山中鹿之助は忠臣か?

 山中鹿之助を知っている人の多くは、彼を忠臣と認めているでしょう。ところが、ユニークな意見が雑誌に掲載されていたので、その意見を下記の通り、雑誌の原文をアンダーライン等文字修飾以外そのままここで示し、それに対する私の意見を述べたい。


<山中鹿之助は「忠臣」だったとはいえない>


 「願わくは我に七灘八苦をあたえ給え」。三日月にこう祈りながら、主家尼子家再興のために半生をささげた男ー。立川文庫の講談に親しまなかった人でも、サイタサイタ式の国語読本をならった五十歳後半以上の方々には、山中鹿之肋の印象は強烈であろう。
 たしかに鹿之肋の後半生は、主家再興に尽力したようにみえる。出雲の富田月山城主で鹿之肋の主君尼子義久が毛利元就の軍門に降り、戦国時代の前半に山陰の覇者であった尼予氏が事実上滅亡したのは、永禄九年(一五六六)、鹿之肋二十ニ歳頃のことである。こうして浪人となった鹿之肋は、立原久綱ら他の同志とはかり、主家の一族尼子勝久を擁して三度挙兵した。
 三度目には、天正五年(一五七七)からはじまる豊臣秀吉の山国攻めに先鋒をつとめ、西播磨の上月城を守ったが、別所長治らの造反があって孤立。毛利軍の攻撃にさらされ、 翌年七月落城、尼子勝久は自刃した。しかし鹿之助は降人となり、西に送られる途中、備中国甲部川で殺された。
 この最期の事情が象徴的である。擁立した勝久を自刃させながら、何故におめおめと降人となったのか。機をみて、故国出雲をうばった吉川元春と刺しちがえるつもりであったといわれるが、その観測はひいきのひき倒しの観がつよい。
 鹿之肋と終始行動を共にした立原久綱も同じく降人となり、のち出家した。命あっての物種、主家再興は、付録みたいなものであったのではないか。
 勝久擁立自体も、実は少々おかしい。月山落城時の主君義久は、毛利氏の武士の情をうけて毛利領内で悠々と暮らし、生涯を全うした。主家再興というなら、この義久を立てるのがスジであろう。しかも勝久は、反乱者として処分された尼子一族の遺子であった。
 倒産会社の社員が、ま、目一杯がんばったとはいえるかもしれないが、純情な会社愛からとはとてもいえない。鹿之肋もまた、戦国乱世に生きる、したたかな武士であった。
 (「別冊 歴史読本 歴史常識のウソ 300」 新人物往来社 (1991年出版)より、抜粋)

 以上が、そのユニークな意見である。
 詳細を調べずにそのまま読むと、納得させられてしまうかもしれないが、ほかの文献や月山富田城周辺の現場などを調べると、どうもこの意見はおかしいようである。自分の都合の悪そうな事実を隠して意見をのべているようである。一つ一つ私の反論等を述べたい。
1. 擁立した勝久を自刃させながら、何故におめおめと降人となったのか。機をみて、故国出雲をうばった吉川元春と刺しちがえるつもりであったといわれるが、その観測はひいきのひき倒しの観がつよい。

 吉川元春と差し違えるつもりかどうかは、ちょっとわからないが、おそらく、またどこかの尼子の遺児を探し出してまた尼子家再興を試みる可能性は高いと思われる。(ただし、推測であって証拠はありませんし、このような人の気持ちがどうのこうのという証拠なんてあげる方法は推測しかないでしょう。(^_^;))だいたい、山中鹿之助は降っては逃げだして再興の旗揚げの繰り返しているではないか。この本文の最後で言うしたたかな武将であったのなら、一回の旗揚げだけして忠義づらして毛利に仕えてもおかしくないではないか。毛利側ももし、鹿之助がそんなしたたかな武将なら高い禄でもあてがって召し抱えればいいではないか。ものすごい武勇ある武将なのだから。毛利にとって危険だから隠れたところで殺したのではないのか?。不忠ものであれば多くの人がいる町中で見せしめに殺せばよいのではないか。
 また「立原久綱も同じく降人となり、のち出家した。」と、書いてあったが降人となったのは事実だが毛利に赦免されたわけではなく逃げ出したといわれているのになんでそのことを書かないのか。(下線....信長の野望武将ファイルより 参考文献としてはちょっとなさけないですが(^_^;))
 擁立した勝久が自刃した理由は、城兵の命を助けるためかもしれないではないか。(これも推測(^_^;))だいたい山中鹿之助は34歳で死んだのに「鹿之肋の後半生は」なんて言えるの?
2. 勝久擁立自体も、実は少々おかしい。月山落城時の主君義久は、毛利氏の武士の情をうけて毛利領内で悠々と暮らし、生涯を全うした。主家再興というなら、この義久を立てるのがスジであろう。
 「毛利氏の武士の情けを受けて毛利領内で悠々と暮らし」とかいてあるが、何を根拠にそんなことがいえるのかわからない。私の知っている文献には、義久は毛利にだまされて幽閉されたとかいてある。以下にそれを示す。
 
 その年の十二月には元就は白潟(松江市)に宿営し、途中の敵を落としながら、永禄七年四月には富田城に迫った・・・・(略)
 一方の元就は、作戦は成功したが、持病の間歇熱に悩まされ、自分の健康に自信がもてなくなった不安から「石見銀山の城に五〇〇〇貫の地を添える」(「雲陽軍実記」)とといって、冨田城に対して和平を申し入れた。
 永禄九年十二月二十ハ日、義久・倫久・秀久の三兄弟は誘いに応じて開城した。しかし元就は盟約を被り、安芸の長谷(広島県高田郡向原町)の円明寺へ義久らを送って幽閉してしまった。
(「歴史と旅 臨時増刊 戦国大名家総覧」 秋田書店(1990年出版)より抜粋)
 かつて、中国地方の十一カ国を支配したことのある尼子家の当主が、だまされて寺へ幽閉されたことが「悠々と暮らし、生涯を全うとした」ということなの?こういうのを毛利に対する「ひいきのひき倒しの観」て言うんじゃないの?
 「主家再興というなら、この義久を立てるのがスジであろう。」というが、これは江戸時代的なスジである。当時は主スジより、家を大事にするのが善とされていたと思う。家の状態が劣性ならば長男、次男に関わらず、残ったものが家を継ぐのは別に悪しきことではなかった。たとえば上田の真田家、長篠の奥平家また当の毛利家だって、家を二分しているではないか、そもそも、長男が家を継ぐとかいう継承のきまりは確か、江戸時代以降に定まったと思われる。幽閉されているものを助け出す危険を犯して全滅するよるより、家が大事であれば潜んでいる遺子を助け出して再興するほうか家にとっては立派なことではないか。
 
3.勝久は、反乱者として処分された尼子一族の遺子であった
 もう、これはほとんど詐欺である。尼子一族の遺子であることはそうだが、尼子家最強の戦闘集団の新宮党の当主の一族の遺子であり、処分された理由も、毛利の謀略により、反乱者と誤認されて処分されたのである。これについても、文献内容を以下に示す。
 元就は、反間の術を、尼子氏にも用いて成功している。
 その成功例とは、こうである。
 尼子氏の強さの秘密のひとつは、新宮党といわれる最強の戦闘集団の存在にあった。尼子晴久の叔父国久がひきいる軍団で、富田月山城の北に位置する新宮谷に居をかまえていたので、その名があったのだが、元就は、この軍団の威力を減殺させる方法はないかと考えた末にあみだしたのが、次のような謀略だった。
 ある罪人を巡礼とみせかけて、尼子氏の領内に潜入させる。その一万で、もう一人の間者も潜入させ、富田月山城の城下町の一歩手前で、巡礼にみせかけた男を斬り捨てる。
 死体をみつけた領民が、男の懐中をしらべると、密書が出てくる。密書は、毛利元就が新宮党をひきいる尼子国久に宛てたもので、内容は、元就と国久が共謀して、当主の尼子晴久を殺害するといったものであった。
 新宮党は、屈強な武力集団である。戦闘では、つねに勇猛果敢に戦い、戦功をあげている。その自負から、新宮党の面々の鼻息は荒く、時にはひともなげな振舞いに出ることも多く、尼子晴久も、眉をひそめることもあったという。
 元就は、こういった尼子氏内部の微妙な亀裂を衝いて、偽造の密書事件を起し、その亀裂をさらに拡大させようとしたのである。
 この謀略は、見事に功を奏した。
 もちろん偽造された密書がすべてではないが、密書もひとつの原因になつて、尼子晴久は、国久など新宮党のおもだった面々を殺害してしまい、この結果、元就は、労せずして、尼予氏の弱体化に成功したのだった。(「歴史と旅 臨時増刊 戦国大名家総覧」 秋田書店(1990年出版)より抜粋)
 どうして、毛利の謀略により不遇により処分された一族を反乱者のように書くの?なんで都合の悪いことは書かないの?だいたい、尼子氏や山中鹿之助の事を語るのになんで新宮党の事が一言も書かないの?。書くと勝久を反乱者の遺子として扱えなくなるから書かなかったんでしょ。
 そんなに鹿之助がしたたかな武将だったら、どうして後に月山富田城に居城した堀尾氏の夫人が鹿之助の霊を慰めるため墓を城内にたてるの?(今も現地に残っています。)まさか、この墓は戦前の戦争教育のために政府がたてたとは言わないでしょう。それこそひいきのひき倒しだよ。
 まあ、鹿之助が不忠である点をしいて言えば、鹿之助の死後、鹿之助自身が主家の尼子氏より有名になってしまったことぐらいしか見つからないと私は思いますがね。


 追記
 あっ、いちおう断っておきますがわたしは、「鹿之助は忠臣でない」という意見について反論しているだけであって、「新人物往来社」を非難しているわけではありません。現に私は新人物往来社の主催する歴史研究会の会員ですし、月山富田城の城郭図も新人物往来社の出版を複写したものですし、「日本城郭大系」や「関東中心 足利時代の研究」なんていうすごい本を出版しているところですし、私が大変世話になっているからあえて弁明してるんです。ただ是々非々をのべているだけです。
 その証拠にこの、ユニークな「鹿之助は・・」の意見が書いてある同じ本に「戦国城郭は山城、平山城、平城と変遷したわけではない」「城の石垣は銃弾を防ぐためではなかった」という意見が書かれていますが、これについては、ほぼ賛同しています。
 

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