全国長南会   ホーム  / 長南氏年表 / 世帯数 / 長南氏歴史物語 / 著書の紹介
  中村就一の紹介 / リンク / 掲示板
全国長南会通信  10号
2003年1月1日    発行  全国長南会  編集  長南光夫
特集1
珍しがられ、驚かれ、530ぶりの故郷     長南勝彦一家と中村氏の対談

  長南氏のご先祖は、各時代に各地に向かって、長南を去り、1456年最後の長南和泉守が館山の里見氏を頼って長南を後にする時にも、例外なく「わが一族の子孫は必ず長南に帰る」と、悲痛な叫びを残したといわれる。

 その悲願を1988年に、庄内の沢新田生まれの長南勝彦一家が達成して、長南町に住みついた。それから14年、一家の皆さんは、どんな思いで今日まで、がんばってこられたのだろうか。

 さる9月5日に、一家全員にお目にかかって、定住以来のお話をうかがった。

中村 長南町に仕事場を決めるまでには、いろいろ事情があったんでしょうね

勝彦  兄の和雄は、長南氏の歴史研究に熱心で、高校生時代に笠森にも来て、長南町についてもいろいろ話をしてくれた。当時私は市川市で水道配管の仕事をしていたが、市街地で材料置場が十分スペースをとれないことに悩んでいました。
 自分は長南姓だから、ふと長南町に心が向き、適当な土地を手に入れたいと考え始めた。その頃、現在の土地は町役場の資材置場だったが、やがて町の都合で不動産屋のものになったという情報を昌子が聞き込んできたんです。
 報恩寺という名前もありがたい。早速手に入れ、市川から引っ越してきた。なにしろ、2週間でバラックを建て、裏はテント張りという具合。回りには市川から持ってきた一切のがらくたを置いたから、町の人は驚いて、乞食が引越してきたのかと噂したと、後で問いたものです。

中村 勝彦さんは、お父さんを「親方」として、教わりながら、御一緒に仕事をしていると聞いています。すこし昔まではそれが普通でしたが、現代では珍しい親子関係ですね。 

勝彦 最近、父が足に怪我をして、仕事に支障がありますので、カバーするために、頑張っているところです。

中村 ここに来た頃は長女の尚子さんも小さかったから、それなりに、いろいろご苦労があったでしょう。

尚子 幼稚園の先生が朝、迎えに来てくれるんですが、家がそんなですから、恥ずかしかった。 

中村 ところで、町の人たちは、すんなり受け入れてくれましたか? 

勝彦 花火大会へゆく人が、我が家の前を通りながら、「この家は、長南というんだって」なんて、しやべりながら通りました。ここの町と同じ名前の家が、突然、ここに現れたんですから、話題になったわけです。「昔の殿様の子孫かもナ」なんて言ったそうですが、現実のボロ家との対比が、ひどく刺激的で、笑うに笑えない話だったのでしょう。

昔ならお姫様と紹介され

尚子 町役場の人が、クラス全員の前で、わたしのことを「昔だったら、お殿様のお姫様だから、皆さんは気安くお友達になれなかったんです」なんて言うもんだから、いっペんに有名になってしまいました。 

友教 私は次男で、いま千葉市に住んで、美容師をやってますが、長南という名前はおろか、長南町の存在すら知らん人が多いんですよ。 

中村 学校では、どうでした?山形県の長南智恵子さんが、ズボンを注文したら、長井南高校の制服の男物のズボンが届いてびっくりしたと言ってました。ここではどう? 

尚子 学校代表チームでよその町へ行き、高校のクラスの自己紹介で「長南中学出身の長南ですと言ったとたん、みんな、どっと笑いころげたんです。恥かしかったワ。修学旅行のスキーで、ゼッケンにカタカナで「チョーナン」て書いたら、中国人タレントで「チューヤン」の名前に似ているというので、りフトのおじさんまで出て、見にきたなんてこともあったんです。「お父さんの名は」と聞くので「長南です」と答えると「長男はわかってる。名前を聞いてるんだ」なんて言われたこともあります。 

中村 そんな話は、東京に出てきたての場合などに、よく聞きますね。次女の育子さんはどうでした? 

育子 陸上大会で「ナガナミさーん」「ナガナミさーん」と何度も呼ばれていたけど、自分のこととは気付かず、最後に「チョーナンさんかな−?」と言ったので、返事をしたことがあります。

勝彦 私も、「ながなみさん」なんて呼ばれることがあると、だまっていて、後で「チョーナンです」と名乗りました。ここの町には長南○○社というように、町名のついた会社もあるから、そこ宛ての郵便物が来たり、我が家への郵便がそちらへ届いて、封を切られたりして迷惑したこともありました。でも最近では、100円ハンコに長南がありますからいくらか世に知られたのかな。

尚子 靖国神社に参詣した時に、祀ってある方の写真を見たら、長南長太郎という方がいて、びっくりしました。 

中村 階級が大尉か少将だったら、長南氏の研究で第一人者の船本音羽氏が、軍隊時代に満州で会ったという方かもしれません。 友教さんの奥さんは、珍しい名前のところにお嫁に来て、どう? 

有可里 中国人と間違われたことがありました。 

中村 日本ではナカムラと言うが、チュウソンと音読みにしませんから、中国や朝鮮のように音読み名前の長南は、奇異に感じるのです。 

昌子 この町の名前と同じ姓だからと、初対面の時に、好意的であったり、驚かれたり、不思議そうに想われたりと、様々な町の人達の反応がありました。 

勝彦 世の中の物事を知っている人は、長南という名前の者が悪い仕事はしない、と思うらしいですね。 

中村 北海道内の刑務所を転々と勤めあげて最近定年になった長南氏が、退職記念のパーティーでの挨拶に「長い勤務で6000人の受刑者を見てきたが、長南という名の者は一人もいなかった」と述べたそうです。山形県下の長南さんも、「長南に悪い者はいない」と言ってます。これはたいへんな事です。

一族の暖かい支援に支えられ 

中村 ところで、勝彦夫妻は古代米、コシヒカリなどのほか「こだわリミソ」を作っておられ、おいしい味噌だと評判です。長南一族から、かなり注文もあるそうですね。 

昌子 全国長南会からは、会長の長南俊春さん、蒲田の斎藤武夫さん、それから阿見の長南武さん、横浜の長南七郎さんなどが大口です。これらの方は、こだわり味噌数百個とか、無農薬自然農法米10kg袋や古代米を数十個とかですが、そのほかにも長南氏や緑りの方が、個人的にたくさんご注文くださっています。感激だったのは武さんの奥様の美佐子さんが、宅急便の伝票に送り先を書いて送ってくださったことです。皆様から今年も新米の注文をどっさり頂きました。こうした一族の暖かいお気持ちに、想わずからだが震えました。 

中村 長南のご先祖の悲願を、あなたたち一家が初めて達成したのを、一族の皆様が喜び、支えようといるのは有難いことですね。今後とも新米やこだわり味噌のご注文が続くことを、全国の皆様にお願いしましょう。

特集2

夢にまで見た我が故郷長南町をたづねて     鶴岡市  長南  成(しげる)

  去る10月12日からの3連休に千葉県内でお祝い事があり、こんな事でもないと長南町へは、なかなか行けないと考え計画を立てて、全国長南会事務局長の中村さんに電話をしたところ、快く案内も引き受けていただくことになり私、成(しげる)と妻の智恵子〈ちえこ)長男の成人(なると)の3人で12日の早朝に自家用車で出発しました。


  高速道路をひた走り、お昼過ぎには拍市の中村邸こ到着、おいしいお茶を頂きながら打ち合わせをして、案内役を買ってくれた中村御夫妻を同乗して一路長南町へ、

 

 夕方4時頃長南町に到着、小高い山々に囲まれた盆地に昔を思わせるような町並を通り抜けて、最初に訪問したところは、500年振りに我が地に帰ってきたという、勝彦さん宅でした。彼は、忙しい仕事をさいて、私たちを待っていてくれて、さっそく奥方のおもてなしを安けながら、尽きることのない話に花が咲きました。

  

  勝彦さんは、長南一族の一念を受けて長南町に根を下ろし、将来の基盤を築き上げてきたが、底の見えない不況の中で不安が募っており、加えてバイパス道工事により3階建ての豪邸を移転しなければならない等悩みが多いようでした。だが、勝彦さん貴方が長南町に入植した当時は、もっともっと大変な状況ではなかったかと思う。


長南一族のご先祖も、庄内の長南一族も、勝彦さんを、心から応援しています。

 

  2日日も秋晴れに恵まれて、修学旅行の気分で出発しましたが、午前中しか時間が取れなかったために、国指定文化財で有名な笠森観音(ここにも長南一族の足跡が残されていました)と、私共長南一族の先祖が眠っている長福寿寺をたづねてきました。


  特に、長福寿寺では和尚さんの長南一族との関わりのお話を聞き、先祖のお墓に手を合わせ「数百年振りに一族の末裔の者達が来たことを告げ、長南町を後にしました。

 

  初めて先祖の町長南町を訪れ感じたことは、房総半島の温暖の地で500年もの長い間だ幸せに暮らしてきた一族が、戦国の習いとは言え東北の未知の豪雪地を選択しなけれはならなかった 「無念」 を思い、改めて、万感胸に迫るものを感じました。

 

  いっか必ず長南に帰ろう、そういう強い思いが、勝彦さん親子を先祖が呼び寄せたのであろう、我々一族皆んなで応援して行きたいものです。初めての先祖の地を訪れ、肌で学ぶことが多かった。だが時間が無く、一族の足跡を全て辿ることは出来なかったので、今後また必ず計画を立てみたいものです。


  中村さんご夫妻には、2日間も貴重な時間を潰させ、長南町への全ての手配をしていただき、つぶさに説明をしていただき、本当に楽しい先祖の族行をさせていただきました。


  中村御夫妻に心から感謝を申し上げ、長南会への報告といたします。

 

定年後、中国で恩返し植林      横浜市  長南一夫

 空から眺める日本列島は、とても美しい。新緑の季仙即になると、緑のじゅうたんを敷き詰めたようだ。秋、白神山地を飛ぷと、紅葉は言いようも無く輝く。クルーの頼が赤く映えて見えるほどですよ……元全日空パイロットの長南一夫さん(63)は、上空のコックビットから長く日本の山々とつき合ってきた。


  緊張に集われることもある仕事を無事に終えられたのは、気持ちを癒してくれる山の緑があったからだとさえ感じている。「この自然をいつまでも大切に、と願わずにはいられません」。

「神様に、木を植えろといわれた」


 60歳の定年を迎えた。体は元気だ。家に閉じこもってしまうには、まだ早い。何をやるか....。だれもが出合う思案時だ。


 長南さんは1999年4月、岐阜県立林業短期大学に入学した。「植林をやろう。それには、一から勉強だ」。高校の教科書を取り寄せ、物理、数学、英語……の入学選抜試験、面接を終えて合格したが、60歳以上の新入生は開校以来だった。そもそも、リサーチをした長野、群馬、福島などでは同じような教育機関から、「前例が無い」「無理でしょう」と
丁重に断られていた。


 「うれしかった」から、一生懸命に勉強した。「休まず、遅れず、居眠りせず」に、女子2人を含む20歳前がほとんどの若者たちと学んだ。遊びに傾きやすい若者を尻目に、単身留学のアパートで起床7時、学校の始業9時、終業15時半の生活を2年間続けた。1学年20人に、全校では40人の指導教授陣、施設はピカピカ、校有林も立派、学ぶにはもったいない環境だ。「全然辛くなかった。四十数年ぶりの、太陽と共にする学生生活。狭いコックビットとは違い、美濃の山々を眺め、長良川沿いを散策する日々で、解放感もありました」。


  トヨタ、ソニー、河合楽器、ヤマハ発動機……名だたる日本の企業の創始者たちが生まれ育った土地柄を、思った。かくて、10年に1人といわれる「特別表彰」を受ける秀逸の成績で卒業した。

 2001年春、中国内蒙古自治区ハイラル(海拉爾)市に長南さんはいた。特定非営利活動法人「ホロンパイル (呼倫貝爾)地域緑化推進協力会(略称、呼緑協)」 の現地駐在員として。
 

  それには、因縁があった。長南さんは1938年7月の福島県生まれだが、幼くして中国に渡り、育った。内蒙古で小学校に通ったが、間もなく、チチハルで敗戦を迎えた。満鉄勤めの父親はソ連に抑留され、弟妹は病死、母親と命からがら1946年に帰国し、郷里へたどり着いた。「1945年8月15日が、私の建国記念日です」と、辛い日々を噛みしめる世代だ。「思い出したくないこともありますが、中国の人には、世話になつた」と、感謝の気持ちが強い。
 

57年福島県立福島高校を卒業して自衛隊へ。地元金谷川の村有林の益金から出される奨学金のお陰で、高校を卒業できたのだった。志願して自衛隊航空学校に進み、航空横操縦の夢を実現し、1960年全日空に入社した。25歳で晴れて機長となり、初フライトは羽田〜伊丹の貨物便だった。

 

  かくて、飛行経験38年・総飛行は25,350時間に達する。「恐らく、日本一でしょう。しかしアメリカと違って、日本は公式の記録がないし、フライトはチームワークですから.....ちょうど高度成長期で、国内外で航空需要が高まり、懸命に働いたのでしょう」という。ついでに、機長に必要な資質は何かと尋ねると、「義務感、陶治性、健康」と明確な答えが返ってきた。


「砂漠化を防ごう、もっと資金を」


 ハイラル小学校の同窓会で、元林野庁長官の小澤普照さんと知り合った。小澤さんやその仲間たちも「中国への恩返し」を話し合っていた。1997年、同窓生らは思い出の土地を訪問し、中国の内蒙古最北の大草原が黄砂に侵され砂漠化が進んでいるのを日の当たりにし、緊急に植林が必要だ、と意見は一致した。「長南さん、勉強し、現地駐在貝として中国へ行ってください」と約束が出来た。 2000年2月、呼緑協がスタートし、9月にNPO法人に認証され、続いてハイラル市緑化委員会と植林事業協力の協定が結ばれた。日本側は資金を提供し、中国側は市の西山地区に2000bの植林基地を設定、植林作業の実務を組織化することになった。市では10年前から計画的に大規模植林を進め、採種林や苗畑、苗木育成地も整備きれていたから、その年の秋にはもう障子松1万株を10ヘクタールに植林した。
 

  長南さんは2001年3月から半年間、ハイラル市に滞在した。年間平均気温はマイナス2度、プラス気温は5月からの4カ月だけ、年間降水量は350ミリで日本の5分の1以下だ。「見渡す限りの草原、砂地に1本の樹木も無く・強い西風が吹き、砂嵐が舞うのです」。
  

その地でさっそく植林に立ち会った。「36歳の市林業局長が精力的に指揮をとり、日本人には歯が立たないような土地に、中国人は根気強く一日15株も植えていく」のに感動した。

  9月から11月の植林と合わせてこの年、呼緑協の援助で、36ヘクタールに障子松、楊紫、黄枕など大小6万株の苗が植えられた。日本側は321万円、中国側は530万円を負担したから、障子松1本は日本円で650円に相当した。
 

  日本では秋だが、9月からの植林はマイナス15度にもなる「冬期植林」で、世界にも例を見ないという。現地では80年代の試行から、最近本格化してきた。それもこれも、「人進退砂、砂進退人」と、砂漠化への危機感が募っているからだ。かじかむ冷たい手で必死に植林作業をする中国人たちに接する中で、長南さんは「愚公移山」の故事を思い、「人にはそれぞれ役目がある。僕にはこれが使命だ」と誇りに感じるのである。


 ハイラル市のホテルで、起床は7時、市林業局の始業は8時半。職員らから砂漠緑化の実際を学び、ボランティアの受け入れや植木の養生、育成の作業について打ち合わせをする。月に何回かは車で脚〜別分の植林地へ様子を見に出かける。昼休みは2時間あり、食事はホテルや町の食堂でとる。

  人口27万人のハイラル市でたった一人の日本人は「日本語教室」の講師に招かれたり、学校や企業で講演を頼まれたりした。次第に地元に溶け込み、活動が新聞にも「第二人生」の見出しで紹介された。しかし、この二年間で勉強した4級認定の中国語では、まだまだ日常生活は不十分。神経は大いに疲れ、夜はぐっすり眠るだけの毎日である。

   「今年も5月から出かけます。もっと資金があれば、もっと緑を増やせるのですが....」。

長南史講話       中村就一

 長南町中央公民館の依頼により同館主催の「長南町歴史教室」で、さる9月5日「長南氏の歴史」の話をした。この教室は毎月テーマを変えて開催されるシリーズもので、常連に新顔が加わって20名が熱心に聴講してくれた。
 長南町では、1456年に長南氏を追い出して武田信長が居座って以来、今日まで武田以前の郷土史には関心が薄い。昨年海上城長南氏の調査に、山形県の日本海ヘリから長駆、調査にきた博昭夫妻を迎えた公民館の職員も、何も知らないのに驚いて征子夫人が「へえ−、それじやこの町は弥生、絶文時代から武田の世へ、その間何もなしに直結したわけですか」と言ったほど。


 そこで、私は10世紀に道真の子孫が菅原氏の墾田、河家の郷(開墾した私有地で、現在の給田)に土着して、長柄都の南なる故に「長南」という地名を姓とした由来から説きおこして、紅花栽培で豊かな生活を築き、千葉氏の興起により、しばしば縁組みもしてその軍団の一翼を荷い、鎌倉幕府の要職にもつき、長南忠春は義経の親衛隊として平家追討に奮戦した歴史を語った。


 さらに、法難の日蓮上人を匿い一族あげてその弟子となった長南光重の後に、武田の侵攻で館山の里見に属し、里見改易のあと、長南和泉守が36家臣とともに寒風沢に移住して、海運業で栄えた話しもつづけた。


 もちろん和泉守が黒松を植えて名勝松島を創出した功績も紹介したほか、鎌倉幕府の内紛を嫌って山形へ入った長南氏など、現在各地で活躍している一族分散の歴史にも及んだから、土地の歴史好きの参加者の関心も呼び起こしたようだ。


 長南町で9月5日「長南氏の歴史」を話した時に、隣町の大多喜町から参加した君塚善利氏(大多喜町文化財審議会委員)が、興味ある情報を寄せてくれた。
 大多喜町紙敷に「長南屋敷」という所があるが、現在は無住とのこと。
 長南一族は10〜15世紀に500年間にわたり、長南を本拠として近隣各地にも分散して住んでいたから、おそらく長南某という家族が、此処にいつの時代かに住んでいたものだろう。
 調査する必要があるが、千葉県の長南氏でやってくれる方はいないものだろうか。


 長南氏が銚子の「海上城が落城して、守っていた長南氏は遠く、山形県朝日村の上田沢に行った」という記録を、大島鉱山病院の書生、大井孝蔵が残している。その中に「そもそも現今の山形県羽前国東田川郡の田沢組は、渓谷僻村ゆえ戦場或いは仇討等の事緒ありて夫々落人なり」とあり、海上長南氏と、富士裾野で曽我兄弟に討たれた工藤祐経の遺族をさしている。兄弟を工藤のキャンプに案内したのが長南某だったという話があって、 興味が尽きない。


 「海上」という地名にしても、君塚善利氏は千葉県市原郡誌に「中部地方 海上村」として詳し く掲載されているのを教示してくれた。これもまた、どなたか調査してほしいテーマである。

獄中でも超能力を発揮  長南年恵が「霊能証明願」提出

講談社 週刊タイムトラベル  2002年7月30日号

 

  明治32年(1899)9月21日、山形県西田川郡稲生村(現、鶴岡市)の長南年恵(おさなみとしえ)(37)は、実弟の雄吉(32)を願人として、山形県監獄鶴岡支署長.渡辺吉雄宛に「御証明願」と題した特異な願書を提出した。

  

  これは、「妄りに吉凶過福(きっきょうかふく)を説き、愚民を惑わし世を茶毒(くどく)する詐欺行為」を行ったとして、明治27年に60日間、翌年に9日間、同支署に監禁された年恵の常人にはありえない、在監中の生活実態についての事実確認を願うものでその内容を列挙すると、大小便の排泄がなく、強いられて芋20匁(約75グラム)を食したがほぼ絶食状態にもかかわらず、1斗5升の水(約27キロ)を軽々と運び、外部と遮断された中で、神授により、霊水や散薬(さんやく)などを取り寄せ、署長や受刑者に進呈した。そして、年恵に神が降臨する際の楽音を看守達も聞き、また入浴も洗髪もしなかったが、髪はいつも結いたてのようにつやつやしており、他の受刑者が蚊に悩まされる中、年恵ひとりは蚊に刺されることがなかった.......というもの。

 

  そもそも年恵が監禁されたのは、日清戦争(明治27〜28年)の戦況の予言をことごとく的中させ、病に苦しむものには、中空より霊水を取り出してそれを与えて助け、また霊媒として使者の声の取次ぎも行ったことから「極楽娘」と呼ばれるようになり、その評判が遠方にまでとどろいて、北海道からも予言や治療などの依頼者が訪れるようになったため、官憲の目にとまったのだった。天理教などの、幕末の新興宗教の始まりと変わることはない。

 

  ところが、弟の雄吉は姉を教祖にしようとはしなかった。彼は姉の能力が詐欺とされたことに我慢ができず、こうした特殊能力者が存在することを実証したい、との思いから「御証明願」を提出したのである。

 

  「証明を与ふるの限りにあらざるを以って却下す」これが同支署の回答だった。これに満足できなかった雄吉は、翌春、姉の特殊能力を科学的に証明しようと、京都帝国大学に連れて行く計画を立て、自分の住む大阪に姉を呼び寄せる。

 

  しかし、極楽娘来阪(らいはん)の報はたちまち大阪中に広まり、ここでも警察沙汰となる。神戸地裁で、審議中に霊水を取り寄せてみせ、無罪を勝ち取ったものの、間もなく帰郷。結局その能力は科学的に証明されることなく、年恵は明治40年10月29日、息を引き取った。

 

  東京帝国大学助教授、福来友吉(ふくらいともきち)が、催眠術の研究から、予知や透視といった人間の特殊能力に興味を持ち、その能力者御船千鶴子(みふねちずこ)らを実験台として心霊科学の研究を始めるのは、明治43年のこと。年恵の出現と、雄吉の計画は少し早すぎたのである。

全国長南会の会費

 長南氏の研究は、私が結婚5周年記念事業として夫婦双方のご先祖調ペを始め、房江の出身長南氏が、調べるほどに素晴らしい家系に驚き、一族に報告のため、30年間の研究結果を、電電公社の退職金で自費出版、実費2万円で頒布し、その売り上げで会を運営してきました。


 その後徳雄、藤四郎、武夫、光男、俊春、斎藤兄弟らが、全国に呼び掛けて会を結成し支援してくれます。会費は、2000年6月長南町での紅花の集いで相談の結果、「定額でなく、出せる人が出せるだけ出す志納金」方式とし、私の「長南氏の研究」は半額にしました。今年は栽松記念碑や和泉守お墓改修で印刷、通信負などがかさみますので、皆様はゼロでなくいくらかでも、無理のない範囲で会費を振り込んでいただければ大きな力になります。

                                                                                         中村 就一

全国長南会   カラー名刺について

先年、塩釜市丸長寿司の政直氏の長女智美さんが、福島市で結婚式をあげた時、寿司屋の名刺よりもと、全国長南会の名刺を配ったところ、アレ長南さんて、知人にいますよ、道真公がご先祖ですかなんて話が弾んだそうです。
 

  このカラー名刺は上田沢の博昭氏のディザインで、ロゴマークの円内は、上から順に長南氏の事蹟を象徴しています。虹は紅花(長南の地で栽培し山形へもたらした)緑は栽松事蹟(黒松を植えて名勝松島を作った)水色は海運事業(寒風沢と石巻で廻船問屋)と治水(豊牧新田開発の知恵)黒は苦労して開拓した新天地というわけ。黄金分割の右はひよどり越えの長南忠春の勇姿。裏面は長南氏千年の歴史。


 当会では、千年に及ぷドラマとロマンをちりばめた長南一族の歴史を子孫に伝え、世に広めるために、会費(金額自由)を納めた方には、会の名刺(ひよどり越えの図柄の統一型)を会の負担で印刷して差し上げます。


 ご希望の方はつぎのようなメモを送って下さい。氏名、〒番号、住所、電話、Fax番号、HP、Mailアドレス。全国長南会での肩書が欲しい方は、ご自分がやりたい事なら何でも結構。かりに実行できなくともかまいません。


 もちろん、お仕事などの宣伝に役立つコピーを入れることもできます。

 

ご希望はメールで    ch0330@support.email.ne.jp   にお知らせください。

 

 

購入希望はメールでお願いします

ch0330@support.email.ne.jp

    送料込み(円) 概要
書 籍 長南氏の研究 一般20,000 中村就一著 A6 1899頁
会員10,000
土師菅原史記 2,500 長南良一著 古代から道真までの研究 B5 631頁
天神様の美術 3,000 NHK制作 道真1000年記念関係の文献、絵画を収集 A4 340頁
長南年恵の生涯 800 雑誌微笑別冊 A4 208頁(売り切れました)
錦 絵 ひよどり越え 2,000 71×36センチ 江戸末期版画カラー原寸大
一の谷 2,000
壇ノ浦 2,000
蝦夷地渡海 2,000
4枚セット 5,500
先祖書巻物 1本 100,000 予約金、送料込み
2本(1本あたり) 73,000
4本(1本あたり) 57,500
6本(1本あたり) 51,400
※会員とは既に毎年会費を納入している方、今回購入の機会に入会する方の年会費は初年度8,000円、以後は金額自由。

 会員には「全国長南会通信」が配布されるほか、「長南氏のルーツを語る会」等各種行事に参加できます。