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全国長南会通信  25号
2006年7月20日発行  全国長南会
長南忠春800年祭に参加して   青宿  長南秀則
 平成18年7月7日(金)朝7時JR土浦駅東口出発、一路岩手県宮古市田老へ...照光氏提供の10人乗りワゴン車に乗り込んだのは、中村夫妻、俊春会長、光男先生、島根住職、照光、秀則の7名である。目的地への到着は午後4時ごろ。忠春800年法要までの時間に、宮古市の大下氏のガイドで、三王岩など海岸を散策、陸中海岸の景観や、津波よけの防潮堤の規模に一同息を呑んだ。法要のあとは青沙里の海岸など経由し、ホテルへ。

  食事前のひと時、宮古市の箱石氏による、ホテルの会議室での、義経を中心とした歴史本の講義。今回岩手方面に行くということで、以前おもしろく読んだ歴史小説にでてくる地名や時代背景などを、自分の目で確認できるチャンスとも思い、楽しみにしていたのも事実だったので、非常に興味深かった。翌日は、釜石の長南良一さんを訪ね、高館義経堂、菅原道真にまつわる配志和神社を見学。帰路東北道を走り、埼玉県久喜、千葉県柏経由、茨城県青宿着午後11時50分だった。

          箱石氏の講義 グリーンピア田老会議室   陸中海岸三王岩
東北地方と歴史小説
「壬生義士伝」 浅田次郎

  車は南部盛岡を経由する。TVでの長時間ドラマと、その後映画化もされた浅田次郎著「壬生義士伝」の舞台にもなる非常にに景色の美しい土地だ。物語の主人公「吉村貫一郎」の語りが聞こえてくる。...

  「南部盛岡は日本一の美しい国でござんす。西に岩手山がそびえ、東には早池峰。北には姫神山。城下を流れる中津川は北上川に合わさって豊かな流れになり申す。春には花が咲き乱れ、夏は緑、秋には紅葉。冬ともなりゃあ、真綿のごとき雪こに、すっぽりとくるまれるのでござんす。」...
 
  江戸時代末期の飢饉と貧窮のため南部藩を脱藩し、京都で新撰組に入り、鳥羽伏見の戦いで死んでゆき、ふるさとには帰れなかった吉村貫一郎。しかし、父を知らない貫一郎の子が、維新後大学教授となり、冷害に強い「吉村米」の品種改良に成功するという物語である。...
 
  「南部盛岡は江戸より140里、奥州街道の涯ゆえ、西国のごとき実りはあり申さぬ。おぬしらが豊かな西国の子らに伍して身をば立て、国ば保つのは並大抵のことではねえぞ。盛岡の桜は石ば割って咲ぐ。盛岡のこぶしは、北さ向いても咲ぐのす。んだば、おぬしらもぬくぬくと春ば来るのを待つではねぞ。南部の武士ならば、みごと石ば割って咲げ。盛岡の子だれば、北さ向いて咲げ。春に先駆け、世にも人にも先駆けて、あっぱれな花を咲かせてみろ。」...
  「燃えよ剣」司馬遼太郎

  翌朝、田老港から遊覧船に乗り、浄土ケ浜に降りると、「宮古湾海戦懐古之図」という看板を見つけた。宮古というと、やはり戊辰戦争終盤の事件となる、「宮古湾海戦」があったところだ。

  仙台松島湾で、幕府海軍榎本武揚艦隊と合流した陸軍副長土方歳三は、軍艦の修理が済むまで、寒風沢島などの浦戸諸島に滞在した。当時仙台藩から浦役人を命じられていたのは、長南和泉守から11代目の長南清八郎である。清八郎は、幕府軍の船の修理や、分泊の手配をしたそうである。その後、榎本艦隊は大鳥圭介、土方歳三らとともに松島湾を離れ、函館五稜郭に到着し、後を追ってきた新政府軍は、やはり松島湾を経由し、宮古湾に停泊する。官軍の甲鉄艦ら8隻の艦隊が宮古湾に停泊しているとの情報を得た幕府軍は、官軍の主力艦甲鉄を奪うべく、凾館を離れ宮古に向け南下する。土方の乗る回天の他軍艦3艦である。途中の暴風雨のため、故障や行方不明で宮古には回天のみが、たどり着いた。早暁の朝焼けの空の下、陸上の丘には、眼が痛むほどあざやかな菜の花畑が、黄色に丘や野が色ずんでいた。ここに、一か八の奇襲攻撃は回天1隻がおこなうことになる。

  作戦は、軍艦甲鉄に回天を「リ」の字に横付けして、土方の引き入る幕府陸軍が甲鉄艦にまとめて乗り移り、抜刀して切り付け、艦を奪い取ると言うものだったが、舵取りがうまくゆかないため、「リ」の字ではなく「イ」の字に接舷のままの白兵戦となり、1人づつ飛び降りねばならず、土方軍の分が悪くなり、退散することになった。土方は「やめた。そのほうらもやめろ」と、怒鳴ると、敵も射撃しなかったという。官軍軍艦「春日」の三等仕官で元薩摩藩士、後の連合艦隊司令長官「東郷平八郎」は、いち早く幕府軍の「回天」を発見し発砲、射撃して土方の奇襲攻撃に対応した。

「駿女」佐々木譲

  源義経が北海道へ逃れ、海を渡って満州、モンゴルに入り「チンギスカン」として、日本を襲ったとする伝説がある。平泉から三陸海岸を通り蝦夷地、北海道へ行く経路に宮古市田老があり、義経主従はここに とどまったという伝説もある。義経の忠臣である長南忠春は、ここ田老で敵を待ち受け、義経を守ったのだろう。また、佐々木譲著の「駿女」は、もう一つ伝説を作った。源頼朝のために、主と主の子の八郎丸を失った長南忠春、常陸坊悔尊。駿馬とともに、野を駆ける少女「由衣」は頼朝の為に家族を失った。頼朝こそは由衣や忠春らにとって、悪の権化であった。

  その後、頼朝は相模川の橋供養に出席した際、急に馬が暴れだしたため、落馬して、それが原因で死んだ。そこには笛を吹いて馬を操る成長した由衣の姿があった。忠春らの思いが由衣にそうさせたのだろう。
 
高館義経堂の前で
和尚の感激                    長南俊春(久喜市)
  常運寺で。前列法衣姿は高橋英世師。
旗は「長南七郎忠春墳墓の地」とともに、長南光男氏特製

後列左から、光男、秀則、箱石、照光、嶋根師
前列左から、中村、高橋師、中村ひさ、箱石夫人、知人、俊春
   田老の常運寺の住職、高橋英世師には、今回の法要を快く引き受けていただいたが、われわれが特にこの寺を選んだことで、大変感激しておられた。

  それには理由があって、先代住職はかねがね、義経は頼朝の侵攻を察知して、家臣を要所に配置して警戒していたから、むざむざと窮地に陥るはずもなく、逃避したに違いないと語っていたという。忠春は田老に居て、海からの侵略を警戒していたのかとも考えられる。

  先代住職は、チンギスハン説まではともかく、義経の北行伝説に説得力を覚えておられれたのかもしれない。

  そこへ岩手東海新聞社の佐々木健記者が来て、中村氏から概略の話を聞いた後で、会長としての私からのコメントを求めてきた。
 
  私は、1961年の長南氏千年祭から2003年の長南和泉守・36士お墓建設、瑞巌寺に松島創成の栽松記念碑と続く大行事と今回の忠春800年供養について説明し、きたる11月には長南年恵100年祭を開催することを述べ、企画面での中村就一氏の努力と、資金面での齋藤武夫氏の貢献について申し上げました。
 
  全国長南会としては、これらの業績を将来に語り伝えてゆくことが、今後の課題となります。
津波を想う        長南照光(青宿)


                 三王岩を背に中央照光と中村夫妻
     田老町は、太平洋からの狭い入り口の湾の奥にある。この地形は日常生活に便利だが、一旦津波襲来ともなれば、甚だ危険だ。

最近の記録では1896年、明治29年6月15日、波高15m、
1933年、昭和8年3月3日、波高10m

  これら2回の津波を忘れまいと、田老湾の岸壁に海面から15mと10mの高さに上下2個のマークがどこからでも見える。
これら2回の三陸津波で、明治には27,122人、昭和に3,008人が命を奪われたことから、田老町では海面から10mで長さ2,433mの防潮堤を昭和9年から33年かかって築いた。

  大下哲雄氏の案内で、今その防潮堤の上に立って、津波の恐ろしさを思った。霞ヶ浦の奥の平地の青宿に育ったわれわれには、とうてい想像もできない
お経に涙す         大下哲雄 (宮古市田老)
  遠路、田老の地までおいでいただき、ありがとうございました。無事の帰郷の報を確認できたとき、安心しました。

  田老での法要、墓参とあったわけですが、長南忠春侯ゆかりの青沙里の墓地で朗々と唱える嶋根坊の読経を聴いたとき、感動しました。これが本来の仏教の癒しなのかと。800年前の忠春侯にはもちろんのこと、忠春侯が毎日のように行ったいただろう三王岩にも届いたことでしょう。自分がその場にいたことが最高にうれしい限りです。

  昨年3月、全国長南会の存在と知り合って以来、これまでの研究成果や全国に展開する行動力に感服しています。800年祭が終了したとはいえ、この田老の地をこれからも気にしていただければ幸いです。

  ところで、「駿女」ですが、長南会の皆様には地名、位置関係が難解だったのではないでしょうか。愚生、岩手県人とすれば手に取るようにわかりますので、読みやすい展開の小説でもありました。最終局面での「閉伊」の地名の登場や「長南忠春は武器を捨て、奥州の奥に消えた」は「田老」だと確信します。

  青沙里の忠春のお墓で、嶋根豪全師があげてくださったお経は、なんというお経でしょうか。

 私は、意味はわからぬまま、じーんと心に沁みて目頭が熱くなりました。お坊さんが上げるお経に、あのように感銘を受けたのは初めての経験でしたので強い印象が今も残っています。
 
  大下哲雄(宮古市田老)
 
 嶋根豪全師のお経。左から照光、中村、嶋根
中村就一

  私はかねてから嶋根師のお経に深い尊敬を抱いていますので、今回の旅行に師が参加されると聞いて、青沙里では是非にと、お願いしたのです。

  あのお経は次の三部です。
三礼(さんらい)、如来唄(にょらいばい)、円頓章(えんとんしょう)

  これらのお経の内容については、嶋根師にお願いして、別途掲載する予定ですから、ご期待ください。
   
伝統をインテリアに     畳プロデューサー  長南里美(新宿区)
<新聞記事の紹介>
 
カラフルな布や革で縁取られた十数センチ四方の畳。しゃれた小物や花が載る大きさだ。伝統的な畳を現代のインテリアとしてよみがえらせるのは、畳プロデューサーの長南里美さん(26)だ。

  聞きなれない肩書きは自分で考えた。大好きな畳を何とか残したい、新しいスタイルの畳を作り出したいという願いがこもっている。

  「私の世代でも、畳は好きだけれど、値段は高いし、家は狭いしで置けないという人が多い。せめて小さい畳でもと思って作ってみたんです。」

  商品名は「JOE」。畳の音読みにちなんで「ジョー」と読む。

  三代続く東京の畳店に生まれ育ち、高校1年の時、父親の前に正座して「店を継ぎます。弟子入りさせてください。」と頼み込んだ。「でも、お父さんはくるりと背中を向けて、即、却下でした。」

  頑固な父親が娘の願いをはねつけたのは「力仕事は女には無理」というだけではない。「都会での畳の需要は減るばかり。この先、店を継がせてもやっていけないだろうと考えたんでしょう。」
 
専門学校で建築を学び、輸入家具を扱う住宅・インテリア会社に入社したが、次第に会社の方針に違和感を感じるようになり、2年で退社。オーストラリアで1年半の充電生活を送った。

  「しばらくすると『ああ、畳の上でごろんと寝たい!』って思うんですよ。ホームシックじゃなくて、"畳シック"状態」

  帰国後、勢いで作ったのが「JOE」。畳表は天然イグサ、縁に張る布地は花柄、唐草模様など日本の伝統的なデザインを生かした。「和室でなくても、置くだけで和の空間になるでしょう?」

  熊本のイグサ農家、新潟の畳屋さん、大阪のインテリアデザイナー...。」「インターネットで知り合った仲間とチームを組んで、全く違う畳ができないかと考えてるんです。それが私の野望かな」
 
「念願の畳屋は継げないけれど、今やっていることは天職」と話す長南里美さん=東京都新宿区の「長南畳店」
    5月26日(金) 河北新報
  5月28日(日) 熊本日日新聞
  5月30日(火) 日本海新聞
  6月 4日(日) 神戸新聞
  6月 5日(月) 京都新聞
  6月 7日(水) 福井新聞
  6月 7日(水) 茨城新聞
  6月10日(土) 岩手日報
  6月26日(月) 山陰中央新報
  6月26日(月) 長崎新聞
これから本格調査です       故  長南要(川口市)
  報告が大変送れてしまって申し訳ありません。8月12日、金谷川の若宮に行ってまいりました。

  松川中の坂の墓地、私の本家(長南巳之吉、周一)のお墓にお参りをし、阿弥陀堂にもお参りをしようと思い坂を下りて行くと、阿弥陀堂の階段の下を、草刈している人に出会い、話を聞くことが出来ました。

  本家の亡くなった周二郎様と父親の永治様の事など詳しく話をして頂きました。永治様が出稼ぎから帰って来ると、住んでいた家は人手に渡り今でも残って居りますが、白壁の土蔵のそばに小さな隠居小屋に家族が移り住んでいたそうです。

  永治様も周二郎様も良い友達とのことでした。赤沼の墓地の守もしているそうです。名前を伺ったところ、「ミツオ」と言って居りました。

  赤沼の墓地をお参りしようと思い行ったのですが、様子が変わってしまい、小さな墓石が、横一列に並び、大きな墓石は消えて居りました。

  もう20年以上前、初めて赤沼の墓地を訪ねたとき、墓石の台座に美之吉という名が彫られた墓があり、妙に気になり、2度目に訪ねた時にはどうしても、その墓を見つけることは出来ませんでした。

  今回で3度目は、大きな墓は消えてなくなり、びっくりして居ります。

  中村先生は、本の中で赤沼の墓地を調べた人が長南睦男様と知り、阿弥陀堂での「ミツオ」さんは睦男様の間違いだったと思われます。

  中村先生の「長南氏の研究」751頁の和泉直系の子孫、長南一は、長南巳之吉と署名のある木箱(引き出し)に納た古い鎧の両袖や槍を所蔵している。とありますが、私が子供のころ父親から聞いた話ですが、若宮から福島の方に向かって左側に黒塀に囲まれた大きな屋敷があり、土地も金谷川の駅までよその土地を踏まずに行けたそうです。鎧や槍、陣笠、蛇腹の付いた納戸があり、お祭りの用具があったそうです。
    曽祖父忠助は、大酒呑みで道楽好き、妾をつくり、屋敷や山林を全部呑みつくし、83才で亡くなった時には、蔵の中に中折帽子が1つ残っていたそうです。

  長南一様が所蔵しているものが、本家にあったものとは限りませんが、長南巳之吉は曽祖父と同じ名前です。(同名の方がいたかも知れません)

  曽祖父忠助、忠助の長男、長兵衛、長兵衛の長男永治、その他家族の亡くなった墓のないのは、貧乏で墓を建てられなかったからと思われます。

  次回若宮を訪ねる時は、余裕を持って行動したいと思って居ります。長南睦男様、長南一様、長南一郎様には是非逢いたいと思って居ります。

  以前常光院で過去帳を見せてもらったことがありますが、理解することができませんでした。常光院を訪ねる時は、写真に過去帳を写してまいります。本家の木札も調べさせてもらいます。

  今回は細やかな報告になってしまい大変申し訳なく思って居ります。次回はもっと満足な報告ができるよう努力するつもりで居ります。

  遅れてしまい、申し訳ありませんでした。どうかお許しください。


   「丹治」は坂東八平氏ゆかりの姓か?
何故長南に変わったのか、これだけ詳しく調べるのに、大変な苦労があったでしょう。これからというときに要氏は急逝され、誠に残念です。
  せめて子孫が継続されんことを期待します。  (中村就一)
第5回 長南松島祭り
2006年9月3日(日)
 
  第1部 寒風沢古墓供養
      9:30 市営汽船で塩竈発。
    10:14 寒風沢着
    11:00 元観音 和泉守五輪塔法要
    12:00 寺向い古墓改修五輪塔法要
    13:00 会食 潮陽館(会費1000円)
    14:08 市営汽船で塩竈
 
  第2部 瑞巌寺
    16:00 栽松記念碑法要(会費1000円)
    16:40 解散
   
    参加申込は同封のはがきで!会費は現地で当日いただきます。
極楽娘長南年恵100年祭
日時 11月3日(金) 10:30 集合

  11:00〜13:00 法要
      香風会による尺八演奏
      昼食会、長南年恵展墓
      会場 山形県鶴岡市日吉町9−47
      住職 藤川享胤師
      Tel 0235−23−7563 Fax 0235−24−3711
      会費 1500円(布施、昼食代)

座談会「極楽娘長南年恵を想う」
    時間 13:00〜15:30
    会場 般若寺講堂
    会費 無料 どなたも参加大歓迎
    この後希望者は南岳寺淡島明神参拝

会場にて頒布資料
    1.大講義長南年恵刀自集 千葉操纏 1960(複写)
    2.劇画超能力者列伝「長南年恵の生涯」雑誌微笑1984
        特別展示「弘法大師お筆先の筆跡」
        主催 全国長南会 事務局 中村就一
        連絡先 庄内長南会会長 長南成(しげる)