◆◆◆◆ 大 水 川 ◆◆◆◆ | ||||
(おおずいがわ) 一級河川 《 一級水系・大和川 》 《 大阪府 》 近畿日本鉄道・南大阪線 土師ノ里駅より府道・堺大和高田線を西へ約700m 徒歩約12分(沢田橋まで) 流路延長 約4.5km(大乗川取水樋〜落堀川への合流点 筆者による地図上計測) 流域面積 2.7ku 指定延長 2.5km(大阪府が法定受託で管理する区間) 管理:大阪府富田林土木事務所 |
藤井寺市を流れる主要河川(一級河川)を取り上げるとなると、大水川は大和川・石川・落堀川(おちぼりがわ)に次いで、どうしても4番目に なってしまいます。ただし、これは流路の長さや川幅などの外見的な河川規模で比べた結果であって、別の顔とも言うべき地理的・歴史的 な背景を見ていくと、大水川は決して他の河川にひけを取らないプロフィールを持っている川であると言えます。 概要を紹介したいと思いますが、初めに「藤井寺市の川と池」トップページにある地図を再掲します。まずは、大水川と旧大水川の流路 を地図の中で確かめておいてください。「大水川」は、過去の様々な変遷を経る中で、その流路と名称が変えられてきた歴史を持ちます。 そのために、この川についての説明はどうしても少々煩雑で、輻湊する部分が出て来ます。予めお断りしておきたいと思います。 |
@ | 藤井寺市の川と池の地図 | 《「藤井寺市の川と池」メインページに掲載の地図 》 |
《 凡 例 》 | |||||
法河川 | おもな水路 | 水路の暗渠(あんきょ)部分 | |||
池 | 消滅した池(部分) | 現存の古墳 | |||
「藤井寺市の川と池の地図」について ◇藤井寺市内の河川・水路の名称は、『藤井寺市地域防災計画2015』に掲載の「河川、水路図」に準拠している。 ◇道路と交叉する水路は、流路がわかるように原則として道路上にも水路を描いている。実際は暗渠(あんきょ)になっている。 ◇旧大水川の▲印部分は、現大水川の下を旧大水川が暗渠でくぐっている。現大水川の建設時に改修された。 ◇消滅した池(部分)は、『藤井寺市史・第10巻 史料編八上』掲載の「地籍集成図」に準拠しているが、小規模のものについては一部 省略したものがある。 ◇市域外に続く水路については、一部のおもなものだけを表示している。 ◇羽曳野市域の古墳については、水路の流路に関わるものとして、誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(応神天皇陵)と隣接する二ツ塚古墳 の2基のみを表示している。 |
大和川の二次支川 大水川は、一級水系の「大和川水系」に属する川です。つまり、大水川の流れは水系の本川である大和川に流入するということです。た だし、大水川は直接大和川には流入しません。上の地図でわかるように、大水川は大和川の堤防沿いに流れる落堀川に合流します。この落 堀川が3kmほど西で東除川(ひがしよけがわ 松原市内)と合流して大和川に流入しています。この場合、直接大和川に流入する落堀川が「一次支 川」で、それに流入する大水川は「二次支川」と言います。言ってみれば、本川(ほんせん)である大和川を「親川」として、「孫川」に当たるの が大水川です。 「落堀川−藤井寺市の川と池」 「孫川」と言うと、いかにもささやかで小さい川という感じですが、実は大水川は藤井寺市域にとっては大変重要な存在の川であると言 えます。1つには、藤井寺市域の地形との関係を考えたとき、大水川の位置づけの重要さがわかります。もう1つには、歴史的な変遷を挙 げることができます。大水川は長い歴史の中で、度々人の手が加えられてきました。最近4,50年ほどの間にも、大きな改変が加えられて います。まずは、大水川の現状から紹介します。 「大和川−藤井寺市の川と池−」 大阪府が管理する法河川−水源は石川 現在「大水川」と法的に定められているのは、@図の地図で「一級河川大水川」と示されて「法河川」の色になっている部分です。法河 川というのは、「河川法が適用される河川または準用される河川」です。一級河川には「国土交通大臣が管理する指定区間外区間(国の直轄 管理区間)」と「都道府県知事が管理の法定受託をした指定区間」とがあります。大水川は大阪府知事が管理する指定区間の1級河川です。 実際の日常的な管理は大阪府富田林土木事務所が管轄しています。 地図でわかる通り、実際の大水川の流路は法河川の部分だけではありません。大和川の1次支川である石川にある樋門から導入された水 が、誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳の南から西へ流れて王水川(おうみずがわ)から分流した後、国道170号の地下を暗渠(あんきょ)で曲がりながら通りま す。この暗渠は「誉田(こんだ)1号暗渠」と言いますが、暗渠の出口が法河川としての「大水川」の開始点です(写真BC)。その後、誉田御廟 山古墳の北側で北に向かって流路を変えます。取水樋からこの辺り(平成橋)までの流路は羽曳野市域にあります。法河川指定の大水川の延長 は2.5kmですが、その内の上流側300mは羽曳野市域です。 府道12号の北側では、急に流路が直線的に変わります。府道から落堀川までの部分は、バイパス流路として昭和40年代以降に新しく造 られた川です(後述)。地図にある「旧大水川」がそれまでの流路です。バイパス流路は、より多くの水をスムーズに落堀川に導くための流 路として造られました。川幅も深さも、旧大水川よりはかなり拡大された規模で造られています。 |
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A 取水樋(南より) 2019(令和元)年5月 手前の川は大乗川で石川への合流点の手前 |
B 大水川の開始点(西より) 2019(令和元)年6月 国道170号・応神陵前交差点の東側が暗渠の出口部分。 |
C 誉田1号暗渠出口(東より) 2019(令和元)年6月 写真Bの反対側から見た様子。暗渠の上が国道交差点。 |
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国道の下をくぐる川 法河川としての大水川は、上の写真BCの誉田1号暗渠の出口からスタートします。その暗渠部分について少し紹介しておきます。下の 図D地図と写真Eは、誉田1号暗渠周辺の様子を示したものです。誉田御廟山古墳の南西部で王水川と分かれた水路は、国道170号の東側 に沿った所から暗渠となります。この部分の暗渠は「誉田2号暗渠」と言います。この国道部分は、バイパスとして造られた国道170号本 線と南東側に通る旧170号とを結ぶ接続線の部分です。国道下をくぐった水路は、ホームセンター駐車場の地下を通過しますが、この部分 には駐車場の路面に6ヵ所の開口部が設けられており、グレーチングの蓋の下に水の流れを見ることができます。写真Eで、その開口部の 位置が4ヵ所見えています。暗渠にわざわざ開口部を設けるのは少し変であって、実はこの部分はもともと暗渠ではありません。 |
D 地図で見る誉田1・2号暗渠の様子 『藤井寺市 1:1,000 現況図 No.60B』 (藤井寺市 2017年3月作成)より 着色・文字入れ等、一部加工。国道部分の暗渠位置は 筆者による推定。 |
E 写真で見る誉田1・2号暗渠周辺の様子 〔GoogleEarth 2018(平成30)年1月31日〕より 着色・文字入れ等、一部加工。国道部分の暗渠位置は 筆者による推定。 |
暗渠が1号と2号に分かれているのは、この駐車場地下部分がもともと暗渠ではないからです。この辺りは農地だったので、国道が建設 された時に、国道地下部分以外は開渠の水路のままで残されました(写真FG)。昭和50年代の終わり頃にホームセンターができましたが、 当初は水路がそのまま駐車場に在って、一ヵ所に橋がありました(写真H)。その後コンクリートの蓋でおおわれた状態が上の写真Eです。 昭和54年撮影の写真Gを見ると、2本の国道の間にはっきりと水路が見えています。ちなみに、王水川も国道本線の下をくぐる部分が暗渠 になっています。同じ時期の工事で暗渠が設けられました。 ついでですが、藤井寺市域では「王水川」は「おうみずがわ」と読みます。ところが、読みがな無しで表記されると、「おうずいがわ」 と読まれがちです。そうなると、口頭で表した時には大水川(おおずいがわ)と区別がつきません。そこで、藤井寺市では、大水川の変読み として「だいすいがわ」という通称が会話の中で用いられることがよくあります。一方、@図にあるように、羽曳野市域では「王水川」は 「おうずいがわ」と呼ばれるのが一般的です。おそらくは、もともとの呼び名は「おうずいがわ」だったと思われます。藤井寺市域では大 水川と呼び名で区別する必要から「おうみずがわ」の呼び方が生まれたのではないでしょうか。 |
F 誉田暗渠周辺の様子 1975(昭和50)年3月4日 国道地下の2ヵ所が暗渠。 |
G 誉田暗渠周辺の様子 1979(昭和54)年10月13日 国道本線地下も暗渠になった。 |
H 誉田暗渠周辺の様子 1985(昭和60)年10月8日 FGHとも国土地理院撮影 一部加工 |
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なお、写真Hの後に、誉田1号暗渠から始まる羽曳野市域部分の大水川改修が行われ、1号暗渠から出た流路の角度が少し北寄りに変え られました。写真FGHと現在の写真Eとを比べて見るとわかります。この改修によって、羽曳野市域の大水川両岸に歩道が設けられまし た。それより先に、藤井寺市域に新しい大水川が造られ、そこから上流に向かって改修が進められてきました。大水川のような水路の拡幅 改修工事は、普通は下流側から上流に向けて順に進められます。羽曳野市域の部分は最上流部分であり、最も新しい改修部分です。 ところで、この部分はなぜ暗渠になっているのでしょうか。水路を国道に沿ってそのまま北へ流せば、わざわざ暗渠で国道下を通す必要 はないのでは、とも思われます。下の写真Mでわかるように、もともとこの水路は誉田御廟山古墳の外周の形に沿うように流れていました。 ちょうどその曲がりの部分に重なるように、昭和40年代中頃に国道のバイパス線が建設されたのです。もともとの流路の変更をできるだけ 少なくしたのかも知れません。また、もとの流路がある場所は誉田御廟山古墳の外濠・外堤の遺構部分で、ここは国の史跡に指定されてい る場所です。遺構に加える変更を最小限にとどめる措置なのかも知れません。古墳の外周に沿っている流路自体も、古代の古墳築造の時に 造られた流路であることがわかっています(後述)。なので、流路の変更はできるだけ避けるようにして道路設計がなされたと思われます。 |
藤井寺市域に入る 東向きから北へ流れの向きを変えると、大水川は平成橋の所から藤井寺市域に入り ます。写真Iが平成橋から北方を見た様子です。右側は誉田断層による段差地形で高 くなっており、写真のすぐ右手には大鳥塚古墳があります。ここから府道12号までの 大水川は、上の@図でわかるように曲がりが多くなっています。近鉄南大阪線付近を 除いて、元の旧大水川をそのまま拡幅改修したので、もとの川の曲がりがそのまま残 っています。 「藤井寺市の断層地形」 |
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I 大水川(平成橋より北を見る) 2019(令和元)年6月 この辺りは旧大水川を拡幅改修した部分なの で、元の川の曲がりがそのまま残って居る。右岸 は誉田断層による段差地形に接している。 |
J 大水川(新大蔵橋より北を見る) 2019(令和元)年5月 府道12号から落堀川までは新たに造られた 川なので、直線で構成される川である。両岸は 散策公園を兼ねた遊歩道になっている。 |
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K 大水川沿いの散策公園「彩花堤苑」 (南より) 2019(令和元)年5月 ここから国道170号までが彩花堤苑で、それより より西は「翠花堤苑」と名付けられている。 |
L 旧大水川の流路(北より) 2019(平成31)年4月 写真奥の右手に大水川から水を導入する 樋門がある。普段は写真のようである。 |
M 旧大水川の流路と現在の流路や道路の位置 〔1961(昭和36)年5月30日 国土地理院〕より B〜22)は、写真B〜22)の位置を示す。 流路・道路等の着色や文字入れ等、一部加工。 |
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府道12号で沢田橋の下をくぐりますが、ここからは直線の川が終点の落堀川まで続きます。旧大水川に代わって造られたバイパスの川 で、川幅も写真BCの部分よりは広くなっています。この新しい大水川の両岸は遊歩道になっており、沿道に季節の草花や低木を植えた散 策公園が設けられています。府道12号・沢田橋から国道170号・新大水川橋までは「彩花堤苑(さいかていえん)」、新大水川橋から西は「翠花堤 苑(すいかていえん)」と名付けられています。写真Kは、沢田橋北方の新大蔵橋東側のバラ園です。 旧大水川への導水−ファブリダム 府道12号から北は新しい大水川になりましたが、旧大水川も元の流路のまま残されています。写真Lは、新大蔵橋のから40mほど東に 通る旧大水川の様子です。この部分では写真のような構造に整備されており、普段はほとんど水流はありません。旧大水川はもともと農業 用水路であって単なる排水路ではないので、無くすわけにはいきません。新大水川はかなり深く造られたので、そこから直接水田に水を引 くことはできません。そこで、必要な時には旧大水川に水を導入出来るように特別な仕掛けが設けられました。それが写真NOです。 |
N 大水川ファブリダムと導水樋門(北西より) 稼働していない状態である。 2019(令和元)年5月 |
O 稼働しているファブリダム(北西より) 2019(令和元)年5月 袋体(チューブ)は、まだ高さいっぱいまで膨らんでいない。 |
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これは「ファブリダム」という可動堰の一種です。ファブリダムとは、別名「ゴム引布製起伏堰」と言われるもので、ファブリダムの名 称は住友電気工業の登録商標名です。ゴム引布製起伏堰は、ゴム引布製の太いチューブに空気や水を注入・排出することで起伏させる構造 の可動堰です。低コストや少ない手間で設置できる可動堰として、各地の河川で利用されています。写真に見える機械室に貼られているプ レートには、「大水川ファブリダム 規模:高さ1.3m×河床幅6.9m 形式:空気膨張式 設置年月:昭和57年5月 施主:大阪府富田林土木事 務所 製作:三井建設興業株式会社・住友電気工業株式会社」とあります。ここのファブリダムはチューブに空気を入れる構造です。 写真に見えるように、大水川の東岸に旧大水川へ導水する樋門が設置されています。ファブリダムの高さをいっぱいに上げると、水位が 上がって導水口に水が入ります。樋門の導水口の位置は、普段の大水川の水面よりもかなり上にあるので、大水川の水は全く入りません。 写真Nは袋体(チューブ)に空気が全く入っていない状態です。袋体はぺちゃんこ状態で川底に沈んでいます。袋体に空気が送られてファ ブリダムが稼働すると、写真Oのように大水川の水面が上がります。ファブリダムという可動堰によって水位調整が行われています。樋門 は2門構造になっていますが、普段は閉鎖されています。 旧大水川は、一部分が歩道設置のために暗渠にされましたが、昔の流路のまま北西方向に流れて行き、小山雨水ポンプ場の横で落堀川に 流入しています。新・旧どちらの大水川も、落堀川に合流する川です。 |
国道170号から西へ 沢田橋から真っ直ぐ北に向かっていた大水川 は、国道170号・沢田北交差点の南東で約50度 ほど西へ方向を変え、ここから真っ直ぐ北西に 向かって進みす。写真Qは、国道170号が越え る新大水川橋から北西を見た大水川です。ここ でも両岸には道路があり、一部分は自動車通行 もできます。国道から西側の道路は、「翠花堤 苑」と名付けられた散策公園を兼ねています。 写真Pが国道からの入口の様子です。この部分 の植え込みは低木のクチナシです。 |
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P 大水川南岸の「翠花堤苑」 2019(令和元)年6月 |
Q 北西に進む大水川(新大水川橋より) 2019(令和元)年6月 |
川の下に川!−交叉する新旧の大水川 北西に向かった大水川ですが、この途中にもちょっとした特別な場所があります。@図をよく見ると、▲印の所で大水川と旧大水川が交 叉しています。旧大水川を残したままで新大水川をこのルートで建設したので、どうしても二つの川は交叉してしまいます。国道などのバ イパスでも、新旧道路の交叉している所を見かけます。道路の場合は、信号を付けた平面交差点や立体交差点を設けて、車や人が相互に行 き来できるようにしますが、川の場合はちょっと事情が異なります。 |
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川の中を移動するのは水ですが、川を平面交叉にして水が相互 に移動できるようにすることはできないのです。川や水路には、 何のために水を流すのかという目的や流す方向ががそれぞれにあ ります。道路のようにどちらの方向にも流すことはありません。 また、交叉する川の大きさに差がある場合には、当然流れる水量 には差があります。特に、大雨で大きな増水が起きた場合には、 平面交差していれば必ずと言っていいほど「逆流」が起き、内水 氾濫の原因となります。やはり、川にはそれぞれの目的や流す方 向、水量などに合わせて、独立した流路が必要です。 |
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R 旧大水川が暗渠で大水川をくぐっている場所(南東より) 2019(令和元)年6月 大水川の川底の下に暗渠が通っている。中央はオドロ橋。 |
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そのようなわけで、旧大水川は大水川の下を暗渠でくぐる構造に改修されました。写真Rで、大水川の川底の下を旧大水川の暗渠が通っ ています。暗渠自体は見えませんが、大水川の両側には、旧大水川の出入口となる位置に樋門が設置されています。S図と写真 21)が、新 旧の大水川の交叉地点部分の地図と写真です。写真Rの場所を真上から見たときの位置関係がわかります。 |
S 旧大水川暗渠部分の地図 『藤井寺市現況図 No.30B』 〔藤井寺市 2017(平成29)年3月作成〕より 着色・文字入れ等一部加工 |
21) 旧大水川暗渠部分の空中写真 〔GoogleEarth 2018(平成30)年1月31日〕より ←は写真Rの撮影位置と方向を示す 着色・文字入れ等一部加工 |
「水路の下を水路がくぐる」という構造は、昔から各地で用いられてきました。江戸時代 から続く構造が各地に現存しています。それほど農業水利の管理は農作地帯にあっては重要 な課題であったことを物語っています。 余談ですが、「オドロ橋」の名前は、この場所の小字(こあざ)名であった「オドロ」に由来して います。オドロの意味はよくわかりませんが、「おどろ【棘・荊棘】」が広辞苑で「草木の乱 れ茂ること。」と説明されています。かつてはそういう場所だったのかも知れません。或い は「泥田」につながる「泥」への関連も考えられます。と言うのも、この辺りの場所は下の 23) 図でわかるように、藤井寺市域の中では浅い谷地形の中央部に当たり、泥田のような場 所があったとしても不思議ではありません。ちなみに、上の方で出てきた「新大蔵橋」の「大 蔵」も小字名です。 落堀川への合流−大水川の終点 北西に向かって進んだ大水川は、「大井水みらいセンター(下水処理施設)」の南西部で再 び北へ向きを変えます。そのまま400mほど直進すると、落堀川へ合流して行きます。 写真22) は大水川の終点部分で、落堀川に合流する位置です。北側から見た写真ですが、 |
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22) 旧大水川の終点(北より) 2019(平成31)年4月 |
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西側(右側)に進む流れに合わせて、流路が少し西側へ曲げられています。写真左側には、散策路をはさんで「大井水みらいセンター」があ ります。ここで浄化処理された処理水が、大水川右岸(東岸)に設けられた放流口から絶えず流出しています。そのため、ここから下流の落 堀川では、降雨時以外はいつでも透き通った水が流れています。 「大和川下流流域下水道・大井水みらいセンター」 ところで、大水川の流れでは、他の水路ではあまり見られない様子が見えます。沢田橋の辺りから落堀川にかけて、真鯉の泳いでいる姿 をよく見かけます。普段は水深も浅いのではっきりと見えています。これらの鯉は野生ではなく、以前に水質浄化の実験として放流された 鯉の残りや子どもと思われます。実験当初には川の上にたくさんの糸が張られていました。サギなどの野鳥による捕食を防ぐためだったの でしょう。その頃よりは鯉の数はずいぶん少なくなりましたが、それでも、ちょっとした“大水川名物”として元気に泳いでいます。 |
整備された大水川−名前も流路も変わる 写真Mは、1961(昭和36)年撮影の空中写真上に旧大水川の流路を水色で透明着色したものです。ピンク色の透明着色部分が、後年の改修 工事によって整備された現在の大水川の流路です。位置がわかりやすいように、後に建設された大阪外環状線(現国道170号)と西名阪道(現 西名阪自動車道)の部分にも透明着色しました。大水川改修と時期を同じくして計画された大井下水処理場(現大井水みらいセンター)の敷地 形状も表示しておきました。下の23)図の地図とも合わせて見てください。 写真Mでまずわかるのは、大水川の流路が途中から大きく変えられていることです。既述の通り、現在私たちが目にする大水川は、大規 模な改修事業によって造られた姿だということがわかります。藤井寺市域の大水川のひと通りの改修事業が完了したのは、1992(平成4)年8月 のことでした。それに先立つこと三十余年前の1959(昭和34)年、この川の管理が大阪府に移り、その時点で「大水川」の名称が与えられま した。大阪府の治水事業の一環として大水川改修整備事業が行われることになったのです。その後、一級水系・大和川水系という枠組みが でき、支川の大水川も法河川として「一級河川」の指定を受けました。最上部にある項目表で「指定延長 2.5km」とあるのは、この指定 によって国土交通大臣から大阪府知事に法定受託された区間を表します。 大水川の流路区間は既述の通りですが、現在の大水川の水源は石川から取水した水です。@図で羽曳野市域の臥龍橋(がりょうばし)北側に石川 の水を取り入れる取水路が見えますが、これは初めから造られていたものではありません。大和川の付け替えが行われた18世紀初めに、大 乗川(だいじょうがわ)を切り替えて石川への放水路が造られました。その後、当地の碓井村の願い出によって、大乗川放流口と大水川の取水口(王 水樋)の間に「鯰尾堤(なまずおづつみ)」という堤が石川の中に造られました。平べったく突き出た形から付いた名前でしょう。取水がしにくく なったことで、この堤に流路が切られたものと思われます。当時、水路を管理する村々から訴えが起こされています。 現在は写真Aのように、大乗川放水路の左岸に取水樋が設けられています。写真Aは鯰尾堤の上から撮ったものです。この取水樋から入 った水が大水川を流れて落堀川に入り、やがて大和川に流入します。石川の水も大和川に合流します。元の水が再び合わさって海へと流れ て行くわけです。大乗川の取水樋から落堀川の合流点までの全流路は、私が地図上で計測したところでは、約4.5kmでした。 変えられた大水川の流路−曲がりくねった旧流路 話を写真Mに戻します。改修によって流路が大きく変えられましたが、それには当然理由があります。写真Mでわかるように、旧大水川 の流域は水田地帯でした。写真に見える新しい住宅地の場所も水田でした。藤井寺市域の中でも、最も水田が広く存在していた地域です。 その水田地帯で大水川がどれだけ重要な存在であったかは、説明するまでもないでしょう。昔の地図を見ても、大水川流域にはため池など 存在しません。必要がなかったからです。 写真で府道12号・堺大和高田線から北側を見ると、旧大水川の流路に少しばかり疑問が湧いてきます。何でこんな曲がり方をしているの だろうか?そう思いませんか。自然にできた川の流路が、こんなに直線的な曲がり方になるはずはありません。もちろん人の手によって造 られた流路です。直線的な流路は、水田の地割りに沿って造られたからです。この地域一帯は、古代条理の地割りがそのまま残っている所 です。写真でも、正方形の地割りの並んだその様子がわかります。その条理地割りに沿わせて、わさわざ流路をグニャグニャと曲げていま す。おそらくは、多くの田に水を配水しやすいように考えられた流路がこの形だったのでしょう。大水川からは、さらに多くの小さい水路 で方々の田に水が入れられます。このような大水川の姿は、近世以前にすでに出来上がっていたものと思われます。 以上は、水田による稲作農業を進める上での必要から行われた流路の改変でした。では、写真のピンク色の流路はなぜ造られたのでしょ うか。ことは現代の話です。稲作農業が減少したことによって起きた変化です。 田畑の減少と内水氾濫−市街化によって起きた変化 写真Mの様子は昭和30年代中頃ですが、この頃には高度経済成長期に入りかけており、大阪市周辺の郊外都市でもベッドタウン化が始ま っていました。藤井寺市域でも住宅公団の団地や府営住宅などの公営住宅をはじめ、民間業者による新たな住宅地開発が次々と進められて いました。写真Mに写っている田畑は、現在ではほんのわずかしか残っていません。市域のほとんどは市街化しています。 このように、土地利用のあり方に大きな変化があったことで、藤井寺市内では内水氾濫(はんらん)の起きる頻度が増してきました。これは、 西隣りの松原市などでも共通する問題でした。内水氾濫とは、堤防で守られた内側の土地にある内水(ないすい)の水はけが悪化し、道路や建物 が水につかってしまう状況を言います。藤井寺市の場合、落堀川に集まる大水川などの水がうまく大和川に流入することができず、上流部 の藤井寺市内、特に北部の低地地域で浸水が起きるのです。端的に言えば、大水川などの水路に集まる水が増え過ぎたのです。と言っても この地域の降水量そのものが増えたわけではありません。増えたのは、“水路に集まる水の量”です。 広い範囲に水田が分布していた時代には、大雨が降った時でも、地上に落ちた大量の雨水は一旦水田に流れ込みました。一度に大水川な どに流入することはなかったのです。また、畑など土で覆われた部分も多く、降り落ちた雨は順々にしみ込んで行きました。藤井寺市域の 南側上流部には多くのため池も分布しており、ここも一時的な貯水の役割を果たしていました。 ところが、市街化した地域が広がったことにより、地上に降った雨水が短時間で大水川などの水路に集中するようになりました。一時的 に雨水を溜めていた水田やため池はどんどん減少し、住宅地が増えて道路も舗装され、雨水がしみ込んでいた土の部分も減る一方でした。 梅雨や台風などによる豪雨の時には、一気に大量の雨水が水路に流れ込み、大水川や落堀川は急速に増水するようになりました。そして、 あちこちで内水氾濫が起きるようになったのです。それまでにも、たまに内水氾濫の起きることはありましたが、藤井寺市の人口増加や市 街化と比例するようにその頻度が高まっていきました。抜本的な治水対策が求められました。その中心となる水路が大水川・落堀川でした。 大水川の改修事業−下水処理施設建設と並行して 大水川には、それまでに想定されていた流量を遥かに超える水が短時間に流入するようになったわけで、対策としては大水川の排水能力 を上げて、単位時間当たりの流量を増やすことが必要です。そのように川の規模を変える改修が計画されました。そうして実現したのが、 現在わたしたちが目にしている大水川の姿です。 大水川の改修事業は大きく2つに分けられます。写真Mで、府道堺大和高田線から南側の部分は、基本的に従来からあった流路を拡幅し て底を深くする改修でした。もう1つは、堺大和高田線から北側に新しい流路を造る工事です。バイパスとなる新川の建設ですが、その流 路は、地形に沿って本来流れていたはずの自然流路の位置に近いものでした。 新大水川は、旧大水川に比べるとその規模がかなり拡大されています。そこには、並行して進められる下水処理場建設を含む下水処理事 業との関連がありました。新大水川は、藤井寺市域における下水処理事業の中で、「雨水幹線」としての役割が位置付けられたのです。雨 水幹線とは、雨水を集めて放流先へ流すための幹線流路という役目です。藤井寺市を含む南河内地域一帯の下水処理事業のシステムは、他 の多くの地域でもそうであるように、「分流式」になっています。雨水と汚水を別々の下水道で集めて処理をする方式です。両方を一緒に して下水処理場に送ると、降雨時には大量の雨水が処理場に流入してくることになり、処理能力を超えてしまいます。特別な処理を必要と しない雨水は、別に集めて直接海へ流す方が合理的です。マンホールの蓋で「雨水」とか「汚水」の文字を見かけますが、あれが分流式を 表しています。 写真Mの色表示にある通り、大水川と大井水みらいセンターはぴったりと隣接しています。もちろん偶然ではありません。大水川新設と 下水処理場建設とは、関連事業として計画的に進められてきたものです。下水処理事業という大枠の中での建設工事だったのです。写真22) で紹介したように、大水川東岸には、水みらいセンターで浄化処理が終わった処理水を放流する放流口が設けられており、常時処理水が流 れています。この処理水は、落堀川を経由してやがて大和川へ放流されます。これらも、大和川水系を構成する全体の一部なのです。 一方、大水川の排水能力が上がっても、その水を大和川へ流す落堀川の排水能力が上がらなければ、結局は同じように内水氾濫が起きて しまいます。落堀川も計画的な改修が進められましたが、流入する水路の数が多く、大水川以上に急速な増水が起きる川となっていました。 流路延長も長く、地形や市街化の状況から大規模な拡幅改修は困難で、別の対策が行われました。それが雨水ポンプ場の建設です。豪雨で 落堀川が一気に増水するような時に、大型排水ポンプで強制的に大和川へ直接排水してしまう、というものです。現在藤井寺市内には、2 ヵ所の雨水ポンプ場が設置されています。「小山雨水ポンプ場」と「北條雨水ポンプ場」です。詳しくは別ページで紹介していますので、 そちらをご覧ください。なお、松原市・堺市にも各1ヵ所のポンプ場が造られています。 「小山雨水ポンプ場・北條雨水ポンプ場」 |
藤井寺市の地形−等高線で見る高低差 右の23)図は、藤井寺市の地形を表した段彩等高線図です。土地 の高低が見やすいように私が段彩の着色加工を施しました。基図 は藤井寺市文化財保護課が各種出版物に掲載しているもので、こ の図は『津堂城山古墳』(2013年)から借用しました。 別ページに もっと大きい図を載せています。 「藤井寺市の地形」 この等高線図は、もともとは古市古墳群の古墳分布の様子を示 すものとして作成されているため、古墳は消滅して現存しないも のも表されています。古墳の形状も、発掘調査の成果からわかっ ている築造当時の姿で描かれており、現在は無い周濠や周堤も含 めた規模で示されています。もちろん、築造時期は同時ではない ので、実際にはこの図のようにすべての古墳が揃って見えること はありません。あくまで古墳群全体の分布図です。 大水川などの主要水路も、古墳時代以降の時代に定着したと思 われる流路で示されています。ただし、大和川の付け替えが行わ れる以前の大水川の流路と、付け替え以後に登場した落堀川とが 一緒に描かれています。同じ時には存在しない流路の組み合わせ になっています。しかも、大和川や石川は現在の状況で描かれて います。つまり、ある時代の同時期的状況を表した地図ではない ということです。その点は注意して見てください。 藤井寺市の地形と大水川 図でわかるように、藤井寺市域の地形は南側が高く、北側へゆ るやかに下って行っています。市の南部は、羽曳野丘陵と呼ばれ る南から延びる丘陵地形の北端部分に当たります。それは低位段 丘と呼ばれる地形で、V字形の段丘を形成しています。東側の半 島のような形の段丘は、「国府(こう)台地」とも呼ばれる場所で、 |
23) 藤井寺市の地形と大水川(大乗川) | |
段彩等高線図で表す藤井寺市の地形と主要水路 『津堂城山古墳』(藤井寺市教育委員会 2013年)の「古市古墳群分布図」より 段彩着色、市域境界・文字・記号の書き入れ等、一部加工。 |
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多くの古墳が築かれた場所として知られています。有名な複合遺跡の「国府遺跡」もこの台地上に存在します。 V字形段丘の中央には、浅いV字谷の地形が広がっています。この一帯に流れ来た水は、当然、谷地形の一番低い部分、つまり谷の中央 部に集まって低い方へ流れて行きます。その自然の法則に従ってできた流れが「大水川」だったのです。ただし、谷地形の一番低い部分を 流れていれば、写真Mや23)図のような妙な曲がり方をした流路にはならないはずです。そのことからも、上で述べたように旧大水川の流路 が人為的に曲げられていることがわかります。23)図で、等高線上の谷底に当たる部分をたどって行くと、西名阪自動車道の少し東側辺りに 流路ができていたはずです。 いずれにせよ、V字谷地形の中央部にできた川は、一帯の水を集めて下流に流すという重要な役割を担っています。その意味で、大水川 は古来、藤井寺市域においては重要な「排水路」として存在してきたのです。もちろん、水田稲作が拡大するためには欠くことのできない 「用水路」でもありました。藤井寺市という行政区域が成立した現代にあっても、市域のまさに中央部にV字谷地形が展開しており、大水 川の存在意義は、依然として古代と変わらぬ重要性を帯びているのです。 古代にも変えられていた流路−元の流れは「大乗川」 @図や23)図を見るとわかりますが、大水川の流路が誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(応神天皇陵)の所で、古墳の外周に沿うような形になっ ています。この流路の形も不自然ですね。そうです。人為的に変えられた流路であることがわかります。古墳の形に合わせて変えたという ことは、古墳築造の前から川が流れていたことを示しています。そうなのです。大水川の流れは、古墳時代以前から存在していました。 古代の川の流れは、自然の法則に従って地形に添って流れる谷川でした。南から北へ向かって、ほぼ一直線に流れ下る川だったのです。 それが、誉田御廟山古墳が築かれる時に、川の流れよりも古墳築造の設計を優先しているのです。下の24)25)図が、古墳築造の前と後を比 べて表した図です。誉田御廟山古墳はまるで大水川の真上にかぶせるように築かれています。分流していた川の流路は1本にまとめられ、 古墳の西側外堤に沿う形に変えられているのがわかります。 ところで、この図でも「大水川」の名称が使われていますが、これは出典の書物にあったままを載せています。もちろん、この時代にこ の名称があったわけではありません。上で紹介したように、「大水川」の名称は1959(昭和34)年に川の管理が大阪府に移った時に付けられ たものです。それ以前は、昔から「大乗川」と呼ばれる川でした。私が旧大水川と呼んでいる流路も、もともとは「大乗川」なのです。23) 図で(大乗川)と書いているのもこれが理由です。「大乗川」が「大水川」に変えられた公式の理由はわかりませんが、私が推測するのは、 「大乗川」は別の所にも在るので、混同を避けるために新名称が付けられたのではないかということです。別の所とはどこでしょうか。@ 図の下の方を見てください。「一級河川 大乗川」とありますね。この川のことです。初めの方で紹介した、大水川の取水樋があるあの大 乗川です。下の24)25)図でも、本来の流れを示す意味では「大乗川」と付ける方が合っていたと思います。 24)25)図で等高線の形を見ると、古代大乗川は地形の谷の部分を北へ向かって流れていたことがわかります。「水は低きに流れる」とい う自然の法則に従ってできた、地形に沿う川だったのです。この川筋を中心とするような位置・形で現代社会に誕生したのが、「藤井寺市」 という自治体でした。古代から現代まで、地形との関係においては何も変わらぬ重要性を持っているのが、大乗川(大水川)なのです。 |
古墳築造で変えられた大水川(大乗川)の流路 |
24) 〈 誉田御廟山古墳築造前 〉 25) 〈 誉田御廟山古墳築造後 〉 『新・古代史検証 日本国の誕生2 巨大古墳の出現』(一瀬和夫 文英堂 2011年)P.167より 河川流路と誉田御廟山古墳を彩色加工の上、誉田断層・羽曳野撓曲の段差ラインと古墳名等を追加。 |
近世に変えられた大乗川の流路−大和川付け替え以降 @図では大乗川が石川に流入しており、藤井寺市域の旧大乗川(旧大水川)とは別の川として存在しています。ここに「大水川」という新 しい名称を必要とした理由があると思われますが、大乗川がなぜ2つになったのか、という経過の中に「大水川」命名の由来を探ることが できるのではないかと思います。 現在「大水川」「大乗川」と呼ばれる川は、23)図や25)図のように、もともとは「大乗川」という一本の川の流路でした。それが、誉田 御廟山古墳付近から北部が大乗川とは切り離された別の川になったのはどうしてでしょうか。今度は近世・江戸時代の話で、「大和川」に 関わります。 現在藤井寺市の北部を流れている大和川は、1704(宝永元)年に造成工事によって造られた川です。それまで石川と合流して北へ向かっ ていた大和川の流路を、合流点から西へ曲げて大阪湾まで新しい流路に変えるという大工事でした。「大和川の付け替え」と呼ばれている 歴史的な大事業でしたが、事業の全体像は別ページを見てください。 「大和川の付け替え」 その付け替え工事でできた川の一部が、 23)図に見える大和川です。よく見ると、北方へ流れて行く大乗川が大和川によって断ち切られ ているのがわかります。大乗川の水を新大和川に流入させることはできないので、堤防の南側に造った落堀川に合流させ、西の方へ流して から大和川へ流入させるようにしました。大乗川から直接大和川に流入させる構造だと、大和川の増水時に逆流してしまうのです。 落堀川に流入する水路はたくさんあり、大雨の時には落堀川自体が氾濫する恐れもありました。流入する水量を少なくするために、大乗 川の水は流路を変えて石川へ流入させるように工事が行われました。「大乗川の切り替え」とも呼ばれています。その結果できた流路が、 @図に見える「一級河川 大乗川」です。23)図のように、それまで誉田御廟山古墳の所まで北にほぼ真っ直ぐ流れていた流路は、現在の古 市駅の南方で北東方向に切り替えられました。その大乗川の様子は、川の上を通過する近鉄・長野線や同・南大阪線の電車から見ることが できます。 なお、大乗川の切り替え点から誉田御廟山古墳の南に至る旧大乗川の部分は、完全に無くなったわけではなく、名残のような細い水路が 現在も存在します。その大部分は暗渠の排水溝となっていて大乗川の名称も失っていますが、旧流路を今なおほぼ保っています。 現在の水源−王水川 現在の法河川大水川は誉田1号暗渠出口から始まりますが、そこに至る水路は誉田御廟山古墳西側の古墳外濠の跡地を流れる王水川から 分岐して北へ向かい、誉田2号暗渠を通って1号暗渠に流れています(@図・D図)。 大水川(王水川)の水源を引き込む取水樋は、国道170号応神陵前交差点の横に立つ大水川説明板によれば、「八ヶ樋取水口」となっていま す。@図で「王水樋」と表示している取水樋のことです。「八ヶ樋」の「八」とは、「八ヵ村」のことを表しており、もととなるのは「八 ヵ村王水樋組合」です。八ヶ樋取水口とは八ヵ村王水樋組合によって設置・管理されていた取水樋なのです。 この八ヵ村王水樋組合は、江戸時代までに成立していたもので、現在の羽曳野・藤井寺の両市域に存在した8ヵ村によって構成されてい ました。この8ヵ村とは、18世紀段階では誉田(現羽曳野市)・道明寺・古室(こむろ)・沢田・林・藤井寺・岡・小山(以上現藤井寺市)でした が、『藤井寺市史第2巻 通史編二 近世』の「第2章 水をめぐる村むらのむすびつき」の記述によれば、戦国時代にはすでに王水樋組合が 成立していたことが述べられており、17世紀段階では7ヵ村組合であったことも示されています。8ヵ村組合が記録された最も古い史料は、 1654(承応3)年のものだそうです。構成する村の数や組み合わせには、時代によって若干の変動があったようです。 王水樋から取水された王水川は、市史に見える江戸時代の史料や絵図では、「王水井路(いじ)」の名でも登場します。「井路」とは用水路 のことで、余分な水を排水する排水路とは区別する意味で用いられる名称です。8つの村が組合を結成して維持・管理する用水路とは、そ れだけ重要な存在であることを物語っています。市史の記述の中には、王水樋組合と他の村との用水をめぐる訴訟や、組合の中の村どうし の水争いなどが度々くり返されてきたことが見られます。組合の中でも村によって王水井路への依存度に差があり、利害の対立が生じるこ とにもなったようです。市史掲載の、米の生産量である「村高」に占める王水井路の「掛かり高(井路に依存する田の獲れ高)」を見ると、 小山村のように村高の8割が王水井路掛かり高である村もあれば、藤井寺村のように3割しかない村もあります。 変わった水源と新しい川の名 石川の樋門から取水された王水川は、誉田御廟山古墳の南側を通って藤井寺市域の北西部に至り落堀川に流入する1本の川です。途中で 誉田御廟山古墳の南にある誉田八幡宮の境内の一部を流れますが、この部分には「放生川(ほうじょうがわ)」という名称も付いています。この王水 川から誉田御廟山古墳の西側で分岐して北へ流れているのが現在の大水川です。つまり、現在の大水川は石川から取水された王水川の水を 水源としています。「現在の」と言ったのは、古大乗川(切り替え以前の大乗川)の一部であった旧大水川には、もともと 23)図のように南か ら来る大乗川の水が流れていたからです。 『羽曳野市史 第二巻 本文編2』の第三章・第三節「水利慣行」の記述の中には、『大乗川の切り替え以前から王水川は誉田御廟山古墳 の南側で大乗川と合流し、同古墳西側の「七ヵ村立会樋(誉田以外の7村)」で大乗川と分流して現在の藤井寺市域へ流れていた』旨のこと が書かれています。つまり、旧大水川である藤井寺市域の大乗川には、もともと王水川と古大乗川の両方の水が流れていたのです。 「大乗川の切り替え」によって、誉田御廟山古墳の南まで来ていた古大乗川の水は流入しなくなりました。藤井寺市域の大乗川も王水川 も、用水の比重を石川の王水樋から来る王水川に移さざるを得なくなったものと思われます。 これらの変化を大枠で捉えれば、藤井寺市域に流れて来る大乗川(大水川)の水は、南から来る古大乗川の水とは別の水に変わったという ことです。それは、“別の川”になったとも言えます。1959(昭和34)年に「大水川」の名称に変えられたのは、ここに理由の源があったの ではないかと思われます。水源が異なるのに同じ名前の川が近くにあるのは、何かにつけ混同や間違いのもととなりやすいからです。 もとは「大乗川」であったが「王水川」を水源とする川に変わった、という経過から、2つの川の名にちなんで「大水川」という合成名 が付けられたのではないかと推測されます。 @図にあるこの王水取水樋の位置を23)図に対応させて見ると、あることに気がつきます。 23)図では、この取水樋から入った水は、藤井 寺市域の東部を北へ流れる水路に流れています。この水路は、@図にある「京樋水路」の元となる流路であったことが見て取れます。しか し、現在は近鉄線をくぐる所で西へ急に折れ、王水川として流れています。京樋水路へ水を送るための取水樋や導水路がもう少し北側に造 られています。@図と23)図をよく参照して見てください。 23)図の大乗川や京樋水路の流路は、大和川付け替え以前の状況を示しているも のと見られます。 余談ですが、『羽曳野市史』の史料編に掲載の史料では、江戸期の古文書の中に大乗川や王水川の当て字書きが見られます。「大乗川→ 大上川」「王水川→大水川」などです。古文書ではよく見られる例ですが、これらから「だいじょうがわ」「おうずいがわ」の呼び名であ ったこともわかります。ただ、現在の川の名称と混同しないよう注意は必要でしょう。 目立たずとも重要な「大水川」 少々長い説明となりましたが、「大水川」という川が、度々流路を変えられたり名前を変えられたりしてきた歴史を紹介しました。藤井 寺市内では、同じ市内に大和川や石川という大きな川が流れているために、川と言うとどうしてもそちらに目が向いてしまいます。しかし ながら、紹介したように地形との関係を見ていくと、この地域にとって大水川が大変重要な存在であることをわかっていただけると思いま す。日頃大水川が注目されることは、まずないと言ってよいでしょう。注目されることもほぼありません。実に目立たない川と言える存在 だと思います。ところが、ひとたび地域が集中豪雨にあえば、大水川の役割は最重要となってくるのです。落堀川の立場もほぼ同じだと言 ってよいでしょう。 現在藤井寺市で想定される水害で、頻度が多いものとして心配されるのは大和川や石川の本川氾濫ではありません。過去の経過や最近の 降雨傾向などから最も起きやすい水害として心配されるのは、上で述べた「内水氾濫」です。事実、過去数十年間に市内で起きた水害は、 すべて内水氾濫です。だからこそ、大水川と落堀川に特別な治水対策事業が行われてきたわけです。それでも、従来の想定を超える流量が 集中した場合には、たちまち内水氾濫は起こり得ます。日頃目立たない川ですが、時には振り返って見ておくことも大切ではないでしょう か。 「藤井寺市の防災−想定地図」 「藤井寺市の災害−過去の記録」 |