文学shortコラム (アメリカ文学)


グレート・ギャツビー(The Great Gatsby)

 フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー(The Great Gatsby)」(1925)は、中西部から東部へやってきて、再び中西部へ帰ってしまうニック・キャラウェイが語る物語です。ニューヨーク市から20マイル離れた郊外に部屋を借りたニックは、一日二日孤独を感じますが、引っ越したばかりの男に道を聞かれたことで気分は一変します。

「もうぼくは孤独ではなかった。ぼくは案内者だった。開拓者であり土地の草分けである。」

「ぼくは、この夏とともに生命がまたよみがえるのだという、あの何度か味わった確信を抱いた。」

 ニックはこの生命の確信から出発し、幻滅を感じて東部を去りますが、彼はギャツビーとともに、作者の分身であり、時代の象徴でもあります。

 ノース・ダコタの寒村の百姓の子として生まれたギャツビーは、密造酒で巨万の富を得、お金持ちの妻となったかつての恋人デイジーを取り戻そうとします。彼はデイジーの邸宅の対岸の屋敷を購入し、彼女の気を惹こうと毎夜盛大なパーティを開きます。二人は再会し、ギャツビーの望みはかなうかにみえますが、デイジーの起こした轢き逃げ事故が原因で、被害者の夫にプールで撃ち殺されてしまいます。

 単純に考えればギャツビーのサクセスストーリー、その栄光と挫折、物質的成功は人を幸せにはしない、などとなりますが、ギャツビーの見た夢は、富を得て成功することでも、その富でかつての恋人を取り戻すことでもありません。デイジーの像はギャツビーの中でふくらみ、彼女は彼が見たい夢の象徴となったわけです。語り手のニックは二人の再会の時こういいます。

「あの午後だって、デイジーが彼の夢を裏切る瞬間が何度かあったに違いない。」

「彼女のせいではない。ギャツビーの幻影があまりにも大きな力で飛翔するからだ。彼女の及ばぬところまで、何ものも及ばぬところまで、それは天がけってしまったのだ。」

 デイジーという有限な存在は、ギャツビーが求めていた夢にはなれないわけですが、その夢はデイジーという有限な存在を通してしか見ることができないわけです。これはかつて新大陸に、あるいは西部に夢を求め、イメージとしての楽園を追求し続けたアメリカ人の原型にも重なりますし、求めて得たものに決して満足することなく新たな何かを求め続けている人間一般にも重なるような気がします。

 ギャツビーがグレートと呼ばれるのは、あきらめることなく不屈の精神で現実の向こうにある何かをつかもうとしたことではないでしょうか。




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