山中鹿之助を知っている人の多くは、彼を忠臣と認めているでしょう。ところが、ユニークな意見が雑誌に掲載されていたので、その意見を下記の通り、雑誌の原文をアンダーライン等文字修飾以外そのままここで示し、それに対する私の意見を述べたい。以上が、そのユニークな意見である。 詳細を調べずにそのまま読むと、納得させられてしまうかもしれないが、ほかの文献や月山富田城周辺の現場などを調べると、どうもこの意見はおかしいようである。自分の都合の悪そうな事実を隠して意見をのべているようである。一つ一つ私の反論等を述べたい。 1. 擁立した勝久を自刃させながら、何故におめおめと降人となったのか。機をみて、故国出雲をうばった吉川元春と刺しちがえるつもりであったといわれるが、その観測はひいきのひき倒しの観がつよい。 吉川元春と差し違えるつもりかどうかは、ちょっとわからないが、おそらく、またどこかの尼子の遺児を探し出してまた尼子家再興を試みる可能性は高いと思われる。(ただし、推測であって証拠はありませんし、このような人の気持ちがどうのこうのという証拠なんてあげる方法は推測しかないでしょう。(^_^;))だいたい、山中鹿之助は降っては逃げだして再興の旗揚げの繰り返しているではないか。この本文の最後で言うしたたかな武将であったのなら、一回の旗揚げだけして忠義づらして毛利に仕えてもおかしくないではないか。毛利側ももし、鹿之助がそんなしたたかな武将なら高い禄でもあてがって召し抱えればいいではないか。ものすごい武勇ある武将なのだから。毛利にとって危険だから隠れたところで殺したのではないのか?。不忠ものであれば多くの人がいる町中で見せしめに殺せばよいのではないか。 また「立原久綱も同じく降人となり、のち出家した。」と、書いてあったが降人となったのは事実だが毛利に赦免されたわけではなく逃げ出したといわれているのになんでそのことを書かないのか。(下線....信長の野望武将ファイルより 参考文献としてはちょっとなさけないですが(^_^;)) 擁立した勝久が自刃した理由は、城兵の命を助けるためかもしれないではないか。(これも推測(^_^;))だいたい山中鹿之助は34歳で死んだのに「鹿之肋の後半生は」なんて言えるの? 2. 勝久擁立自体も、実は少々おかしい。月山落城時の主君義久は、毛利氏の武士の情をうけて毛利領内で悠々と暮らし、生涯を全うした。主家再興というなら、この義久を立てるのがスジであろう。「毛利氏の武士の情けを受けて毛利領内で悠々と暮らし」とかいてあるが、何を根拠にそんなことがいえるのかわからない。私の知っている文献には、義久は毛利にだまされて幽閉されたとかいてある。以下にそれを示す。 その年の十二月には元就は白潟(松江市)に宿営し、途中の敵を落としながら、永禄七年四月には富田城に迫った・・・・(略)かつて、中国地方の十一カ国を支配したことのある尼子家の当主が、だまされて寺へ幽閉されたことが「悠々と暮らし、生涯を全うとした」ということなの?こういうのを毛利に対する「ひいきのひき倒しの観」て言うんじゃないの? 「主家再興というなら、この義久を立てるのがスジであろう。」というが、これは江戸時代的なスジである。当時は主スジより、家を大事にするのが善とされていたと思う。家の状態が劣性ならば長男、次男に関わらず、残ったものが家を継ぐのは別に悪しきことではなかった。たとえば上田の真田家、長篠の奥平家また当の毛利家だって、家を二分しているではないか、そもそも、長男が家を継ぐとかいう継承のきまりは確か、江戸時代以降に定まったと思われる。幽閉されているものを助け出す危険を犯して全滅するよるより、家が大事であれば潜んでいる遺子を助け出して再興するほうか家にとっては立派なことではないか。 3.勝久は、反乱者として処分された尼子一族の遺子であったもう、これはほとんど詐欺である。尼子一族の遺子であることはそうだが、尼子家最強の戦闘集団の新宮党の当主の一族の遺子であり、処分された理由も、毛利の謀略により、反乱者と誤認されて処分されたのである。これについても、文献内容を以下に示す。 元就は、反間の術を、尼子氏にも用いて成功している。どうして、毛利の謀略により不遇により処分された一族を反乱者のように書くの?なんで都合の悪いことは書かないの?だいたい、尼子氏や山中鹿之助の事を語るのになんで新宮党の事が一言も書かないの?。書くと勝久を反乱者の遺子として扱えなくなるから書かなかったんでしょ。 そんなに鹿之助がしたたかな武将だったら、どうして後に月山富田城に居城した堀尾氏の夫人が鹿之助の霊を慰めるため墓を城内にたてるの?(今も現地に残っています。)まさか、この墓は戦前の戦争教育のために政府がたてたとは言わないでしょう。それこそひいきのひき倒しだよ。 まあ、鹿之助が不忠である点をしいて言えば、鹿之助の死後、鹿之助自身が主家の尼子氏より有名になってしまったことぐらいしか見つからないと私は思いますがね。 追記 あっ、いちおう断っておきますがわたしは、「鹿之助は忠臣でない」という意見について反論しているだけであって、「新人物往来社」を非難しているわけではありません。現に私は新人物往来社の主催する歴史研究会の会員ですし、月山富田城の城郭図も新人物往来社の出版を複写したものですし、「日本城郭大系」や「関東中心 足利時代の研究」なんていうすごい本を出版しているところですし、私が大変世話になっているからあえて弁明してるんです。ただ是々非々をのべているだけです。 その証拠にこの、ユニークな「鹿之助は・・」の意見が書いてある同じ本に「戦国城郭は山城、平山城、平城と変遷したわけではない」や「城の石垣は銃弾を防ぐためではなかった」という意見が書かれていますが、これについては、ほぼ賛同しています。 |