日本初の外国人プロ野球審判員、
マイケル・ディミューロの役割と挫折

斉藤泰隆


1.はじめに

 プロ野球のペナントレースは、いよいよ終盤戦の佳境を迎えつつあり、セントラル、パシフィック両リーグともども「第25節」までの日程を消化した9月21日の時点で、セ・リーグではヤクルトが、パ・リーグでは西武が、それぞれ頭一つ他のチームよりも抜きん出る形で優勝争いの先陣に踊り出ている。
 この2チームが、近々、日本シリーズで対決する可能性は、数字分析の上からは濃厚であるが、ともあれペナントレースはまだ終了した訳ではなく、これから先、何が起こるかわからない。
 …という訳で、リーグ優勝チームすら決まっていない今の段階で“1997年プロ野球”を振り返るのは、些か性急に過ぎる嫌いがなくもなく、必ずしも穏当ではない。
 けれども、私は、半ば強引に、“ある問題”を中心に、今シーズンのプロ野球を振り返ってしまおうと思っている。
 その“ある問題”とは、今季、セ・リーグが公式戦出場要員としては初めての試みとしてアメリカプロ野球機構から招聘したマイケル・ディミューロ審判員の、日本在勤2か月を以ての衝撃的な辞職劇のことである。この問題が“日本プロ野球界を震撼させた”と形容するのは、決して大袈裟ではあるまい。この問題は、後で触れるように、審判員に対する選手による暴力強行に端緒を発したものであるが、ある意味では、この問題は、日本 プロ野球界における審判員の位置付けや彼らを取り巻く諸々の環境、並びに、多年に亘ってとりわけメンタルな部分の近代化の徹底が唱道されてきていながら、未だに払拭されていない日本プロ野球界の暴力暗黙肯定的な体質、などなどを考え直す契機をもたらしたとも言えよう。
 このような日本プロ野球界の「反対側面」を浮き彫りにするほどの「重大問題」を避けて“1997年のプロ野球”を振り返ることはできまい。以上が、優勝の行方や個々の選手のタイトル争いといった一般うけする話題を退けてまで、ここで「ディミューロ審判員辞職問題」を取り上げる所以である。
 さて、本稿では以下のような順序で行論を進めたい。
 そもそも、ディミューロ審判員の来日は、2年前に、日米のプロ野球機構の間で取り決められた「審判員交流計画」の一環として実現したものである。従って、先ず、今回の「辞職騒動」の根本要因を孕んでいると思われるこの「審判員交流計画」の背景を概観し、そのあとで、ディミューロ審判員の属性と、その短かかった「日本での経験」の中から彼が果たした役割とその挫折の足跡を振り返りたい。
 そうして、そのあとで、彼の辞職劇がいみじくも提起した、日本のプロ野球審判員を取り巻く前近代的な環境を構造的に分析する。
 周知のように、審判員が下した判定に対して、選手や監督やコーチがクレームをつけ、それが受け入れられないとみるや、暴言を吐いたり、暴力を振ったり、或いは、選手達をダッグアウトに引き上げさせるなどの“試合ボイコット”のパフォーマンスにより審判員を困らせる(=いじめる)、所謂「審判トラブル」は、長い日本のプロ野球の歴史を繙いてもわかるように、1年の例外もなく毎年必ず発生している。ただ、このことは、「審 判トラブル」の解消に向けた努力が決して等閑にされてきたことを意味しない。寧ろ、最近数年間の時間的推移の中では、一方で、機構・連盟サイドによって審判員を取り巻く環境の整備が漸進的に試みられ、他方で、選手・監督・コーチの側においても審判員への「抗議」の自粛が打ち出されるなど、関係者による「審判トラブル」撲滅への努力がなされている。しかし、それにも拘らず、「審判トラブル」を撲滅できないのはなぜなのか。その撲滅を阻む構造的背景と、今後の「審判トラブル」改善の可能性についても言及してみたいと思う。


2.日米「審判員交流計画」の背景

 先ずは、アメリカと日本のプロ野球機構の間で、「審判員交流計画」が実践に移されるに至った背景から触れるのが順序であろう。
 それでは手始めに、グローバルな事情から。
 アメリカのプロ野球と日本のプロ野球は、同じ野球規則に従って公式試合を運営しているものの、例えば、ストライクゾーンの「枠取り」やボークの判別などにも端的に表れているように、そのルールの解釈には微妙な相違がみられる。関係者は、このことを、アメリカと日本の野球文化の違いや、各々のプロ野球組織の生成過程における人・物・知・技などの調達変数の違いや、或いは、英語原文か日本語訳かの何れの野球規則に準拠するかの違いなどに由来するものであり、「仕方がないこと」として、ことの根本的な解決や改善を図るための議論を回避してきた嫌いがある。
 しかし、野球がオリンピックの正式種目の一つに加えられ、野球の更なる国際化が進みつつある今日、「野球先進国」に数えられるアメリカと日本が、野球規則の解釈をめぐって「ダブル・スタンダード(二重基準)」を分かち持つ状態にあるのは、何かと不都合であるし、非合理的である。何とかこれを克服して、野球規則の解釈に関する「グローバル・スタンダード(国際基準)」を作らなければならない。そのためには、手始めにアメリカと日本のプロ野球審判員が、それぞれ相手国のグラウンドに立ってアンパイアリングをし、彼の地の審判員と切磋琢磨する中から問題点を見つけ出し、実地見聞した「体験」を持ち帰って自国での審判職務の中に消化させるのが有効だろう。このようなことを、1回や2回行うだけではさほどの成果は見込まれないものの、継続して行うことにより次第に「国」の間の垣根が低くなって「グローバル・スタンダード」に近づいて行くに違いない。以上のような話が、期せずして、日米双方のプロ野球機構上層部で囁かれたのである。
 他方で、こと「日本産」のローカルな事情もある。
 日本のプロ野球審判員は、一頃に比べると判定技術も向上し、アメリカのメジャーリーグの審判員の技術水準と比較してみても、もはや遜色はないとみる。けれども、ベースボールの母国であるアメリカにはまだ見習わなければならない部分が多い。特に、日本の審判員と選手・監督・コーチとの間にある前近代的な慣習を払拭し、「アメリカ的」なパラダイムを輸入することに日本のプロ野球審判員達は多大なる関心を寄せていた。また、日本のプロ野球審判員にとっては、グラウンドで毅然とした態度で振る舞い、選手や観客からも「一目置かれる」存在であるアメリカのメジャーリーグの審判員が憧れの的であった。こうした諸々の要素より、日本のプロ野球審判員は、アメリカのプロ野球の審判員と、何らかの形で“直に接触しながら”研鑚を積める機会が設けられることを求めていたのである。
 以上のような、「グローバルな」、及び「ローカルな」問題意識を背景として、2年前に、日米のプロ野球機構の間で取り決められた言わば“国際事業”が、「アンパイア・イクスチェンジ・プログラム(審判員交流計画)」である。
 この「計画」に従って、昨年(1996年)は、ナショナル・リーグとアメリカン・リーグから2名ずつ計4名の審判員が来日して、これは全く初めての試みであるが、日本の審判員に交じってオープン戦に出場した。また、日本からも、セ・パ両リーグからやはり2名ずつ計4名の審判員が渡米して、彼の地のオープン戦に出場した。更に、今年(1997年)も昨年に引き続き、ナ・リーグとア・リーグから計4名の審判員が来日して 日本のオープン戦でジャッジを行った。以上のように、「審判員交流計画」は着実に実践に移されている。
 そうしていよいよ、セ・リーグが、この「審判員交流計画」の「目玉商品」を持ち出すことになる。即ち、それは、アメリカプロ野球の「模範的な審判員」と1年契約を結び、セ・リーグの1軍公式戦に出場させて、日本の審判員との間で切磋琢磨させ、日本プロ野球審判員の社会に新風を吹き込ませようというものである。


3.マイケル・ディミューロの属性

 以上のような経緯により、アメリカプロ野球のマイナーリーグの一つであるパシフィックコースト・リーグ(3A)に所属するマイケル・ディミューロ(Michael Dimuro) 審判員が、セ・リーグから招聘されることになった。
 なお、前述のような「審判員交流計画」に従って「模範的な審判員」を求めるならば、メジャーリーグの審判員を招聘するべきだという声も多分にあったが、メジャーリーグの審判員は、審判員としての身分が保証されている分、今更の向上意欲に欠ける傾向があり、それならばマイナーリーグの若手の優秀な審判員の方が「日米の橋渡し役に適している」との判断で、メジャー昇格予備軍として将来を嘱望されているデュミューロ氏が、 今回特に抜擢されて、来日する運びとなったのである(川島廣守「ディミュロ審判は優秀 日本野球変えなければ」『NIKKEI BUSINESS 』、1997年7月21日号)。
 ディミューロ氏は、今年30歳で、彼の父のルー氏(故人)はアメリカン・リーグ(アメリカのメジャーリーグの一つ)のかつての審判員、また兄のレイ氏もディミューロ氏と同様パシフィックコースト・リーグの現役審判員という、正に「プロ野球審判家族」の一員である(『報知新聞』、1997年2月7日付 )。更に、父親のルー氏が大リーグの現役審判員のまま交通事故で急逝したあと、その当時中学生だったディミューロ審判員が少しでも家計の助けにしようと選んだアルバイトが「草野球の審判」だったという程に、ディミューロ審判員と「仕事としての野球審判」との結びつきは古く且つ深いものがある(『朝日新聞』、1997年6月4日付 )。


4.ディミューロ審判員のセ・リーグでの足跡

 さて、ディミューロ審判員の日本での働き振りについてであるが、セ・リーグ審判の一員として、15人の1軍公式戦出場者枠の中に「指定席」を確保した彼は、4月5日に広島市民球場で行われた広島対阪神の1回戦に球審で出場したのを皮切りに、主力組の一人として各カードを裁き続けた。
 そうして、その判定態度は、リーグ関係者や審判員仲間の間では好評であった。川島廣守セ・リーグ会長は、ディミューロ審判員のアンパイアリングを評して、「プレーに対して素早く反応して、最適な位置に動」いている点が「見事」であると語った(川島、前掲文章)。また、ディミューロ審判員と同じクルーのチーフであった井野修審判員(審判部副部長)も「(ディミューロは)プレーが起こった場所に一生懸命に走り、(試合で使う)ボールのチェックも必死にやっていた。自分でこのゲームを作るんだ、自分が見るんだという意識を我々も持っているが、よりそれを強く感じさせた」(『報知新聞』、1997年6月11日付)と、同僚を高く評価した。
 短い滞在期間の中で、ディミューロ審判員がもっとも注目を浴びたのは、5月17日に甲子園球場で行われた阪神対ヤクルトの8回戦で、球審で出場したディミューロ審判員が阪神の吉田義男監督に退場を宣告したシーンであろう。この試合の2回の裏、2死、走者1・2塁の場面で、阪神の打者・中込のピッチャーゴロを捌いたヤクルトの投手・ブロスは、打者走者の中込にタッチ。ディミューロ球審は「アウト」を宣告した。それを見た吉田監督が、通訳を伴ってベンチから抗議に出てくる。「ノータッチだ! 絶対にセーフだ」。このあと、吉田監督は、なぜか通訳をベンチに帰して、片言の英語で尚も抗議。次の瞬間、ディミューロ球審から、「ゲット・アウト(退場)」が宣告された。この間の所要時間は5分。
 この件についてのディミューロ審判員の談話が興味深い。
 「(吉田監督の抗議内容を)聞く用意はあった。でも通訳を帰した。彼が何を言っているか理解できなかったし、試合再開するには排除するしかなかった」(『報知新聞』、1997年5月18日付)、「審判は試合運営に責任がある。進行を邪魔する者は退場させられる」(『朝日新聞』、1997年6月4日付 )、と論旨は明快である。
 とにもかくにも、日本の審判員がこれまでに対応に苦慮し続けてきたこうしたトラブルを、毅然とした態度で手際よく処理したあたりに、トラブルに際して取るべき新しいパラダイムの実践を見ることができ、その点でディミューロ審判員を招いた成果の一つを感じ取ることは自然であろう。
 ところが、契約期間が満了する今シーズンの閉幕まで日本プロ野球界での活躍が期待されていたディミューロ審判員が、シーズンの途中でありながら、俄かに帰国する事態を迎えた。
 6月5日に岐阜県の長良川球場で行われた中日対横浜の9回戦に球審で出場したディミューロ審判員は、ストライクの判定を不服として暴言を浴びせてきた打者・大豊(中日)に退場を命じたが、その直後、大豊を始めとする中日の面々に取り囲まれて、胸を小突かれるなどの暴行を受けた。翌日、ディミューロ審判員は、「これまでに経験したことにない恐怖を感じた」と早速辞意を表明したのである。川島会長は必死の思いで彼を慰留 したが、ディミューロ審判員はその再三の説得にも遂に態度を翻さず、断固辞職して帰国して行った。
 ディミューロ審判員の日本プロ野球での足跡は、公式戦に39試合(内、球審としては11試合)に出場しただけでピリオドを打つことになったが、在日・在勤期間の短かさの一方で、その我々に与えたインパクトは鮮烈であった。
 彼は、帰国に当たって声明文を発表し、記者会見の席上で自らそれを朗読したが、それを読み終えたあとに彼が付け加えた次の言葉が、私にはなぜだかひどく印象に残った。
 「今回の件が、全世界の審判にとって、グラウンド上での肉体的攻撃が一切なくなるきっかけになることを切望します」(『報知新聞』、1997年6月10日付)。

(以下、次号)
[1997年9月27日]


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