露土戦争


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 18〜19世紀を通じて、ロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)の間で戦われた一連の戦争。ロシア・トルコ戦争とも呼ばれる。
 不凍港を求めて、黒海からさらに地中海への南下を目ざすロシアの東方政策を主たる契機として発生した。この一連の戦争は、両国間の力関係及び国際政治の推移に応じて、およそ次の四つの段階に分けることができる。
 

 @18世紀前半までピョートル1世の改革によってロシア帝国は発展し、まずバルト海に進出し、南方においても、黒海への出口にあたるアゾフの領有をめぐって、黒海北岸の支配権を握るオスマン帝国と対立した。1699年カルロビツ条約で、ロシアは一時アゾフを獲得したが、北方戦争に敗れたスウェーデン王のオスマン帝国への亡命問題を端に発したプルート戦争(1710−11)で、ロシア軍はオスマン帝国軍に包囲され、ピョートル1世は危うく捕虜になることをまぬがれるなど敗北を喫し、オスマン帝国はアゾフを奪回した。しかし、<ポーランド継承戦争>に関連してオーストリアと同盟したロシアは、再びオスマン帝国と戦端を開き(1736−39)、ベオグラード条約(1739)によってアゾフを最終的に領有し、トルコの黒海制海権を打破する糸口をつかんだ。
 A18世紀後半 ピョートル1世の拡大政策を受け継いだエカチェリナ2世は、クリミア、カフカスを獲得し、ついでドナウ川以北のバルカンへの進出をもくろんだ。オスマン帝国とロシアの間の緩衝国であるポーランドの王位継承問題にロシアが干渉すると(1765)、これに反対したポーランドの民族主義者はオスマン帝国領内に亡命した。これを追ったロシア軍がオスマン帝国領内に進駐し、1768年に両国は戦争状態に突入した。戦闘は最初ドニエプル川とドナウ川との中間地帯で行われたが、オスマン帝国側は常備軍団(イエニチェリなど)の弱体化、ペロポネソス半島のギリシア人の民族蜂起民族放棄(1770)などにより苦戦し、ロシアはドナウ川を越えてドブロジャ地方に進出し、オスマン帝国軍の本営を包囲して決定的勝利を得た。74年7月、両国は、北部ブルガリアのキュチュク・カイナルジャにおいて条約を結んだが、(キュチュク・カイナルジャ条約)これによってロシアは黒海における艦隊の建造権と商船のボスポラス、ダーダネルス両海峡通行権とを獲得して、オスマン帝国の黒海制海権を打破したのみならず、オスマン帝国領内におけるギリシア正教徒に対する保護権を得て、オスマン帝国の内政干渉の糸口をつかんだ。キュチュク・カイナルジャ条約は、両国の力関係においてロシアが優位に立ったことを国際的に明らかにし、いわゆる<東方問題>の発生をもたらした。オスマン帝国側では、この条約によって、属国であるクリム・ハーン国が独立の名において、事実上ロシアに併合されたことを屈辱とする世論が高まり、87年再び両国の戦争が勃発した。しかし、91年オスマン帝国は再び大敗しヤシ条約(1792)によって新たな譲歩を余儀なくされた。
 B19世紀前半 1806年オスマン帝国がワラキアとモルダビアにおける親露派の総督を罷免し、かつ、条約に反してロシアの商船の海峡通行権を停止すると、ロシア軍はワラキアとモルダビアを占領し両国は戦争状態に入った。戦闘はドナウ川沿岸とカフカスの東西両国境で戦われたが、バルカンでは、P.カラジョルジェの指導下にオスマン帝国に反乱したセルビア人がロシアの支援をあてにしていた(セルビア蜂起)。戦争中、オスマン帝国では改革派のスルタン、セリム3世(在位1789−1807)が殺されるなど政局は定まらず、ロシア側もフランスとの外交関係が悪化したため、両国は1812年5月ブカレスト条約を結び、ロシアがベッサラビアを併合し、ワラキアとモルダビアをオスマン帝国に返還し、セルビアは若干の自治を獲得して独立への足がかりを得た。21年のエテリア蜂起に始まったギリシア人の民族独立運動(ギリシア解放戦争)は西欧諸国の関心を呼び、27年10月にイギリス、ロシア、フランスの連合艦隊は、ナバリノの開戦で、トルコ・エジプト艦隊を破り、ギリシア独立への道を開いた。ロシア、トルコ両国は、引き続きワラキア、モルダビア、セルビアをめぐって戦争(1828−29)に突入したが、オスマン帝国はバルカンの要都エディルネ(アドリアノープル)を占領され、東部戦線においても東アナトリアのカルスとエルズルムを占領されるなど窮地に立たされた。その結果、アドリアノープル条約(1829)においてオスマン帝国は、(a)ギリシアの独立承認(なお、ギリシア独立の国際的な承認は翌年のロンドン会議で承認された。)(b)ドナウ川河口の諸島のロシアへの割譲、(c)東部アナトリアのいくつかの城塞のロシアへの割譲、(d)ロシア商船の両海峡自由通行権獲得など、キュチュク・カイナルジャ条約以来の過酷な条件を受け入れざるを得なかった。この条約によって、黒海における通商権はロシアの掌握するところとなり、トルコとイランとの陸上交易路は衰えた。
 C19世紀後半 18世紀末以後、バルカンにおいてロシアが大きな足場を築いたことは、同じくオスマン帝国への進出をねらっていた西欧諸国の利益と対立した。聖地エルサレム管理権問題(聖地問題)に端を発してロシア、トルコ両国の戦端が開かれると、イギリス、フランス、オーストリア、プロイセン、サルデーニャ(イタリア統一を主導した王国)はオスマン帝国を支援してロシアに宣戦し、クリミア戦争(1853−56)となった。ロシアは敗北し、パリ条約(1853−56)において、(a)黒海は中立地帯とされ、あらゆる国の商船に解放される、(b)ドナウ川は国際管理とされ、あらゆる国の商船に開放される、(c)ワラキア、モルダビアは西欧諸国の保護下に自治を認められる、などの条項を認めることによって、ロシアは、これまで黒海、バルカン方面において拾得してきた特権を放棄することを余儀なくされた。オスマン帝国はこの条約によってヨーロッパの一国として認められたものの、キリスト教徒少数民に有利な改革を約束させられ、西欧諸国の前に等しく植民地として<開放>されることとなった。1870年代に入り南ロシアが経済的に発展して黒海貿易の重要性が高まるとロシアは、パン・スラブ主義汎スラブ主義のこと)の名のもとに再びバルカンへ進出し、黒海においてもパリ条約の規定に違反して艦隊の建造を進めた。75年以降、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ブルガリアに相次いで民族蜂起が起こり、セルビアとモンテネグロがこれに加わると、ロシアはこれらスラブ民族の救済を口実としてトルコに宣戦した(1877年)。戦闘は、バルカンとカフカス両方面で展開されたが、バルカンでは、プレブネの要塞を死守するオスマン帝国軍を苦戦の末に破ったロシア軍は、エディルネを占領し、イスタンブールに迫った。その結果、オスマン帝国軍は屈服し、イスタンブール北方のイェシルキョイ(サン・ステファノ)においてサン・ステファノ条約(1878)が結ばれた。これにより、オスマン帝国はバルカン半島の大部分を失い、ロシアはバルカンにおける影響力を著しく高めた。これに対して脅威を感じた列強は、ベルリン会議を召集して、この条約をほぼ全面的に改訂し、バルカンにおけるロシアの特権を制限した。その後も、フランスのチェニジア占領(1881)、イギリスのエジプト占領(1882)と、西欧列強の進出は続き、オスマン帝国は解体寸前に追い込まれる。これに対し、スルタンの専制や植民地化を批判する民族運動がますます強まっていく。

平凡社 世界大百科事典 より 抜粋(ちょっとだけ私の補足入り(^_^;) )

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