青木タカオ「ちょっくら・おん・まい・でいず」

「最近の事」過去ログ'03.5〜7月

 「夏のしるし」7/28

 平成15年の7月28日、東京都杉並区高円寺北の僕のアパートのまわりでは、まだ蝉が鳴いていない。

 ・・こんなもんだったっけ?

  先日、南口の公園で一匹鳴いているのを聴いた。まだその一匹だけだ。

 僕の記憶があいまいで、蝉がいつから鳴くのか、はっきりしたことが思い出せない、、。

 今年の7月はすごく寒かったので、蝉の方もとまどっているのか? そして東京では、蝉くらいしか夏のしるしがないような気がしてきた。

 ひとつの疑問。蝉が地面から出てくるのは、だいたい日が決まっていないのか? 暑くなったら出てくるのか? そんなことすら、まだ僕は知らなかった。

 話がどうどう巡りしているけれど、静かな7月だと言うことだ。そしてこのまま蝉が鳴かないのではないかいう不安がある。その秘密を解くには、7年前の夏に戻らないとだめかもしれないけれど。。

 自分が20年以上、東京の夏を経験しているのに、いつから蝉が鳴いているか、記憶がない。これはやばい・・。夏のしるし。平成15年。東京の都心では、トンボも飛んでこない。カナブンもいない。時々アゲハ蝶は来る。スイカも来た。蝉は、まだ不明だ。

 東京は昨日から夏らしく暑い。いつかの日の蝉の鳴かなくなった夏を感じている。


「夢の中」7/25

 いままでそんなふうに考えたことは、一度もなかった。とてもシンプルなことだ。

 もう前のことだけれど、公衆電話で受話器がふたついているものがあった。相手と、三人で同じ電話で話せるというものだ。あの公衆電話はもうなくなったのだろうか?

 よく考えてみれば、夢はみんなひとりが見ていて、同じ夢の中にふたりで入ることは絶対に無理だ。同じように冒険する夢を見たりはできないのだ。

 (眠りながら話したりしていれば、可能性はあるけれど・・)

 基本的には、ひとつの夢はふたりでみることは出来ない。それは本当だろう。同じような夢を見たということはあるだろうけれど。

 しかし、よく人は「夢の中で誰かと会話をした」とか言う。「夢にやって来たよ」とか言う。

 それはありえるようできっとありえないような。。ありえて欲しい気持ちは大きいけれど。。

 そして考えてみれば、起きている今の現実は、常に同じ場面の中で、同じようにいて、会話することが出来るのだ。

 ・・いままでそんなふうに考えたことは、一度もなかった。

 現実って夢のように素晴らしいな。こんな話につきあってくれてありがとう。


「歌詞ノート考」7/21

 フォーク世代の人なら誰しも、歌詞ノートを持っていると思う。

 顔を洗うとき、みんな両手を使ってしまうように、歌うとき、歌詞ノートを見てしまうという行為は変わらない。譜面台も使い方は変わらない。

 (歌詞を見るという方法は、実はいろんなやり方があるのかもしれないけれど。。)

 靴を足ではくように、歌詞ノートと自分との関係はだいたい一緒だ。だいたい一緒だけれど、少しずつ違いがある。

 ファイルにしてある人。鉛筆で書いてある人。譜面付の人。ただ歌詞だけが書いてある人・・。

 実にさまざまだけれど、よく見ると、それぞれの人の個性が良く出ているから不思議だ。

 しかし、今日の話のテーマはそこではない。僕が不思議に思うのは、食事をするとき、ほとんどのみんなが箸とかスプーンとかフォークをつかうということだ。

 どんなダイナミックな歌を歌う人も、譜面台と歌詞ノートの関係はなかなか破られていない。また、出来た歌を歌詞ノートに書いておくという関係も守られている。

 『お金なら銀行』という関係にも似ている。

 『お金なら財布』とも似てるかな。

 歌を作り始めた頃、みんな歌詞ノートを作ったはずだ。それは誰に教えてもらったというわけではないけれど、そうしてしまったのだ。それが一番、まとめやすいということでもあったのだろう。

 ・・もしかしたら、それは、フォーク全盛の頃に作られたなごりではないのか?

 演歌歌手の人たちが、僕には歌詞ノートを持ち歩いているようには思えない。インド映画では、歌って歌を伝えていたシーンを見た。

 ひとつの「ざる」がある。その「ざる」に、歌とメロディーを上からこしてみると、歌詞ノートは、下には通り抜けては来ないだろう。

 歌詞ノートは、実はあってないようなもののような気がする。気がするけれど、それはすでにひとつの文化になってしまった。


 「幻聴の日々」7/16

 最近、幻聴に困っている。

 ドアを叩くと、少し遠くで「ハーイ」と声がする。声がするけれど、いっこうに出てこない。

 (また、幻聴か?) 

 そう思っているとき、ドアが開く。

 実にこういうことが多いのだ。多くて困っている。

 頭の中では、いくらでも声が聞こえる。その音量と、実際の音が似てくるとき、もうごっちゃごっちゃだ。

 電車の中が特にひどい。ある女子高生の会話。

 「ねえ〜、ミチコ〜、じつはさー、きのうの試験・・」

 そう聞こえているとき、うとうととしてしまうと、その会話がそのまま変化する。

 「地下の人じゃない? いねむりなんかしてさー、あきれちゃうよねー・・」

 それだけではない、会社帰りのサラリーマンの二人の会話も聞こえてくる。

 「あいつ、あの服買えないからってよー、何文句言ってんの? 自分で似合ってると思ってるんだよねー・・」

 僕はうとうととしながら、それらの会話を聴いている。そして心が言う。

  (幻聴だ・・。これは幻聴だからね。不思議だねえー、こんなにリアルに話せるもんだねー)

 そんなふうに僕の心は僕に向かって喋る。だから、僕はこれらの会話をリアルに受け止めることなく、またうとうととできる。

 パッと目がさめると、会話は普通に戻っている。またうとうととすると、悪魔のささやきに変化する。

 「生ギターなんてさあ、もう古いよー、ほんと、ほんと・・」

 僕は困っている。あまりにリアルすぎて困っている。僕の心よ、いつまでも忠告を忘れないで欲しい。

 そのうち、独り電話で喋ってしまいそうだ。

 僕の心よ、よろしく!!


「ことばの旅」7/11

 僕は響きのいい言葉が好きだ。普段から気に入った言葉が耳に入るとすぐに反応して、繰り返したり、メモにとったりしている。

 語呂のいい言葉っていいじゃないか。

 日本語は基本的に、漢字の意味でつながっているけれど、ときには偶然にも響きのいい言葉を見つけることがある。

  ・・『三差路』とかね。

 もともと漢字の意味でつながっている日本語は、だんだんと読みやすくなっていったり、語呂が良くなっていたりして、感情もそれに付け加えられてゆくことがあるのだろう

 そんな変化を一番感じるのは、やっぱり地方の言葉だ。先日も博多の喫茶店で、ばりばりの博多弁を聴いた。実になめらかで素晴らしかった。

 同じのひとつの言葉のつながりがこんなにも、生き物のように変化できるのかと思う。歌を作るとき、良い言葉が見つからなくて苦しむことがある。語呂がよくて感情が定着している言葉はないものかと。。

 地方の言葉は、聴いていると泣きたいくらいに素晴らしい。その響きの中には、どこにもないここが見つかって嬉しい。

 今日の午後から富山に出かけるけれど、それは僕にとって言葉の旅でもある。楽しみだ。


「いなくなったみどり亀」7/8

 旅から帰って来た夜、みどり亀が一匹、いなくなってしまった。

 水槽で、約6センチほどのみどり亀を二匹飼っているのだけれど、水槽の外に出るには、一匹の上に乗って外に出なくてはいけない。それも、下の一匹が、協力して、立ったり横になったりしないとぜったい外には出られないのだ。

 ・・協力したんだね。

 さて、いなくなったみどり亀。まあ、部屋のどこかにいるわけなのだから、カサッと音がすれば、見つかるだろうと軽く考えていた。しかし、数日たっても、カサリと音もしないのだ。

 (押入の奥でも行ったかな?)。僕はもう一匹のみどり亀を実際に放してみて、どこにゆくかをやってみたり・・・。

 予想としたら、どこかの角にいるんだろうと堅く信じていた。

 休みの日、僕は掃除機を出して、部屋の角という角を全部チェックしたのだけれど、やっぱりどこにもいない。もしかしたら、玄関から出ていったのか。なんだか長期戦の予感がしてきた。

 長期戦。それもきつい。みどり亀も何に食べられないわけだから、つらいものがあるだろう。でも亀は強いから、なんとか頑張るだろう。

 部屋の隅ばかり探していた僕だったが、なんとなくピンと来た場所があった。それは、一年中出している奥の部屋のこたつの中だ。猫も犬も、部屋で見つからないときは、90パーセントの確率で、こたつの中にいるだろう。

 (いるかな?)

 こたつ布団をめくってみると、、、いた!!

 それも、真ん中に。

 僕が思うところ、みどり亀は体力の消耗をさけるために、冬眠モードに入ったのだろう。なるほど、こたつの中では、カサッと音さえしないはずだ。

 冬眠モードと、こたつの中。みどり亀はやっぱり直感の生き物だ。


「なんとなく」7/5

 その友達は僕が「なんとなく」って言うと怒る。

 「なんとなくって何なんだよ!!」と言う。

 「こっちのような気がする」とか言うと怒る。

 「気がするって何なんだよ!!」と言う。

 そりゃ、僕自身あいまいなんだから、伝わるわけがない。

 その人が怒っているのは、「なんとなく」という、そのすべてのことに関してだ。

 その道から始まって、赤道を越え、地球の果てまで、「なんとなく」は否定されている。

 ・・きびしいのう。

 しかし、考えてみれば、この地球上に「なんとなく」という存在はないのかもしれない。

 フォークシンガーのウディ・ガスリーは、「すべてのものには理由がある」と言った。

 その人の言ってることも、だから、なんとなくわかる。

 僕のトランプカードの中には、52枚の他に「なんとなく」というカードがある。

 「そんなカードないよ!!」

 ・・たしかに。

 手の平に持っているカードはちゃんとしている。

 だけど、僕自身が、あいまいなカードなのだ。


 「絵を買う」7/2

 初めて絵を買った。

 そのなめらかな線を眺めていたら、その続きのように、口が「これください」と、言ってしまった。

 ・・悩みもしなかった。

 衝動買い?

 いやいや、いつもの感じだったのだ。

 いつもの感じって?

 時間の逆作用って感じ。

 普通は、今から未来へと、時間のベクトルが動いているけれど、絵の中から、その逆の時間のベクトルの流れがあったのだ。

 未来から今へのベクトル。それを感じたなら、もう悩むことはひとつもない。

 その絵の中に僕が見えるのだ。

 しかし、とても高い絵にそれを感じたらどうしよう。それは困る。悩んじゃう。


  「カレーライフ」6/27

 ふと、気がつけば、ここしばらくカレーを食べるのを忘れていた。

 今朝は、さすがに禁断症状が出ている。ものすごく辛いカレーを食べたい気持ちだ。体も心もカレーを求めているのがよくわかる。必ず今日、カレーを食べてしまうだろう。

 これって、カレー依存症?

 さすがに、何十年もカレーを食べ続けていると、習慣性が出てくることはあるだろう。と言うか、今はカレーが僕自身と言ってもいいのかもしれない。

 僕自身を食べる。

 それはカレーの味?

 カレーを食べるとき、単に好きだからという気持ちの他に、またカレーを食べている自分を確認しているようだ。

 (またここに来たね。まあ、いろいろあるけれど、ホラ、そんなに変わってないじゃん。)

 そんなふうに、こころが話しているのが聞こえてくるようだ。

 普通のときは、普通に辛いカレー。厳しいときは、うんと辛いカレー。

 ああ、カレーライフ。


「遠い町」6/21

 友達が東京に久し振りに遊びに来て、忙しく数日を過ごしていった。

 僕の部屋に泊まり、自由に出かけ帰っていった。

 ・・しかし、何心配することはない。やって来たのは僕自身であり、ここは君の部屋なのだ。

 と、かっこいいことを言ってみるけれど、今回は実にそう思った。

 ここ高円寺で、行きたいところ、食べてみたいものを、友達は次々と言った。

 「大陸」「タンタン」「ニューバーグ」「チビクロ」「モカ」「ローズ亭」「王将」「鬼無里」・・・

 並べて聞いていると、泣きたいほどの響きがある。もしも、僕が遠く離れた場所に住んでいたら、きっと同じ言葉を並べているだろう。

 インターネットの時代は、みんなを身近にしたっていうけれど、町とは近くなっていない。

 まあ、その話題はテーマが違うとして、、ここ高円寺に自分が住んでいると思って欲しい。

 やって来る友達は「客」ではなくて、住人ようだ。


 「シンプルな鞄」6/18

 友達が遠くの町より、東京にやって来た。

 とても身軽に荷物をまとめて。。

 旅に行くとき、僕はいつもあたふたといろんなものを、かばんに詰め込んでしまう。

 シンプルな鞄をもって、遠出したいものだなと思う。なぜ、できないんだろう?

 それ以前に、僕は鞄をシンプルに出来ないタイプなのだ。いろいろと入れておきたいものは多い。

 シンプルには憧れてはいるんだけどね。・・このギャップ。

 それはきっと「旅」に持ってるイメージの違いから来ているんだと思う。

 あれや、これや、鞄に入れて、さっと担いで、家を出る。

 (あれれー、どうしてこんなもの持ってきたんだろう)

 でも、それもまた旅の友達。友達との旅。。

 あったらあったで、それはお守りのようだ。

 「スパイの七つ道具」ってよく言うけれど、僕の「旅の七つ道具」の中には、無駄なものも入っている。

 漫画や映画の登場人物のキャラクターの一人のように、ひとつのドラマの中では、必要だ。

 ついついバックにいろんなものを入れてしまうんだよね。


 「古賀式コーヒー」6/15

 長崎から、友達の古賀くんがやって来る。

 僕の部屋に泊まることになっているが、ぜひ実行したいことがある。

 それは、インスタントコーヒーを出すことだ。

 秘伝の入れ方を、18年前、僕は古賀くんに教えてもらった。河内荘での話。

 「古賀ちん、このコーヒーおいしーよ!!」

 「青木さん、入れ方があるんですよ!!」

 「えっ!! 教えて」

 そして教えてもらった秘伝(?)の入れ方。と言うか「古賀式コーヒー」だ。

 そのインスタントコーヒーの入れ方を伝授されてから、まだ僕は、数人にしか秘密を話していない。そしてその人が実行しているかは、不明だ。

 日本全国で、「古賀式コーヒー」を入れているのは、ふたりだけかもしれない。(もしかしたら古賀君も教えてもらったのかもしれないが・・)

 しかし、ここはあえて家元と呼ばせてもらおう。

 何も言わずに、まず僕はインスタントコーヒーを出そう。真剣に。

 「・・アオキさん、マダマダだよ」「ハハーッ」

 ◇

 古賀くんの以前住んでいた「河内荘」は、実は、この道のすぐ先にある。

 もう20年以上前の話だ。たまたま僕はここにアパートを借りたわけだけれど、古賀くんにとっては懐かしいだろう。その前を通り、コンビニエンスストアーに行こう。同じ道を歩けるのは、不思議だ。

 河内荘は、この先の床屋さんの右にあった。道路に面した一階。いつもギターを弾いていた古賀君。あるとき訪ねて前を通ったら、次の古賀くんのライブのチラシが、窓に貼ってあった。

 最高の一瞬だった。


「その店」6/12

 昨日、下町に出来た一軒の大きなラーメン屋さんに寄った。

 まあ、大通り沿いにあると言っても、その店はあまりに広い。座れる数で言ったら、軽く100席以上はある。ちょっとしたファミリーレストランと同じくらいだ。

 ラーメン一杯180円。ラーメン・餃子・御飯で450円という感じの値段だ。僕が注文したのは、冷やし中華。350円かな。

 たしかに安い。安いんだけれど、お客さんは僕だけなのだ。駐車場のスペースもないようだし、お客さんは歩いてくるのだろうか。通りかかる車もあるのだろう。

 まあ、他人ごとながら、あまりに店が大きい。出来たばかりの様子なので、まだ先のことはわからないが、きっと調査をした上での判断だったのだろう。テープル席も多いので、昼は勤め人の人でにぎわうかもしれない。

 毎日のように、そこを通る僕にとっては、嬉しい限りだ。180円ラーメンなら、缶ジュースより、60円高いだけだ。昼飯代もかなり浮くだろう。

 昼飯代がかなり浮く・・?

もしかしたら、給料日前の毎月20日以降が、混み始めるかもしれない。それとも中学生・高校生でにぎわうかもしれない。おばあさんたちも来てるかもしれない。その可能性は大だ。

 いつか、この店が人でいっぱいになってる日をみるかもしれない。ほぼ毎日、前を通るので、この先を楽しみにしていよう。高円寺にも出来ないかな。


「こつぶ話」6/9

 はごろもフーズの「こつぶORANGE」を知っているだうか。

 「こつぶORANGE」には、ちょっと特別な想いがある。まあ、それはいいとして・・。

 今日、僕は飲んだ。墨田区の果て、コインランドリーの前の自動販売機で。

 そのコインランドリーには、歌謡曲と、J-POPのポスターが数多く貼られている。二ヶ月おきにそこに寄るのだけれど、いつも新しいポスターが貼ってある。いったいどこから仕入れてくるのか・・。たぶん店主さんの趣味なのだろう。

 そして、コインランドリーの前にある自動販売機には、コインランドリーの持ち主と思われる人の、好みによる缶ジュースがセレクトされてある。メーカーもばらばらだ。ポッカの顔缶もある、コカコーラもある。ベルミーのロング缶のコーヒーがある。その中のひとつに「こつぶORANGE」もあるのだ。

 なかなか自動販売機で「こつぶ・・」を見ることも最近はない。メーカーも「はごろもフーズ」だ。しかしこの「こつぶ・・」は、数多く出た「こつぶ」シリーズでも、その存在をしっかりと持ち続けた。あいまいな記憶だけれど、「こつぶ・・」のシリーズの元祖のように思っている。

 いろんな「こつぶ」シリーズがあったけれど、「はごろも」のヤツは、いかにも本物という感じがした。つまり特別に好きだったってことだ。

 ああ、どんどん話がずれていってしまう・・。

 「こつぶ・・」シリーズが、ブームになっていた頃、僕は、はごろもフーズの「こつぶORANGE」をみかけるたびに、必ず買って飲んでいたのだ。

 (さすが、本物!!)とか、思いながら・・。

 20年以上たった今も、そのくせが残っている。自分でも、いやになっちゃうよ。

 まあ、それとは別に、コインランドリー店主の缶セレクトは、さすがだと思っている。

 おかげで、二ヶ月に一度、いまだに僕は「こつぶORANGE」を飲んでいる。


「床屋話、みっつ」6/5

 仕事がら、よく床屋さんに寄ることがある。

 床屋さん・・、平日の午後といえば、一番暇な時間だ。ほとんどの床屋さんが、自宅とつながっていて、自宅の奥から出て来たりする。

 帰りがけチラッと値段表を見ると、2003年の今、成人の調髪料は3600円だ。

 それが高いなんて、言うつもりはない。銭湯だって、20数年前は185円だったのに、今は400円だ。

 アイスキャンディーだって、20円だったものが50円だ。

 僕はいつも安い床屋さんに行っている。値段は980円。だいたい(顔そりなしで・・)15分ほどで終わってしまう。一般の床屋さんには、ここ20年ほど、行っていない。

 小さい頃の記憶だと、いつも一時間ほど待って、調髪にもやっぱり一時間ほど、かかっていた。

 ・・まあ、一時間もかかるのだったら、3600円でも普通かな。いろいろ細かくやってくれるし・・

 結局、話がまとまってしまった。・・すいません・・。ただ思ったのは、そのうち5000円近くになるのかなということだ。床屋さんは悪くないよ、いろんな考え事ができるし、、、。

 ・・・・ここからは余談・・・

 床屋さん。カガミの前に座っているけれど、メガネを外した僕は、さっぱりそれが見えない。これはもったいない。

 僕がメガネをかけたのは、小学5年生のときだ。メガネをかけてから、急に視力が落ちた。そして、それまではいつも、床屋さんでは、カガミに写る自分が見えていた。だんだんと仕上がってゆく、自分の髪の毛。そのなんだか恥ずかしい気持ち・・。

 そんな気持ち、これからも味わうことが出来ない。

 ・・・・余談話・2・・・

 下町に、ある一軒のボロボロな床屋さんがある。やっているのは、80才くらいのおじいさん。中をのぞくと、ゴミはないものの、散らかり放題だ。ただ、その真ん中に、床屋の椅子がひとつあり、おじいさんは、入り口近くでお客さんを待っているのだ。

 おじいさんの着ている服には穴もあき、ボロボロだ。僕は仕事がら、そのおじいさんと話すけれど、いつも嬉しそうだ。

 年に六回、その床屋さんの前を通る。実はもう廃業しているのかなと思っていたら、先日、実際にお客さんが来ているのを見た。

 カガミに一緒に映っているおじいさんの顔が、なんとも嬉しそうだったこと。。


「美味しいパン屋さん」6/2

 昨日もまた、美味しいパン屋さんに寄ってしまった。

 僕にしたら大変に珍しいことだ。今日まで人生の中で・・。

 買って来たパンを、味わいながら、ひとつひとつ手にとって大事に食べる。贅沢な気持ちで。

 「ハイ、焼きあがりました!!」。焼きたては実に美味しい。

 「焼く」という言葉を聞くと、最近では、CD-Rに焼くというふうに、イメージしてしまう。

 「ハイ、焼き上がりました!!」そんなふうに、シングルCDを焼けたらなぁ。焼きたてが美味しかったらなぁ。

 パン屋みたいな、CD-R屋になりたいな。

 ・・・

 夜の内に歌を作って、朝録音。そしてCD-Rに新曲を入れる。できれば三回聞いたら、音が消えてしまうCD-R。150円だな。

 それも焼きたてが一番、音がいい。

 まあ妄想はこのくらいで。。


 「駅」5/30

 最近、阿佐ヶ谷の駅がリニューアルした。

 電車を降りて改札に向かうと、まるで東京駅に来ているような錯覚を憶えてしまう。

 ・・オシャレになったね・・

 (しかし、つい先日までの、駅も、その昔はリニューアルされて新しい時があっただろう)

 改札口、改札口はたしかに変わった。あのキップを切る音が無くなったし。

 駅もまた、古くなるものだから、新しくなるのはしかたがない。

 でも今日僕が書きたいことは、ちょっとだけテーマが違う。それは待ち合わせについてだ。

 改札が変わるのは、やっぱり少し淋しい。それは、待ち合わせたその場所がもう無くなるということだ。

 待ち合わせはいつも、自分と相手と、そして場所が、登場人物だ。

 ・・嘘じゃないよ。。

 場所が変わってしまうということは、もうその場所と待ち合わせが出来なくなるということだ。その場所に行くには、記憶の中を巡ってゆくしかない。

 登場人物のひとりとは、もう会うことができないのだ。そしてもう、どうやっても今の駅としか待ち合わせられない。

 物語はいつも、待ち合わせの場所から始まってゆく。そこから続いている風景。風景の中の時間と僕ら。

 リニューアルされた駅、そして改札口から続くのは2003年の空ばかりだ。

 「あれ、荷物どうしたの?」「落としちゃった・・」


「記憶力、高校時代」5/27

 僕は高校を卒業してから、20年以上たった。

 今現在、高校生のみんなが、どんな時間を過ごしているのか、だいたい想像はつく。

 想像はつくのだけれど、どうやったら、その頃の時間に戻れるか、その道を忘れてしまった。

 ほぼ毎日「11PM」は見ていたから、1時頃まで確実に起きていたはずだ。そして7時には、起きていた。今よりは寝てるかな。思い出すのは、毎日の充実の仕方だ。

 本もかなり読んでいたし、ギターも弾いていたし、レコードも聴き続けていた。テレビも見ていたし、少しばかりだが勉強もしていた。

 特に今と記憶力の違いを感じるのは、曲のおぼえだ。まあ、ひとつのレコードをよく聴いたというのもあるけれど、今はホント憶えられない。自分の新曲でさえも忘れてしまう。

 ・・なんでかな〜。

 記憶力が悪くなるのはしかたがないけれど、曲憶えは、そのままでいたかったな。

 それともCDの増えすぎか。

 曲を憶えていれば、ギターでも自然とコピーも出来るし楽しいのな。

 50回とか、それ以上に聞いてるレコード(CD)も、ぜんぜん憶えられない現状だ。

◇◇◇◇◇

 ここからは余談。

 高校時代、試験のために、暗記をするときは、必ず同じレコードの面をかけ続けた。そして暗記するのだ。 

 そして、テストのときは、そのレコードを耳に思い出しながら、書いていった。

 いいアイデアでしょ。(みんなやってたかな)


「レコードから」5/25

 最近、大きなCDラックを買ったので、持っているお気に入りのレコードを、CD-Rに直してラックにストックしている。

 もうけっこうな数をCD-R化しているので、ジャケットも中の盤面の文字入れも慣れたもので、まるで買って来たCDのようだ。CDにすると、とても聞きやすくなるというのもわかった。レコードはレコードで味があるのだけれど・・。

 レコードのストックは500枚以上はある。CDは300枚くらい、TAPEもまた数えきれない。もってるレコードとTAPEの中から、よく聞きたいと思うものから、CD-Rに直しているのだ。一枚一枚、CDになってゆくのは嬉しい。

 そんなことを毎日していると、あるひとつのことがわかってくる。レコード時代、聞きすぎたレコードは、まあ、ほとんど聞かないということだ。その中に入っている音は、耳からいつでも聞こえてくるようだ。それに、またどこかで聞く機会もあるとほどメジャーなものが多い。

 聞きすぎてない、お気に入りのレコードがなんともCD-Rにするにはいい感じだ。それもなぜか、ジャケット買いととかして、たまたま見つけたレコードが多い。その流れはこうだ。

 「ジャケットが気に入り、音がわからないが冒険でレコードを購入」→「家に帰って聞いてみると、想像以上に当たりのレコードだった。それも誰も持っていないようなレコード」→「嬉しくて当時何度も聞いた。一二週間は、ものすごく気に入って聞いたレコード」→「友だちが来るたびに、いつもかけていたレコードになっていたレコード」

 その流れのあるレコードが優先順位的にCD-Rになってゆくようなのだ。

 つまり「名も無き名盤」ってヤツだ。

 レコードの棚から、声が聞こえてくるようだ。

 「えーっ、おまえ、行くのー。いいなぁ〜」なーんてね。


「早朝の人々」5/20

 その朝とは、何時の事を言うのだろう?

 青果市場で働いていた頃、家を6時すぎに出ていた。冬なんか、まだ暗く(ああ、早起きだなぁ)と、自分でも思ったものだった。

 ここ最近は、7時前に家を出ている。前日に遅くまで起きていたりすると、とても眠たい。右に左に少し揺れながら、駅へと向かってゆく。そしてホームへ。

 朝、7時の電車といえば、ガラガラではない。満席の状態で、電車はやってくる。僕はまだ、半分寝ている状態で、吊り革につかまる。そして気持ち的には、また眠ろうとしている。

 実際、まだ布団の中で寝ている人も多いだろう。僕ももうちょっと毎日ゆっくりと起きたい。

 そして両国の駅に着く。7時40分くらいだ。僕は最近、やっと気が付いたことがある。それは、学生が多いということだ。両国には、中学校が駅のそばにある。みんな当たり前のように、学校に向かっているけれど、早くないか?

 いや、早くないらしい。

 僕はやっと最近気がついた。自分としては、毎日早い早いと思っていたけれど、こんなに他の人も起きているのだ。

 特に学生たちが多い。それも眠そうにしている学生はあまりいない。これが・・、これが事実だったんです。

 早朝の友達はこんなにも多かった。でもやっぱり眠たいな。。


「大盛り定食屋」5/16

 いつか君が何もかも信じられなくなってしまったとき、一緒に行きたい場所がある。

 僕も今日、いろいろと失敗もあり、ちょっとだけ落ち込んでいたが、その定食屋さんに入ったら、すっかり元気になってしまった。

 そこはカウンターだけの小さな定食屋さんだ。オヤジさんがやっている店。壁に貼られている、どこかの山渓の写真。オヤジさんが写っている写真も多い。古い店なんだろうなあ、メニューの紙にも油が沁みているものが多い。

 「おっ、どうも!!」

 僕は友達と一緒に行ったのだけれど、友達は前に一度だけここに来たことがあるという。

 (よく憶えているなあ。。 )

 ほとんどが500円ほどの定食だ。なじみのおじさんがふたり来ている。社会人になったばかりの青年も入って来た。かなりのおなじみさんのようだ。そして氷の入った、ちょっと大きめのグラスの水が出された。(大きいなぁ・・)

 オヤジさんは、小柄で丸顔、短い髪がよく似合っていて、チョットだけ鼻ヒゲが付いている。忙しそうに動きながら、いろいろ話をしてくれる。

 その話が、みごとなほど、この店に合っていること。

 ちょうど三人同時に注文した。「しょうが焼き定食」「とんかつ定食」「とりから定食」。オヤジさんは、世間話をしながらチョコチョコと動いて、定食用のおぼんを並べている。ちょっと僕が背中に手を回して掻いていたら、オヤジさんが、

 「おうおう、若いのに肩がこってるのかい? なーんだ背中がかゆいのか? アハハッ」と、言って笑った。

 そうこうしているうちに、焼肉のたっぷり入ったお皿が、おぼんに乗せられた。(あれっ、あれがショウガ焼き定食? 肉が多いなあ)と思っていると、続いて皿の半分いっぱいに広がったカツ。(おやっ、大きいねぇ・・)

 注文した友達は僕の方を向いて、目を丸くしてびっくりしていた。そして続いて僕のトリカラ定食。大きなカタマリが、ごろごろと五つ六つお皿に乗せられてある。それに一緒のサラダもまた量が多い。

 さっき注文したばかりなのに出来上がりがあまりに早い。続いて、お茶碗に御飯が盛られたのだけれど、これが山盛りなのだ。僕は、御飯大盛りで注文した人がいたのかなと思ったけれど、ちがう。僕の定食の御飯もまた大盛りだ。いや、大盛りの大盛りだ。そして今度は、大きめなお椀で、みそ汁を乗せている・・。量がすごすぎる。それに生卵もサービスしてくれている。これで500円。

 僕も東京に出てきてから、いろんな定食を食べてきたけれど、ここの定食は最高に大盛りだ。食べてみれば、御飯も美味しいし、ちゃんとしている。オヤジさんの話は続く。

 「俺はほら、14才から働いているから、もうくたくただよ」

 お客さんがひとり帰ると、「ありがとねー、サンキュ!!」と、声を掛けている。どうもサンキューが好きな言葉のようだ。

 僕は店の中を静かに眺めてみる。歳月という歳月がここにあるようだ。写真に写っているのはみんな友達だろうか。今はほとんどの定食が500円だけれど、その昔はもっと安かったのだろう。

 ちょっと前まで、牛丼も一杯500円した時代だった。

 「安かろう、それなりだろう」の言葉は、ここにはない。「安くて、美味しくて量が多い」と言ってもいい。この店は時代が逆になっているようだ。どうして、こんなに大盛りなのか、その理由はオヤジさんに聞いてみないとわからない。

 でも、その理由を聞いたら、泣いてしまいそうな予感がする。

 「ありがとね、また来てねー」

 食べ終わって外に出てみると、雨さえもあったかく感じていた。


「富陽荘1号、CD部」5/12

 念願かなって、とうとう大きめのCDラックを買った。今年始めくらいから欲しくて欲しくてたまらなかったのだ。

 800枚入るCD ラックだ。それも、とても使いやすく、CDの表の面を飾れるようになっている。まるでちょっとしたCDショップの棚のようだ。

 いままで使っていたボックスではCDがあふれてしまっていたのだ。それに最近は自分でCD−Rを焼けるようになったので、オリジナルのCDも増え、棚が足りなくなっていた。

 新しいCDラックは大きいぞ。

 それをちゃんと棚ごとにジャンル別に分ける。「ロック」「ポピュラー」「ブルース・フォーク」「邦楽」「友達のCD」「アフリカ」「インド」「アジア」「ヨーロッパ」「ジプシーミュージック」「南米」・・

 ウーン、実に見やすい。

 特に民族音楽に関しては、レコード・TAPEも含めてかなり集めてあるので、時間をかけてCDに焼いて、ラックにまとめてゆこうと思う。

 僕の部屋に来ることがあったら、ぜひCDラックを見て欲しい。感動的な眺めになっているだろう。楽しみにしてて欲しい。

 と、言うか僕自身楽しみだ。


「バログ・カールマン」5/8

 久し振りに、大きなCDショップに何日か通って何枚か買った。

 お目当てCDを探していたわけだけれど、「ワールド」のコーナーにて、聞いたことのあるサウンドが流れていた。ハンガリーのジプシーミュージックの現代風のサウンドだ。もう何年も前、毎日のように聞いていたミュージックだ。

 僕は店員さんに今、かかっているCDを教えてもらうと、ちょうど特集されていて、ズラリといろいろ並べられてあった。その中にあった、ひとつのCDが僕の目をひいた。

 それは、バログ・カールマンというティンバロム奏者の国内盤のCDだった。ティンバロムとはハンマーダルシマを豪華にしたような楽器だ。ハンガリーのミュージックに数年前にはまったのも、バログ・カールマンの演奏に魅了されていたからだ。ティンバロムの演奏者世界については詳しくは詳しくはないのだけれど、その演奏テクニックはまさに超絶だ。

 最近発売されたと思われる国内盤のバログ・カールマンのCDの帯には、今も活躍していて、みずからの楽団を率いていると書かれてあった。バログ・カールマンのCDが、話題盤として、紹介されていてなんとも嬉しい。

 数年前(正確にはもう7年ほど前)、ひとり彼の演奏に聴き入っては、無力ながらも僕は応援していた。

 新しいアルバムが国内盤であって嬉しい。僕のように思ってくれていた人がいたのだろう。


 「メガネ洗浄マシン哀愁」5/4

 吉祥寺へ行った。相変わらず、若人たちで商店街があふれていた。

 もうおじさんは、若者パワーについてゆけなくて、すぐに疲れてしまう。吉祥寺へは18才の頃から、僕もずっと通っている。ああ、あの頃は若かった。今も気持ち的には変わってはいないが、体力がおじさん化してしまっている。それににぎやかな場所にいると、ついつい孤独を感じてしまう。

 ・・特に理由ないいが。。

 そんなとき、ふと目に入ったメガネ屋さんの店頭に置かれてある、洗浄サービス手動マシン。

 自慢じゃないが、僕はこのマシンが好きだ。使った人にしかなかなかわからないが、本当にメガネがきれいになるからだ。スイッチを入れて、ブブブブブという音とともに、約一分間、洗浄。周波数できれいになるという。そして一回水を通して、あとはティッシュで自分でメガネを拭くというマシンだ。

 このメガネ洗浄マシンの歴史も長いなぁ。20年前東京に来た頃にもたしかもう店頭にあったような気がする。マシンというわりには、かなり手動なマシン。

 世の中の人のメガネをかけている率はかなり高いと思うけれど、このメガネ洗浄マシンを使ったことのある人は少ないだろう。

 僕は吉祥寺サンロードの真ん中で、メガネ洗浄マシンを一人使ってみる。誰もそんな僕には関心はない様子だ。まるで仁丹でもなめているオヤジのような雰囲気もある。まさに"おじさん"のようだ。

 しかし、なんだろうこの懐かしさと安心感は・・。こんな僕のためにまるでメガネ洗浄マシンはあるかのようだ。いや、メガネ洗浄マシンは、まるで今の僕のようだ。

 時代遅れのバラード。そのサウンドは・・、

 ブブブブブブ・・・。


「今日の話」5/1

 わいわいがやがや、わいわいがやがや

 朝夕と電車の中にいて、学生諸君が話していても、いつも尻上がり言葉で、相変わらずの話題ばかりだなぁと思ってしまう。

 でも今日、隣にいた学生諸君の話は面白かった。ひとりは座って、ひとりはその前に立っていた。そして持ち込んでいたペットボトルを、立っている方の人がもらってひと口飲んだのだ。すると、、

 すると、その持ち主は「あっ、もう新型ウイルスに感染・・」と言った。「何、言ってるのよ」と、飲んだ人。

 「症状その1・・明日になると、首があさっての方向に向いてしまう。症状その2・・朝起きると、大胸筋がつっぱって、なぜか気おつけをしてしまう。症状その3・・」

 僕はとなりで分厚い本を読んでいたのだけれど、他人ながら感心してしまった。よく、次々と思い浮かぶものだ。話は進み今度は好きな彼のタイプの話になった。

 「・・年・・組の・・君とつきあうくらいなら、ショーン・コネリーの方がいいな。でもショーン・コネリーとつきあうなら、・・の方がいいな」と、いろいろ続き、とうとうつきあう人は、セロテープが一番いいと言うことになった。

 「つきあうならセロテープが一番いいよ。よくくっつくし、すぐはなれるし!!」とか、言っている。

 ほんの二駅三駅の間のことだったけれど、その話はかなり良かった。たぶん中学二年くらいの女子の二人組であろう。僕は本を読み続けている格好のままで、その足下しか見ることなく、彼女たちは駅を降りて行った。

 いやぁ、いろいろと救われる想いだった。・・そんなおおげさなものでもないかな。面白い話だったよ。

「最近の事・過去ログ '02年2月〜'03年4月まで」

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