このことについては、すでに『「別冊 歴史読本 歴史常識のウソ 300」 新人物往来社 (1991年出版)』という雑誌で、かなり良好にとりまとめられたものが掲載されていたので、段落の見出しや文字の色付け以外はほとんどそのまま、その雑誌に掲載されていたとおり、ここに載せときます。
平山城の定義の曖昧さから生じる「山城・平山城・平城」という分類の曖昧さ
戦国時代から江戸初期までの城郭を分類する方法としては、それが築かれている地形の違いに基づいて、山城・平山城・平城の三つに分けることが「今日、一般に行なわれている。」
なるほど純然たる山地の上に築かれた城を山城、平地に築かれた城を平城と呼んで区別することは一応可能てあろう。だが山城と平山城、あるいは平山城と平城を区別することは容易でない。それは平山城の定義そのものが確立しておらず、はなはだ漠然とした解釈が行なわれているためである。
たとえば、ある城郭の参考書では、平山城は山城と平城の中間のものとしているが、何が中間なのか判然としない。これを比高(山頂から山裾までの高低差)とすれば、比高何メートル以上の高地に築かれたのが山城、比高何メートル以下の平地に築かれたのが平城で、比高がその中間に含まれる高地に築かれたのが平山城などということになろう。
だが、この何メートルという基準値は個人の主観によりまちまちになる恐れがあるし、地形の複雑な場所ては比高にも幅が出てくるから、基準値スレスレのものを山城に入れるか平山城に入れるか上いった問題も起きるであろう。
また比高が同じ高地でも、傾斜が緩いか否かで山容が変わるから、緩い場合は山には見えず、急な場合は山に見えるという違いが生ずる。そのため前者は山城とは呼ばれず、後者のみ山城と呼ばれるという事態も生じるであろう。さらに、このように山容の異なる高地では、外観上の相違に加え、現実に築かれる城の構造自体が違ってくることが多い。それら構造の異なる城を、単に比高が同じだからといって、一括して山城とか平山城などと分類することは無意味であろう。
また別の参考書では、平山城は山地と平地の両方にわたって築かれた城を呼ぶとしている。これは平山城を、純然たる山地上の山城や平地の平城と区別する格好の方法のようにもみえる。
だが実際には、山地と平地の両方にわたって築かれた城というものが多様であって、それらを一括して平山城と呼ぶことに疑問が生じる。
たとえば比高約一〇〇メートルの山頂に本丸を置き、山裾に二の丸・三の丸を配し、両者の間に自然地形を残した伊矛松山城、比高約一二〇メートルの血項に若干の曲輪を置いたものの、本丸(天守を含む)以下の主要な曲輪をことごとく山裾に配した萩城、 山頂から山裾まで階段状に多数の曲輪を配した安土城、谷間に居館を設け.周囲の山々に多数の曲輪を配した一乗谷城などを一括して平山城ら呼ぶことができるであろうか。
したがって、山地と平地の両方にわたって築かれたという説明を、より限定して、姫路城のように曲輪を階段状に配し、かつ城内に自然地形をあまり残さないものを平山城ら呼ぶことにすれば、一応の基準ができるが、これとて、かなり漠然としており、山城と区別のつかぬ実例が、相当に残されることになる。
このように見てくると、平山城という呼び方は、実に曖昧なものであると言わざるを得ないし、そもそも、さまざまの地形を利用して築かれている城を、山城・平山城・平城の三つに分類すること自体、 無謀かつ無意味に思えてくる。
では、どのような分類方法がよいかといえば、ごく即物的に、どのような自然地形を利用して築かれているかで分類するのが適当と思う。すなわち比高何メートルの山頂部分とか、河岸段丘の先端とか、平地の中の小独立丘とか、ニ本の河川の合流点とか、利用している地形をまず把握することで、この方が、より的確に城を分類することができる。
なぜならば、城の構造というものは、利用している土地の地形により、ある程度の類型化が生じるため、地形を具体的に分類することにより、城の構造の分類も、ある
程度可能になるからである。
また、このような分類を行なった結果、類似の地形に築かれているにもかかわらず、構造的に相違する城々が確認できれば、そこから築城の年代差や、築城者の個性といったものまで指摘することが可能になるのである。
鉄砲が普及した結構新しい時代でも山城はけっこう造られている。
さて、山城、平山城・平城という分類が曖昧なものであることは、すでに述べたとおりであるが、一般には、戦国時代には城郭は山城から平山城へ、さらに平城へと変遷をとげたといわれている。要するに高地から平地へ移ったというわけで、その原因は戦術の変化――ことに鉄砲の普及にあるとされている。
けれども実例をみると、こうした変遷があったとは一概に言えないようである。たとえば信長は清洲城から小牧山城、さらに岐阜城へというように、高い方へ高い方へと居城を移している。つぎの居城である安土城は、比高では岐阜城よりおとるが、信長自身は岐阜城では山裾の曲輪に居住していたものが、安土城では山頂に移っている。
また、鉄砲が完全に軍備の中心となった天正年間(一五七三〜九二)後半から文禄・慶長年間(一五九二,〜一六一五)にかけて、全国の戦国大名たちが築き、または改修拡張した城を見ても、宇都宮国綱の多気山城(栃木県)、北条氏照の八王子城(東京都)、村上頼勝の、村上城(長野県)、石田三成の佐和山城(滋賀県)、豊臣秀次の八幡山城(滋賀県)坂崎直盛の津和野城(島根県)、加藤嘉明の伊予松山城など、比高一〇〇メートル以上の山を利用した城は枚挙にいとまがないのである。 鉄砲による戦術の変化が山城をすたれさせたということは事実に反するし、そもそも城が単純に高いところから平地へ移ったという説自体、再考の必要があろう。
ただ近世城郭には平野部に築かれたものが少なくないが、これについては戦術の変などという単純な原因よりも、政治情勢や経済問題など総合的な視点から、原因を検討すべきであろう。
追記
知っていると思いますが、鉄砲がない頃にも平城はありますよ。たとえば、南北朝の頃にはすでに存在した茨城県の小田城なんかそうです。さらに大砲や機関銃が発達した時代だって山に要塞を作ったと思いますがねえ。日露戦争の203高地なんてどうですかねえ。相手より高いところへ行ったほうが有利ということは今も変わらないんじゃないんでっすか?空爆とか宇宙から地上を索敵するとか。鉄砲による戦術の変化ってどんな変化なんでしょうかねえ。よくわかんないなあ。まさか、山から鉄砲を撃つと、鉄砲の弾が筒からこぼれ落ちるなんていう理由で平城になったなんていう人はいないでしょうね。たしか、弾に紙を巻いて弾を込めると落ちないと聞いたことがありますねえ。それに平城でも上から眺めて敵に向かって鉄砲を撃つんですがねえ。
なんか、むかしの定説というのは鉄砲を過大評価しすぎのようなきがするんですがねえ。どうも一般の人は第2次世界大戦の頃のライフルと火縄銃は、発射速度と火薬への発火方法以外ほとんど同じ性能だという認識をもっているような気がするんですがねえ。火縄銃はものすごい原始的ですよ。有効射程が全然違いますよ。
(火縄銃と現在のライフルの違いの詳細はここをクリック)
政治が平城の方がやりやすいというけど、だったら、平地には館を作って政治を行い、いざというとき近くの山城にこもるというやり方のがいいとおもいますがねえ。そういう山城などを詰めの城といって実際にありましたがねえ。群馬県の平井城という館みたいな城の詰めの城で金山城とか。
ただ、私が思うには、桝形や横矢や馬だし等の要塞構築技術の発達により平城でも十分防御できるようになったので平城が増えたんじゃないんですかねえ。増えたかどうかは、統計をとってないのでわかりませんが。(^_^;)
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