青木タカオ「ちょっくら・おん・まい・でいず」

「最近の事」過去ログ'03.12〜'04.3月


「エベレストカレー」
'04.3/30

 富山県に遊びに行った時、道沿いの大きなレストラン&ゲームセンターで、「エベレストカレー」というものがあることを知った。

 (いったいどんなカレーが出てくるのだろう・・?)

 そして出て来たカレーは、ごはんが三角状になっていたのだ。

 (なるほど、これがエベレストか。。)

 ただのジョークのような気がしていたが、後日、東京で老舗と呼ばれるカレー店に寄ったとときもほぼ同じように、ごはんが三角状になっていた。

 (ふふん、古い歴史があるのだな・・)

 なぜかその三角状のごはんはカレーを美味しそうに見せてくれるのだった。

 それ以来。それ以来、僕は家でカレーを食べるときはごはんを多少エベレスト状にしてしまうようになった。

 不思議なことに、高級そうにカレーが見えてくる。老舗の味のようだ。

 僕にとっては、カレー革命に近い。

 みなさんもぜひお試しあれ。


「太陽のほえろ以前」'04.3/27

 刑事ドラマ太陽のほえろは、'72年から'86年まで続いたらしい。14年間だ。

 しかし、ドラマが終了してからすでに今年で17年がたった。そしてここ数日、ニュースでかなりとりあげられている。

 今、20才くらいの若者には「太陽にほえろ」と言ってもピンと来ないだろう。'70年代の刑事については、30才くらいの人で、やっとわかるくらいかもしれない。

 もう、そうなってしまったのだ。特にそれが哀しいしということはないのだが、僕ら自身もまた、若い頃、ピンとこないニュースを知ることになっていたのだ。

 僕は昭和30年代生まれなので、昭和20年代の事については、あまりピンとこない。1950年代くらいからテレビ放送は始まっているので、約10年のテレビ文化については知らないのだ。きっとその頃は、映画や雑誌やラジオが主流だっただろう。

 多少知らないニュースがあってもさほど気にはならなかった。現代の若者もそんなには気にしてはいないだろう。

 しかし考えてみると、テレビ文化だけでなく、その前過去永劫(?)にわたって僕らは知らないヒットブームが多いのだ。まあ、テレビや雑誌でみることはあっても、その時のブームさをみごとに伝えてくれる解説者はひとりもいない。

  証言者がいないのだろう。

 「太陽にほえろ」を知らない世代にどう「太陽にほえろ」の事を伝えるか。それととても似ている。


「夜の向こう」'04.3/23

 僕は今も、ラジカセ派だ。

 すでにラジカセという言葉も死語になりつつあるが。。

 ラジカセの魅力にはいろいろあるが、なんといっても、足下や耳元で鳴ってくれてるところだろう。

 今の横になりながら足下でラジカセが鳴っている。

 ・・・足下でラジカセが鳴っている。

 中学時代からずっとこうしてラジカセで聞いているけれど、どうもあの時とはちがう音のような気がするのだ。

 聞こえ方がちがう。もちろん中学の頃の方がしっかりと聞こえていた。

 なぜだろうと、いろいろ考えてみた。

 こりゃ、むずかしい、、。

 聞こえ方がちがうのは、きっと夜の深さの差ではないか。

 夜の深さには、ふたつあるだろう。

 実際に夜が広いということと、夜更けが長いということだ。

 新潟の実家にいた頃は、そのどちらも満たしていた。

 が、ここ東京に来てからは、夜の広さというものがない。静かさもなく、あっという間に朝になってしまうようだ。

 広い夜を後ろにして聞こえてくるラジカセの音。それがここにはないのだ。

 友よ、そう思わないか。


「例のシリーズ」'04.3/20

 毎週発売されるという例のシリーズがある。

 テレビのCMでやっていたのだが、水彩画のシリーズを見た。創刊号は390円と安いのだが、二号目以降は890円。毎回、絵の具が二色ついてくるという。筆も付いてくるという。

 60号まで発売される予定だという。ちょっと計算してみよう。

 390円+890×59=52900円。

 まあ、それはいいんですけど。

 毎週ということは、、。60÷4=15。15ヶ月。一年と三ヶ月だ。

 僕も以前、写真シリーズが出たとき、つい買ってしまいそうになった。それは80号まで出たという。

 水彩画のシリーズだが、毎号、絵の具が2色ずつって、それはなんというか、楽しいのかどうなのか。このシリーズのファンの人たちは、きっと「そこがいいんだよ」というだろう。

 一度買い始めたら、もう最後まで集めるしかない。こんなシリーズがある。こんなシリーズがある。

 はまっている人は居るんだろうなぁ。僕もシリーズによっては、集めてしまうかもしれない。

 ・・・・

 では、こんなのが出たらどうだろう。

 「週間 青木タカオ」

 考えただけで、想像がついてしまうが。この人名シリーズには無限の可能性があることは事実だ。

 (60号目には、あなたも青木タカオになれる)


「六本気ヒルズ」'04.3/17

 六本木ヒルズに行った。

 近未来都市という言葉には、まだまだ近づいてはいないという印象だったけれど、膨大なお金がそこには使われていて、あるところにはあるんだなぁとういふうに思えた。

 角々ごとに立つ道案内の人たち。

 僕の知らないところで、こんなにも立派なものが出来ていた。

 巨大な力がある。

 失敗はしない、確かな計画性。

 いいかげんなところのない計算されつくされた世界。

 ・・・・

 六本木ヒルズを歩いていて、僕は哀しくなった。

 六本木ヒルズが哀しいわけではない。

 僕はたった二部屋でさえも、物が混沌としていて、うまく整理することができないでいる。

 なぜだ。なぜなんだ。物が多すぎるのか。

 六本木ヒルズとのこの差はなんなんだろう。

 整理する力がないのか。

 たった六畳と四畳半で、いつも僕は苦しんでいる。

 未来とは、整理されているということなのか。

 ・・・そんな馬鹿な。


「デッキシューズ」'04.3/13

 今の若者たちに「デッキシューズ」といえば、すぐに想像がつくだろうか。

 おじさんたちには「スニーカー」といった方がわかりやすい。

 しかし「スニーカー」というのも、またいろいろとあるので、「デッキシューズ」といはいいネーミングを付けたものだ。

 ・・・・

 時は1973年頃。たぶん火を着けたのは、リーガルの「スニーカー」だったろうか。アイビーファッションが流行っていたころ、スニーカーブームがやってきた。学生なら誰彼となくスニーカーをはいていた。

 1976〜8年頃には、1000円ほどだった値段が、700円前後まで下がった。どこの靴やさんの店先でも、スニーカーは特売品となっていた。

 (安いよな〜)

 そう、ふと思ってから、25年ほどたった現在、僕は運動靴を買う必要に迫られ、昔でいうところの「スニーカー」、今でいうなら「デッキシューズ」を探して町の靴やさんを巡った。

 時は変わっていた。デッキシューズもあることはあるが、2200円ほどしていたのだ。今はやっぱりスポーツシューズが主流なのだろう。それも男ものはないとも言われた。

 (そうか、デッキシューズも履く人がいなくなったのだな)

 その昔は、どこにでもあったのに、今では探すのもひと苦労になっているのか。

 すっかりがっかりしてしまった。

 おじさんたちには、たぶんこれからこういうことが多くなるだろう。

 ・・・・

 安いデッキシューズのことはすっかりあきらめていたが、下町の靴やさんで、1000円で売っているのを見つけて買った。まだ生きていたのだ。「店長、おすすめ」とか書かれている。やっぱりスニーカーはこうでなくちゃね。

 きっと、僕よりももっとおじさんたちの工場で作っているのだろう。


「ドノヴァンの魔法」'04.3/9

 イギリスのシンガーソングライター「DONOVAN」

 そのなんとも軽快な歌ごころ。そしてポエジーにあふれた、詩とメロディー。

 1960年代に活躍したドノヴァンは、その人気のピークを60年代後半に迎えた。

 イギリスのボブ・ディランとしてデビューしたドノヴァンは、すぐにメルヘンサイケともいえる、独特の世界を作りあげた。

 今、僕の目の前に、山道を縦笛を吹いて歩いてゆくドノヴァンの写真がある。そんな姿を見ていると、音楽家というジャンルを越えて、音の使い手という表現がぴったりだ。

 僕はかなりの長い間、ずっとドノヴァンを聞いている。彼のような音がどうしても他で見つからないのだ。まるで魔法がかかっているかのようなそのサウンドイメージ。

 多作だったドノヴァンも、'80年代に入ると活躍のニュースも聞かなくなり第一線からは離れてしまったような印象がある。(実際のところはちがっていたかもしれないが・・)

 それでもドノヴァンは、多くの作品を残しているので、たっぷりと今でも楽しむことができる。

 それは嬉しいのだけれど、またドノヴァンに戻ってゆくのは、少しだけ淋しい。

 なぜ、なぜなんだろう。彼の作った世界はとても永遠性があるのに、ドノヴァンしかいないなんて。

 (ただ僕が知らないだけかもしれないが・・)

 僕はドノヴァンの音楽の魔法がかかっているのかもしれない。


「本いっぱいの幸せ」'04.3/6

 最近よく思うことがある。

 東京に出て来て、もう20年以上にはなるが、ずっと自分が好きな本を集めて来たのだ。

 と、いうことは僕の本棚にある本のほとんどは僕の好きな本なのだ。

 今では、壁一面の棚にも収まらないくらいに本がある。

 しかし僕はそんなに本は買う方ではなく、それも、買っても全部は読まずに、資料として置いておくと場合がほとんどだ。

 (いつか読もうとは思ってはいるのだけどね)。

 とりあえず、本屋さんから無くなる前に買っておいたのだ。

 広いと思っていた部屋もだんだんと狭くなり、その好きな本も取り出すのが大変になってきている。

 ・・・ああ、素晴らしい本棚を作りたい。

 CDの方は大きなラックを買い、ジャンル別に分けてあり、とてもいい環境になっている。

 本がまだだ。

 もったいない。

 手に入らない本も多いのに。

 しかし、今日のテーマは本の整理の話ではない。

 『本棚』。それは実にその人にとって幸せな空間なのだろうということだ。

 「まあ、今まで買った本だから」と、いう風にとらえることもできるけれど、やっぱりもったいない。

 日本には、本棚文化というものが、もうひとつ確立してないように思う。

 写真のアルバムのように、買った年代別に整理されても面白いのにね。


「歌・唄・うた」'04.3/2

 中学時代、ほんとよく日本の唄をギターでよく歌った。

 高校時代は、洋楽を燃えるように聴いた季節だった。

 そして、ほんとによく日本語の唄を歌ったのは、東京に出て来て、ライブハウスで、友達の唄を聞くようになってからだ。

 もう、20年以上も前のこと。

 あのときはどこに出かけても、歌う唄があることが嬉しかった。

 歌詞のひとつひとつを心に沁みるように、歌っていた。

 あれから、20年。今は携帯用CDプレイヤーで、音楽を聴いては歩くばかりだ。

 でも、ほんとは歌いたくてしかたがない自分がいる。

 自分の唄はよく歌う。

 友達の唄もけっこう歌うのだけれど、なんだかこう歌うには「作品」という感じが伝わってきて、うまく鼻歌にならない。

 前はいくらでも歌えたのに自分が変化したのだろう。

 自分では、誰でも歌えるように、歌詞とメロディーを作っているつもりなのだけれど、いつも、

 「青木さんの唄は、難しくて歌えないよー」

 と、言われてしまう。

 ・・・・・

 沖縄の唄を聞いていると、実に歌うための唄という気がしてくる。

 民族音楽のCDも聞いていると、歌うことが楽しそうだ。

 そして、歌う唄が無くなった今、自分はとてもいい環境にいると思う。

 「作品」らしくない唄を作りたいな。たとえば、どんどん歌詞が変化してゆく唄とか。。

 そんなことを考えているこの頃です。


「時代」'04.2/28

 最近の事、古い中華屋に入った。

 何が古いかって、何もかも古いのだ。古いと言っても、ぼろぼろというわけではなく、時代が古いのだ。

 どんぶりから、部屋、ポスターから場所。メニューから味まで古い。

 二階は大きな座敷になっていて、宴会も開かれている。そこにいるサラリーマンの一団が、1970年代の人たちに見える。が、今の人たちだ。

 友達と入ったのだけれど、だんだん時代と場所がわからなくなって来てしまった。

 どこか、流行からとりのこされた地方に来ているような気分にもなった。

 二階の登ってくるには、とても細い階段をつかわなくてはいけない。二人通れない階段だ。酔った人の多くが転げたような階段だ。

 時代はここまで、やって来なかったようだ。

 たぶん、1970年代最初からほぼすべてにおいて変わってないだろう。1970年の冬、ここに来たとしても同じかもしれない。

 ・・・また青春が始まらないかな。

 古い場所に来て、若い頃の夢を見た。

 しかし、どうやったらここまで、変わらずにいられるのだろうか。

 一階に降りて、精算をしようとすると、レジもなくすべて手書きで電卓を使い計算していた。

 (1970年は、そろばんだったかな)


「若い頃」'04.2/25

 ここ最近、俳句のエッセイを書いている。

 それを書くことについての資料と本が、僕の部屋にはたっぷりある。

 自分でもよく買ったものだと思う。若い頃だ。何を考えて俳句の本をこんなにそろえたんだろう。

 それは好きな俳人がいたからだ。

 俳句の本は値段が高い。それでも、よく集めたものだ。

 僕は部屋には、若い頃集めたいろんな本がある。今では入手困難な本も多い。高い本も多い。

 そして、僕はその本をそんなに読んだりはしてこなかった。

 いつか読んだり、資料として使うと思ったのだ。

 そしてその本たちが今、大活躍している。

 それは僕にとって、若い頃の宝物だ。今だったら、値段が高くて買わない可能性は高い。

 ・・・・

 僕が今欲しい本を、昔の僕が買ってくれたのだ。

 なんていい奴なんだろう。


「映像」'04.2/22

 NHKで、詩人「山之口貘」のテレビ特集を観た。

 詩人の特集でありながらテーマは沖縄だったと思う。

 僕も20才すぎの頃、よく貘さんの詩をよく読んだ。

 貘さんの写真と、今回始めて観た、貘さんの映像はそれほど印象が変わるものではなかった。

 こういうこともあるだろう。

 そして、今回の特集で、貘さんと金子光晴の対談したテレビ放送が少しだけ流れた。その放送があったことはよく知っていたが、実際に観られたのはラッキーだった。

 ほんの二分ほど。

 金子光晴については、ここでいろいろ書いても伝えきれない。そして今日のテーマは「映像」のことだ。

 ほんの二分だったけれど、僕に伝わってくるものはかなりのものがあった。光晴の作品のすべての印象を変えるだけのインパクトがあった。

 (なるほどね。。)

 映像は大事だ。

 僕らは実際に友達と会い、いつも話している。テレビでは、多くの人がそこで会っているかのように、感じることができる。

 しかし、会えない人も多い。映像で観ることが出来ない人は実に多い。

 会いたい人はたくさんいる。

 いろんな詩人や文学者の貴重映像は、どこかのテレビ局に眠っているだろう。

 権利、その他のことは確かにあるけれど、お宝貴重映像として、ぜひ公開して欲しい気持ちがいっぱいだ。

 ほんの一分や、二分の映像であっても、その価値は、無限大に近い。

 写真が語ることも多いけれど、映像となれば、直感力で得るものがかなりある。人間の能力として。

 そういう映像サイトを国で作ってくれないだろうか。インターネット文化を最大限に利用したいものだ。


「映画館」'04.2/18

 先日、新作映画を観るために、映画館に行った。

 話題の映画だったせいもあり、満席で、年齢層も中学生からというものだった。

 僕自身はどんなにこの映画を楽しみにしていたか。

 しかし僕は多少不安だった。まともに映画鑑賞できるだろうか。

 席に座っていると、ナイロン袋いっぱいにお菓子やファーストフードを入れた中学生の一団がすぐ近くに座った。

 (おい、それを全部食べるつもりか)

 まあ、自宅で映画をビデオを友達と一緒に観るときは、そうすることが当然のことなのかもしれない。

 それも楽しみのひとつなのかもしれない。

 3時間以上の作品なのに、3才くらいの子供をつれてきている人もいる。

 子供が劇場内をかけ回っている。不安だ。

 僕の隣に座ったおじさんは、何を思ったか、「うまい棒」のひと袋セットをどこかで買ってきている。

 僕の後ろにやって来た若者4人組は、ハンバーガーセットの袋を抱えてやって来た。

 (うわっ、きびしいなぁ・・)

 映画の間じゅう、ずっと近くで食べる音がしていた。

 隣の男よ、そんなに「うまい棒」が食べたいのか。。

 話題の新作ということで仕方がないにしても、やっぱり劇場で売っているものを食べて欲しいと思う。

 しかし、これには、ひとつの流れがあるのだろうとも思える。

 きっと、中学生くらいでは、映画と言ったら自宅でビデオを観ることがほとんどなのだろう。

 きっと常に何か食べるということが当たり前になっているのかもしれない。

 もうそういう世代になっているのかもしれない。

 そのうち、ヘッドホーンで映画を観る時代もくるかもね。


「チョコレート」'04.2/15

 今日、久し振りに映画館に行った。

 午前中も早い時間だったので、何か食べたいなと思って自販機で110円のアーモンドチョコを押した。

 (んっ、110円?)

 妙に安いなと一瞬思いながら出てきたチョコは、7センチくらいの小さなミニ箱だった。

 席について、箱を開けてみると、四粒しか入っていない。

 (貴重だな・・)

 ・・・・

 チョコレートの出てくる話で、僕の記憶に強く留まっている話がある。

 山で遭難した人が、チョコレート何粒かを細かく切って、毎日、その数ミリのチョコを食べて生き延びたという話だ。

 僕はその話を確か中学時代、先生から聞いた。その遭難した人は、その数ミリのチョコをちゃんと日数計算してがんばったというのだ。

 チョコに救われた人。。

 こうして、四粒のチョコしかなかったりすると、僕の中でその話が必ず脳裏に浮かんでくる。

 たぶん強烈に記憶の中に残っているのだ。

 (この一粒で、命をつないだ人がいるんだよなぁ・・)

 僕の人生の中で、そんな場面に会うことは、あるかどうかはわからない。

 僕は基本的にチョコは残さないで食べるタイプだ。

 そして、最後のひと粒とかになると、山の遭難話を思い出してしまう。。

 いつか、僕がチョコを味わって食べているところをもし目撃することがあったら、

 そんな訳です。


「ガーナミルクチョコレート」'04.2/12

 ロッテ、ガーナミルクチョコレート。 

 まだじゅうぶんに手に入る、このチョコレートは赤いパッケージですぐにわかる。

 先日、久し振りに買ってみたら、その甘い味の中にいろんな思い出が重なっているのがわかった。

 まあ、他にももちろんチョコレートはいろいろあったよね。

 森永ミルクチョコレート明治ミルクチョコレート。どちらもよく食べたけれど、僕らの世代は、ロッテのガーナミルクチョコレートが、人気があったと思う。

 このみっつの中では、一番甘かったしね。

 夏なんて、よくポケットの中で溶けて変形したいたように思う。それでも変わらなかった、あの甘い味。

 ガーナチョコレートの味は僕の小学校時代を代表する味だ。

 まあ、そんな思いもあったけれど、あれから何十年もたって、またこうして味わってみると、実に深い味だったことがよくわかる。

 なんというか、カカオの味がするというか。(知ったかぶり)

 でも、僕らより前の世代だと、チョコレートといえば、やっぱりカリッとして、多少堅くなければ、チョコとは呼べないのかもしれない。

 板チョコ世代かな。

 板チョコ世代の人たちの声が聞こえてくる。

 「んっ、ガーナミルクチョコレート? あれは、甘すぎるんだよ。あんなのは、子供の味だ」

 と、ね。

 確かにそう言われてみれば、そんな気もしないことはないけれど、今こうしてもう一度、ちゃんと味わってみると。。

 うまい!!

 なんというか、カカオの味がするというか。(知ったかぶり)

 ロッテは、やっぱり僕らの心をとらえただけあるなと思った。

 今も、ガーナミルクチョコレートは、若いもん。


「店内飾り」'04.2/9

 先日、インド料理店に入った。

 50人くらい入れる店内だろうか。やっているのは、もちろんインド人だ。

 店内飾りも、もちろん彼らがやっているのだろう。

 いままであまり気にしていなかったが、ポスターを貼る間隔や、メニューの書き方、他、いろいろインドを感じられるものだった。

 感覚なんだろうな。

 日本人だったら、こんなふうにはしないだろうなぁという、物の並べ方がある。

 (そのもの自身ではなくて)

 そのインドの店は実に普通の店のようだけれど、

 入っていると、僕がインドにいた頃の気持ちがよみがえってくる。

 うまくは説明できないが。

 感覚が雰囲気を作っているようだと思った。


「そろそろ花粉」'04.2/5

 町ではまたマスクの人が多くなってきた。

 ニュースでは、もう花粉が飛んでいるというので、もしかしたら花粉症のはじまりのかもしれない。

 花粉の季節。また今年もやってくるのだろうか。まだまったく自覚がない。

 3月から7月くらいまで続く、花粉の季節。

 毎年あれだけ苦しい思いをしていながら、今年もホントに花粉に苦しめられるとは思っていないのだ。

 ただ忘れやすくなったということなのだろうか。

 ちがう。何かのラッキーを自分が期待しているのだ。

 もしかしたら、花粉症が治っているのでははないか。

 もしかしたら、今年は花粉が少なくて楽なのではないか。

 「今年はどうしたんだろうねえ。なんか大丈夫みたい」

 「ああ、俺も・・、アハハ」

 そんな会話があるような気がしているのだ。

 毎年、そう思っているのだが・・。

 今年こそと思っているのだが、、。

 そう信じている。

 そうにちがいない。

 そうだ。


「お客さん」'04.2/1

 僕の部屋に来るお客さん。

 その友達は、ギターが弾ける人も多い。

 今もまた、友達が来てて、そして愛用のギブソンB-25を弾いてゆく。

 ・・・

 僕にとってもお客さんではあるけれど、ギターにとってもお客さんであるようだ。

 僕の持ってるギブソンB-25は、いい音で鳴るギターで、弾く人ごとに、みんなその音に驚いてゆく。

 ギターもまた、いろんな人に弾かれて嬉しいだろう。

 僕の部屋もまた、ギブソンB-25 のような響きがあればいいなと思う。

 ギブソンギターの中の僕の部屋。

 そんな部屋になりたいものだ。


「修正液」'04.1/28

 今いろいろと、レポート用紙に書き物をしているが、けっこう修正液を使う。

 最近では、修正テープの方が使い安い。

 しかし、よく考えてみれば、こんなふうに修正液を使うようになったのは、ここ20年くらいの話だ。

 その前だって、たくさんノートを書いてきたけれど、今のように間違えたりはしなかったように思う。

 今、文を書くのにもまちがいだらけ、修正液がなかったら、どうしようかと思うほどだ。

 こんなはずではなかった。

 昔の人なんて、墨で、掛け軸にそのまま文字をたくさん書いたりしている。まちがえられないのに。。

 最近は年のせいか、ひとつの文を書くのに、何度も修正液が登場してしまう。

 ・・・年のせいか。。

 本当は逆でなければいけないのに。

 文字文化が、何か変になっているのかもしれない。

 ・・・・

 それにしても「修正液」って言う言葉は長い。もっと短くてシンプルな名称が出来てもいいのに。

 それについては、修正がきかないようだ。


「回り車回想」'04.1/25

 カラカラと回る、小さな歯車のような回り車。。

 たとえば、アニメ「トムとジェリー」。

 彼らは前にある、回り車をかたっぱしから回してみる、その動作。

 たとえば、それは小さな糸車。

 たとえば、逆さになっている自転車の車輪の軽やかなカラカラと回る音。そのまま永遠に回ってしまうのではないかと思えるその回り具合。

 たとえば、どこかの機械工場で回っている、鉄の重たい回り車。それは小さな力でも、ずっと回り続けることもある。

 そんな大きな回り車もある。

 その回り具合が、どのくらい続くかは、手で回して見なくてはわからない。

 このまま、ずっと回り続けるのではないかと思える回り車もある。

 力の入れようにも、関係があるだろう。そして遠心力。

 シュッ。。

 3分で止まる車。5分で止まる車。10分で止まる車。30分で止まる車。5時間で止まる車。。

 三日で止まる車。ひと月回る車。一年回る車。三年回る車。10年回る車。50年回る車。。

 そして、止まらない車。回っているように見える車。回ることで止まっている車。。

 ・・見ていると回り始める車。はなれると止まる車。も、あるだろう。

 パソコンのハードディスク。

 人のハートディスク。

 (これは余談だ)

 僕は、日々いろんな回り車を回してみる。まるで「トムとジェリー」のように。

 そして偶然にも、ずっと回り続ける回り車がある。

 力の入れ具合と、何かが呼応して、その回り車は回り続ける。

 カランカランカランカランカランカランカランカラン、、。

 電池も何もなく、一日たってもまだ回っている、そんな回り車がある。

 僕は日々、そんな回り車を探している。


「夢」'04.1/21

 先日、ちゃんとした夢を見た。

 悲しい気分で、早めに横になってしまっていたときのことだ。

 眠る前に、あれこれといろんな事を思い出したのだけれど、夢で、そのほとんどの事を見た。

 会いたかった犬、会いたい人・・、

 そのすべてがリアルだったこと。

 僕は夢の中にいながら、あまりにリアルで、これは「夢」なんだなと自覚した。

 それに、願いごとがこんなふうに叶うなんて、ありえないし。。

 ・・・

 僕は30年ほど前に実家で飼っていた犬のことを思い出して、横になった。

 (今ごろ、どうしているんだろう?)

 今ごろといっても、もう亡くなって30年もたっているが。。

 夢の中で、実家にいる僕。犬のことを思い出して、小屋のあった裏へと行ってみる。そして扉をあけてみると、鎖があり、いないはずのワンちゃんがいる。それも、ちがう黒白の犬だ。しかし、その犬が同じ犬だとすぐにわかった。

 お互いに懐かしき再会。どんな会いたかったことか。。すぐ横には、なぜかギリシャ風の人物の彫刻が、縦につながっている。

 (あんなのあったっけ・・)

 そんなことを思っていると、ちょっと大きめな猫が、並んでじゃれ合っている。よく耳を澄ますと、その猫の言葉が日本語なのだとわかる。

 (こんなこと言ってるのか・・)

 そして夢は続いてゆく。。

 ・・・

 こんな感じのリアルな夢を続けて、二日間くらいで、5つくらい見た。どれも手で触れるくらいにリアルな夢だ。会いたかった人がそこにいた。

 その夢のどれもが僕の想像に中の出来事だとは知っているけれど、あまりにリアルだった。人間の想像能力は素晴らしいと実感した。

 それとも。


「10日間」'04.1/18

 ずっと思っていたことがある。

 ・・・

 今年に入ってから、いろいろと忙しくて、約10日間ほど、ギターをちゃんと弾けなかった。こんな事は久し振り。

 まるで久し振りのように、ギターを弾いてみると、その六本の弦も、ボディーの感じも、コードの響きも、いろんな触感がまるで新しいように感じてしまうのだ。ギター自身はもう30年も弾いているので、わずか10日でこんなふうになるなんて思わなかったのだ。

 ギターだけではない。仕事も一週間も休んでしまうといろんな事が思い出せなくなってしまう。仕事だけではない。。このパソコンだってそうかもしれない。

 パソコンダケジャナイ・・

 ・・・

 唄作りも、自分では、いつでもできるような気持ちでいるけれど、やっぱり10日間休んでしまうと、ギターと同じ状態になってしまうだろう。

 (・・自分では、できるつもりでいてもね)

 『10日間』これは僕にとって大事なキーワードであることは、まちがいない。


「続け文字文化」'04.1/14

 昔の人って、いったいどのくらい昔のことなんだろう。

 今は2004年。僕の世代からすれば、親の世代は(今70才代)、書く文字が続け文字であまりよく読めなかった。

 大人の文字だ。

 僕らといえぱ、ふつうにペン文字として習って、しっかりと書くということが良しとされた。

 僕らの世代では、昔ふうの「続け文字」で書ける人はかなり少ないだろう。

 日頃から見てなかったせいもある。

 学校の先生が、黒板に普通の文字を書いていたせいもあるだろう。

 今は2004年。続け文字が書ける世代の最後は今50代だろう。

 あと、20年から30年もしたら、日本人の誰もが「続け文字」が書けなくなってしまうかもしれない。

 総理大臣も、僕ら同じ普通の文字かもしれない。きっとそうだ。そうにちがいない。

 それは確実にあと、30年後にはやってくるだろう。

 そして「続け文字」を書く人はみな「昔の人」になってしまうのだろう。

 ・・・

 その昔はもっと「続け文字」だった。

 そのまた昔は、もっともっと「続け文字」だった。

 その文が、もう終わってしまう。誰も書けなくなってしまう。


「390円弁当の話」'04.1/9

 バイト先の近くに390円弁当というのがある。

 とても小さな店で、それも午前11:30から午後1:30くらいまでしか開いていないのだ。

 なかなか寄る機会がなかったが、今日は財布と相談した結果、一度買ってみることにした。

 「いらっしゃいませ」

 三畳もないほどのスペースに、けっこう弁当が平積みされている。

 (・・あれ、みんな500円だ)

 しかし、500円の弁当の方は具が豊かだ。酢豚とかもある。シャケも一切れついている。

 (そうか、そういうことだったのか・・)

 そして、奥の方に390円のお弁当がふたつみっつ置いてある。カツとじ弁当だ。

 僕は財布と相談してきたので、やっぱり390円でないと困る。

 泣く泣く、美味しそうな500円弁当を横目で見ながら、カツとじ弁当をレジに持ってゆくと、こう言われた。

 「はい、300円です」

 (あれ、390円じゃないのか。。もしかしたら、サービス品になったのかな。。)

 そう思いながらに外に出ると「ズバリ390円!!」の文字の隣に、

 「表示価格500円の品」と書かれてある。

 ガーン!!

 失敗した。そんなことならあの500円の弁当をもちろん食べてるよ。

 言ってくれなきゃわかんないよ。

 僕はちょっとくやしい思いをしながら、カツとじ弁当を食べた。

 しばらくしてから、いろんな解釈が僕の頭の中にやって来た。

 きっとあの弁当を会社に持って帰る人も多いだろう。そのとき、表示に「390円」と書かれていては、せつないだろう。

 500円と表示されてあれば、堂々していれるだろう。そんなところまで考えているのかもしれない。


「いつかのその日、飾りギター」'04.1/6

 バイト先の近くのCD屋さんに、古い新品のギターが一本かかっている。

 そのギターは、YAMAHAで、とても珍しいタイプのギターだ。そのギターが売り出されていたのは、1978年頃なので、25年くらいはたっているはずだ。

 僕がバイト先に通ってからもう15年になる。すぐそのギターを見つけた。僕の好みのギターだったけれど、お気に入りのギターを持っているので、買うわけにはいかない。

 7万もするるしね。。

 しかし、あれから15年たって、そのギターはとても価値がある。探そうにももう見つからないギターなのだ。音もいいことにはなちがいない。

 そのCD屋さんのギターの置いてあるスペースには、他にもサックスやピアニカも置いてある。まあ楽器コーナーということなのだろう。

 小さなCD屋さんなので、飾られてあるギターは「店の華」になっていることは事実だ。

 ・・きっと25年そこにかけられてあるのだろう。

 僕の部屋にはギターが10本以上はあり、これ以上買うことはまずないとは思っている。

 みんななにげなく、そのギターを通り過ぎているけれど、そのギターは価値がある。お店の人も知らないかもしれない。

 あ〜あ、結局は飾りギターのままなのかな。。

 そして今朝、僕は夢を見た。楽器を訪れ、一本のギターを店員さんに弾かせてもらうのだ。いい音だ。ほんとにいい音だ。

 そのギターは、昨日眺めてたギターととてもよく似ていた。

 今日もまた僕は、そのCD屋さんの前を通って、飾られているギターを見るだろう。

 きっと昨日と1センチも動いていないままだけれど、、。


「シンプルな生活'04」'04.1/3

 年末に大きな文具屋さんに入ったときの事、僕はある一冊のノートの前で、動けなくなってしまった。

 「モールスキンノート」だ。

 ノートの紹介文の「ゴッホ・マティス・ヘミングウエイにも愛された・・」という言葉に心が反応したのだ。

 特にマティスは、僕の憧れの画家でもあるので、このノートを愛したときけば、その姿が目に浮かぶようだった。

 このノートは高い。2400円もする。しかし、ゴム紐でとめられるところ、中に紙製ながらポケットもついていて、実用性はとても高い。

 それも200年も歴史のあるノートだという。

 リーバイスジーンズのはき心地がいいように、このノートもまた、一度使ったら、はまってしまうかもしれない。

 僕の生活の中で、大事な一部分を持っているノート。

 いつもは100円・200円のノートを使っているけれど、2400円もするノートだとまた違う気持ちになれるだろうか。

 なれるような気もする。

 僕はいつもシンプルな生活に憧れている。テーブルに一冊だけのノートを置いてあるなんて、理想に近い。

 いつも弾くギターは、出来るだけいい音な方がいい。これはまちがいない事実だ。

 一本のペンもまたそうだと思う。そして一冊のノートもそうだろうか。

 今年僕は、「モールスキンノート」を買ってみようと思う。

 今度会うときは、僕のカバンの中にそのノートがあるだろう。いい感じじゃないか。


「大晦日」'03.12/31

 どうしてこう、大晦日の実感がないのだろう。

 たぶん、大晦日の実感があった頃と比べているのだろう。

 記憶。。いろんなことがわかるようになる年齢といえば、小学校にあがるくらいだろう。

 日々変わらない生活の中で、大晦日になると、世の中が違ってくる。それはテレビ番組の変化だったかもしれない。

 そして、小学校時代といえば、やっぱりお年玉への期待だろう。もらう前からあれこれ買いたいものを決めてあったりして、明日が待ちどうしいかったのかもしれない。

 高校を卒業するくらいまでは、確かにお年玉ももらい、大晦日の実感はあった。

 東京に出て来てからは、毎年年末には実家に帰っていたので、大晦日は実家でのコタツとテレビとみかんの組み合わせが、実感としてあった。

 そして、除夜の鐘と同時くらいに、近くの海へと散歩に行き、新年の誓いをたてていた。

 そうやって10年くらいは、まだ大晦日らしかった。しかし、この十年は、実家に帰るということもなく、テレビを見るわけでもなく、雪があるわけでもなく、海に行くわけでもなく、今日になってしまう。

 明日、お年玉があるわけでもないし。。

 しかし、マラソンにも折り返し地点というものがあるように、人生にも折り返しの年というものもあるかもしれない。

 来年からは、ひとつひとつ年を戻ってゆき、やがては、最初に年越しを実感したような感じに戻れるかもしれない。

 人生は不思議だもの。


「平和」'03.12/28

 猫を飼っている友達の家での夕食。

 猫は僕の横に来て、目の前の食べ物を見続けている。僕の顔を見るわけではない。

 「青木さん、手に乗せてちょっとあげてごらんよ」と、友達は言う。

 鳥のささみを、ちょっと乗せると、猫はペロッと食べる。

 以前、僕も年寄り猫を飼っていたけれど、そのときは、横になってばかりでこんな感じではなかった。

 どちらかというと、実家で小さい頃に飼っていた犬と同じ気持ちがよみがえった。

 小さな舌でペロペロと食べる猫、、。まあ、それは普通のことなのだけれど、僕はなんとも言えない幸せ感を感じてしまった。

 自分が主人であるという優越感であろうか・・。

 「いやぁ、今、猫にとって俺は、全世界よりも大きな存在なんだろうなぁ。俺、へんな幸せ。」

 と、友達にそのことを話すと、友達は言う。

 「青木さん、それは逆だよ。猫は、もらえるのが当たり前だと思っているんだよ。世界で一番偉いのは自分だよ」

 なるほど・・。それは一理も二理もある。

 僕が思っている世界と猫が思っている世界が逆転しているのだ。

 僕と猫の間に交わされる世界の逆転。

 面積1メートル以内に起こっている、小さな宇宙法則。

 グリニッジ時間ではなく、僕と猫の関係時間。

 ここには平和がある。それは、僕の体の内側だけで起こっている話かもしれないが。。


「四畳半」'03.12/24

 友達が、ここ高円寺の不動産さん屋の前で立ち止まった。

 「やっぱり高いねー」

 一緒に、店先の張り紙を眺めてみると、一番下の方に、四畳半の張り紙があった。

 『高円寺、徒歩15分。四畳半。共同トイレ。29000円』

 これは、僕が東京に出てきて初めて借りた部屋の部屋と同じ条件だ。

 (まあ、僕は目白から歩いて15分だったけれど)

 それは20年前だ。

 共同トイレの四畳半。15000円時代。

 2年後に更新では、すぐに18000円になった。

 10年後には、22000円くらいになっていた。

 10年前、高円寺に引っ越して来たとき、同じ条件の張り紙を見たら、25000円だった。

 あれから、10年で、今29000円。

 高円寺に最初に部屋を借りようと思っている人が、最初に見る家賃が29000円。

 ここから始まりだ。

 ・・20年で二倍かぁ。

 それは、もう戻ることのできないものなのか。

 東京に出てきたぱかりの部屋の値段は、どうしても15000円であって欲しい。

 なぜそう思うかは自分でもわからない。

 それは自分の絵本のページの1ページ目にそう書かれているからだろう。


「東京区分地図」'03.12/21

 住所しかわからない場所に出かけるとき、僕の場合、必要なのが東京区分地図だ。

 しかし、いざ出かけるときになると、すっと見つからない。

 「あった」と、思って見てみると、それは東京に来たばかりの頃に買った東京区分地図なことが多い。

 (まっ、いっか・・)

 カバンの中に投げ込むようにして、駅へと向かい電車に乗る。

 もうあまり時間がないので、電車のシートに座りながら地図を出して住所の確認・・。

 ( うわっ、ふるっ、、)

 本棚にしまっていたころは気が付かなかったけれど、こうして外に出してみると印刷の色もあせて、いかにも古そうだ。

 思い出してみると、こうやって何度もこの地図を持って出かけたことがある。

 それは東京に来てからはるばると20年間も続いている。

 もちろん、もっと新しい地図も買ってあるけれど、捨てずにとっておいてあるので、こうして持ち出してしまうのだ。

 東京に来た頃に買った地図を見て、僕はどこにゆくの?

 この電車はいつを走っているの?

 人はそんなには進化しないのかもしれない。

 東京に来てからいろんなことがあったはずだけれど、それは地図の中の移動だったのかもしれない。

 誰もが最初に買うだろうと思える東京区分地図。

 いつだって、その先はわからない。そんな気持ちがあるかぎり、地図は新しいままだ。

 1980年版、東京区分地図。僕そのもののようだ。( 不都合もありますが・・)


「最高な気分」'03.12/18

 これは何度も書いてることでもあるのだけれど、バイトが終わったあとの帰り道で聞くCDは、なんとも耳にしみる。

 耳にイヤホンを付けて、歩行用携帯CD再生マシン(俗に言うCDウォークマン)のスイッチを入れると、驚くことがよくある。

 今日一日、バイトの間じゅう口ずさんでいた歌から始まるのだ。

 それは本当に感動的で、そのサウンドはビーンとハートに響く。

 ・・・・

 考えれば、これにはそれなりの理由があるのがわかる。

 朝、バイト先のドアを開けるとき、CD再生マシンで最後に聞いていた歌を、一日口ずさんでいる確率はかなり高いのだ。

 口ずさむ歌って可笑しなもので、ほんのひとつかふたつのフレーズを一日よく繰り返していることがほとんどだ。

 そして、帰りは、その歌から再生が始まるという理由だ。

 ・・物事はうまく出来てるね。

 ソニーのCDウォークマンは、再生を止めた曲からまた始まる。(他もそうかな)。

 普通のデッキ型CDプレーヤーは、一曲目に戻ってしまう。これでは、この現象は起こらないだろう。

 一日、口ずさんでいた歌が、バーンと耳に流れるときの気分はなんとも最高だ。そんな最高な気分。

 小さなことですが、、。


「深夜映画・脳勉強」'03.12/12

 僕はよく、テレビを付けたままで眠ってしまうことがある。

 先日のこと、夜中起きてみると、字幕の深夜映画をやっていた。

 深夜映画も最近は珍しくなったように思う。それも、ほとんどが字幕スーパーのままだ。

 僕はたまたま見てしまう深夜映画のファンだ。

 それは、今回の話とはテーマがずれてしまうけれど。。

 今回やっていたのは、画家「ピカソ」の映画だった。

 バッと布団から起きて、深夜映画を見て、僕はそれが「ピカソ」の映画だと、15秒くらいでわかった。

 きっと、眠りながら、映画の英語の会話を聞いていたのだろう。

 ・・もしかしたら、脳の方では実は、英語をわかっているのかもしれない。。

 脳の持っている能力は、果てがないと僕は思っているので、きっと脳の方では、英語を訳す能力を自分で修得してるのでないか。

 起きているときは意識で邪魔されているけれど、眠っているときは、脳の天下だ。

 きっと「ピカソ」の映画の内容を聞いていたにちがいない。

 (映画、面白いから、起きてみなよ、タカオ君、、)

 そんなふうに脳が僕に言ったように思えたのだ。

 ・・・

 僕はこの話を友人に、さも得意そうに言った。すると、、

 「そんなこたぁ、ねえよ、青木さん!!」と、軽く言われてしまった。。あはは、、。


「CD・MDラジカセ絶望時代」'03.12/12

 僕は秋葉原に行った際は、かならず、CD・MDラジカセチェックをする。

 思えば、ラジカセと呼ばれた時代からもう、30年以上はたってしまった。

 それはそれは長いラジカセの歴史もある。

 僕はソニー「ジルバップ」派だったけれど、友達は サンヨー「U4」派だった。

 まあ、そんなマニアックな話はいいとして、最近の小型一体型オーディオは、小さくなりすぎている。

 全メーカーそろいもそろって、小型化してしまっている。

 それが流行だとしても、なぜそればかりなのか。

 もうちょっと大きくてもいいじゃないか。音はその方がぜったいにいいのに。

 僕はラジカセが普通に大きくなった頃が好きだった。いろいろとメカが付いて、見た目も豪華だった。

 システム型のオーディオは充実しているのに、その途中の大きさの一体型オーディオがまったくない。

 なにが、豊かな国、ニッポンだ!!

 そこまで大きな話でもないが、なぜ一機種も出てないのか。これはいじめか。

 ・・出してごらん、売れるから。

 しかし、今の僕の年代のみんなは、一体型オーディオは使ってないかもしれない。

 CD・MDラジカセを使う主流のみんなには、小型の方が使いやすいのかもしれない。

 「でかいよ、これ」

 そんな会話が出るかもしれない。

 CD・MDラジカセよ、大きくなーれ、大きくなーれ、大きくなーれ、、

 来年の正月、神社でお願いしてみようかな。


「リズム」'03.12/8

 やぱい、今、完全に民族音楽にはまってしまった。

 このところ、たてつづけに、インドミュージックのレコードのCD-R化をしていたら、リズムにやられてしまった。

 もし、僕がインドにいたとしたら、きっと自然にインドのリズムを受け入れているだろう。たしかにそこには自然な流れがあるのだろう。

 そしてどうやら、僕の体のリズムとも合っているようにも思うのだ。特にタブラは素晴らしく豊かな音を出している。

 今、僕の中のリズム組織が、インド化しつつあるようだ。

 これには、複線がある。インドミュージックにはまる前、ずっとアフリカ・ザンビアの音楽を聴いていたのだけれど、これがまた複雑なリズムで、普段と違う感覚にならないと、ノリがつかめないのだ。

 どんどん自分の中のリズムを解放していったけれど、相変わらず、ザンビアのリズムは難しくてうまくつかめない。

 しかし、それにしても魅力的にリズムで、一瞬だったけれど、僕はそれが素晴らしいと思ってしまったのだ。

 その後で、聞いたインドのリズムは、ザンビアよりもわかりやすく、すっかりノリがこちらにも伝わって来た。

 いままでずっと難しいと思って来たインドのリズムがとてもシンプルに聞こえて来たのだ。。

 ・・大事件だ。

 バイトの帰り道、インドミュージック耳に聞きながら、なんてオシャレなリズムなんだろうと思ってしまった。

 ・・オシャレ?

 これは完全に僕が、民族音楽にはまっている証拠だ。

 それを、抜きにしても、インドのパーカッションは実に素晴らしい。 

 まるでね。リモコンのように、僕の体が動いてしまう。。くやしいけれど。


「おまけ」'03.12/5

 今、目の前に、アルプスの少女ハイジで出てくる犬の「ヨーゼフ」のフィギィアが、二匹も並んでいる。

 二匹も・・。

 最近は、ペットボトル型のドリンクを買うと、おまけでフィギィアが付いてくることが多い。

 あれ、どう処理したらいいんだろう。

 僕はなかなか、小さなオモチャでも、人格があると捨てられないタイプだ。それがもし自分だったらとか思ってしまうのだ。

 ひとつめならなんとなく置いたり飾ったりできるが、ふたつめとなると、これが困る。

 それも、ふたつ並べたりすると実に困る。

 どちらか選ぶことなんてできないからだ。

 「では、ジュースをかわなきゃいいじゃないか?」・・そうもいかない。

 とにかく、今、目の前に犬のヨーゼフが二匹、並んでいるのだ。

 犬の方も、もう一匹がやって来てびっくりしているだろう。

 すべてが迷惑だ。

  コンビニの店頭に、フィギィア回収ボックスを作って欲しい。




「金のスプーン」'03.12/1

 実は見つからない宝物をひとつもっている。

 それは、オリエンタルカレーの「金のスプーン」だ。

 懸賞に応募して当たったものだが、大事にしようと思ったあまり、どこかにしまったまま、忘れてしまったのだ。

 金のスプーンが送られてきたときは、あまりにきれいだったので、ずっと使うものかと思ってしまった。

 しかし、やっぱりスプーンは使ってこそ、価値があるもので、心改めて金のスプーンを使おうと思ったのに、

 見つからない。

 どんなに探してもみつからない。

 よほど見つからない場所に、僕自身がしまってしまったのだ。

 もう、探し続けて半年がたってしまった。

 次の引越しあたりで、それは見つかるだろう。

 しかし、金のスプーンはきっとメッキなので、はげてくるかもしれない。

 やっぱり、金のスプーンは、かざっておくべものなのか。

 金のスプーンは、そんな不安を残しながら、見つからないままだ。

 いかにも「金のスプーン」らしい。

「最近の事・過去ログ '03年8〜11月まで」

「ちょっくら・おん・まい・でいず」の本編に戻る

TOP   Jungle