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全国長南会通信  16号
2004年9月11日発行  全国長南会
裁松碑法要  松島長南祭り
写真左上
左から修治、阿部辰子、兼夫、藤田一隆氏、昭男、
中村就一

写真右下
通りかかった団体が、法要の意味を知ってしばし足を止めた。

写真左下
裁松碑に献花


8月3日 瑞巌寺  カメラ  林武弘
祖先の偉業偲び松島長南まつり

 さる8月3〜5日、瑞巌寺と寒風沢島に於いて長南松島まつり2004が開催された。
3日にはパルス松洲で「第31回長南氏のルーツを語る会」があり、講師の中村就一氏から、これまでと変わって、長南氏の歴史上の主な人物についての話があった。

 ハニワを創作したノミノスクネ、天神様と道真公、長南の名前の由来、義経の忠臣長南忠春、紅花を山形へ伝えた話、松島を創った長南和泉守、超能力で人助けした長南年恵の奇跡などがスライドを使って詳しい紹介があった。
 
4日は、外松島の嵯峨渓を観賞するクルージングの後、14時瑞巌寺の栽松記念碑法要で当日参加を含め12名が、藤田一隆師のもと大声で般若心経を唱え祖先の偉業を偲んだ。

 その後、寒風沢に渡り元観音の長南和泉守36士のお基で花や持参の供物を捧げて、やはり般若心経を唱えて心から供養し、今後も毎年8月4日には、栽松記念碑法要を中心に参拝を続けようと、参加者一同で誓いを新たにした。

全員高らかに読経

 ます藤田一隆師が大悲心陀羅尼を唱え、終わってチーンと鉦を打った。
 続いては参加者の読経は読み下し般若心教。人数のわりには声がそろって大きく、これまでにない出来栄えだった。しかも、末尾に藤田師がチン、チーンと合わせて打ち、しめくくってくれたから、誠に絶妙な読経となった。
 広場を覆う杉の巨木群はかつて長南氏が寄進したもの、心なしかわれわれの読経に耳を傾けているように思えたのも不思議だった。

  観自在ボサツは
  深くハンニヤハラミタを行じたまいし時
  五ウンは皆空なりと照見したまいて
  一切の苦厄を度したまえり  ......

写真 前列:左から、近藤さとみ、近藤やよい、阿部辰子、昭男、親雄、兼夫、
      後列:中村就一、藤田一隆師、修治、孝、光男、正義
嵯峨渓近景
のぶさん聞いてる?

 この記念碑は、瑞巌寺の雲居国師が長南和泉守に、松島を創ったのを褒めてこれからも仏道に励むようにと与えた賞状をそのまま刻んだもの。
 建碑記念に、全国長南会ではこの賞状を掛軸にして会員に実費38,610円で頒布中。長南家の床の間なら、うってつけの軸だと各地で喜ばれている。
 この賞状の原本は、長南家に伝えられてきたが、11代長南清八郎が破産し、死去した後は、後妻ののぶが抱いて守ってきたもの。
 これが昨年、石巻の長南うのさんの奔走で発見された。じつに363年ぶりだった。
 この日、のぶの曾孫阿部辰子さんが藤沢市から参加したので、皆さんに紹介した。碑を見上げる参加者は阿部さんを囲んで感慨深く眺めていた。

 嵯峨渓は物静か

 昨年建碑記念の時には、あいにくの天気でクルージングの予定コースを変更したが、今回の奥松島は絶好の好天で、波もごく静か。
 しかも、乗ったやまびこ丸の船長は、長南州俊氏(塩竈市の勘一氏の令息)だったからさっそく全員が一等船室に案内されて、参加の皆さんは、奇岩怪石が続く挑めを満喫した。
 こうした全国長南会の行事に初めて参加した昭男氏(川口市)は、新庄市の山国育ちだから、このような太平洋岸の侵食された海岸風景は珍しいのか、食い入るように眺めていた。
 新庄市の長南氏については、戸沢の殿様が戊辰戦争で城攻めされ、長南氏の工夫で城壁を、尻にさんだわらぼっちを当てて滑りおりた」となど話題にして話し合った。
長南和泉守と36士展墓
前列:阿部辰子、兼夫、正義 後列:昭男、修治、光男 般若心経読経  背景の彼方に故国上総国がある
寒風沢の地へ  長南  昭男
 空もこの日を祝うように晴れわたり、心を勇躍させ、先人眠る寒風沢の地へと一人静かに車上の人となった。

 今日の始まりは日本三大渓といわれる外松島の嵯峨渓へのクルージング。
 長南一族の艱難辛苦を現すがごとく、男性的な岩膚の群。そして美しくじっと堪えている黒松の情景に感嘆!

 この余韻を胸に裁松記念碑法要に望み、祖先の素晴らしさに幸福を感じ、自分の生きる道への自信を得たように思う。

 法要を済ませ、いよいよ先人が眠る寒風沢の地へ、小高い丘の上で、遠かなる彼方の長南の地を望みながら建つ長南和泉守、三六士の墓前で、心からの般若心経を唱え終わり、心を洗われたような清々しい気持ちで寒風沢を後にしました。

 それにしても、ここまで道をつけてくれた中村先生はじめ会運営幹事の皆様のご苦労に対し深甚なる謝意を表しペンを置きます。
                                                                      (川口市)
       

祖先を身近に感じ
   近藤さとみ                                                  

 ヒサ祖母が、母親の急な入院で参加を中止したので、私は祖父の荷物のポーターをする決心で妹と共に前夜は柏に泊まり、ずっと現地まで運び、足が不自由な祖父にすごく感謝された。ルーツを語る会でも、ホテルの人と折衝して会場づくりの仕事をやった。

 今回の祖父の話は、長南氏1000年の歴史から、主な人物として、野見宿弥、道真公、長南次郎滋殖、長南頼基、長南忠春、長南光重、長南和泉守、長南年恵等を選んで詳しく説明した。自分の先祖という身近な人達だけに歴史学科の時より楽しく、からだにしみこんだ。
栽松碑と私つながってる   近藤やよい

この間の仙台の体験は私にとって貴重なものになりそうです。はじめ私は「知っておいても損はない」くらいの気持ちで参加したのですが、仙台でのお話は私が今まで歴史の授業で習ってきた内容と絡みつつ直系の先祖の話だったので、とても不思議な感じがしました。
でもそのご先祖様方々の存在が今の私のルーツでもあるのでしっかり聞いておかなくてはと思いました。
また、瑞巌寺の法要の際には、一回修学旅行で訪れたことのある場所が自分のご先祖様と実は繋がっていたことに感動しました。都合によりそこで帰りましたが時間があるなら、寒風沢島に上陸してみたかったです。滅多に出来ない体験をありがとうございました。
今後の課題を思う
                                           林  武弘 
ご案内をいただき、日程をやりくりして記念碑法要と長南和泉守墓参に参列できた。年に1回はこうして先人の偉業を偲ぶのは人生の糧ともなると思うのです。
 時間に余裕があったので碑文を改めて再読しながら、杉木立を通ってくる涼風を身に受けていた。
 旅行シーズンとあって、一群の客が碑の前を通る時に、「この碑は?Jと聞かれたガイドは「さあ、なにか松の記念碑のようです」と頼りない返事をしている。そこで、どうしたら長南和泉守の栽松事績を広く知ってもらえるかと、かつて中村就一先生から習ったチーム発想法を一人で試みた。その結果のアイディアは次のとおりだが・・・
1.案内する人に資料を渡したり、ミーティングをして協力を頼む。
2.全国の旅行社の観光ガイドに収録するよう働きかける。
3.テレビのクイズ番組に「松島の松は@赤松A黒松B唐松?」や「松島に松を植えた人は@伊達政宗A長南和泉守B雲居国師?」を出題して映像と共に紹介してもらう。
  まだまだ知られていない難問だから、案外受けるかもしれない。
 法要の後は、兼夫、正義両氏の船で、時折り飛沫も浴びて、蝉時雨の寒風沢島へ渡り長南和泉守36士の墓参に向かう。
 持参の雑巾で各自が心をこめて墓碑などを清め、これも用意してきたお供物を花と共に供えた。
 礼拝の次に読み下し般若心教を、全員で読唱したが、記念碑の時より人数は半減したのに、声高らかで、長南和泉守も喜んでくださったろうと、一同異議なく、心も晴れやかに満足し、両氏の車に分乗して潮陽館に戻つた。
求む:看板の寄付

 全国長南会の活動が世に知られるにつれて、寒風沢島を訪れる長南さんが増えているようだ。
 8月5日にも、お店の前で用ありげな人に、富枝さんが声をかけると、多賀城町の長南氏だつた。「先祖がこの島から出た、と聞いて育ちましたが初めて来ました」という。
 こうした訪問者は、今後もあるだろうから、何かお役に立てれば、との富枝さんの提案で、相談した結果、皆様にお願いします。

 寸法:縦長で70×幅20cm程度適当に
 材質:木材、プラスチック、金属その他不問
 材料費等実費は会で負担します.
 文字:2種類、どちらかでも両方でも
   全国長南会連絡所
   寒風沢長南会事務所
 
  ご協力いただける方はメールでご連絡ください。

  ビデオテープかDVDか  会のこれからを話し合う

 ルーツを語る会も31回となるが、まだまだ候補地は尽きない。一方講師の中村は81歳だから、これからは容易でない。
 修治氏からは、本人が行くほかに、遠い所にはビデオテープかDVDというもので、少しでも広く話を広めることを考えるべきではないか、という尤もな意見が出され、検討することになった。常磐線の柏市に便利な方でホームビデオカメラをお持ちの方のご協力をお願いします。

   ご協力いただける方はメールでご連絡ください
長南会名刺
畳店なので宣伝に  長南  義美

  会の名刺を取引先の社長に見せたら「凄い!先祖が明らかになる事は良いことだ」と言われ、学友は「ありふれた苗字じやない。立派な先祖が知れたのは素晴らしい」と感心されました。

 仕事がら、これから忙しくなって来ると思うので、この名刺を配って、お客様に印象付けようと思います。(竜ヶ崎の出・新宿区)



長南  昇
松本のナゾにいどむ  

長南会の名刺を再度作っていただき、有難うございました。私の場合この名刺の効用やこれをめぐる話題について報告致します。
 これまで、差し上げた方面は、勤務先、学友、医師、図書館のほか旅行先で会った方です。

 特に女医先生(60)は、長南という姓は少ないとて興味をいだき、いろいろ聞きますので、故郷の山形県には大勢の長南氏がいて、系図もあるし、本も出来ていますと言うと、その本をぜひ見せて、というので中材氏の「長南氏の研究」をお貸ししたところ、半年して「素晴らしい家系ですね.よくここまで調べたものですね」と言ってくれましたので少し鼻が高いのです。

 私も改めて北見市立図書館に行き、太田亮者「姓氏家系大辞典」を見て「上総国長柄郡長南庄より起こる」から、人物、戦い、築城等のことを学びました。

 学友からは、立派な名刺だとお礼を言われ、彼も父母両方の系図を見せてくれました。私も発奮して両親から作りました。

 しかし、立谷沢肝煎の忠右衛門先祖書には「先祖信濃国松本よりの牢人」となっていて上捻から途中に松本に寄ったことになりますが、ナゼそうなったのか調べてもらいたいと思います。(沢新田の出・北見市)
長南会名刺  志納金を3000円以上納入した方には無料で作成します。肩書きや宣伝など添えて申し込みください。
曾祖母長南のぶを思う    阿部  辰子
 野蒜の尾形家から名振の阿部周作に嫁し、周作亡きあと阿部家から後妻として寒風の長南家に入り栄枯盛衰の時を経て、清八郎氏と娘あいの死後一人になりましたが、晩年は息子阿部重郎兵衛のもとで孫も一緒の平凡な暮らしをして、その家で亡くなったことは幸せだったと思います。
 父勝三から聞いたところでは、ある日「おばぁちゃんが亡くなられた」と母親から聞いて家に入ると、あまり広くない座敷に衝立を立てて横たわって居られたとのことでしたから、その最後も長患いではなく、天寿を全うされたのだと察せられます。
 横浜時代(北仲通り、現在の桜木町みなとみらい地区)私の父勝三は当時10才位の孫で一番の話し相手、のぶおばぁちゃんとは、なかよしだったのではないでしょうか。そのために口伝えによって、何度も何度も昔語りを聞かされ、それが後に勝三の口伝えによって、私や孫の貴子に伝わり、栽松貰状(真筆)についての情報も伝わったのだと思います。
 どの家でもおじいさんやおばあさんと孫は、なかよしなのではないかと思います。若者に改まって昔語りをしても、なかなか落ち着いて聞いてくれないものですが、幼いときに聞いたことは興味シンシンで、いつの間にか頭によく刻まれるものです。

孫に伝わる昔の話

 例えば貴子の場合、祖父勝三から聞いたため、まだ3才にならない頃から「箱根の山は天下の険、函谷閑もものならず」と歌って居りましたし、ペストが流行った時の歌も聞き覚えました。「はやり病いは多けれど、世におそろしきペスト病、今この土地(横浜)におそいきぬ、皆皆注意おこたるな」ネズミをつかまえて交番へ持ってゆくとお金をくれたこと等々です。
 日露戦争祝賀行列が横浜馬車通を通ったとき、父の兄重兵衛が、のぶおばあちやんを背負って見せてあげたこと、のぶさんが出船、入り船で賑わった昔の寒風沢を懐かしんで数々の話を孫に話してくれたこと、その様子、ほほえましく思います。
 遺言どおり今は長南御一族のところに眠ることが出来ましたこと、昨年363年ぶりに長南家の皆様に雲居国師の御真筆軸をお見せ出来ましたこと、本当によかったと思って居ります。

 長南のぶが亡くなる時まで身元に持って居り、瑞巌寺で重郎兵衛が鑑定を受けたあと、横浜に持ち帰らずに、寒風沢にも近い宮城県飯野川町(当時)の親族の五島家に保管することになったものだと思われます。
 現在の五島家当主に、そのいきさつや長南家のこと等あまりくわしく伝えられていないのではないかと思います。でも、大正12年の関東大震災のことを思えば、よかったと思います。もし、横浜の家にあれば失っていたかもしれないのです。これまた先祖のお導きで大切な軸が守られてきたのではないでしょうか。
 長南家の大切な宝物を末長く保存するた故には、(現在五島家所有を書き添えて)瑞巌寺の宝物殿こ収めていただければよいがと思っております。これは私の考えですが、むずかしいでしょうか。
 
阿部重郎兵衛のこと
               
 重郎兵衛は天衣無縫の人で漁業の仕事で家を離れて旅して各地に足跡を残しております。のぶと再婚のあと、幼い時、どこで育ったのかは聞いて居りませんでした。
 最近になって名振での法事に訪れた親戚の者が重郎兵衛のことを聞いたところ、あの人は長南の人だからと言っていたと聞きました。もしや寒風沢の母のもとで育ったのでは、と思って居ります。成人してからは、名振の阿部の跡取りとして、いとこのチウと結婚し、七人の子をなして居ります。
  大謀網にくわしく、発明した部分もあるとか、各地で指導して居りました、三浦半島、青森深浦、三重県尾鷲、神奈川県茅ヶ崎等々。現在茅ヶ崎海岸に(八大籠王)建立者大謀主阿部重郎兵衛の石碑が建って居り、現在も漁師さん方に守られて居ります。
  大正7年7月に出張の旅先で病を発し客死致しました。大変声の大きい人だったとのことです。
 阿部家の系図をみますと、いとこ同志の結婚が多く、家計を守るために大須の阿部、名振の阿部、飯野川の五島家とは皆、緑つづきになって居ります。阿部チウの弟二人が五島家に入って居ります。
 本家(五市)分家(五徳)とよばれ現在の当主寅太郎氏は五市の方で、私の父勝三のいとこの子(或はその子)に当たると思います。
私が父と飯野川を訪れたとき、私14才位で、そのとき家と仕事に忙しく立ち働いて居られたのが現当主の御父母ではないかと思います
                           (藤沢市)

長南のぶのお墓を探す阿部辰子さん(2004/08/04)
寒風沢元観音の長南墓地