青木タカオ「ちょっくら・おん・まい・でいず」

「今日の夜話」過去ログ'03.8〜11月

「チャルメラ母さん説」11/26

 ものすごくこれは個人的な話だ。

 昔ながらの名作お菓子や、インスタント食品が、相も変わらず店頭に並んでしまう、最近の食品事情だが、

 先日、インスタントの「チャルメラ」を久し振りに食べた。

 あの、チャルメラおじさんが、チャルメラを吹いているイラストのインスタントラーメンです。

 その昔。。

 サッポロ一番「塩らーめん」「出前一丁」も人気だった'70年代最初。「チャルメラ」はすでに、インスタントラーメンの代名詞のようになっていた。

 僕の家でも、チャルメラはいつでも置いてあり、小学校に上がったか上がらなかった頃、ひとりで、インスタントラーメンを作ってみたのです。

 もちろん、それは「チャルメラ」。

 僕にとっては、チャルメラが最初のインスタントラーメンだったのだ。

 しかし、インスタントラーメンも次々とバリエーションが増え、チャルメラを食べる機会もなくなっていたのは事実だ。

 時は巡り、今また昔の名作が、店頭に並ぶ時代になった。サッポロ一番「塩らーめん」他、それらはさすがに名作で、何度食べても美味しいと思える。

 (さて、あれだけ食べたチャルメラだってそうだろう)そう思い、買ってみて作ってみました。最近は「木の実スパイス」というものが付いていた。

 夜中の二時頃、ひとりチャルメラを食べる。

 あれから、35年ほどたっている。普通ならば(ああ、懐かしい)という気持ちがわいてくるものけれど、今回だけはちがった。

 妙に哀しい気持ちになってしまったのだ。この35年はなんだったのだろう。

 僕には、この味を美味しいと認めてはいけない気がした。( 実際は美味しいとしても・・)

 もし認めたのならば、一歩も進んでいないことになってしまう。 

 それは、まるで母親を否定する少年のような心境だ。

 て、ことは、「チャルメラ」は僕の母さん?「塩らーめん」は恋人?

 ・・・それは、ありえる。


「民族音楽のCD」11/26

 今では、もうCDというのはあたり前のような時代になってしまったが、レコードからCD化されなかったシリーズもある。

 民族音楽のレコードだ。

 民族音楽の録音はもともと、録音がよいものとは言えず、ノイズや声が入っていることも多い。

 僕としたら、民族音楽の音源はそれでいいと思えるのだが、さてCDとなると、ちゃんとした音源で残したいと会社は思うのだろうか。

 それぞれの国の生活も変わり、じっさい今では聞くこともないような、音源も多かったのだろう。

 ・・今はない生活の音楽。それはやっぱり変なのか。。

 僕が前によく買っていた民族音楽のシリーズはどれも、録音はまちまちだけれど、実にいい音で仕上がっていて、どのレコードもはずれがなかった。

 「よく、この音源をとったなぁ」と思えるものばかりだった。

 そのシリーズは、今CD化されていない。本当にもったいない話だ。

 現地の上手いミュージシャンたちのステージコンサートのCDもある。新しくデジタル録音されたCDもある。

 しかし、僕らが求めているものはちがう気がする。しかし、どれももう古いものなのかもしれない。

 鑑賞の時代なのか。

 聞きやすいものの時代なのか。

 民族音楽の「名盤」はいままで、相手にされなかったような気がする。

 なくなった民族音楽シリーズの、復活をここに望む。


「うたづくり」11/23

 今、新曲を作ろうとしているけれど、どうも途中でひきかえしてしまう。

 巨大迷路を進んでゆくように、どうも道を間違えてしまったようにな気になるからだ。

 かつて、ボブ・ディランは「歌をうたうのは、1行目という馬に乗ってゆくようなものだ」と言っていたけれど、

 歌づくりのときもそれが言える。

 1行目がすべてだ。

 その小説が面白いか面白くないかは、1行目でわかるとも聞いたこともある。

 タイトルも大事だけれど、1行目はもっと大事だ。

 「道にやってくる馬」というのが、一番似合う表現かもしれない。

 馬はもともと、そこにいたとしても、やっぱり馬も自分も行く先を知らないのでは、進んでゆくことはできない。

 (それも、かっこいいけれど)

 1番かっこいいかもしれない。

 最高にかっこいい。

 けど、僕はやって来る馬を待ちたいな。

 だって、そこにはまだ誰も乗っていないということだもの。


「脳温泉」11/20

 バイトで、疲れ過ぎてしまうとき、脳のヘトヘトなのがよくわかる。

 そんな帰り道、僕は携帯CDプレーヤーで、耳から脳へと、音楽を流し込む。

 ・・それしかないっしょ・・

 耳から入った音楽はくまなく、脳の中を巡る。

 脳を音楽で洗わないとだめだ。と言うか、音楽に浸さないと、自分がだめになってしまう。

 目から入ってくる映像という方法もあるけれど、やっぱりそれはどこか脳が働いていて、物を見るという行為になってしまう。

 映像が、脳の中を巡るという感じがしない。しかし、携帯CDプレーヤーは、もう直接脳に音が入ってゆくようだ。

 今日あったいろんな悔しい出来事が、音楽に浸されて波長が崩れ、そして形がなくなってゆくのがよくわかる。

 音楽っていいな。

 誰かに何を話したっていいけれど、まず、その前に、いろんなうっぷんであふれた脳は、音楽に浸すべきだな。。

 それは別に不可能ではないしね。

 自分の持ってる、波長が崩れちゃうだよね。いろいろあると。

 だから、ミュージックで崩れた波長を元に戻すのだ。

 まるで、温泉に入るようにね。


「インドって国は、、」11/16

 ・・インドって国は、、。

 インドのホームページで、試聴コーナーを探していたら、ひとつのサイトが見つかった。

 そこでは、インド中の音楽が聞くことができるのだ。それもフォークソングから、最新のインドポップスのまで。

 (まあ、こういう試聴もあるだろうな)

 そう思って、試聴曲をクリックしたところ、なんと曲の最後まで、試聴できるのだった。

 それも有名なアルバムの全曲がそうだ。

 僕の持ってる、インドのアルバム20枚以上もまた、そうだ。

 インドの「試聴」感覚は、たぶん日本とはちがうのだろう。

 10秒とか、30秒とか言わず、他のサイトでも最後までということが多い。

 お店でかけるときだって、途中ということはないだろう。

 それとも歌は、みんなのものなのかもしれない。

 ただ、これだけはわかる。

 インドの人にこの試聴の件について尋ねるならば、みんなはきっと、

 「そんなの当たり前だよ」と、言うだろう。

 なぜ、当たり前なのか、今の僕には想像つかない。

 きっと意外なことを、インド人は言うだろう。

 「ラジオと一緒だよ」と、言うかもしれない。

 「30秒だなんて、歌に失礼だ」とか、言うかもしれない。

 僕の体をさして、「全部で君だ」とか、言うかもしれない。

 ちなみにそのインドのサイトはここです。

 (僕には宝石のようなサイトです)


「スケジュール帳」11/13

 もうそろそろ、また来年の手帖を買う季節になった。

 「来年の手帖」。今年こそ、声を大きくしてそう言おう。

 もう10年以上、いや、もっとだ。僕はずっと手帖を買ってきた。

 しかし、今年は思うところがあり、システム手帖を買ったのだ。

 (そっか、システム手帖も、一応手帖か)

 いろんな計画も立てたけれど、そのほとんどは実行されることはなかった。

 ただ大きな手帖だっただけだ。

 なぜ、僕はシステム手帖を使いこなせないのか。

 よく、しっかりと書き込んで使っている人がいるよね。あんなふうに使いたかったな。

 強い決意をもって、システム手帖に変えたけれど、また来年はふつうの年間手帖に戻ろうと思う。

 よくかんがえれば、年間手帖もいつも、使いこなせていないのに、システム手帖を使えるわけもなかったのだ。

 初めてシステム手帖を買ったときの、あの夢に満ちた気持ちはどこかに行ってしまった。

 しかし、悪い所だけではなかった。

 年間手帖だった頃は、よくどこかのポケットにしまい忘れたけれど、

 システム手帖は大きかったので、すぐに見つけられたのだ。

 すぐに見つかる手帖。そのへんはバッチリだった。


「レコード時代」11/9

 聞いてないレコードはかなりある。

 ときどきは思い出して、かけたりしてみると、そのレコードを聞いていた頃を思い出して、大変に懐かしかった。

 ここ10年くらい・・。

 しかし、最近どのレコードをかけてみても、まったくピンとこないのだ。

 たとえば、天秤ばかりがあって、その一方にレコードがあり、その一方にCDがあるとする。

 どうも僕が思うに、聞いていないCDが最近は増えてきて、逆にレコードの方は、充分に知っているので、

 聞くべき順番としては、聞いていないCDの方が先なのだろう。

 それでも、少しくらいは懐かしさがあってもいいのに、、。

 と、言うか、僕の中で今、自分の歌の創作の方が精一杯になってて、心は新曲でいっぱいなのだ。

 100パーセントの内の、80パーセントくらいかな。

 追い出されたレコードたち・・。

 ちょっと可哀想だな。

 でも、もう聞かなくても、音がわかっているものね。

 めぐりめぐって、レコード時代は、僕の中ではひと休に入ったようだ。

それは、さてレコードだけか?

 それはまあいいとして、単純に考えて、1990年代最初のCDが今では、 レコード時代のようになっているのではないか?

 さて、そんなCDをどう呼べばいいんだろう。古いCDというのもおかしいしなぁ。レコード化CD?  記憶外CD?  

 そうだ。「昔のCD」だ。


「時差」11/6

 フランスとの時差は、約8時間。

 二年前、一週間ほどフランスに出かけたとき、一日二日で、時差はなんとか出来ると思っていた。

 しかし、自分の中の時差を最後まで修正することが出来なかった。

 多少、それには心あたりがある。

 ・・・・

 アルバイトに早めに出かけるせいもあり、毎朝、5時半すぎに、もう何年間も起きているのだ。

 土日もやっばり、同じ時間に起きてしまう。目覚ましをかけていなくて起きてしまう。

 体内アラームは固定されている。

 フランスへ行ったとき、どうしても、夜中の三時・四時には、はっきりと目が覚めてしまった。

 だいたい、一日四五時間しか毎日眠っていなかったので、それもあったのだが、それからの時間の長かったこと・・。

 朝8時頃に、フランスで起きるためには、僕の場合、夜中の3時くらいに眠らなくてはいけない。

 どうにか、寝不足の状態を作り、がんばってみたけれど、やっぱりだめだった。

 日々、どんなに遅く寝ても、同じ時間に起きることをしていると、こうなってしまうのか。

 そこで考えてみた。

 体内アラームがあるのならば、自分の指を使って、アラームセットが出来ないものか。

 両の手のひらを手前にして、10本の指をそれぞれ、時間に置き換えて、眠る前に押さえたりしセットするのだ。

 6時ならば、右手の小指とか。。

 毎日、それを実行したら、体の方も慣れるかもしれない。


「会える人」11/3

 野外のひろい会場に行った。日曜で快晴だったこともあり、人でいっぱいだった。

 「うわっ」

 会いたい人がいて、うまく見つかるか不安になったが、ものの五分もしないうちに、探すことが出来た。

 どうして会えるんだろう。

 その人だけではない。20数年前に知り合った親友や、何年間も会えてない友達にも、次々と会えた。

 人の能力ってすごいな。たぶん、一度に100人くらいの人を観てもすぐに見つけられるのだろう。

 武道館コンサートに一万人くらい来てても、数十分、回りをうろうろするだけで、たいがいの友達には会える。

 誰か、人のこの能力について、調べた人はいないのかな。

 広い会場にいて、二人が出会うまでの時間とかね。

 それは、直感的なものではなく、科学的に証明できるものだろう。

 しかし、不思議なのは、友達同士が、偶然にも知り合いだったりすることだ。今回も、そうだった。

 「・・いやぁ、世の中狭いね」

 よく、そう言われるけれど、たしかに、そんな気もして来る。

 僕が思うに、世の中は、100分の一くらいに、きっと狭い。


「ここだけの秘密」10/30

 もう、ずっと高円寺に住んでいる。

 食事をしに、チェーン店のカレー屋さんに入った。すると、若者が大きな声で話していた。若者と言っても、20才くらいの青年だ。

 もう、ずっと前から、僕の中では、「若者は声が大きい。それは、教室の空気をまだ残しているからだ」という結論が出ていた。

 しかし、20才すぎてもとなると、またちがってくる。僕は、その彼らの横にいて、カレーを食べながらひとつのことを感じていた。

 彼らからは、高円寺の匂いがしないのだ。(それはそれは、微妙な匂いではあるが・・)

 きっと、たまたま高円寺にやって来た人たちなのだろう。そうやって思い返してみると、商店街で、やけに騒いでいる人たちも、どこか高円寺の匂いがしない。

 高円寺の名物ハンバーグ屋「ニュー・バーグ」の前を通って、店内を眺めると、食事のみんなは実に静かにしている。

 (これが、高円寺の人たちだよ・・)と、思ってしまう。

 高円寺の住人は、みんな静かだ。それは、アジアン輸入雑貨「むげん堂」で、帽子を眺めているときのような静けさだ。

 みんな高円寺の街に、やすらぎを求めて歩いているのだ。他の街にはない、雑多な感じが自分を落ち着かせるのだろう。

 他の街から来た人たちには、その雑多な感じが、逆に人格のインド化現象を起こして、解放されてしまうのかもしれない。

 ・・この考えは、たぶん、80パーセントまちがっているのも、知っている。

 まず統計をとって調べたいのは、人は他の街にゆくと、声が大きくなるかということである。

 友達と自分の部屋で話すときは、普通に話すのに、お店にゆくと声が少し大きくなるのと、それは似ているかもしれない。


「鐘」10/26

 朝6時。なぜか今朝は、お寺の鐘の音が聞こえてきた。。

 いや、今日だけなんてことがあるだろうか。毎朝、鐘は打たれているはずなのだ。

   ◇

 ここ最近、アルバム「ジョンの魂」を聴いている。

 このアルバムの一曲目「マザー」には、鐘の音が最初にフィチャーされていて、そのせいもあるのだろう。

 僕はその鐘の音を聞きながら、その鐘の鳴っている方向や位置まで、わかった。(ちがっているかもしれないが・・)

 毎朝、鐘がなっているのならば、その近くに住む人たちは毎朝、起きてしまうだろうか。たぶん、慣れてしまっているのだろう。

 近未来には迷惑だと言って、なくなったりする可能性もある。

 多くの若者は、この現代にお寺の鐘の音必要なんただろうかと、問いかけるだろう。

 僕は必要だと思う。

 毎朝、朝6時に鳴っていて、それが普段聞こえないとしたら、、、。なおさら、必要だ。

 目覚まし時計は、いつも突然だ。しかし、その前に聞こえる鐘の音により、体の方で準備できるのだろう。

 鐘の響きには、あらゆる効用がきっとあると僕は思う。

 それは直接、鐘の音に含まれているものではなく、小さい頃から、同じ時刻に体が鐘を聞いてきたという効用だろう。

 それを、証明してくれた人はいるんだろうか。いないのか。

 (鐘だけは、なくしちゃいけないな・・)


「老人のはじまり」10/20

 悲しいとき〜

 まだ僕は老人ではないが、老人までの半分の道をもう歩いているようだ。

 気持ちだけは若いのだけれど、どうもそのへんがいろいろとやっかいだ。

 ・・こんな経験はないか?

 駅までとても急いでいて、自分では走っているつもりなのに、客観的にみるとぜんぜん走ってないときがある。

 (気持ちは精一杯走っているんだけどね。)

 今、僕は外仕事をもう15年以上しているが、スピードが遅くなってきているのだ。理由はわからない。自分ではいつもどうりにしているのに。。

 首をひねるばかりだ。

 ここ二三年、特にスピードが落ちている。しかし、どう落ちているのか自分ではわからない。

 「くそっ!!」

 そんな思いから、最近ベストスピードで仕事をしてみたが、それでさえも、かなり遅かった。

 事態は深刻だ。

 5・6年前の自分と今の自分とのビデオでもあれば、そのちがいははっきりするだろう。

 単純に体力が落ちているだけなのか?

 いや、他に重大な事実がそこには・・・。

 今、その事実は知りたくない。

 なんだか、相撲取りの気持ちもこんなだろうか。

 「体力の限界!!」。その言葉が僕の中で響く。。



「通い慣れ」10/17

 ここ住んでいる場所では、30分以上もかけて、どこかに自転車に乗ってゆくなんてことはまずない。

 しかしアルバイト先の仕事では、平気で30分とか自転車に乗っているのだ。

 通い慣れた道というせいもあるだろうけれど、そんな自分が信じられない。

 だいたい、バイト先へは駅から歩いて約20分ほどかかるのに、毎日そんなに遠く感じてはいないのだ。

 もしバイト先での感覚で、住んでるここでも暮らしてゆけたら、生活範囲が相当変わるだろう。しかしそんなことはない。1時間とか自転車に乗るなんてまずないのだ。

 毎日のように、バイトで自転車で走っていると、(何か変だ・・)と、いつも思ってしまう。あたり前のように、20分と歩いてもそうだ。

 自転車で30分といったら、ここ高円寺からなどこまで行けるだろう。そこに友達が住んでいたなら、通えてしまうだろう。しかしそんなことは今ありえない。

 バイト先での自分の感覚がどこか普通ではなくなっているのを感じる。

 なぞの時間が自分の中にある。

 ガリバーの世界のようだ。

 ・・感覚は場所を移動しない。


「コーデュロイ族」10/13

 秋になった。

 僕の持っている秋の服はコーデュロイの生地が多い。というか、ほとんどだ。

 だから、秋になるとやっと自分の服が着れているという気がしている。

 東京に出て来て、たまたま薄茶色のコール天のジーンズを買ったのかきっかけだ。生地がソフトで、たいへんに肌なじみが良いのだ。薄手のコール天はだんだんと生地がすれてきて、やがては破れてしまう。その時の気持ちといったら、なんだかとても寂しい。。

 コーデュロイのシャツもまた、とても気持ちがいい。秋になり、コール天のシャツが着られる時が来ると、とても落ち着く。自分が自分に戻れたような気がするのだ。僕が好きなのは、薄手のコール天だ。

 ・・・なんだか、肌とつながった自分の服って感じがしませんか?

 高校時代の話だけれど、革のジャケットをずっと着ていたことがあり、信じられないほどになじむことがわかった。しかし、革の扱いは難しいし値段も高い。

 その感覚には及ばないけれど、コーデュロイは、どこか服というよりも生き物(?)に近い。生き物と呼ぶには、動物的なじみファッションと呼んだ方が近い。

 本当は、一年じゅうコール天の服を着ていた気持ちがある。あるけれど、世間が暑そうに見るので、着ていないだけなのだ。

 コーデュロイ族にとって、春から夏は、落ち着かない季節だ。

 (薄手と呼ばれるコール天よりももっと薄い生地が出ればいいのに・・)

 君、それだよ。


「うつりのいいテレビ」10/9

 先日、おばあさんの住む家を訪ねたら、大きな大画面テレビが置かれていた。

 薄暗い部屋の中で、そのテレビは大変に映りが良かった。ちょうど、ひとりの若い女性の顔がアップになっていて、その口紅のリアルさまでよくわかった。

 BSデジタル放送かなと思ったけれど、右上に「6」と出ていたので、普通の放送だろう。

 ・・あんなに映りがいいものなのか・・

 今だって、パソコンのすぐ横でテレビがついているけれど、その画面はざらざらで、見られたものではない。見られたものではないけれど、いつも見ている。

 値段だって、大画面テレビの25分の1くらいだろう。その前に、室内アンテナなので、よく電波が入らないのだ。

 正直、映りのいいテレビはいいなぁ。。

 リアルさがちがうよなぁ。僕のテレビでは、すべてテレビの中の出来事にしか思えないものなぁ。

 今、テレビはかなり進化しているのだろう。それはいいことだ。ただ高い。僕が出せるお金は、やっぱり3万円が限度だ。

 懸賞か? 町内会のくじ引きの一等か?もっと 新しいテレビを買ったアパートの隣の人が、ただでくれたりしないかな。

 そうか、もうすぐ地上デジタル放送開始か、それにすべての期待をかけよう。

 おばあさんの見てたテレビは、ちょっと衝撃でした。


「秋の服」10/6

 僕はよく「服持ち」だって言われる。

 でも持っている服は中途半端にかたよっているのだ。

 服の生地は、少し厚めのコーデュロイとかが多くて、10月ぐらいからの服が多い。

 もともとTシャツはほとんど着ないので、夏の一番暑い日は、半袖のシャツだ。半袖シャツならぱ何枚かある。

 しかし、普通のシャツというもの足りない。この夏は、2・3枚のローティションでなんとか過ごした。

 薄手の生地のシャツは持っていることは持っているが、どれも着る気がおきない。

 「服持ち」と言われているのに、夏はきびしい。。秋になってからは、着るものも充実している。

 充実しすぎている。。

 今度また、夏がくるときまでに、夏用の薄手のシャツを手に入れておかなくてはならないのに、今年は一枚も増えなかった。また来年もか・・。

 と、言っていると今度は冬が来る。冬に着るオーバーやコートがまた、数枚しかないのだ。冬も困る。

 結局、10月、11月、3月、4月くらぃしか、ちゃんとファッションを楽しめてない。あとの八ヶ月は、2・3枚のローティションだなんて、極端だ。

 「食生活の偏り」とよく言われるが、僕の場合は「服の偏り」がある。でもかってそれをどうこう言った番組はない。


「英語の歌」10/3

 もう何度か書いたことだけれど、ずっと部屋では日本語の歌がきけなかった。

 それは、歌詞が耳に聞こえすぎて、他のことが出来なくなるからだ。しかし、感覚が年をとったせいか、最近は聞けるようになった。

 それと同時進行で、英語の歌詞が、聞きながらわかったらなぁと強く思うようになった。

 以前なら、歌詞が直接聞こえて来ないところが英語の歌の良さだったのに。。

 訳したことのある英語の歌を聞いていると、その感情が手にとるように伝わって来る。そして歌が何倍も味わい深く思えたのだ。

 ・・英語が勉強したいな。。

 今からでは遅いだろうか。駅前留学? ECCシニア?

 しかし、僕の中では、日本語をもっともっと勉強したいという気持ちの方が強くて、どうしようか思ってしまうのだ。

 英語の勉強をしても、果たして歌の歌詞が聞こえるようになるだろうか。そんな疑問が残る。

 日常会話は出来るようになっても、歌となると、また別の問題だろう。

 ・・まあ訳詞をみれば、同じなのかな?

 いやちがう。どこかちがう。

 勉強しないで勉強したいな、、。(英語がマスターできる映画DVDとかないかな、、)


「オン・ザ・インスタント珈琲アゲイン」9/28

 いろいろと厳しいときでも、この部屋からインスタントコーヒーが無くなることは、まずない。

 考えてみると、珈琲の値段はさまざまだ。喫茶店にゆけば、一杯400円はかかってしまう。缶コーヒーなら120円だ。

 そして、インスタント珈琲といえば、想像できないほどに安いだろう。正確には、どのくらいなのか?

 今、インスタント珈琲の瓶を持ってきて見てみたら、一杯2グラムと書かれている。

 さーて、ちょっとまてよ。計算してみるから。。

 銘柄は「ゴールドブレンド」。安売り店で買ったので、100グラム瓶で580円だった。消費税もついて約600円だとして、

 えーっと、600÷50か、、12円だ。。普通なら850円くらいで売ってるから、それでも17円だ。

 でも5杯飲んだら、100円なんだなー。それは、初めて知った。

 まあ、お金の話は別にいいのだけれど、僕が言いたいのは、「気分」の話だ。

 「気分」・・。そう、気分がすべてだ。

 僕は思う。一杯400円もするかもしれないという珈琲が12円で飲める。それはなんて贅沢なんだろう。

 財布の中に、光る銀色のものがなくなっても、珈琲は飲める。それはなんて贅沢なんだろう。

 ああ、インスタント珈琲は宝のようだ。それもどんとん美味しくなっているという。

 喫茶店で、珈琲を飲む場合は、25倍の幸せを感じてしまう。

 ・・これは、ちょっとオーバーだった。


 「秋じたく」9/24

 ここ最近、大変に眠い。

 今までのペースで考えても、信じられないほど眠い。なんだか60時間くらい眠りたい気分だ。

 そう、「あと60時間くらい眠れ」と、どこからか命令が出ている。

 今年の気候は、先日まで暑かったのに、急に寒くなってしまった。

 衣替えがあるように、体の方も、秋になると「体替え」があるのではないか。

 パソコンの設定を変えるように、体の設定を変えるのだ。

 それに必要に時間はきっと70時間・・。体は僕が眠っている時間に作業をする。

 ・・本当だったら、9月のうちに少しずつ、準備するはずだったのだ。しかし、突然に秋になったので、体が追いついてゆかないのだ。

 眠い。。実に眠い。。あと60時間必要だ。


「タイムスリップ」9/20

 '03.9月20日(土)。東京では、雨も降り、たいへんに肌寒い。。

 おとといのことだ。天気予報のお姉さんが、

 「残暑も明日で終わりです。あさってからは、本格的な秋の気候になるでしょう」と、断言した。

 (あらら、あんなこと言っちゃって)とか思っていたが、実際に、今日はまるで昨日とは違う。

 昨日、バイトの帰り道、友達は白いTシャツ一枚だった。僕はのどの乾きで、なんども水分をとった。蒸し暑い夜、猫たちは外に出ていた。

 そして、今日、朝から雨が降り、外に出ると震えるくらい寒い。

 まさに、本格的な秋だ。天気予報のお姉さんの断言したとおりになった。

 傘をさして、外を歩いてゆく。昨日までの日々は、まるで嘘のように思えてくる。

 ・・夏じゃなかったんだね。。

 僕はすっかり、夏の続きだと思って過ごしていた。すっかり夏気分で、毎日銭湯帰りにアイスを買って帰った。

 ちょっとだけ失敗したのか、それでよかったのか、、。

 この極端な、気候の変化についてゆけない。

 タイムスリップとはこのことか。

 秋の楽しみ方が思い出せない。。


「すばらしいノート」9/16

 「ゼロ」の次のくるものは「1」と普通なら言われるだろう。

 でも、僕の場合「ゼロ」の次に来るものは、なんと言っても「ノート」だ。

 ・・まず、はじめにノートありき。

 一日のはじめには、予定のメモを作る。自分でも予測はつかないのに、この先15時間くらいの予定を書く。寝る時間までもだ。

 しかし、それが実行されることはほとんどない。ただ書いてみたいだけなのだ。胸ポケットにしまって、それからGOとなる。

 メモは一枚の紙でもなんとかなるけれど、やっぱりこの先しばらくのこととなると、ノートが必要だ。

 そしていつもいつも思うことは、すばらしいノートはないものかということ。システム手帖は、あくまでも手帖だ。手のひらよりも大きいものは、やっぱり手帖としたら、ちょっと不便だ。

 ・・だって、ノートの真似をしているのだもの。

 ノートはやっぱり正統派でないとね。しかし、普通のノートにも欠点はある。それはシステム手帖のようにはいかないということだ。

 うーん、困った。。

 そのノートが一冊あれば、すべてOKというような、そんなノートを探している。

 ・・・

 そんなノートはきっと無ので、自分で作るしかないようだ。

 書き込むたびに、ほれぼれするようなノート。。そんなノートはないものか。


 「行き帰り」9/13

 最近の楽しみといえば、、

 バイト先へ向かう行き帰りの二時間の間に、携帯用CDプレーヤーで、日本語の歌を聴くことだ。

 日本語の歌の入ったCDを一枚、朝選んで道に出る。毎日のように、CDを選んではいるけれど、僕の場合はほとんど外国のCDだった。

 いろいろ考え事をするには、やっぱり外国の歌の方が都合がいいのだ。

 それはそれで、いい面も多い。

 しかし、しかしだ。なにも考えずに、その日本語のCDに任せてみるという方法もあるじゃないか。

 あるじゃないか!!

 まあ、そんなおおげさなものではないけれど、一枚のCDをじっくりと聞いてみるという快感の中に、最近はいる。

 行きに一回、帰りに一回、そのCDを歌詞までじっくりと聞く。・・なにしろ耳もとで歌っているからね。

 バイト中は、そのCDの歌詞の世界を体で思い出しながら、そして帰りにもう一度聞く。・・これがいいんだな。

 芝居を二回観た感じ?

 それにしても『行き帰り』って、いい言葉の響きだなぁ。


 「名も無き現象」9/8

 最近、台所から不思議な音が聞こえてくる。

 「ピシッ!!」

 薄いガラスが割れるような音だ。原因は不明。(冷蔵庫の氷の音ではない・・)

 そういう話はよく聴くけれど、自分の部屋で起こるなんてこれはびっくりだ。いったい何が鳴っているのだろう。

 ペットボトルでも鳴っているのか。何かが割れかけているのか。さっぱりわからない。。

 さっぱりわからないけれど、真実はある。その答えは想像を超えたものだろう。

 と、こう書いている間にも、その音は台所から聞こえてきた。ちょうど台所の真ん中へんからだ。

 ・・そんなことが、ありえるか?  もしかしたら電磁波?

 しかし僕の中では、何かが確実に鳴っていて、それには確かな原因があり、知れば、「なるほどなぁ」と、うなずく自分がいるのを知っている。

 98パーセント原因不明でも、それは「98パーセント原因不明」というものであると、自分が受け止めているのがわかる。

 本棚に本が並んでいる。その本の一冊に「中身は不明だが、ここにある本」と、タイトルに書かれていても、それで良しと思う。そこにもうあるのだから。


「1973」9/4

 それはいろいろなところ。

 畳の匂い。木の窓。かたわらのギター。そこに流れている吉田拓郎の歌・・。

 1973年。中学一年だった僕は、友達の家に遊びに行った。お兄さんの部屋にあった拓郎のレコード。

 そこは新潟だったけれど、日本中の部屋で、流れていただろう。東京のアパートでも、どこでも。

 最近、拓郎の「ライブ'73」や「元気です。」のアルバムを繰り返し聴いている。すると1973年の部屋で流れていた空気が想像される。とくに「元気です。」のアルバムはサウンドが明るい。

 それは強制されるものではないけれど、1973年の部屋に流れていた歌が、生ギター弾き語りのフォークでなくて良かったなあと、アルバムを聴いてて、僕の心のどこかが思ってしまう。

 1973年の東京のアパート。そこに訪ねてくる、その人の友達。そしてあたりまえのように、聞き慣れたカセットテープでかけられる、拓郎の「元気です。」

 その部屋で話されるいろんな話。そして出かける喫茶店。そしてまた帰り道。ひとり部屋に帰っても聴く「元気です。」

 でかけるそのどこの路地にも、その音が耳に残って聞こえてくる。

 僕は、その音が拓郎で良かったと、今、思っている。深い理由でという話ではなく、そのサウンドが歌が明るくて嬉しかった。

 「元気です。」の、アルバムを聴いていると、日本中の1973年の部屋が見えてくる。


「探し物の法則」8/31

 みんなで探し物をするとき、僕には向かう場所がある。

 歩いてゆくとき、右肩には、だいたい想像のつきそうな場所。

 そして左肩には、まさかと思われる場所。

 歩きながら、右肩と左肩の行き先を、静かに心でMIXして、足に任せて歩いてゆく。すると探し場所のすきまに辿り着く。

 たいがいは外れるけれど、当たるときもある。部屋の中で見つからない探し物をするときもそうだ。

 歌を作るときもそう。タイトルを考えるときもそうだ。探し物は、ひとつのすきまで待っている。

 いなくなった犬もそうだ。洞穴の狸もきっとそうだ。見つからない古本もそうだ。言葉もそうだ。フレーズもそうだ。服もズボンもそうだ。

 小学生の頃から、僕は探し物が誰よりも得意だった。そこにはひとつの法則があったからだ。良いも悪いもわからないが、それは僕の中を支配する、ひとつの法則にもなった。

 中学に入った頃、テープレコーダーを買ってもらったと同時に、僕は音を探し始めた。それはいつもどうりの「探し物の法則」に沿ってだった。

 それが、もし2003年の今で、今が中学生だとしても、同じ音を見つけてくるだろう。きっと聴いているアルバムは一緒だろう。

 その見つけ方は簡単。

 右肩と左肩のバランスをとって、あとは耳に任せてゆくだけでOK。


「手紙」8/28

 手紙はない。

 自分が書いた手紙は自分のところには、ひとつもない。

 インターネットのメールは自分のパソコンの中に残っているので、感覚が麻痺してしまう。

 ずっと手紙は書いているので、いままでどんな内容を書いてきたかは、僕の記憶の中にしかないけれど、さて、自分の記憶なんてものは、あいまいなものだ。

 それなのに、手紙はいつまでも残ってしまい、ときにはじっくりと読まれてしまう。もちろんそういう手紙もある。

 そういう手紙だとしても、それがずっと同じ気持ちのまま、ずっとあるかということではない。

 メロンがある。

 「あのときのメロン美味しかったね!!」

 あのときのメロンが美味しかったのには、そのときの状況と全部つながっている。

 手紙を自分でコピーしてる人なんて、たぶんいない。でも、それでいい。

 ポストに落ちた瞬間から、手紙にはもう時間と呼ばれる場所にはいない。

 それなのに、いつまでも送った先に手紙は残ってしまう。それが手紙なのかもしれない。

 熱転写式のFAX用紙は、ハイグレードでない限り、数年たつと、薄くなっていってしまう。

 そういう便せんが、発売されてもいいと思うのだが。。


「校長先生のくれたもの」8/25

 中学校のときの校歌も忘れてしまったのに、いまだに頭に浮かぶ言葉がある。

 「沈着冷静」という言葉だ。

 それは中学生のときの校長が、しつこいくらいに僕らに言った言葉だ。

 「沈着冷静」と言われても、中学生の僕らには、そんな古めかしい言葉にはうまく反応できず、「また校長が言ってらぁ」くらいにしか思っていなかった。

 僕自身は、たいへんにその言葉をバカにしていて、校長のオリジナル文句だと思っていた。そしてこの現代に何、古い言葉を教えているんだろうとか思っていた。

 なんとなくイメージはわかるけどね。

 東京に出てきて、20年以上はたったけれど、いまだに「沈着冷静」という言葉を使った人に会えてはいない。テレビでもあまり聞かない。やっぱりあの校長のオリジナル標語だったのだろう。

 もうずっと忘れているその言葉だが、箒ではいたりしていると突然に頭に浮かんできたりするのだ。中学のときの校長先生の名前も、言ってくれた内容も忘れてしまったけれど、あの言葉だけは憶えているというわけだ。

 中学生の僕らには、それを実行するのはかなり大変だ。だいたい、実行していたら怖い。

 しかし、こうして今でも憶えているということは、それなりに意味があったということだろう。

 まあ、数年に一度くらいしか、頭を横ぎらないが。


「みつからない探し物」8/21

 10年とか平気でたってしまうほど、ずっとひとつのレコードを探していたことがある。

 その人の作品の中で、どうしてもその作品だけが手に入らないのだ。廃盤になったきりだ。

 ・・どんなにそのレコードが欲しかったことか。。

 そこに広がる名作の予感。謎の10曲とは何か。中古屋に入るたびに探す。どこの街でもさがす。

 今ならインターネットですぐに探せるかもしれない。

 そしてやっと手に入れたときの嬉しさ。ジャケットが幻のように見える。震える気持ちで、家に帰りレコードをプレーヤーにかける。

 しかしそれは自分の想像とは違うものだった。「なぜ?」そう言いたくなるほど。

 探していた10年間は楽しかったよ。そう思うしかない。。

 ・・・・

 インターネットの時代になり、僕はたまたま廃盤になってるレコードがCD化されているのを知った。そのレコードも10年以上探していたのだ。そして通販で先日、手に入れたものの。。やっぱりハズレだった。。

 なかなか見つからないもの。それにはそれなりに理由があるのかもしれない。

 ・・・・

 余談だが、ハズレだったレコードは、その前作が傑作とされている次の作品ばかりだった。


「写真ライフ」8/17

 もう何年も写真を撮っているけれど、イメージどうりになかなか撮ることができない。

 ちゃんと撮っているつもりなのに、思ったように焼き上がってこない。

 (ぎゃくにもっといいときもある)

 それは、僕だけの問題ではなくて、写真を撮る人たちがみんな思っていることだろう。

 しかしプロの写真家は、それなりに撮れている。

 ・・ああ、その技が欲しい。。

 その技が欲しいなんて言ったら、写真をやってる人にいろいろ言われそう。

 きっとそこには長い道があるにちがいない。

 見たときのイメージがそのまま、写真になったらと思う。なぜそうならないのか。

 僕はまだデジタルカメラを持っていないので、写真が焼けるまで出来上がりがわからない。そこにも要因がありそうだ。

 最近はみんなが、デジタルカメラやカメラ付き携帯電話を持っているので、こらからは、写真の文化が来るかもしれない。

 それはありえる話だ。一億総カメラマンの時代が来るような気がする。

 (その割には、写真雑誌が盛り上がってない。不思議だが・・)

 ・・ああ、うまりなりたい。。

 写真ライフを送っているひとりとして、、。

 (でも、ずーーーっと、たってみると、今撮ってる写真が自然でいいって、言ってるような気もする)


「その昔」8/12

 と、言っても12・3年前の話だけれど、僕は一人旅で、関西方面に向かった。

 ミニテープのカセットテレコをポケットに入れて、買ったばかりのカメラも持っていった。

 名古屋に到着したときはまだ早朝で、僕は待合所で休んでいた。やがて、街のひとたちが地下街に集まり出した。

 僕もまたその中を歩いて行ったのだけれど、女性の顔が似てるなと思ったのだ。

 (あっ、多少似てくるんだなっ・・)

 僕は確信的にそう知った。・・・

 あれからずいぶんたった先日、同じように名古屋駅を歩いてみたのだけれど、まったく女性の顔が似てるとは思えなかった。

 (あれっ? 何がどう変わったのだろう?)

 そう思ってみたものの、自分の感性が、きっと鈍くなったのだろう。

 まったくその顔の共通性が見つけることが出来ない。一人旅でないからなのか?

 きっと感覚のテンションがちがうんだな。・・・ショックだ。

 やばいな。。ぼやーっとしてるんだなぁ。。


「一週間・2」8/5

 今、僕の生活は曜日よりも、日付中心で動いている。

 スケジュールがいろいろあるからだ。

 しかし、思い返してみれば、小・中・高の頃は、曜日中心に日々暮らしてように思う。

 それはきっとテレビ番組ともくっついていたようにも思う。

 「月曜日かあ。夜のヒットスタジオだ」「火曜だぜ・ぴったしカンカンだ」「水曜か、ベスト30歌謡曲の日だ」・・

 それは、授業の日程表(?)ともつながっていた。

 僕らは、曜日のプロフェッショナルだったのだ。

 バイトをしていても、そんなに曜日による変化があるわけではない。

 あの頃は、曜日がすべてだった。日付をみて「あっ、今夜、マンダラ2のライブに行かなきゃ」とかは、思わなかっただろう。

 大人たちは、月単位で暮らしているし、子供らは週単位で日々過ごしている。幼子は朝・昼・夜と時間を感じているのだろう。

 国会議員は、年単位で、過ごしているかもしれない。天体学者は5年周期かもしれない。

 全体的にみると、やっぱり週単位で、過ごすのが、充実感はあるようだ。

 パック・トゥ・ザ・ウイークLIFE。


「衣服アゲイン」8/2

 先日、ジーンズをみごとに全部洗ってしまい、むかーし買ったスラックスをはくことになった。

 東京に出て来てからのシャツやズボンは、破れたりしてない限り、押入にとってある。だいたいもともとそんなには服は買わないタイプなので、押入から溢れるほどあるというわけではない。

 服の趣味もかなり変わったけれど、捨てられない理由もある。

 買って失敗したと思っていた服も、数年ぶりに着てみたりすると意外と新鮮だったりするのだ。服を着て、駅前まで行って帰ってくると、快感になっていたりする。

 ・・服って不思議だな。。

 今はまだいろいろとこだわりがある。でも、そのうちだんだんと、どんな服も似合ってくるようになる可能性もある。そうなったとき、きっと今まで買ったいろんな服をもう一度着ることになるだろう。

 なんでも着られるようになったなら、もう一生分の服のストックはあるな。。

 ホントはもっと服を買いたい。しかし、ここ数年はだいたい年に数枚しか増えていない。それも1000円前後の服ばかりだ。1000円前後なので買ってしまうので、そうでなかったら買っていなかった可能性大だ。

 どんどん買ってしまう人ならば、どんどん増えてしまうのだろう。そうなったときの悩みはまだない。

 もっと服を買いたいと思うけれど、いつも似合わないと思ってしまう。もしもなんでも似合うようになったら、今度こそいろいろ買ってしまうかもしれない。そのコワサはある。

「今日の夜話・過去ログ'03年5月〜'03 年7月」

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