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アンサンブル・アメデオ 第1回定期演奏会 パンフレットより
Ensemble Amedeo The 1st Regular Concert
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1981年3月22日(土)
於:銀座中央会館
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MESSAGE
私たちの「アンサンブル・アメディオ」についてちょっとお話しすることにしましょう。
このアンサンブルのメンバーはほとんど皆社会人であり、しかも昨春卒業したばかりの者が大部分です。もちろん学生時代はマンドリンクラブに所属しており、皆色々な大学でそれぞれ活躍していました。言ってみれば本来遊んでいる暇などない雑多な連中の寄せ集めがこのアンサンブルなのですが、その結成のいきさつはと言うと1978年の夏にまで遡ります。
毎年夏に催される行事に私たちが通常”ジュネス”と呼んでいる「青少年音楽祭」なるものがあります。このジュネスではそのつど各大学より精鋭が集められマンドリンオーケストラが編成されるのですが、この年のオーケストラでたまたま一緒に演奏することになったメンバーの中に当時大学3年の私たちがいたのです。といっても中には高校時代からの知り合いもいましたが、大方は初対面の人間ばかりでしたので、最初の間はしらっとした雰囲気だったのですが、音楽という共通項が私達を結びつけました。厳しい練習を重ね、そこで無心になって演奏する姿をお互いに確かめあった時「アメディオ」母体は誕生していたのです。そして同じ年の12月に神戸で行われた学生マンドリン連盟のフェスティバル、80年1月の「JMJコンサート」等の演奏会、いやコンパで顔を合わせる度に親交は深まり、また仲間も増えていきました。しかしこの学生時代の私達は、演奏活動を通して知り合ったとはいえ言ってしまえば単ある遊び友達に過ぎなかった訳です。
そんな私達をアンサンブルを結成させるまでに強く結びつけたのは、音楽をやりたい、演奏したいという欲求と、しかし演奏する場がないという、欲求とは背中合わせの危機感でした。これは実に単純な欲求であり、社会人となれば当然の成り行きかも知れませんが、学生時代には考えもしなかった現実に直面し、また日々厳しい社会での生活からの逃避を少しでも考えた時に心の中で大きく広がっていくものでした。そしてこの純粋で能動的に欲する気持ちこそ音楽を、いや何をやるのにも一番大切なものであり、極言すれば半ば受動的に過ごした学生時代とは比べようもなく活力と全体性を生むものとなるはずです。考えてみれば長い者で10年間、短い者でも4年間親しんできたそれぞれの楽器、そしてそれを通して知った合奏の喜びとは訣別できようはずがなく、実際演奏活動とはさよならして、新しい自分の生活に埋没しようとしていた者も、結成にあたって声をかけてみれば何か糸に手繰られるように仲間に加わってきたのです。これは私自身の実感ですが、音楽の中でも合奏という分野には何か麻薬的な魅力があるように思います。私流に言わせてもらえば中毒患者たち、「アンサンブル・アメディオ」はこうして昨年(80年)10月産声を上げました。
ここで弁解がましくお断りしておかなければならないことがあるのですが、それは本日こうして演奏会を開くにあたって一部で大分議論を重ねなければならなかったことです。と言うのも、アンサンブルの結成に際して自分たちで演奏して楽しめればそれでいいじゃないかという声があったのも一つですが、何よりも人に聞かせるだけの演奏ができるかということでした。実際半年から1年近いブランクは大きく、最初の練習の時などトレモロはできない、左手は動かない、おまけに楽器は鳴らないというひどい状態で、暗澹たる気持ちにさせられたものです。しかしこんな状態でも演奏会をやろうとさせたのは一種の開き直りでしかありません。目標があって追いつめられれば弾けるようになっていくだろうという楽観論。そしてこれは私自身のポリシーでもあるのですが、どうせ技術的なことで勝負するのが無理ならハートで弾こう。そう音楽の心で演奏しよう。今の私達には昔のような腕もないし、練習する時間もありません。しかし過去から現在までの蓄積と経験があります。これを生かして少しでも味わい深く、音楽的な演奏に近づければと一歩一歩、歩みを進めているのですが、僅か5ヶ月程では奥深く入ることもできず、本日微かにでも感じとって頂ける部分があればと願っております。
最後になりましたが、「アンサンブル・アメディオ」という名は、マンドリンオリジナル曲の著名な作曲家 Amedeo Amadei のファーストネームから由来しています。しかし、果たして Amedeo を”アメディオ”と読むことは適当でないやもしれませんが、ご了承いただきたいと思います。
中村 亨
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