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全国長南会通信 10号 |
2003年1月1日 発行 全国長南会 編集 長南光夫 |
特集1 |
珍しがられ、驚かれ、530ぶりの故郷 長南勝彦一家と中村氏の対談 |
長南氏のご先祖は、各時代に各地に向かって、長南を去り、1456年最後の長南和泉守が館山の里見氏を頼って長南を後にする時にも、例外なく「わが一族の子孫は必ず長南に帰る」と、悲痛な叫びを残したといわれる。 勝彦 私も、「ながなみさん」なんて呼ばれることがあると、だまっていて、後で「チョーナンです」と名乗りました。ここの町には長南○○社というように、町名のついた会社もあるから、そこ宛ての郵便物が来たり、我が家への郵便がそちらへ届いて、封を切られたりして迷惑したこともありました。でも最近では、100円ハンコに長南がありますからいくらか世に知られたのかな。 昌子 この町の名前と同じ姓だからと、初対面の時に、好意的であったり、驚かれたり、不思議そうに想われたりと、様々な町の人達の反応がありました。 |
特集2 |
夢にまで見た我が故郷長南町をたづねて 鶴岡市 長南 成(しげる) |
去る10月12日からの3連休に千葉県内でお祝い事があり、こんな事でもないと長南町へは、なかなか行けないと考え計画を立てて、全国長南会事務局長の中村さんに電話をしたところ、快く案内も引き受けていただくことになり私、成(しげる)と妻の智恵子〈ちえこ)長男の成人(なると)の3人で12日の早朝に自家用車で出発しました。
夕方4時頃長南町に到着、小高い山々に囲まれた盆地に昔を思わせるような町並を通り抜けて、最初に訪問したところは、500年振りに我が地に帰ってきたという、勝彦さん宅でした。彼は、忙しい仕事をさいて、私たちを待っていてくれて、さっそく奥方のおもてなしを安けながら、尽きることのない話に花が咲きました。
勝彦さんは、長南一族の一念を受けて長南町に根を下ろし、将来の基盤を築き上げてきたが、底の見えない不況の中で不安が募っており、加えてバイパス道工事により3階建ての豪邸を移転しなければならない等悩みが多いようでした。だが、勝彦さん貴方が長南町に入植した当時は、もっともっと大変な状況ではなかったかと思う。
2日日も秋晴れに恵まれて、修学旅行の気分で出発しましたが、午前中しか時間が取れなかったために、国指定文化財で有名な笠森観音(ここにも長南一族の足跡が残されていました)と、私共長南一族の先祖が眠っている長福寿寺をたづねてきました。
初めて先祖の町長南町を訪れ感じたことは、房総半島の温暖の地で500年もの長い間だ幸せに暮らしてきた一族が、戦国の習いとは言え東北の未知の豪雪地を選択しなけれはならなかった 「無念」 を思い、改めて、万感胸に迫るものを感じました。
いっか必ず長南に帰ろう、そういう強い思いが、勝彦さん親子を先祖が呼び寄せたのであろう、我々一族皆んなで応援して行きたいものです。初めての先祖の地を訪れ、肌で学ぶことが多かった。だが時間が無く、一族の足跡を全て辿ることは出来なかったので、今後また必ず計画を立てみたいものです。
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定年後、中国で恩返し植林 横浜市 長南一夫 |
空から眺める日本列島は、とても美しい。新緑の季仙即になると、緑のじゅうたんを敷き詰めたようだ。秋、白神山地を飛ぷと、紅葉は言いようも無く輝く。クルーの頼が赤く映えて見えるほどですよ……元全日空パイロットの長南一夫さん(63)は、上空のコックビットから長く日本の山々とつき合ってきた。
2001年春、中国内蒙古自治区ハイラル(海拉爾)市に長南さんはいた。特定非営利活動法人「ホロンパイル (呼倫貝爾)地域緑化推進協力会(略称、呼緑協)」 の現地駐在員として。 それには、因縁があった。長南さんは1938年7月の福島県生まれだが、幼くして中国に渡り、育った。内蒙古で小学校に通ったが、間もなく、チチハルで敗戦を迎えた。満鉄勤めの父親はソ連に抑留され、弟妹は病死、母親と命からがら1946年に帰国し、郷里へたどり着いた。「1945年8月15日が、私の建国記念日です」と、辛い日々を噛みしめる世代だ。「思い出したくないこともありますが、中国の人には、世話になつた」と、感謝の気持ちが強い。 57年福島県立福島高校を卒業して自衛隊へ。地元金谷川の村有林の益金から出される奨学金のお陰で、高校を卒業できたのだった。志願して自衛隊航空学校に進み、航空横操縦の夢を実現し、1960年全日空に入社した。25歳で晴れて機長となり、初フライトは羽田〜伊丹の貨物便だった。
かくて、飛行経験38年・総飛行は25,350時間に達する。「恐らく、日本一でしょう。しかしアメリカと違って、日本は公式の記録がないし、フライトはチームワークですから.....ちょうど高度成長期で、国内外で航空需要が高まり、懸命に働いたのでしょう」という。ついでに、機長に必要な資質は何かと尋ねると、「義務感、陶治性、健康」と明確な答えが返ってきた。
長南さんは2001年3月から半年間、ハイラル市に滞在した。年間平均気温はマイナス2度、プラス気温は5月からの4カ月だけ、年間降水量は350ミリで日本の5分の1以下だ。「見渡す限りの草原、砂地に1本の樹木も無く・強い西風が吹き、砂嵐が舞うのです」。 その地でさっそく植林に立ち会った。「36歳の市林業局長が精力的に指揮をとり、日本人には歯が立たないような土地に、中国人は根気強く一日15株も植えていく」のに感動した。 9月から11月の植林と合わせてこの年、呼緑協の援助で、36ヘクタールに障子松、楊紫、黄枕など大小6万株の苗が植えられた。日本側は321万円、中国側は530万円を負担したから、障子松1本は日本円で650円に相当した。 日本では秋だが、9月からの植林はマイナス15度にもなる「冬期植林」で、世界にも例を見ないという。現地では80年代の試行から、最近本格化してきた。それもこれも、「人進退砂、砂進退人」と、砂漠化への危機感が募っているからだ。かじかむ冷たい手で必死に植林作業をする中国人たちに接する中で、長南さんは「愚公移山」の故事を思い、「人にはそれぞれ役目がある。僕にはこれが使命だ」と誇りに感じるのである。
人口27万人のハイラル市でたった一人の日本人は「日本語教室」の講師に招かれたり、学校や企業で講演を頼まれたりした。次第に地元に溶け込み、活動が新聞にも「第二人生」の見出しで紹介された。しかし、この二年間で勉強した4級認定の中国語では、まだまだ日常生活は不十分。神経は大いに疲れ、夜はぐっすり眠るだけの毎日である。 「今年も5月から出かけます。もっと資金があれば、もっと緑を増やせるのですが....」。 |
長南史講話 中村就一 |
長南町中央公民館の依頼により同館主催の「長南町歴史教室」で、さる9月5日「長南氏の歴史」の話をした。この教室は毎月テーマを変えて開催されるシリーズもので、常連に新顔が加わって20名が熱心に聴講してくれた。
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獄中でも超能力を発揮 長南年恵が「霊能証明願」提出 |
講談社 週刊タイムトラベル 2002年7月30日号
明治32年(1899)9月21日、山形県西田川郡稲生村(現、鶴岡市)の長南年恵(おさなみとしえ)(37)は、実弟の雄吉(32)を願人として、山形県監獄鶴岡支署長.渡辺吉雄宛に「御証明願」と題した特異な願書を提出した。
これは、「妄りに吉凶過福(きっきょうかふく)を説き、愚民を惑わし世を茶毒(くどく)する詐欺行為」を行ったとして、明治27年に60日間、翌年に9日間、同支署に監禁された年恵の常人にはありえない、在監中の生活実態についての事実確認を願うものでその内容を列挙すると、大小便の排泄がなく、強いられて芋20匁(約75グラム)を食したがほぼ絶食状態にもかかわらず、1斗5升の水(約27キロ)を軽々と運び、外部と遮断された中で、神授により、霊水や散薬(さんやく)などを取り寄せ、署長や受刑者に進呈した。そして、年恵に神が降臨する際の楽音を看守達も聞き、また入浴も洗髪もしなかったが、髪はいつも結いたてのようにつやつやしており、他の受刑者が蚊に悩まされる中、年恵ひとりは蚊に刺されることがなかった.......というもの。
そもそも年恵が監禁されたのは、日清戦争(明治27〜28年)の戦況の予言をことごとく的中させ、病に苦しむものには、中空より霊水を取り出してそれを与えて助け、また霊媒として使者の声の取次ぎも行ったことから「極楽娘」と呼ばれるようになり、その評判が遠方にまでとどろいて、北海道からも予言や治療などの依頼者が訪れるようになったため、官憲の目にとまったのだった。天理教などの、幕末の新興宗教の始まりと変わることはない。
ところが、弟の雄吉は姉を教祖にしようとはしなかった。彼は姉の能力が詐欺とされたことに我慢ができず、こうした特殊能力者が存在することを実証したい、との思いから「御証明願」を提出したのである。
「証明を与ふるの限りにあらざるを以って却下す」これが同支署の回答だった。これに満足できなかった雄吉は、翌春、姉の特殊能力を科学的に証明しようと、京都帝国大学に連れて行く計画を立て、自分の住む大阪に姉を呼び寄せる。
しかし、極楽娘来阪(らいはん)の報はたちまち大阪中に広まり、ここでも警察沙汰となる。神戸地裁で、審議中に霊水を取り寄せてみせ、無罪を勝ち取ったものの、間もなく帰郷。結局その能力は科学的に証明されることなく、年恵は明治40年10月29日、息を引き取った。
東京帝国大学助教授、福来友吉(ふくらいともきち)が、催眠術の研究から、予知や透視といった人間の特殊能力に興味を持ち、その能力者御船千鶴子(みふねちずこ)らを実験台として心霊科学の研究を始めるのは、明治43年のこと。年恵の出現と、雄吉の計画は少し早すぎたのである。 |
全国長南会の会費 |
長南氏の研究は、私が結婚5周年記念事業として夫婦双方のご先祖調ペを始め、房江の出身長南氏が、調べるほどに素晴らしい家系に驚き、一族に報告のため、30年間の研究結果を、電電公社の退職金で自費出版、実費2万円で頒布し、その売り上げで会を運営してきました。
中村 就一 |
全国長南会 カラー名刺について |
先年、塩釜市丸長寿司の政直氏の長女智美さんが、福島市で結婚式をあげた時、寿司屋の名刺よりもと、全国長南会の名刺を配ったところ、アレ長南さんて、知人にいますよ、道真公がご先祖ですかなんて話が弾んだそうです。 このカラー名刺は上田沢の博昭氏のディザインで、ロゴマークの円内は、上から順に長南氏の事蹟を象徴しています。虹は紅花(長南の地で栽培し山形へもたらした)緑は栽松事蹟(黒松を植えて名勝松島を作った)水色は海運事業(寒風沢と石巻で廻船問屋)と治水(豊牧新田開発の知恵)黒は苦労して開拓した新天地というわけ。黄金分割の右はひよどり越えの長南忠春の勇姿。裏面は長南氏千年の歴史。
ご希望はメールで ch0330@support.email.ne.jp にお知らせください。 |
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送料込み(円) | 概要 | ||
書 籍 | 長南氏の研究 | 一般20,000 | 中村就一著 A6 1899頁 |
会員10,000 | |||
土師菅原史記 | 2,500 | 長南良一著 古代から道真までの研究 B5 631頁 | |
天神様の美術 | 3,000 | NHK制作 道真1000年記念関係の文献、絵画を収集 A4 340頁 | |
長南年恵の生涯 | 800 | 雑誌微笑別冊 A4 208頁(売り切れました) | |
錦 絵 | ひよどり越え | 2,000 | 71×36センチ 江戸末期版画カラー原寸大 |
一の谷 | 2,000 | ||
壇ノ浦 | 2,000 | ||
蝦夷地渡海 | 2,000 | ||
4枚セット | 5,500 | ||
先祖書巻物 | 1本 | 100,000 | 予約金、送料込み |
2本(1本あたり) | 73,000 | ||
4本(1本あたり) | 57,500 | ||
6本(1本あたり) | 51,400 | ||
※会員とは既に毎年会費を納入している方、今回購入の機会に入会する方の年会費は初年度8,000円、以後は金額自由。 会員には「全国長南会通信」が配布されるほか、「長南氏のルーツを語る会」等各種行事に参加できます。 |