モロッコ事件
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20世紀初頭、モロッコ支配をめぐるヨーロッパ列強が招いた紛争。(武力衝突というよりか軍事的威嚇による国際緊張状態といったほうがいいのでは。)
モロッコはアフリカ大陸の地中海側の戦略的要衝地で、鉱物資源が豊富であったことから、19世紀を通してイギリス、フランス、スペインが進出し競合対立したが、1880年マドリード条約で権益の均衡が得られた。99年ファショダ事件後、イギリス、フランスの相互譲歩によりモロッコはフランスの勢力範囲とされ、1901年フランス・イタリア協定でもこれを確認した。一方、スペインはセウタ、メメリャなどの都市を中心に植民地支配をしていた。04年英仏協商の成立でフランスがイギリスから優先権を得てモロッコ進出を強化したのに対し、遅れて植民地獲得へ乗り出したドイツは日露戦争後の露仏同盟の弱体化を契機にモロッコの領土保全、門戸と解放を主張し、列強会議の開催を求めて皇帝ウィルヘルム2世みずからタンジール港を訪問したためフランス、ドイツの関係が緊張した。(1905年タンジール事件、第1次モロッコ事件)。その収拾のため、06年1〜4月スペインのアルヘシラスで国際会議(アルヘシラス会議)が開催された。モロッコの独立と領土保全、門戸開放、経済的機会均等などが決議されたが、同時にフランスとスペインはイギリスなど列強の支持を得てドイツの野望を阻止し、両国はモロッコの治安と財政掌握(フランス資本による国立銀行設立など)を認められて従来の優位が確立された。この結果に不満なドイツはフランスがモロッコ内乱に出兵すると、アガディール港に軍艦(パンテール号)を派遣した(1911年(7月)アカディール事件。第2次モロッコ事件)。しかしイギリスがフランスを支持したことから、ドイツは再び譲歩しフランスから今後の一部割譲を受け、フランスのモロッコ支配を認めた。12年11月フランス・スペイン協定により両国の分割によるモロッコ保護国化がなった。
(平凡社 世界大百科事典より抜粋)(一部私の追加コメント等あり)
要するに列強諸国はその土地の住民の意思など無視して勝手気ままに領土権をちまちま奪い合ったわけですな。
なお、モロッコの民族運動は第1次世界大戦後ふたたび、リーフ戦争(1921−26)として武力抵抗がおこり、1930年代に入って武力抵抗は鎮圧されたが民族運動は消滅できなかった。やがて第2次世界大戦後1950年代後半に結局フランス、スペインは植民地支配をあきらめモロッコは独立したようです。(平凡社 世界大百科事典より抜粋)
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