのタキシードに黒のパンツという、またしても男性のようないでたちだった。 プラハでは夜のコンサートだったから燕尾服、今回は午後のコンサートだったからタキシードなのだろう。 男装というわけでもなかろうが、2回目ともなると、 華やかなドレスよりこちらの方が自然な感じもして来た。 曲目は、ショパンコンクール覇者なのにショパンは一曲のみだった。 特に前半はプラハのときと全く異なっていた。

・ショパン   :舟歌 作品60
・ラヴェル   :ソナチネ
・プロコフィエフ:ピアノソナタ第2番ニ短調作品14

どの曲もアルゲリッチのように、拍手がなくなるかなくならないうちに、 着席と同時に無造作に弾き始めた。 この人の出す音は歌のようであり、 ピアノがアタックの衝撃を避けられない打弦楽器であることを全く感じさせない。 フォルティッシモのときでもそうなのだ。 またピアニッシモが大変デリケートだからだろうか、 ダイナミックレンジがとても広い。 そのピアニッシモも、 どんなに内声の隠れたピアニッシモであっても、 全ての音がきちんと鳴っている。 そしてテンポの取り方が自由この上ないのに、流れが自然だ。 その流れの後ろにひかえている精神性が、 これは聞こえて来るというよりひかえているとしか言いようがないのだが、 深い。

面白かったのは、舟歌とソナチネが同じ音色、同じ精神で弾かれていたことだ。 だから、この2曲の間にいったんステージ奥への出入りがあったにもかかわらず、 大変連続性がよく聞こえた。それに対しプロコフィエフは、明らかに違うように弾いていた。 もちろんこの人のことだから打楽器的には弾かないが、 それでも現代的な演奏に切り替えていた。 このあとの休憩でプログラムを読んだら、 まさしくそのような意図だと書いてあった。

休憩のあとの後半は、プラハのときの後半と同じ曲目だった。

・Liszt: La lugubre gondola
・Liszt: Nuages gris
・Liszt: Bagatelle sans tonalite
・Liszt: Hungarian Rhapsodie No. 17 in D minor
・Wagner/Liszt: Tannhauser, Overture

リストの最初の3曲、それぞれ始める前に長い精神統一があった。 他の曲はサッと弾き始めたのに、これは何を意味するのだろう。 そしてドビュッシー中後期か武満のピアノ曲かと思うほどシリアスに、表情豊かに弾いた。 ハンガリー狂詩曲17番は不思議な曲だ。 リズムはリストらしいハンガリー狂詩曲だが、 和声はその前の3曲と同様、無調への傾斜が見られる。 リストの晩年の作品群はいわゆるリストらしさから離れて行ってしまったと世の中では思われているかもしれないが、 リストの晩年の心境はもっと研究してみる余地があるのではないか。 リストは世捨て人になったのではなく、 これこそ世に主張したいという境地に向かっていたのではないか。

さて、タンホイザー。 プラハと東京では違ったか?  演奏自体は違わなかった。 オーケストラを聴いているようで、プラハの時と同様、壮大な宇宙だった。 同じ感動の音楽を味わえた。

では何一つ変わらなかったか?
突然音楽と関係ないことを言って興醒めさせてしまうかもしれないが、 感じたのだからしかたがないことを言おう。 当日は11月だというのに若干蒸していて、 その空気が東京オペラシティの中にもつながっていた。 温度と湿度を含めた、この「空気」のあり方というのは、音楽を聴く上であなどれないと思う。 アヴデーエワの演奏自体にどれくらい影響していたかはわからない―音楽自体に影響はそんなに感じられなかった―が、 周りの全てを含んだトータルな雰囲気として、 やはりプラハのコンサートの方が荘厳だったような気がする。 またまた仮説になるが、 西洋クラシック音楽を聴くためには、 ホールの中の空気を、ヨーロッパの温度と湿度を再現して合わせる方がよいのではないかと思えた。

体力を消耗したであろう大曲のあと、鳴り止まぬ拍手の中を時間をおいて出て来たアヴデーエワはアンコールを3曲弾いた。

・チャイコフスキー:「18の小品」作品72より「瞑想曲」
・ショパン    :マズルカ第23番 ニ長調 作品33-2
・ショパン    :ノクターン第18番 ホ長調 作品62-2

チャイコフスキーの佳品「瞑想曲」は本当にmeditationに引き込まれてしまう演奏だった。 ニ長調のマズルカは、レ・シルフィードなどでは実用ワルツといった感じで一定のリズムで演奏されるが、アヴデーエワはマズルカ的にリズムを動かしていた。といっても速めの演奏で舞踏性に満ちていた。コーダはどんどん加速するとともにディミヌエンドで、一陣のつむじ風で大気中に舞って消える木の葉ように終わった。ノクターンホ長調はプラハではプログラムの初めの方に組まれたものだった。熱気醒めやらぬアンコールで聴くと違うかと思ったが、興奮を落ちつけるかのようにしみじみ歌った。嬰ハ短調中間部では静かな感動にめまいがするようであった。プラハで最初にノクターンを聴いていまアンコールで聴く。 二つのコンサートを時空を越えてつなげると、 回文構造のようにプロローグに回帰するエピローグといった風情になった。

[2011年11月19日 記]


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