村上春樹の「グレート・ギャツビー」

村上春樹訳の「グレート・ギャツビー」を図書館で借りようと思ったら3ヶ月以上も待つことになった。このような作品にこれほどの人気が集まるとは、やはり村上春樹効果でしょう。

彼は他にも数多くの翻訳を手がけているが、どれを読んでも村上春樹、という気がしていた。作家として自分の文体から離れられないのは仕方がないのだろうが、ならば、翻訳は翻訳家にまかせ、小説を書いたらどうだろう。

今回のように彼が翻訳することで、誰も読まなくなった作品を多くの読者が手に取るようになるのはいいことに違いないが、などと思いながら読んだら、驚いた。今回も他作品同様村上春樹だったが、これが作品世界にぴったりはまっている。へえ、フィッツジェラルドの世界こそが村上春樹だったのか。「グレート・ギャツビー」という作品に巡り会わなかったら、僕(村上春樹)はたぶん今とは違う小説を書いていたのではあるまいか(あるいは何も書いていなかった)、がすんなりと理解できた。

「世界でいちばん面白い英文学講義」のエリオット・エンゲルは、フィッツジェラルドは美しい、イメージ豊かな、まるで詩のように読める散文を書いた、と言っているが、そのような良さを翻訳で味わうのは難しい。

村上春樹は「あとがき」の中で書いている。「グレート・ギャツビー」という小説は、これまで日本の大部分の読者に、本当に正当には評価されてこなかったのではないか。そこには、翻訳の限界という大きな障害が存在している。今回の翻訳にあたっては、最優先事項として、現代に生きている話にすることだ、と。これはかなり成功しているのではなかろうか。ただ、私が気に入っている箇所は、彼の翻訳よりも、今までの翻訳の方がいい。それを紹介したくて、前置きを長々書いてしまいました。

中西部から東部にやってきたこの作品の語り手、ニック・キャラウェイは、引っ越して1日2日孤独を感じるが、引っ越したばかりの男に道を聞かれて気分が一変する。この物語の扉が開く印象的な場面だ。

I was lonely no longer. I was a guide, a pathfinder, an original settler.

I had that familiar conviction that life was beginning over again with the summer.

<今までの訳>

「もうぼくは孤独ではなかった。ぼくは案内者だった。開拓者であり土地の草分けである」

「ぼくは、この夏とともに生命がまたよみがえるのだという、あの何度か味わった確信を抱いた」

<村上春樹訳>

「自分がもう孤独ではないことに思い当たった。僕は道先案内人であり、開拓者であり、最初の入植者なのだ」

「夏とともに生命がまた新たに開始するのだという、あの昔ながらの確信をぼくは抱くことができた」

もうひとつは、ギャツビーがすべてを賭けて取り戻そうとしたかつての恋人、デイジーに再会した後の場面だ。再会を取り持ったニックは、自宅に戻ろうとする。別れの挨拶をしようとギャツビーに近づいた時、彼の顔に困惑があるのに気づく。私としてはこの部分が、この作品のすべてを物語っていると思っている。作品の核心部分だ。

There must have been moments even that afternoon when Daisy tumbled short of his dreams - not through her own fault, but because of the colossal vitality of his illusion. It had gone beyond her, beyond everything.

<今までの訳>

「あの午後だって、デイジーが彼の夢を裏切る瞬間が何度かあったに違いない。彼女のせいではない。ギャツビーの幻影があまりにも大きな力で飛翔するからだ。彼女の及ばぬところまで、何ものも及ばぬところまで、それは天翔(あまがけ)ってしまったのだ」

<村上春樹訳>

「デイジーが彼の夢に追いつけないという事態は、その午後にだって幾度も生じたに違いない。しかしそのことでデイジーを責めるのは酷というものだ。結局のところ、彼の幻想の持つ活力があまりにも並はずれたものだったのだ。それはデイジーを既に凌駕していたし、あらゆるものを凌駕してしまっていた」

*<今までの訳>は、たぶん、野崎孝訳。

 「グレート・ギャツビー」は、愛、夢、恋、女、金、富、成功、ロマン、青春、華麗、挫折などの言葉で語られるが、それだけではないだろう。それらは状況設定で、作品世界を作る道具にすぎず、実際は人間の実存を描く実存主義小説ではなかろうか。

 デイジーは裕福な上流階級のトムと結婚するが、彼は落ち着いた生活を送ることができない。そんなトムをニック・キャラウェイは次のように語っている。

「彼(トム)がそのように各地を転々としながら、心の底で求めているものは、もう二度と取りもどすことのできない過ぎし日のフットボール・ゲームの、心躍る波瀾万丈のようなものではなかったろうか」

そのトムと不倫関係にあるマートルは、「人は永遠に生きられない。人は永遠に生きられない」と頭の中で繰り返しながらトムと会う。マートルはその後、デイジーが運転する車に轢かれて死ぬ。

ギャツビーの隣に住む語り手のニックは、デイジーとトムとギャツビーの三角関係の破綻を目の当たりにして、自分自身のことを考える。

「三十歳−それが約束するのはこれからの孤独な十年間だ。交際する独身の友人のリストは短いものになっていくだろう。情熱を詰めた書類鞄は次第に薄くなり、髪だって乏しくなっていくだろう」

将来の見通しを持てず、不安を募らせるニックだが、なんとか希望を持とうとする。

「でも僕の隣にはジョーダンがいる。この女はデイジーと違い、ずっと昔に忘れられた夢を、時代が変わってもひきずりまわすような愚かしい真似はすまい」

だが、結局、ニックはその恋人のジョーダンにも失望し、別れてしまう。

「その新しい世界にあってはすべての中身が空疎であり、哀れな亡霊たちが空気のかわりに夢を呼吸し、たまさかの身としてあたりをさすらっていた」

すべてが終わった世界はこのように描かれる。

この夏とともに生命がまたよみがえるのだという確信を抱いて登場したニックは、故郷の中西部に帰り、物語は終わる。

*「 」内はすべて村上春樹訳

フィッツジェラルドは、華やかな世界で生きる人間の不安や孤独を描いているが、そこに描かれているのは人間存在そのものではなかろうか。それはおしゃれで洗練された世界の背後に、人間の実存を描いている村上春樹の世界ときれいにシンクロしている。

英語の原文は、村上春樹によると「空気の微妙な流れにあわせて色合いや模様やリズムを刻々と変化させていく、その自由自在、融通無碍な美しい文体についていくのは、正直言ってかなりの読み手でないとむずかしいだろう」ということだ。 誰かが言っていたが、「グレート・ギャツビー」は英語を学ぶ人には必読書らしい。

「グレート・ギャツビー」については本誌HP

F・スコット・フィッツジェラルドについては本誌HP



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