ラリーレイドモンゴル2002参戦記

 

8月17日  ETAP−6後半

 RCP(296Km地点)を発ち、フラットダートを前方に見える山を目指し、駆け抜ける。しばらくは、誰かを抜く事もなく抜かれる事もなく、ナビゲーションもそれ程難しくなく、淡々と進む。
 そしていよいよ山岳コースへ突入。

 

 日本の林道の様に序々に高度を上げていくのではなく、取りあえず行ける所を一気に駆け上がるようにピストが続いている。そして一番高い所まで行くと、大きな岩だけは避けながらも、今度はほぼ一直線に下っていく。その繰り返し。
 ピストというのは基本的にモンゴルの人々が、現在いる場所から目的地に向かって、自動車や人馬が走りやすい所をなるべく最短距離で走った結果できた轍で、そこを繰り返し走行することによってできた踏み分け道の事をいうらしい。
「ということは、これでもこのコースは、走りやすいところなんだ・・・」 しかも“山”といえば、木々が生い茂っているのが普通だが、全く木が生えていない。恐ろしいくらいに全てが見まわせる。崖の底まで見えなくてもいいのに見えてしまう。
ルートインフォメーションによると、阿蘇の標高と同じらしい。 「確かに絶景なんだけど、これじゃ絶叫だよ」
(・・・って、オイ。つまんネェ。 日本の絶叫マシンより、スリル満点)

 

 ハンガイ山脈の尾根づたいに走行を続ける。しかも急角度の逆バンクが多い。オフ雑誌のガルルの記事で前に“トモさんの林道スーパーテクニック”というコーナーがあり、吉原朋正さんが、キャンバー走行の説明でよく、“ヤジロベイ”なるバランスの取り方を解説していた事を思い出し、車体を山側に傾け、身体の重心をその逆側にかけ、慎重にクリアしていく。谷側にGSを倒したら、エライことになってしまう。とにかくペースは上がらない。

 

 100km弱の山岳セクションがようやく終わる。その間、XR2台にパスされた。もっと多く、パスされると思っていた。
「みんな、やっぱり慎重に走行してるんだ。それとも俺が速いのか?」 (そんなわけない)
自分自身では度胸が据わった男であると自負していたが、こんなに憶病だったとは・・・・。

 

 実は山岳路を走行中から、リアサスに違和感を持ち始めていた。前方にゲルが4つ見える。コマ図ではそのゲルの手前を右に曲がるように指示されている。ゲルの前では、そこの住民達が手を振って応援してくれている。そこを右に曲がる瞬間に急にハンドルをとられ、なすすべなくスリップダウン。横滑りのかたちで転倒。すぐさま、ゲルの子供たちがものすごい勢いで駆け寄ってくる。その後ろを大人たちが何やら声をあげながら、やって来る。アッという間に、GSと私は囲まれた。実際にはみんないい人ばかりなんだけど、こういう時はすごいプレッシャーになるし、好奇心旺盛な子供たちが、マシンに触れたり、装備品をいじったり、なかにはヘルメットを被ってしまう子もいたりで、リカバリーに集中出来ずに苛ついてしまう(心の狭さを反省)。
 リアサスが壊れたかと大いに心配したが、見たところ何でもなさそう。GSを起そうとするが、右胸の痛みにひるんでしまい、起せず。それを見たゲルの人たちが、ワッと集まり、GSを起してくれる。(さっきは邪魔だと、このモンゴルの人たちのことを思ってしまいゴメンナサイ) お礼を身振り、手振りで表し、スタート・・・のはずが、

「勘弁してくれよ!なんで俺ばっかり、こうなるんだよ。」 なんと、またまたフロントタイヤがパンクしていた。リアではなくフロントタイヤのパンクが原因でハンドルをとられ、転倒したのだ。リアサスばかり気にしていて、パンクした事に気ずかなかった。ゲルの人たちも、フロントタイヤがパンクしていることを指をさし、教えてくれた。立ち直れないくらいの大きなショック、というよりも、立ち直りたくないとさえ思えるショックだった。「こんなに乗れてたのに・・・、5回目かよ。」

その場に座りこんで、しばしぼう然。(こんな情けない日本人をゲルの人たちは、どう思っていたのでしょうか?)

#26F650ダカール三ヶ尻さんが通過する。手で“大丈夫”の合図を送る。子どもたちが、なにやら一生懸命声をかけてくれる。どうやら「がんばれ、がんばれ」と言ってくれているようだ。少しすると大人たちも言い始める。だんだん恥ずかしくなっきた。「たかがパンクくらいで、うちひがれてどうすんだよ!」 やる気復活。(モンゴルの人たちのおかげです)
 ここのゲルの人たちはいい人ばかりだけど、どうしてもパンク修理は囲まれたくないので、パンクしたままスタート。

 

 ゲルが見えなくなるところまでパンクしたまま、なんとか走り、パンク修理開始(440km地点)。・・とすぐに、馬に乗ってさっきのゲルの少年2人がやってくる。ここまでくれば見えないだろうと思ったが、さにあらず。「それにしてもこんな幼い子が、こんなデカい馬をこんなにうまく操るなんて。それにひきかえ俺はいつまでたっても、デカいのに振り回されている。」
 作業開始直後に#1パイロット菅原さんが、往く。昨日のビバークで菅原さんが、「パンクしたら、先ず気を落ちつ かせる為に、煙草を吸う」と言っていた。私は煙草は吸わないが、あせってはダメという事だ。
 パンク修理はおもいのほか力のいる作業。アクスルシャフトを抜くにも、ビードを落とすにも、チューブを取り出すにも、そのたび、右胸に痛みが走り、「グゥオー、痛てェー」の繰り返しで、時間がかかる。作業を見ていたゲルの少年2人も唸る日本人を奇怪に感じたのか?作業を見るのに飽きたのか、ゲルに戻っていった。その間に、8台のエントラントが通過する。そうなると「落ち着け、あせるな」と自分に言い聞かせるが、もう落ち着く事が出来ない。順位は気にしてないが、残り160kmの距離と日没時刻を考えるとどうしようもない。今日の後半は、川渡りのオンパレード。しかもコマ図に、“ラリー最大の難所”と記載のある川渡りもある。ただでさえ、無難にこなせる実力も無いのに、日が暮れて真っ暗闇で川を渡るなんて想像も出来ない。結局、経験ナシ、実力ナシのド素人が陥る罠にまんまとハマッてゆく。

 

 そうこうしながらも、チューブを交換、リムとタイヤをセットし、エアーを入れるがいくら入れても全く圧がかからない。
「!?。なにやってんだよ!バカ野朗が!やめちまえよー!」 誰もいないので、怒鳴りまくった。なんと穴の開いたチューブと新品チューブとを間違え、また穴の開いた方を組み込んでしまった(恥ずかしい限りです)。
 あせっているのか、どうなのかとにかくドタバタ。その間にも、オンコース上で作業している為、後続車が通過する。
「もう、いいや」と、つぶやきつつも、「冷静になれ、この状況を楽しめ」と、自分を励ます自分がいて、精神状態はグチャグチャ、右胸の痛みは相変わらずの中でのやり直し作業。

 

 今度は慎重に作業し、あとはタイヤ、チューブを組み込んだリムとアクスルシャフトをフロントフォークに通すだけ。
ところが、アクスルシャフトがどうしても貫通しない。リムの下に足の甲を滑り込ませリムを浮かせ、チャレンジ。でもダメ。
試しにリムなしで、フロントフォークの右側から左側に通してみると、この状態だと貫通する。「ということは・・・・」
そこへ#47DJEBEL青本さんが近づいてきたので、停まってもらった(ゴメンナサイ)。
「すみません、ちょっと手伝ってもらえませんか?」 「どうしました?」
「アクスルシャフトが通らなくて、ところでまだ後ろ誰かいますか?」 「自分がラストだと思いますよ」

「えっ、そうですか」 「馬場さんは?」 「馬場さん?わかりません」

 そんな会話をしながら、リムをもちあげてもらい、シャフトを通そうとするが、やっぱりダメ。そこへ今度はオフィシャルカーが来た(最後尾のエントラントとカミオントラックの間を走る車両)。
 スタッフの方が車から降りて来て、「どうしました?」 「アクスルシャフトが通らなくて」 「フロントフォークがよれてるんじゃ?」 「アッ!」 たったそれだけの事だった。青本さんに本当に申し訳ない事をした。転倒で、フロントフォークがよれていただけだった。オフ車ではよくある事なのに、そんな単純な事に気づかずに、あせりまくり、しかも競技中の青本さんを停めてしまった。冷静なつもりだったが、動転していたのか?恥ずかしいやら、情けないやら。スタッフの方の「ラリー中には良くある事ですよ」という一言がせめてもの救いだった。青本さんにお礼とお詫びを言い、先に行ってもらう。

 

「あの、馬場さんはどうしました?」 「まだ正式にリタイヤ届け出してないけど、あの状態じゃ無理でしょ」 「やっぱり、マシントラブルですか?」 「まあ、マシントラブルだけど、元はといえば、ミスコースして・・・・、それよりも早く行かないと日が暮れますよ」と促され、ようやく再スタート。

(2時間30分を費やしました。しかもあとでわかりましたが、あろうことかここにタイヤレバーを忘れていきました。今更ですが、ラリーには不向きなのか?結局、あせるな、楽しめと言い聞かせるあまり、その事が逆に、自分自身を追い込んでしまったのでしょう。自分をコントロールするのは難しいッス)

 

 再スタート直後はメインピストをはずれ、CAP走行。多少迷いながらも、最後尾をマイペースで往く。ただ、大きな問題を抱えながらの走行。リアサスが完全に抜けてしまい、ショックを吸収せず、ただのバネ。沈み込んだ分だけ跳ね上がってくる、ロデオ状態。オイル漏れはしてないが、さすがのホワイトパワーも、GSの車重、ライダーのテクニック不足をカバーしきれなかったようだ。WPのリザーバータンクはサスの下側に付いており、スウィングアームとのクリアランスがあまり無い為、こうなると、フルボトムした時に、リザーバータンクとスウィングアームが当たってしまい、リザーバータンクを割ってしまう。そうなれば、即リタイヤ。
「ここまで、WPが下手くそな俺をずっとカバーしてくれた。ここからは俺がWPをカバーする」 (クサいセリフです)
カバーするといっても、私のできる事はギャップにゆっくり進入するだけ。前向きに思う反面、
「こんなんで、川渡り出来るのか?そろそろリタイヤが、近づいてるのか?」と、弱気にもなった(正直に告白します)。

 

 CP−2まであと40kmという地点に村にさしかかる。いつもなら村の人たちが大勢いて、オンコースを教えてくれたが、ここでは自分が最後尾だったので、全員が既に通過したと思い家の中にはいってしまったのか?誰もいない。そうなると得意技の“100%他人頼り、集落通過ナビ”が使えない(困った)。コマ図は村に進入した瞬間に無視するのが、“100%他人・・・(わかったよ)”の通例。村の中の轍は当てにならない。仕方ないので、GPSの指す方向へまっしぐら。

 

 世の中そうは甘くない。村を出たはいいが完全にミスコース。かなりの高さのアップダウンの連続する丘陵地帯に入り込んでしまった。角度的には日本の河川敷の土手くらいだが、なんせその高さにビビる。20m、30mあるところもある。しかもオンコースではない為、どこに穴や岩が在るかわからない。リアサスを気にしながらアップダウンを繰り返す。
特にヒルクライム時には途中で失速しない様に一発勝負。(HPN田中隊長もここに迷い込んだそうです)
 丘の高い所にいくと、ピストらしきものが見える。「オンコース?」 とりあえず、そこに向う。また丘の上にいくと今度はパンク修理時に追いつかれたオフィシャルカーが左前方に見える。「やっぱ、あそこがオンコースだ!」 ただ一直線には行けない。そそり立つ岩山に行く手を阻まれ引き返したり、降りれない崖に沿って遠回りしたりながら、やっとの思いでオンコースへ。そして本当に長い時間かかった様な気分でCP−2(508km地点)へ到着。

 

 「自分がラストですか?」とオフィシャルに聞く。「いや、あと1人います」 「馬場さんですか?」
「違います。馬場さんは残念ながらリタイヤです。」(みんなから聞いた状況では、おそらくリタイヤだろうと思ってはいたが正式に聞き、ショックでした。後でわかったことですが、この時のあと一人は米津 誠さんでした。心よりご冥福をお祈りします)
 水分補給をして、残り100km、日没までの時間とも競争。でもリアサスを考えると無理できない(泣)。右胸も(痛)。
ミスコースによるタイムロスだけは、さけたい。

 

 この辺りになると、目に映る緑が多くというよりも、濃くなってくる。川も多いし、大地が潤っている感じだ。と同時にウランバートルに近づいているという事。通過する村の規模も大きくなっている。ダートとはいえ、ピストというよりも生活道といえる。だんだん、人間が手を加えた物、つくった物が目にはいる回数が多くなる。

 

 「なるほど、そういう事か!ピストが生活道となり、コースが単純で、ただのキャノンボールになってしまう。そこでCAPを多くし、ナビを難しくして、スリルを演出してるんだ。そういえば、今までの村はピストが放射状に無数にあったが、この辺りは、村から村へはっきりとした道が1本つながっているだけ。その道を中心にCAPの指示により、ジグザグに進んでるんだ」(言ってること、わかりましたか?)

 

 丘陵地帯で前方に見えたオフィシャルカーをやっと抜く。川をいくつか渡る。(一度だけコケたが大事に至らず)
「あれっ?GPSが全然違う方を指してる」 方位を確認していたつもりだったが、ミスコース。それ程、大きくはオンコースからは離れていない様なので、右往左往するよりは、たまたま前方にいるモンゴル人に聞いた方がタイムロスしないだろうとの判断でモンゴル人の2人に近づく。「ゲッ!!!。軍人?それとも狩人?」 2人とも銃を背負っている。
「狩りだよな、兵隊がこんな所にいねえよな?でも遊牧民が狩りするなんて聞いた事ねえし?まあどっちにしても撃たれる事はねえだろ」と、緊張しながらも手振りでオンコースを尋ねると、すぐにラリーのエントラントとわかってくれた様で指でルートの方向を教えてくれた。そして2人とも右手のこぶしを胸の前で上下に振ってくれた。(この動作は、モンゴルの人が、私たちラリーストを見るとよくやってました。この動作は“がんばれ”という意味だと勝手に思い込んでいます。それにしても良い人でよかったです)

 

 ピストが3方向に分岐する地点。1本はそのままストレート、1本は90度に左折、もう1本はその間でちょうど45度の方角に伸びている。ストレートは完全に違う。GPSは90度と45度の間を指している。何とも微妙。轍も両方にある。ここは、勘にたより45度の方へ進もうとすると、90度の方向の遠い所からヘッドライトがもどってくるのが見えた。
「やっぱり、俺が合ってんだ」 ルートが合っているという事よりも、これで自分よりうしろに確実に誰かがいるという事の安心感が、嬉しかった。(ラリーレイドモンゴルにはランタンルージュという賞があります。大きなペナルティーがなく、最下位の人が大体受賞します。毎日、夜になったり、トラブっても後続車がいないので、自分1人で解決しなければなりません。それをのりきった人が受賞します。それくらい、最後尾を往くというのは精神的、肉体的にプレッシャーがかかります)

 

 いよいよ、コマ図に“最大の難所”と記載のある川渡りが近づく。ここが正念場。 「やったる!」(いつから関西人?)
前方に川が見える。今朝のブリーフィングで#15F650ダカール小林さんが「最大の難所の川渡りは、深さが大変なんですか?川幅ですか?」と質問をした。「両方です。試走の時は、腰から胸くらいまでの深さでした」と、山田徹さんが答えた。それを聞き、「胸って、それじゃ渡れないですよ」と誰かが言う。
「試走は大雨の直後でしたから、まあ今日はそこまでは無いと思いますが、覚悟はしておいてください」 そんなやり取りがあった。この時にマシンを降りて、押し歩きで渡る事を決めていた。
 川の向こうに村がある。「最悪の時は、村の人に頼んで馬に引いてもらおう。」 レギュレーションの装備品の中にはないが、HPN田中隊長のアドバイスで10mのロープを準備していた。BigOffで川の中でエンジンが止まった場合、とてもじゃないが、1人で押すのは無理なので、そのロープで誰かに引いてもらう為に準備していた。
 川岸に到着。「あれ〜?」確かに川幅はあるが、川の底がはっきり見える。「浅いじゃん。まてよ?もしかすると・・・・」
なんといっても、“最大の難所”である。途中にポッカリ深いところがあるやも知れない。慎重な(臆病?)私は念のため歩いて渡ってみた。「ウソ〜?」 結局深い所でも、ヒザくらいしかない。「なあ〜んだ」 拍子抜け。さっきまでの、気合いと、不安な気持ちが、えらく笑えた。(ふぅ〜。助かった)今年のモンゴルは異常気象で夏になってから、全く降雨がないらしい。(地球は病んでいる)

 

 残り50km。なんとか薄暗いというころに、ゴール出来そうだ。前方の川にめずらしく木の橋が架かっている。コマ図に{この橋、ハシを通るべし}と書いてある。「一休さんの、トンチじゃあるまいし・・・ってオイ!」 橋の真ん中の部分の板が朽ちて、50cm位の穴が開いている。フロントは勢いで越えたが、リアタイヤがひっかかり、リアサスはただのバネなので大きく跳ね上げられた。腕はハンドルにしっかりしがみついたが、足がステップから離れ、尻も浮き、一瞬シートの上に正座した状態になった。何とか転倒は免れたが、心臓が1年分くらい脈をうった。(さすがはSSER,強烈なシャレです)

 

 その後も川を渡るが、どこも水量が少なく、事なきを得る。あと20km、そしてあと10km、9、8、7、6、5、4、3、2、

「このカーブを曲がれば、ゲートが見え・・・?あれっ、見えんぞ」 距離メーターはゴールの600.72kmを過ぎている。GPSはまだ先を示しているが、コマ図とおりの距離に川もあったし、おかしいな?と思いつつ、先に伸びる轍を追う。
 頭に籠をのせた2人のモンゴルの女性がいたので、聞いてみると目の前の丘を越えるとビバークだと言う。(1人の子はメチャクチャ可愛い。ビバークはいいから、女の子についてこうかなと思いました)

 

 言われたとおり、丘を越えるとビバークが見えた。側をきれいな川が流れ、ゾーモットに負けず劣らずのロケーション。またまた、拍手に迎えられゲートをくぐる。 「くう〜っ!モンゴル万歳!」 訳も判らず口走る。全ての苦労が報われる。
最高に充実した気分に浸れる瞬間。(瞬間と書いて『トキ』と読みます。ちなみに本気と書いて『マジ』。アシカラズ)
と同時に、「こんな気分もあと2回か、は〜あ」(終わって欲しくない)
 ETAP−2,ETAP−5は肉体的にハードであったが、今日は精神的に最高な状態になったり、どん底になったり、自ら、自分を追い込んでしまったりで、気持ちをコントロールできず、メンタル面でタフな1日になった。

 

 「なんか?いつもと違うな」 ビバーク内の雰囲気がいつもと違う。ちょうど21:00のゴールだったので、夕食の時間。みんなペットボトルを切って、スプーン代わりにしているし、容器にもペットボトルを使っている。「食器どうしたんだ?」
バカミーズの田中隊長、田中ユキさんと菅原さんの3人で1つのテーブルを囲んでいるので、そこへ行くと、田中隊長に
「鵜澤さん、お疲れ様。毎日、ネバルねえ。走るのはあと1日だから、がんばろう」と言われた。「エッ?あと1日?」 
「明日のコースになっている村で、たん素菌が発生し、軍や警察が村を封鎖してるんだって、だから明日はレストDAY。スタッフとかダッフルを乗せたキャラバン隊もまだ到着してないよ」との事。「だからビバークがいつもと違うように感じたんだ。」 どうやら、キャラバン隊はその村をとおり、ビバークに来る予定だったらしいが、コース変更を余儀なくされ、かなりの遠回りをしながらビバークに向っているらしい。ビバークに到着するのは朝方になる見込み。それでみんな、ペットボトルを食器にしてたのだ。という事は、テントもないし、着替えもない。マシンの整備も出来ない。

 それにしても、村を封鎖するという事は、村の中の人も村外には出れないので、その村を犠牲にして、他に伝染しないようにしているのだろうか?村の人たちはもう助からないのか?ワクチンはないんだろうか?日本は恵まれている事を痛感した。ラリーという夢のような世界から、現実の世界に戻らされた。ラリー中に出会ったモンゴルの人たちの笑顔が頭の中をめぐった。


ETAP−7の中止を発表する山田徹氏。私はこの頃川渡りの最中?

 

 「馬場さんがリタイヤしちゃいました」と、田中ユキさんから言われた。「そうみたいですね。CPでオフィシャルから聞きました。」 切ないことばかり。

 

 バカミーズの面々と食事をとっていると、テルさん(菅原さんのご子息)から、「鵜澤さん、明日なくなって良かったですよ、ETAP−7はBigOffには結構つらいコースでしたから」と言われた。「そんな事はない、仮にあったとしても絶対に走りきってみせる。でもちょっとラッキーかも」 そんな事を思った。まあラリーでは何が起こるかわからないから面白いし、ETAP−7のキャンセルだってそんなラリーの一面。パリダカだって、政情不安で一部がキャンセルになったり、コンボイで移動したりしている。

 

 GSの傍らでライディングジャケットのまま寝ようとするが、昼間の暑さがウソのような寒さで寝付けない。仕方ないので応援メッセージをみたり、みんなとお喋りをして時間をつぶす。
 午前3時頃、キャラバン隊が到着。朝6:00に出発して、21時間もあの車に乗っていたなんて、悲惨の一言。スタッフやメカニックの人たちは、疲労困憊の様子。さすがの上西さんも「もう、あかん。」 ただ同乗していたモンゴル人スタッフたちは、疲れた様子を見せる事無く、テキパキ作業。(タフすぎる) みんなで荷物を降ろすのを手伝い、テントを設営し、寝袋に入り込んだのが、午前4時。長い、長い、1日がようやく終わります。
 「お休みなさ・・・・イテッ、テッ!」(右胸が痛い) 「明日ドクターに見せるべ」

 

SS順位 47位
総合リザルト 44位(51台中)
リタイヤ  計28台

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