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東高野街道
古代の官道
 現在の藤井寺市域には、古代からの重要な
街道が2本通っていました。市の東部域を南
北に通り抜けるのが東高野街道です。東高野
街道は旧国府
(こう)村内で長尾街道と交差して
います。
 もともと生駒山地の西側山麓に沿って南北
通路として使われていた古道が、後に古代の
官道の一つ「南海道」として整備されたもの
と言われています。
高野山詣での街道
 京の都と河内国府を結ぶ重要な道でもあり
ましたが、この道の持つ役割の大きさは、平
安時代に空海が高野山に真言宗の修行場を開
いてから後のことでしょう。
 国府の役割が低下していくにつれて官道と
しての重要性は薄まり、仏教信仰の大衆化と
ともに、参詣道としての役割が大きくなって
いきます。
 京の僧侶が高野山へ修行に行くのによく利
用する街道となり、やがて貴族たちの間で高
野山への参詣が流行します。さらに、それは
藤井寺市域と長尾街道・東高野街道・竹内街道の様子
① 藤井寺市域と長尾街道・東高野街道・竹内街道の様子
  ※ ○の地名は旧村名で、現在も地区名として存在する。他の街道との交叉地点であった。
  ※ 市町村名及び境界はすべて現在のもの。
武士や商人から一般庶民にまで広がり、多くの人々が高野山を目指してこの街道を旅しました。やがて近世に至って、この街道は「東高野
街道」と呼ばれるようになったのです。街道沿いには「弘法の井戸」と呼ばれる水飲み場が所々にあり、街道を行き交う人々はそこで休息
のひと時を過ごしたと言われています。                                 アイコン・指さしマーク「藤井寺市の昔の街道」
大阪府内で一番長い街道
 東高野街道は京都府の石清水
(いわしみず)八幡宮から洞ヶ峠(ほらがとうげ)を通り、生駒山麓に沿って南下します。大和川を渡ると、石川の流れと並行
して河内長野市まで至り、ここで西高野街道と合流します。この総延長は約
50kmにもなり、大阪府内では最長の街道です。
 河内長野からは1本の高野街道となり、紀見峠を越えて和歌山県に入り、橋本市を経て高野山に至ります。高野街道には、ほかにも中高
野街道、下高野街道がつながっていました。最も東を通るルートとして「東高野街道」の名が付きました。
古代のルート
 東高野街道は、時代によってその道筋の一部が変化してきています。当初の古代のルートでは、生駒山麓を南下してきた街道は、現在の
柏原市安堂付近で旧大和川を渡って西へ進み、古代寺院の船橋廃寺のところで南に下ります。そして、同じく古代寺院の衣縫
(いぬい)廃寺の横
を通って南下し、やがて道明寺
(古代には土師寺(はじでら))の横を通り、さらには現在の羽曳野市内に入って誉田(こんだ)八幡宮の前を通過します。
この途中に在った衣縫廃寺の推定寺域一帯は、現在は国府遺跡の中心として保存区域になっています。その名が示唆するようにこの周辺に
河内国府の官衙が置かれていたと推定されています。
 基本的にはこのルートが古代の道筋であろうと推定されますが、もう一つの古代の官道・大津道
(おおつみち)の推定路の東延長線が旧大和川
を越えた地点は、南下してきた東高野街道との交点でもあり、元々はこちらが古代のルートであった可能性もあります
(上の①図)
 いずれにしても大和川をどこかで渡らなければならないのですが、古代では船による渡河だったのか、橋が架かっていたのか、はっきり
とはしません。「河内大橋」という朱塗りの橋の名が万葉集に登場しますが、この橋が大津道の渡河位置とも考えられるし、もう少し北の
安堂付近とも推測されます。この橋については諸説いろいろとあって、よくはわかっていません。
  藤井寺市域周辺の昔の街道  
② 藤井寺市域周辺の昔の街道
近世からのルート
 古代寺院の衰退や廃寺によって、東高野街道のルートは
だんだん変わってきたと思われます。近世の大和川付け替
えが行われる以前の推定路としては、旧大和川の石川との
合流点の北部で東西向きに渡河していたと思われます。た
だし、この渡河が渡し船によるものか、あるいは橋が架か
っていたのか、明確にし難いところです。万葉の時代でさ
え「河内大橋」が架かっていたので、近世にあっても何ら
不思議ではありません。一方、江戸時代では幕府の政策に
よる影響も考えられます。実際、付け替え後の新大和川で
は東高野街道が渡河するための架橋は認められず、渡し船
が使われました
(後述)
 近世になると大和川の川筋を示す種々の絵図が作られ、
現代にも残されています。それらの絵図には主要な街道筋
も描かれており、古街道を知る上で参考にすることができ
ます。
絵図に見る近世の東高野街道
 右の図は、『藤井寺市史・第10巻・史料編八上』に掲載
された「河摂水脈の図」の読み取り図の一部です。絵図は
模写されたものですが、製作年は入っていません。特に絵
図の標題らしきものはないのですが、絵図内の添え書きに
此一図者河摂水脉(脈)之図處也とあるので、市史で
は「河摂水脈の図」としたものと思われます。「河摂」つ
まり、河内国と摂津国にまたがる水脈=河川の流路を描い
た絵図ということになります。
 絵図を見ると、東高野街道が大和川を渡河する位置には
橋が描かれています。つまり、渡し船ではなく橋を通る渡
河だったことがわかります。ただし、この橋が常設の橋で
長期間に渡って使用されていたかについては疑問もありま
す。と言うのも、この絵図の上部に描かれている大坂城北
部から中之島に掛けての川
(現大川)には何本もの橋が描か
れていますが
、これらの橋にはみな橋脚も描かれています。
ところが、右図中央の大和川の橋だけには橋脚が描かれて
いません。単なる描き忘れでないとすれば、普通の橋とは
異なる簡易な板橋ではなかったかとも考えられます。旧大
和川のこの部分は川幅がかなりあり、簡易橋だと大増水の
時には流されたことも想像できます。長い時代に渡って利
用された橋なのか、疑問に思わざるを得ません。
 この絵図の原本が描かれた時期については、市史の解説
③近世の川筋と東高野街道
③ 近世の川筋と東高野街道      制作年不明(元禄末期か)・白江久子家蔵
『藤井寺市史
・第10巻・史料編八上』(藤井寺市 1991年)掲載「河摂水脈の図」読み取り図より
                部分を切り出したうえ、着色加工や色文字追加等、一部を加工している。
では大和川付け替えの直前期であろうと推定しています。つまり、元禄時代の終わり頃ということになります。その根拠として、絵図の中
に書かれている「
新大和川 掘割墨引」の文字を挙げています。新大和川の計画線が大阪弯まで描き込まれているのですが、このことから
付け替えが決まった後、新川ができるまでの間であろうと考えられています。市史の解説には、次のような一節が見られます。
 『
…(前略)…本図の最大の特徴は、「新大和川掘割墨引」すなわち宝永元年(1704)に新しく開さくされた新大和川の計画線を描いている
ことである。この新大和川の開さくによって、大乗川や東・西除川が切断され、また玉串川・長瀬川の旧河道開発や深野池・新開池などの
干拓が進み、景観が一変した。
…(中略)… 恐らくは、やがて失われると思われる大和川の旧態と、新しい河道にかかわる部分を描くのが
本図の目的であったとみられる。

 この見解については、私は少しばかり疑問に思っている点があります。と言うのは、この絵図に描かれている水脈や名称について、現況
認識に誤りがあったのではないかと思われる点がいくつかあるからです
原本の製作者が絵図の範囲をすべて現地調査したとは考えにくく、
他の絵図や伝聞情報を参考にした箇所も多かったのではないかと思われます。他の点も含め、私が気になった点を以下にまとめてみます。
③図の範囲にはない部分を含む絵図全体を対象としています。                 アイコン・指さしマーク「大和川の付け替え」
河摂水脈の図」について-その疑問点
 「新大和川掘割墨引」として描かれている新大和川の川筋が、実際に完成した新川の川筋の形で描かれており、大和川付け替
 え後に作図された可能性がある。
(1)新大和川の下流部分にある浅香山(現堺市)の部分に「浅香山掘割」と書かれている。この
 場所は、人工川としては不自然に屈曲している部分である。これは、新大和川の南岸地帯の排水対策を考えて、工事開始直前な
 いしは開始後にこのような形の川筋が決められて、付帯工事とともに工事が進められたものである。付け替えが決まった段階で
 このような工事の詳細を絵図の製作者が知り得たのか疑問である。
(2)新川の河口に近い部分で北に向かう水路が付帯工事で造
 られたが、この水路も「
新川」という名で描き込まれている。 (3)南から北上して現在の藤井寺市域を通り抜け、平野川に合流
 する「大乗川」の描き方がおかしい。絵図で「
大乗川」として書かれている川は、碓井村(現羽曳野市)で石川から取水されて誉
 田八幡を通り藤井寺市域に流れている。この川筋は「王水川」と呼ばれている用水路のもので、大乗川は誉田八幡の南の方から
 流れて来る川である。大乗川は、大和川付け替えに伴って石川へ流入させるため、誉田八幡の南方で北東へ切り替えられた。以
 後、大乗川は誉田八幡の所までは北上していない。絵図ではその状況と王水川とを混同している可能性が高い。この錯誤は、付
 け替え後の状況を知っていなければ起きないはずである。当然、大乗川についての現地調査は行われていない。付け替え前の大
 乗川を知っていれば、絵図のような描かれ方はあり得ない。
(4)新大和川の河口近くに川と交叉して南北に通る紀州街道が描か
 れているが、ここに橋脚付きの橋が描かれている。この橋は「大和橋」で、新大和川に架けられた唯一の橋である。紀州藩が利
 用する重要な街道でもあり、公儀橋として造られた。大和川付け替え計画が決まった段階で、この架橋工事のことを絵図の作者
 が知ることができたのか疑問である。完成後の様子を知っているので描き込むことができたと考える方が自然である。

 川の名称に疑問がある。 (1)③図の中央部に「大和川 一名恵我川」と書き込まれているが、「恵我川(餌香川)」は石川の下
 流部分の呼称として古代に使われていたものである。絵図のこの部分に「恵我川」を充てた例は、私はほかに見たことがない。
 (2)玉串川の中に「玉の椿井川」と書かれている。玉串川は「玉櫛川」とも書かれるが、「玉の椿井川」という例は他では見ない。
 また、この玉串川は北へ流れて吉田川
(東側)と菱江川(西側)に分かれるが、絵図では吉田川の中に玉椿川 一名玉櫛川トモ云
 と書かれている。絵図が製作された時期には「吉田川」の呼称が普通であり、この絵図に「吉田川」の名称が無いのは不自然で
 ある。また、「
一名玉櫛川トモ云」は明らかに誤りである。 (3)菱江川の中には「玉の椿井川 一名玉くし川トモ云」とあり、
 この絵図では「吉田川」の名も「菱江川」の名も無視されていることがわかる。
(4)現在の長瀬川の中には「久宝寺川 古名恵
 我横川
」と書かれている。「久宝寺川」は当時の名称として正しいが、「古名恵我横川」はやはり誤りである。
  一方、排水路として存在した小河川の恩智川
(絵図では恩知川)と楠根川は、当時の呼称として正しく書かれている。絵図の作
 者がどのような基準で川の名称を書き込んだのか不明であるが、明らかな誤りも含まれており、その認識内容について疑いを持
 たざるを得ない。伝聞・伝承情報についての精査・確認が行われたとは思えない。
 街道と河川の交叉の描き方に整合性がない。 (1)③図の大和川の橋では橋の上に道筋が描かれているが、この描き方 はこの
 橋だけである。他の橋では橋の上に道筋は描かれていない。 (2)長尾街道が石川を渡河する部分は道筋も橋も描かれていない。
 同様の描き方は長瀬川沿いの八尾村の部分にもある。普通に考えれば、この場所の渡河は船によるものと推測される。
  ところが、 (3)絵図右寄りの大和川では、国分村-高井田村間に
道筋が描かれている。玉串川の万願寺村-中野村間も同様で
 ある。古市町から石川を渡る竹内街道も道筋が描かれている。他にも同様の描き方はあちこちに見られる。この表現の意味する
 ところがよくわからない。小河川の場合は橋があったと思われるが、大和川本流や石川の場合は橋はなかったはず。あるいは、
 浅いので歩いて渡河したのであろうか。同じ石川で長尾街道と竹内街道の描き方が異なるのもよくわからない。
 村の名称にも疑問がある。 (1)現在の藤井寺市域に当時あった村のうち、「藤井寺村」だけが書かれていない。寺名の「葛井
 寺
」が書かれているだけである。 (2)現羽曳野市域にあった「誉田村」「古市村」が、「誉田町古市町」となっている。絵
 図では他にも「○○町」という例がいくつかあるが、共通点がはっきりせず、理由がよくわからない。当時、「村」をわざわざ
 「町」に変えて表すような習慣はなかったはずである。
 このような疑問点を踏まえて考えてみると、私にはこの絵図は大和川付け替えの後に描かれたものではないかと思えてきます。藤井寺市
史の解説が言う『やがて失われると思われる大和川の旧態と、新しい河道にかかわる部分を描くのが本図の目的であったとみられる。』と
は逆に、「失われてしまった旧大和川流路や池の広大さ、影響を受けた村々の多さとその分布する範囲の広さ、そのことを見てわかる形で
残そうとした。」と私は推測しました。河内国の中央部の田園景観が一変する大規模な治水・新田開発事業でしたが、ここまで様相が大き
く変わることをどれだけの人が予想できたでしょうか。幕府が計画した大規模事業のグランドデザイン、つまり付け替え工事計画の全容を
知り得た人は、ごく限られた人たちだったと思われます。民衆の多くは、付け替え完成後に次第に見えてきた変化の大きさに大きな驚きを
感じると同時に、戻ることのないかつての景観に郷愁を覚えたのではないでしょうか。写真などない時代、せめて絵図で全体像を残してお
こうと考えても不思議ではありません。絵図は、以前の絵図や人々の証言、伝聞などをもとに製作することになります。
 絵図には、模写するに当たっての経過が添え書きとして載っていますが、その中の一部に「
本図経星霜虫損文字粉々然矣」とあり
ます。経年により虫喰いによる欠損文字のあったことが見て取れます。また、原本の作図から年数を経て模写されたこともわかります。そ
のような経過を考えると、原本の内容が正確に模写されたのかどうか、多少の疑問が残ります。とは言え、街道筋と川筋の関係はよくわる
絵図なので、このページで利用できる史料として紹介しました。なお、③図の原図として使用した「読み取り図」というのは、絵図の印刷
写真では内容が判読できないので、絵図の内容を線画と文字で再構成したものです。『藤井寺市史・第10巻・史料編八上』では、掲載され
たすべての絵図について読み取り図が添えられています。内容を読んで調べたい者には、よく配慮された有り難い図です。
大和川付け替え後の様子
 付け替えによって現在のように大和川が流れるよ
うになると、東高野街道の大和川渡河は南北方向の
渡河に変わりました。近鉄道明寺線の鉄橋付近の場
所に渡し船があったと思われます。
 付け替え後に描かれた大和川絵図ではこの場所に
「船つき場」と書かれています。この位置は明治時
代初めに新大和橋が架けられた場所でもあります。
 また、享和元年(1801年)に刊行された『河内名所
圖會
(かわちめいしょずえ)』では、大和川を渡河している渡
し船の様子が描かれています
(④図)
 やがて、より通行しやすいルートとして、大和川
堤防の一部と控え堤の上を通る道が街道に利用され
るようになったと思われます。現在の給食センター
や道明寺東小学校の前を通る
のルートです。
 この地域の地形の構成により
新大和橋付近の堤
防上から長尾街道との交叉地点付近までは高低差が
無く、ずっと同じ高さの道を通ることができたので
す。近世以前の直進ルートだと、高さ5mぐらいあ
④ 河江戸時代絵図に見る新大和川の渡し船(南西より)
④ 河江戸時代絵図に見る新大和川の渡し船(南西より)
         『河内名所図会』(1801年)「大和川 築留」より(部分切り抜き)
    左右見開きを合成して継ぎ目処理のうえ、かすれ補修や着色、色文字入れ等一部加工。
る大和川の堤防を上り下りする必要がありました。明治期に橋が架けられてからは荷車や荷馬車が渡るようになり、段差や坂道の無い堤防
ルートがより一般的になったものと思われます。今日、東高野街道が紹介される場合には、こうして定着してきたルートを一般的な東高野
街道として示すのが普通のようです。
⑤ 街道の一部 新大和橋(南東より) ⑥ 内堤上の街道の一部(南西より)
⑤ 街道の一部 新大和橋(南東より) 2016(平成28)年11月 
  約200mの自転車歩行者専用道路で、南河内サイクルライン
 の一部でもある。すぐ西側には近畿日本鉄道・道明寺線の大
 和川橋梁がある。
⑥ 内堤上の街道の一部(南西より) 2020(令和2)年4月 
  堤体の法(のり)面に植えられた桜並木が美しい桜景観をつく
 っている。南東側の右に見えるのは、道明寺東小学校の校舎。
大和川から南へ進む
 写真⑤は新大和橋を南側から見た様子です。この橋も現在の東高野街道の一部を構成しています。ただし、この橋は明治時代になってか
ら架けられたもので、当時は木橋でした。幕府の政策として大きな川の架橋が認められなかった江戸時代は、この辺りには橋は無く、④図
のように渡し船が利用されていました。荷馬車が通行可能な幅で造られた細い橋で、現在は自転車歩行者専用道路の扱いとなっています。
上の地図の
地点がこの場所ですが、ここから地点の辺りまでが、控え堤の上を通るルートです。堤の上の道路が写真⑥です。幅のある
堤なので以前から車道として整備され、通学用の歩道も整えられました。現在の様子からは、昔からの街道という雰囲気はまったく感じら
れません。                                      アイコン・指さしマーク「新大和橋-藤井寺市の交通」
⑦ 街道が南に折れる国府八幡神社の前(南東より) ⑧ 長尾街道と交差する東高野街道(南より)
⑦ 街道が南に折れる国府八幡神社の前(南東より) 
  堤上の道路を進んで来た街道は、ここで南(左)に折れる。
 近世以前は右側から直進して来ていたと思われる。
                   2013(平成25)年3月
⑧ 長尾街道と交差する東高野街道(南より)    
  府道12号の北側。直進すると国府遺跡方面に行く。写真中央
 が長尾街道との交差点。右へ行くと国府台地から下って行く。
                  2011(平成23)年4月
 地点から地点まで来ると、街道は写真⑦の国府八幡神社の前で南へ直角に向きを変えます。近世以前のもともとの東高野街道は、北
の現在の大和川の方から真っ直ぐに国府八幡神社の前に通っていたものと思われます
(地図内の推定ルート)神社の前から府道12号までの
部分が写真⑧の道で、府道から神社の方を見ています。写真に見える石畳の部分は、東西に通る長尾街道と交叉する十字路です。右側の東
方向に進むとしだいに下って行きます。国府台地の東側段差地形の部分です。写真の手前側
(南側)に進んで府道を渡ると、すぐに近鉄・南
大阪線を踏切で越えて南下して行きます。そして、写真⑨⑩の
地点に至ります。    アイコン・指さしマーク「長尾街道-藤井寺市の昔の街道」
⑨ 東高野街道(南より) ⑩ 東高野街道(南より)
⑨ 東高野街道(南より)      2018(平成30)年3月   
   右側の塀の上に見える木々は道明寺天満宮の森。左手手前に
  道明寺がある。近年、藤井寺市によって歴史街道として整備さ
  れ、カラー舗装が施された。
東高野街道(南より) 2017(平成29)年8月
     夏場には御神木の大樹が木陰をつくり、
  鬱蒼とした雰囲気が漂う。     
 写真⑨⑩は、近鉄南大阪線を越えて南下し、道明寺天満宮の横に達した辺りの様子です。
季節が異なるとまるで雰囲気が変わる場所でもあります。市の事業によって道路がカラー
舗装され、「東高野街道」の標柱も建てられました。街道脇に立つ大木は御神木としてし
め縄が架けられ、小祠も祀られています。道行く人々のために古くからあったのかと思い
きや、意外と新しいもののようです。
 写真⑪は、『カメラ風土記ふじいでら』に載っている昔の東高野街道の同じ場所の様子
です。風土記では「昭和10年代」と紹介されていますが、少年たちの服装や持ち物を見る
と、戦後のものではないかと思われます。いずれにしても、この頃には小祠は無く、しめ
縄も掛けられていません。信仰の対象となった時期は案外新しい時代のようです。
 それにしても街道周辺の様子が一変していることに驚かされます。天満宮の杜と大木の
組み合わせを見ることでこの場所だと特定できますが、そうでもなければどの場所かわか
らない変貌ぶりです。存在感の大きい大樹ですが、
7,80年の時を経ているのに同じよう
な大きさに見えます。写真⑪の時点で、すでに相当な年輪を重ねていた大木だったことが
わかります。天満宮が道明寺であった時代も、その道明寺の旧伽藍が洪水で流された様子
も、この巨木はずっと見てきていたのでしょう。
⑪ 東高野街道(南より)
⑪ 東高野街道(南より)   昭和10年代  
 『カメラ風土記ふじいでら』(藤井寺ライオンズ
 クラブ 1979年)より   後方は道明寺天満宮の森
⑫ 道明寺の横を南下する東高野街道(北より) ⑬ 東高野街道(南より)
⑫ 道明寺の横を南下する東高野街道(北より)  
   この先で南へ下って行く。⑨⑩の反対方向。直進して
  やがて誉田八幡宮の前を通る。道明寺は明治以前にはここ
  にはなかった。          2013(平成25)年3月
⑬ 東高野街道(南より)    2011(平成23)年4月   
   左手が道明寺の山門。⑫の写真の反対側から見た様子。
   この坂で国府台地に上っていく。左手の西側に行くと国
  道旧170号、右へ行くと近鉄道明寺駅に至る。
 写真⑨⑩の場所から南へ進むと⑫のように道明寺のすぐ横を通ります。⑫で見える
建物は道明寺山門である鐘楼門です。ここから少し南へ行
くと、ゆるやかに下って⑬の
地点に来ます
 地点で東西に交叉する道は、そんなに広くない道路ですが
、これでも府道189号
・道明寺停車場線です。西にある国道旧170号と道明寺駅をつなぐ道として戦前に造
られまし
た。昭和10年代に産業道路(旧170号)ができてから後のことだと思います。
 この交差点を右の東方向に進むと近鉄道明寺駅です。現在は駅前まで直進していま
すが、実は府道
189号は途中で南の方に迂回するようなルートで道明寺駅に向かいま
す。全長約
600mの短さで、しかも駅に至るのは迂回ルート、という道路がなぜ府
道に指定されているのか不思議な感じです。戦前に指定されたものがそのまま維持さ
れているのでしょう。道明寺駅と新しい産業道路を結ぶ道路が造られる時に、おそら
く、道明寺天満宮神門の南側に延びる旧参道をその一部として利用するルートが考え
られたものと推察されます。
⑭ 東高野街道(南より)
⑭ 東高野街道(南より)  2014(平成26)年11月 
   中央上部は、近年に立てられた「東高野街道」の
  案内 標示板。青空を背景とした紅葉風景も美しい。
 写真⑭も地点ですが、桜の季節とはまったく違う感じに見えます。写真上部に写っているのは、東高野街道」を標示する案内看板で
す。下のカラー舗装と共に整備されました。    アイコン・指さしマーク「藤井寺市の交通」     アイコン・指さしマーク「道明寺」    アイコン・指さしマーク「道明寺天満宮」
 
高野山への参詣道にある弘法伝説
 道明寺山門から地点の南へ約
200mほど進むと、街道脇に弘法大師御休石(おやすみいし)」と書かれた案内板の立つ場所があります。写真
⑮がその様子です。ここに置かれているのは、なんと一枚の大きな石です。その名の通り、「弘法大師が腰を掛けて休んだ」と伝えられる
石です。これについては、市の『広報ふじいでら』2014年8月号
ふじいでら歴史紀行(91)」で紹介されています。抜粋で紹介します。
 『(前略) 弘法の御休石は、高さ1.7m、幅1m、厚さ0.5mほど
の大きな片岩の自然石で、そもそも今の場所から少し南側にあった
といわれていますが、いつ頃から今の場所に安置されるようになっ
たのかは不明です。
(中略)
 弘法大師にまつわる伝承は、全国に数多く言い伝えられ、一説に
は数千を数えるといわれています。そのすべてに弘法大師が直接関
わったとは、到底考えられませんが、伝承には、弘法大師が地面に
(つえ)を突き立てると清水が湧いたというような水に関わるものが
特に多く残っています。
 道明寺の弘法の御休石にまつわる伝承も水に関するものです。そ
の言い伝えに
よれば、弘法大師がこの地を訪れ、水を求めたときに、
水を献じた地区の井戸水が澄んだといわれています。
⑮ 弘法の御休石 ⑯ 改修前の弘法の御休石
⑮ 弘法の御休石(おやすみいし)
   改修により堂宇は撤去され、石は
  露天展示になった。  2024年4月
⑯ 改修前の弘法の御休石
   御休石は祠の中に立てて
  置かれていた。 2014年11月
 明治時代以降、地区内の25軒ほどで大師講(たいしこう)が組織され、弘法の御休石を信仰し、毎年、弘法大師の命日にあたる新暦の4月21日
は、提灯
(ちょうちん)に灯をともして、石を洗い掃除をしてお供えをしていたと伝えられていますが、現在では、花を供えるなどして地区の有志
によって管理されています。
 祠
(ほこら)には「弘法大師 御休石 大坂 から堀 施主歌川」と書かれた風情のある額が掲げられ、古くから東高野街道を歩いて弘法大師が
開山した高野山へ向かう参詣者が、一息をつく休憩場所になっていたと思われます。
』      アイコン・指さしマーク「ふじいでら歴史紀行(91)」
東高野街道沿いの新しいシンボルに
 弘法大師生誕
1250年で大師生誕の日の2023(令和5)年7月27日、御休石改修工事の竣工を記念する除幕式が開催されました。
 これは、道明寺地域のまちづくりを推進する「道明寺まちづくり協議会」が、弘法大師ゆかりの御休石が祀られていた堂宇を、地域有志
の協賛を得
て、デザインを一新した地域の新たなシンボルとなるよう改修事業を行ったものです。7月20日に藤井寺市が発表した報道資料に
は、この取り組みや御休石伝承について次のような説明が掲載されていました。
 『
弘法大師御休石の伝承 昔、弘法大師が、御本山高野山から全国を行脚され、この東高野街道を通る道すがら、道明寺のこの地で、
通称「大師さんみぞ」と呼ばれていた用水路のそばの道端にあった大きな石に座られて一服されておられました。その後長い年月が流れ明
治の頃、この石はその用水路に橋として架けられ、人や馬が行き交うようになりました。すると不思議なことにその橋を渡る馬たちが足を
怪我することが増えたため、村人たちが話し合い、弘法大師が座られていた石を人や馬が足蹴にするから罰があたったのだろうということ
で、この石を祀ったところ怪我が無くなったと言い伝えられています。

 『
道明寺エリアの新しいシンボルに この御休石は、弘法大師を信仰する地元の人々により「弘法大師講」が作られて管理されてきま
した。改修にあたって御休石の歴史を調査した結果、
新しい事実が判明しました。これまでは、明治時代に大師講が作られたと考えられて
いましたが、実は江戸時代後期に大師講が編成されたようです。さらに
350年前の絵図にも御休石が描かれていました。石は片面が擦り減
っており、祀られる前は近くの溝の石橋として、東高野街道を往く人々を数百年も支えてきたことがうかがえます。弘法大師のお休み石は
全国にみられますが、このように由来をしっかりと説明できるものはほとんどないと考えられており、この度、道明寺の新たなシンボルと
して生まれ変わりました。

 新しく立てられた案内板には次のように説明されています。
 『
道明寺 弘法大師御休石  京都の東寺から高野山までの中間地点にあたるのが道明寺で、弘法大師(774〜835)が何度も往復したこの
道、東高野街道に架かっていた橋に使われていたのがこの石です。弘法大師がお休みになられた石と伝えられています。
 寛文12年(1672)や安永2年(1773)の絵図に描かれた本石は弘法大師生誕1250年の令和5年(2023)に現状へと改修いたしました。本改修は、
心ある有志の方々(裏面に記載)により、また地権者のご理解をいただき、本改修が成ったことを記しておきます。尚、岩質は花崗岩で、質
量は2トン弱あります。

 伝説は飽くまでも伝説ですが、しかしながら、高野山へ通じる参詣道にある場所だけに、何かしらの信憑性を感じさせます。高野山上に
真言密教の修行の場を開き、その後京の教王護国寺
(東寺)を与えられた空海は、何度も都と高野山を往復したことでしょうから、後に東高
野街道と呼ばれるこの街道を利用した可能性はかなり高いと思われます。道中の途中、道明寺村の人が水を献じることは十分にあり得えた
ことでしょう。
現代になって-新道路ができる
 時代が昭和に変わり、商工業が発達してくると自動車輸送が拡大してきました。従来の街道のまま
では、自動車交通には不都合な場所があちこちにあります。自動車交通に利用できるよう、主要街道
の整備が進められていきました。道を拡幅すれば簡単に済むのですが、街道というものは村々の集落
の中を通っていることが多く、拡幅するには費用と時間がかかり過ぎます。そこで、集落を外れた位
置に新たに広い道路を建設していくことになるのです。今日で言うところのバイパス道路です。東高
野街道にもバイパス道路が建設されていきます。
 東高野街道のバイパス線は、昭和
13年に産業道路として完成しますが、これが現在の国道旧170
号です。藤井寺市域を通る東高野街道は道幅が狭く、しかも橋は新大和橋という細い橋だったので、
まったく新しい位置に道路が造られました。大和川を越える橋も新たに「河内橋
(かわちばし)」が架けら
れ、現在の柏原
(かしわら)市から富田林(とんだばやし)市までの新道路が開通したのです。
 途中、何度か旧街道と交差しますが、ほとんど全線が新設ルートでした。現在河内長野市までのル
ートでは、富田林市以南で何ヵ所か旧街道を取り込んだ部分があります。また、柏原市から北のルー
トは多くが旧街道を利用している部分が多く、そのため国道とは言うものの道幅の狭い所が多くて、
⑰ 国道旧170号(南より)
⑰ 国道旧170号(南より)
   道明寺交差点で、ここから右(東)
  に進む道路が府道189号。
         2016(平成28)年11月
中にはアーケードの商店街となっている所もあります。四条畷(しじょうなわて)市からは府道をつないでおり、京都府八幡(やわた)市に至ります。
 戦後、昭和30年代後半からの高度経済成長が続くと、我が国は急速に自動車社会へと進んで行きました。バイパス道路として造られた国
道旧170号も、交通量の急増で、さらにより輸送力のあるバイパス道路の新設が求められました。その結果、バイパスのバイパスとして、
現在の国道170号が主要地方道「大阪外環状線として建設されました。藤井寺市内の部分が全通したのは1980(昭和55)年のことでした。
そして、1982年に一般国道170号として制定施行され、今日に至っています。        アイコン・指さしマーク
「藤井寺市の交通-国道170号」
 なお、この国道旧170号全線に東高野街道の表示を付けている市販地図がありますが、本来の街道に該当するのは一部なので全線につ
いて表示するのは正しくありません。旧来の東高野街道が現存しているのですから。

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