ぶつぶついってんじゃねえ

蛭田悟詩


 あれは、いつのことだっただろうか。正確には思い出せない。「けんま」の最初のコンセプトは、「青年の熱い力を集めることは何かできないだろか」などという、実に怪しげなものであった気がする。あの頃は何かをみんなが持て余していた。「学生」というある種のモラトリアムのともなう現実から、「職場」「会社」「自治体」というまぎれもない現実へ入ってまもなくの頃。学生運動の夢と「挫折」。社会に対する怒りと、それを構成している自分との間の「矛盾」。社会は変えられるんだといいながら、何もかえられない自分に対する憤り。少なくとも俺はそうだった。
 集団であることによって、何か新しものが生まれるわけではない。しかし、対立物を統一させるひとつのフィールドにはなりうる。

90年代に突入すると世界は大きく変化した。
圧政から独立へ。対立から共存へ。
今までの古い殻を打ち破り、
未来を創造する新しいエネルギーが放たれた。
そして、日本の若者も行動しはじめた。
80年代の無風状態を打ち消すかのように。
考え、悩み、歩きはじめた。
ささやかなメッセージをなげかけて・・・。

 92年8月1日発行の創刊準備号の冒頭である。「村の青年団運動」として始まったこの雑誌は、俺もふくめて多くの人間に裏切られ、新たに多くの人間の協力を得て、この5年発行し続けている。信じられないことに、3ヵ月に一度、1回の休刊もない。
けんま発行の準備のために「村の青年団」運動をはじめた頃であった。山に行きはじめた。心と体を持て余していたのだろう。相棒もそうだったが、とにかく今考えれば無茶ばかりしていた。日光から奥鬼怒へ縦走をしたとき、相棒が膝を壊して動けなくなった。午後8時を過ぎて、漆黒の闇のなか。2つのヘッドランプが尾根から谷筋へ下る。雨が激しい。体温が奪われる。テントを張る場所もない樹林帯の斜面が続く。歩くしかない。お互いの不安感が限界まできているのはよくわかった。「遭難ってこうやってするのかな」と声がした。「バカいってねえで行くぞ」本当は限界だったはずが、何故かお互い呑気だった気がする。着いた。温泉。ビール。・・・極楽。
 いつごろからだろうか、無茶をしなくなったのは。「もう年だからよ」と言いながら 自分を慰める。本当は心が萎えてしまってはいないか。腐ってはいないか。
 けんまは、駒込で生まれた。駒込で準備し、渋谷でつくる。そんなリズムで。駒込も随分仲間が減った。俺も今年で藤沢へ。5年。多くが変わった。テメエの心棒は、持ち続けていたい。

1997.9.25.


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