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全国長南会通信  23号
2006年4月1日発行  全国長南会
中国・内モンゴルの植林に第二の人生              長南一夫
     内モンゴルの砂漠を緑でいっぱいにしたい−。全日空のベテランパイロットだった長南一夫さんは砂漠化が深刻な中国内モンゴル自治区でNPOボランティアとして昨年まで5年間、植林を行ってきた。内モンゴル自治区の面積は、北海道の約3倍だが緑はわずか8%。中国の砂漠化は年々深刻になっている。

 一夫さんは平成10年7月まで、通算飛行時間25000時間を超える全日空のベテランパイロットだった。空の上から、大地の移り変わりを見て気づいた。

 「私にとって大地の色というのは安どの色。飛び始めたころはほとんどが緑だったのが、東南アジアの山々が特に、荒れてきたんです」また、中国という土地には特別な思い入れがある。
「私は戦争で帰ってきた“大地の子”なんです。砂漠化が深刻だと聞いてはじっとしていられない。恩返しの意味もあるんですよ」
 
 林業を学ぶために岐阜県美濃市曽代の県林業短大に2年間通った。横浜市の自宅を単身で離れ、アパート生活。無遅刻無欠席の優等生として卒業した。その努力を生かす実践の場が幼少時代を過ごした内モンゴル自治区ハイラル市の植林だった。

  一夫さんは2001年3月から半年間、ハイラル市に滞在した。年間平均気温はマイナス2度、プラス気温は5月からの4カ月だけ、年間降水量は350ミリで日本の5分の1以下だ。「見渡す限りの草原、砂地に1本の樹木も無く・強い西風が吹き、砂嵐が舞うのです」。

  その地でさっそく植林に立ち会った。「36歳の市林業局長が精力的に指揮をとり、日本人には歯が立たないような土地に、中国人は根気強く一日15株も植えていく」のに感動した。
日本では秋だが、9月からの植林はマイナス15度にもなる「冬期植林」で、世界にも例を見ないという。
 
 現地では80年代の試行から、最近本格化してきた。それもこれも、「人進退砂、砂進退人」と、砂漠化への危機感が募っているからだ。かじかむ冷たい手で必死に植林作業をする中国人たちに接する中で、一夫さんは「愚公移山」の故事を思い、「人にはそれぞれ役目がある。僕にはこれが使命だ」と誇りに感じるのである。

  1981年、全人民大会で ケ小平主席の提唱により中国全土に緑化運動が展開されることとなった。現在中国の1/3が砂漠、砂地化に直面している首都北京は100年後に砂漠化、消滅するといわれている。
この全国緑化事業は農耕地を犠牲にしても、すなわち食糧生産を抑えても植林するとする政策である。
 日本人による中国への植林ツアーが昨今流行しています。2,3日滞在、記念植林、写真撮影して帰国します。その後の管理が行き届かず、枯れてしまう話を多く聞きます。樹を植えることは幼稚園児でも出来ます。その後の気配り、育成に膨大な労力、資金を要しますし、現地の人々の理解に基いた協力を得なければなりません。中国にはかつて植林の習慣はありませんでした。日本企業の外国進出と同じように、植林事業にも現地駐在員の確保が是非とも必要に思われます。

 我々の中国での植林は、地球環境保護の立場から、現地の人々と協同で将来を目指しての事業ですが、中国共産党の指示のもと反日教育が行われており、反日感情が根強いことも事実です。NPOの誠意の資金、行為が、敗戦国日本からの賠償金として一部では当然の如く受け取られることについては、寂しく、大変残念でなりません。

 日本人(日本)側にもその責任があります。謝罪する、見て見ぬ振りをする、自分の意見を率直に云わない、冷笑して済ませる、これらを美徳とする風潮があり、大きな誤解を生む原因になっています。

樹を植えることは、人を育てること


このような曖昧な態度は、これからの国際社会においては適用しないでしょう。

 2002年、中国はWTO加入以降、経済発展は国際化(全地球化)を求めて走り出しました。もう止まりません。地方(内陸部)でも外国語、外国文化に対する学習熱は大変旺盛で、外国語教室、若者の外国留学希望者は急増しています。13億の民全部とは云いませんが目が外に向き始めたのです。中国が世界で大きな力を持つようになるのは確かです。

 私は植林の任務で現地に滞在していましたが、外国の言葉や文化を学び、理解しようとしている意欲的な人々に接する度に、地球環境保護のために樹を植えるということは、結局は人を育てることだと痛感しています。 (横浜市)
青宿にこの人あり   長南照光  そば好房 惣右衛門  青宿
  「惣右衛門」という立派な看板と「そば好房 談笑亭」というのれんが掛かった。青宿の長南照光氏宅の蔵の入り口である。照光氏は国家公務員定年退職を機に、自分の趣味の一つである「そば打ち」をするため、昔からの、自宅の蔵を改造して、厨房、客用座敷席を作った。さらに、これから2階には宿泊施設を作る予定である

照光氏は、なにかと多趣味と器用なかたで、数年前には現在の住まいの屋根や玄関などのリフォームを手がけ、自宅のクリスマスのイリュミネーション飾りは毎年近所の人たちを楽しませてくれ、所有している10人乗りワゴン車を提供して、団体のドライブ旅行を企画立案し、自ら運転手を買って出て実行している。昨年秋は「寒風沢牡蠣食べ放題ツアー」を企画し青宿から10名参加で、潮陽館で牡蠣料理を楽しみ、和泉守の墓参りを行った。

  「そば好房 談笑亭」は近所の人たちや全国長南会などの、小さな会合や懇親会に利用してもらおうと、約1年を費やして改装し、1階部分はこのほど完成した。2階には第2期工事として宿泊施設を作る予定である。青宿にお越しの折は是非お寄りください。
定員は約15名、2階に4〜5名宿泊可能。冷暖房完備。飲み物、食べ物は持ち込み大歓迎。ちなみに「惣右衛門」は照光氏宅の屋号である。
(青宿)
'2005 ホノルルマラソン完走  青宿 長南涼子
 ホノルルマラソンはすごい。なにせ参加者の半数以上が日本人だ。そして1年を締めくくるにふさわしい世界的なイベントである。参加しない訳にはいかない。絶対完走して「FINISHER」の称号を手に入れてやる。気合は十分。しかし練習不十分のまま参加した42.195キロは想像をはるかにこえた厳しい道のりであった。
 スタートは朝5時半。真っ暗な中、派手な花火とともにスタート。フルマラソン初参加の私はとにかくマイペースでゴールすることだけを目標に最初はただひたすら歩いた。歩いて歩いて歩くうちに、取り残された。しかしここで焦って走り出してはいけないのである。先は長い。しばらくはウォーミングアップのつもりで歩こうじゃあないか。10キロ地点に差し掛かってきたとき、最初のランナーがゴールしたという放送を聞いた。こっちはまだあと30キロ以上ある!あたりはすっかり明るい。気温も上がってきた。よし、そろそろ走るか。ゆっくりゆっくり、景色を楽しみながら、とにかくゆっくり走りだした。
 ダイアモンドヘッドは坂道である。そして果てしなく遠い。3キロごとに設置されている給水場ではとにかく水分補給が大事である。走る。飲む。この繰り返しである。20キロを過ぎたあたりであったろうか、疲労困憊の私は程なくして走れなくなった。この先は歩いてゴールを目指すのである。なんと先の長い事か・・・ 私はi-podで音楽を聴きながらひたすらあるいた。
  道には地元のボランティアの人たちによる音楽の演奏やお菓子の差し入れ、チアガール、マッサージのサービス、などなどランナーを支える人たちがいる。そして声援。これらは一人歩く私の力強い支えになった。

  これらがなかったら絶対ゴールは出来なかったと思う。本当にすばらしい体験である。緑に囲まれた山、美しい海、多くの声援、まさしくハワイアンスピリットを感じた瞬間であった。
 9時間9分10秒という輝かしい記録で見事ゴールした私。ゴールの瞬間までは足が折れるのではないかというくらいに苦しかったが、ゴールした瞬間に「また来年も走ろう!」と決心した。マラソンは苦しかった。もっと練習すればよかった。反省材料はいっぱいある。2006年はせめて8時間以内にはゴールできるようにリベンジだ!たくさんの感動とすばらしい景色と世界中の人々とのふれあいとハワイの不思議な力を体験した私。ホノルルマラソンは癖になる。今年も絶対参加します!

2005年12月11日(日)
歴史小説「駿女」を読んで
長南 成 
  テレビでの連続ドラマ「義経」は好きでしたので、のがさず見てきました。しかし、忠春の名は出てこないので義経が平泉へ落ちのびる際に加わったのであろうか?いや、ひよどり越の戦いにも出ていたので、表に出てこなかっただけのことだろうと思った。いづれにせよ連続ドラマを見た後だけに、中村先生から「駿女」を読んでという連絡を受けて次の日に鶴岡市で最も大きい書店に行って見ましたが、まだ店頭には出ておらず早速注文し5日後に届き、その夜から読み始めました。長南七郎忠春が戦乱の武将にふさわしい戦い振りと義経のご落胤八郎丸、由衣との出会い、そして頼朝の奥州平定の戦いに翻弄されていくストーリーには胸を打つものがありました。
  齋藤勝重
  この物語の結末は、史実と創作の接点を巧みに描いて読む者を一種陶然とした気持ちにさせる。シビアな現実的政治家頼朝を葬らせるのに夢幻力というべき力を借りたと思われる。700年の歳月によって風化した鎌倉は歴史の一時期現実の真っ只中で、武家政権樹立という革命を成し遂げた。しかし、洋の東西を問わず革命は残酷である。単一の独裁権力が確立するまでは、幾多の無辜の血が流される。革命の一翼を担った多くのものたちは思いもよらぬ罪名を着せられて謀殺される。歴史の非情でもある。
  700年の歳月によって風化した鎌倉は歴史の一時期現実の真っ只中で、武家政権樹立という革命を成し遂げた。 
  だが、最後の処で忠春はいずこともなく去っていくとあるので、もしかすると奥州山脈を越えて朝日村上田沢に落ち延び、私共の先祖になったのではないか?

と推理したのですが、その直後の長南会通信で「忠春は田老に死す」とありましたので、少々がっかりしたところであります。
(鶴岡市)
  しかし、洋の東西を問わず革命は残酷である。単一の独裁権力が確立するまでは、幾多の無辜の血が流される。革命の一翼を担った多くのものたちは思いもよらぬ罪名を着せられて謀殺される。歴史の非情でもある。
 源氏と平氏、討つ者と討たれる者たち。義経とその郎党たちも暗転する過酷な命運に翻弄された人たちであった。権力の意志を見抜けなかった悲劇であった。
 この物語はそのような酷薄な時運に属した人々に手向けられた鎮魂歌である。(大田区蒲田)
長南年恵という娘  中村就一      第8回上総郷土史研究会 長南町中央公民館 2005/12/17
  1996平成8年4月23日長南一男氏(北海道足寄町、上田沢)は、千葉県長南町の笠森観音に参詣。署名すると受付婦人から「同じ姓の方が参詣されています」といって、寄進した人の姓名が記載された布片を見せてくれた。それにはまぎれもなく長南年恵と書かれていた。戸籍名の登志恵ではない。

 年恵は今ごろ何を考えて長南町に来たのか、もしかすると、上総郷土史研究会で地元の皆様に、改めて紹介してほしいのかもしれないと思い、本日の会を企画しました。

 小学校にも行かない彼女ですから、唐詩選に載っている詩を知るはずはないし、筆を持って書くなど論外ですが、ご覧のような見事な書が現存するのです。聞けば弘法大師が彼女の手を持って書いたそうです。これは、楊さんが故郷に帰る趙縦さんを送る詩です。意味のあらましは以下の通り。

   趙さんはいくつかの城と交換してでも欲しい宝玉のような秀才だ。その評判は久しく天下に広まっている。君が故郷に帰るのを送る今宵は、名月が前の川に映って美しい。
 
 私がこの写真を井上さんに見せたら、彼はパソコンににとりこんで引き延ばしを試みていました。その時です、彼が飛んで来て叫んだのです。

 「画面の彼女が、白い歯を見せてニッコリ微笑しました!」

  いいかげんな事を言う人ではありません。その通りでしよう。だから年恵の生涯の物語は次の年表だけで十分でしょう。今年は没後100年です。
長南年恵年表  資料:丹波哲郎「霊人の証明」中央アート出版社他
                                                   2005-12-17 全国長南会 1−105
                                                  中村 就一
 年代  年齢    長南年恵に関する出来事(社会的事件)
 文久
  3 1863 0 10月26日 山形県鶴岡町高畑町12(現日吉町)に登志恵誕生 父・長南寛信、母・千葉美江の長女
 明治
   1 1868 5 弟・雄吉誕生(三男)(戊辰戦争)
  8 1875 12 (鶴岡大火、天然痘流行)
  10 1877 14 川流れのお札を拾い、霊能力の兆し(西南戦争翌年コレラ)
  15 1882 19 父寛信死去、兄直友(長男)隠居により雄吉相統
              (庄内にコレラ流行)
  16 1883 20 高畑町の家屋敷売り、一時千葉寛敬方に間借りした後最上町の小竹重朝方に転住(鶴岡連続大火)
        長南家の氏神日枝神社で神鈴、笛を聞き、他人と違うことを自覚
        場内の八幡様につげの櫛を祈り授かる。
  17 1884 21  この頃から物を食べなくなり、血を吐くが医師は異常なしという。霊能力現れる。
  19 1886 23 (庄内にコレラ流行)
  20 1887 24 (12月保安条例 - 後の治安維持法の前身 - 施行)
  21 1888 25 日枝神社の神が年恵に現れ「千葉直操は毎早朝お参りしてくれるから、ご褒美に上げる」という。                (7月磐梯山大噴火)
        千葉直操証言「竜覚寺観音の祭典にて」
        雄吉証言「姉は無学で、平常は無邪気な、殆とバカみたいな資質の女なのですが、
               神がかりになると、作品はすばらしいものです」 千葉直操証言「唐詩選の自動手記」
  22 1889 26 食物、日にサツマ芋200g程と、水少々となる。(大日本帝国憲法発布)
  24 1891 28 最上町の千葉家へ転居
        10月25日夜10時、観世音の化身のカワセミが、雨戸、障子を破つて八幡神の絵姿を
               くわえてきて落とした。羽根が落ちていたが、いつの間にかなくなつた。
  25 1892 29 祖母さわ東京で死去、雄吉遺骨を奉じ帰郷。姉が20代の若さに驚き観察し実験。
               湯冷ましを水といって飲ませたら非常に苦しみ、血を吐いた。さすがの雄吉も霊人であると確認。
  27 1894 31  この頃から殆ど食物を取らなくなり、両便、生理なく、腹が張り胸のもやつきが40日で治まり、
               神水を引き寄せ人々の病を治した。
        (7月 日清戦争開戦)
         救われた人々は彼女を極楽娘と呼んだ。絶食は44歳で死ぬまで続く
        (10月庄内大地震)
  28 1895 32 日清戦争に関する予言はことごとく的中。政府は危険人物として7月から60日間
               山形県監獄鶴岡支署に拘留(4月 日清戦争終結)
        鶴岡高女入学の高野寿鶴(ちず)を「私は食事しないから、
               代りに置いてやって」と言い卒業まで4年間下宿させた。

   29 1896 33  10月10日から7日間、再拘留(6月明治三陸地震津波)
  30 1897 34 高野寿鶴証言「体は白く透き通るように血の気はないが、髪は長くまっ黒で高貴な香りがした。
               ご自身も人におんぶなさり、軽くしようと言ったり、とても立ち上がれぬように重くしたり
               自由でした」
       (庄内大凶作翌年迄)
         高野寿鶴証言「病気平癒祈願の人は名札を付けた空き瓶を差出しますが、
               多い時には30本以上同時に、色々な色のお薬を瓶いっぱいに満たしてくれました。
        雄吉証言「監獄内で有村実礼署長の依頼で、霊水1瓶、お守リ1個、
        経文1部、散薬1服を授けられた」
         高野寿鶴証言「お手をかざし、同様にして甘酒も簡単に」
  32 1899 36 絶食6ケ用、八日町へ転居(神戸ペスト全国蔓延)
         小竹繁江証言「善宝寺に3人で参詣した時、年恵様がお宮の中に入るとドシンバタンと音がして
               そのうちに、縁の下から大きな茶盆大の頭に金色の目がついたものが二、三度顔をだしました。
         雄吉、年恵の監獄での絶食事実証明願提出、内容は
          1  67日間両便等の生理現象なし
         2 無理に食べさせられたは1日75gの生イモだけ
         3 署長の求めで霊水等を贈る
         4 同囚に散薬を与えた
         5 神降臨の時に複数の係官も音楽を聞いた
         6 髪はつやつやし、芳香を発していた
          7 27kgの水入りの桶を軽々と運んだ
          8 蚊が刺さないので彼女だけ蚊帳なしで寝た
          これに対し「9月21日付の願出の件は証明を与うるの限りにあらざるを以て却下す」となる。
               しかし掛官ら証人が多く黙殺不能
  33 1900 37  雄吉、シゲと結婚・大阪雄吉宅に呼び寄せて同居させたのは京都大
         学教授に姉を見せるためである。
          雄吉証言「ある夜9時頃、年恵の姿が見えなくなった」
  33 1900 37  雄吉大阪朝日記者の前で霊水を出して見せたが記事は長南年恵が隠し持った所から
               出した手品ではないかと言わんばかり。
              (鶴岡大火)
          3日後家宅捜索を受け、欠席裁判で拘留10日の処分。雄吉は故障申立て申請、
               7月11日大阪区裁で棄却判決
         8月6日大阪地裁で公訴棄却の判決。
          8月下旬から3ケ月、富士山上に籠もる。蒲団を背負つて飛ぶごとき
         早足に同行の信者閉口する
         12月12日神戸地裁再審霊水実験、みごと2分ほどで霊水を授かり、中野岩栄裁判長が
               証拠として納め、無罪判決
   34 1901 38 鶴岡に戻り、惟神大道教会設立
  37 1904 41 (2月 日露戦争開戦)
  38 1905 42 母、美江死去(9月 日露戦争終結)
   39 1906 43  雄吉、大阪市東区大本町に転籍。鈴木栄夫人(鶴岡の染物屋)
               腹中に腫瘍が化膿し医師に見放されたが年恵の祈りで膿が出て全快
   40 1907 44  8月頃から死を予告、雄吉、朝鮮出張(東京株式市場大暴落)
          10月29日鶴岡で死去、市内の般若寺に埋葬。

 2006年の行事予定
長南忠春800年祭   7月22(土)於・宮古市田老青沙里

   1189年4月、源義経31は藤原泰衡に衣川柵を急襲され討ち死にした。忠春は間に合わず、後に田老青沙里(アオザリ)で病死したと伝えられている。
  820年ぶりに忠春最後の地を尋ね、全国長南会としての慰霊祭を挙行します。翌日地元名物のウニ祭りへ

    宿泊は、陸中海岸国立公園リゾートホテル
    グリンピア田老 0193-87-5111
    参加費  10,000円 多数ご参加ください。

平泉中尊寺、衣川柵、猊鼻峡(ゲイビケイ)等、観光希望者はお申し出下さい。
 
   
第4回松島まつり  9月2日(土)瑞巌寺栽松記念碑前

会費1000円、続いて長南氏のルーツを語る会37会費無料。
寒風沢へ船賃1000円
宿泊は、長南兼夫氏の潮陽館7000円
海鮮料理とくに牡蠣が名物。

    9月3日(日)寒風沢長南和泉守墓前

江戸時代の古いご先祖の墓は、まとめて改修し五輪塔を立てて供養の予定。
 
長南年恵100年祭   10月29日(日)鶴岡市内

法事と講演会 会場等詳細は後報