「最近の事」過去ログ'03.2〜4月
「よく行くところ」4/28
アメリカの詩人、サンドバーグに「よく行くところ」という詩があり、それは僕の大好きな詩のひとつになっている。
どこも行く場所がなくなるとき、つい行ってしまう場所があるという話の詩だ。
このアパートの僕の部屋の窓の上の電線の上には、いつも同じ(?)山鳩がとまり、朝に鳴いている。山鳩はいつも決まった場所で朝に鳴いているようだ。
しかし、なぜここなのだろう・・。
その理由は、山鳩にきいてみないとわからない。そこには何かのきっかけがあったに違いない。
・・「よく行くところ」
僕にもまた、ついふらふらと寄ってしまう場所がある。それは「サッポロみそラーメン」の店だ。
18才のとき、上京して、自分ではじめて入った店が「サッポロみそラーメン」の店だった。田舎者だった僕は中華屋や、日本蕎麦屋にも入る自信がなく(ラーメン屋なら・・)と思えたのだ。
それが直接の原因とは思えないのだけれど、僕はついふらふらと「サッポロみそラーメン」の店に入ってしまう。そこにある空気は、どの店も似ている。意外と本格派というわけでもなく、どこか庶民的なのだ。
・・庶民的?
それが直接の原因とも思えないのだけれど、またついふらふらと寄ってしまう自分がいる。まるで、その18才のときに戻るかのように。あの、最初にドアを開けたときと同じ気持ちのように。
(えっ、山鳩とどういう関係が。。)
・・僕も知らない。
ただ、そこに行くことで、自分の中の何かのバランスがとれているのは確かだ。たぶんそれは、磁力とか、ツボとか、天秤とか、そういう話の方が近い気がする。
「蜃気楼現象」4/25
蜃気楼って見た事がないけれど、蜃気楼ってあるらしい。
一般的に言われているイメージの蜃気楼とはなんだろう。調べてみると、かなりその意味合いには幅があるようだ。実際のものがゆがんだり、ふたつになったりするのも蜃気楼らしい。
しかし僕の言うところの蜃気楼とは、実際にそこにないものが映るという単純なイメージである。
先日、道を歩いていて、蜃気楼のことを思った。蜃気楼が見えたというわけではない。
自分のいままでの創作のことを考えるとき、それはまるで蜃気楼を見るようだなと思えたのだ。
・・実際はどこかにあり、それが映っている・・
そう思うことが大事だ。
道を歩いているとぼんやりといろんなものがイメージで見えてくる。そのとき僕は、何か頭の中で空気と光の屈折変化があり、蜃気楼現象が起きているのではないか。
見えているそこはどこなのかの知らない。
しかしそこは実際にあるものでそれが映っている。と、堅く信じてみる。
一瞬でも見らられば、もう創作には十分だ。同じ景色を誰かも見てるかもしれない。
そして出来た作品は自分のものであって自分のものではない。いつもそう思っている。
僕の見える蜃気楼。思い出してみると創作はいつもこんな感じだ。
「江戸村」4/22
日光に行けば、それはあるらしい。
友達のひと言が、僕の何かに火をつけてしまった。
「そこに行くとね、昔のお金と交換してくれるんだよ」「えっ?」
僕の想像力は、いろいろとふくらむ。お茶屋に座り、昔のお金で払ってみたい。それも布袋とかから出して。。
たとえ現代の娘さんだとしても、そこにお茶屋の娘さんがいて欲しい。団子とか食べてみたい。目の前を馬子が通って欲しい。
まあ、単純に時代劇とか見ると、その通りなのだけれど、実際に自分のそこにいるとは違う。自分の方はできれば現代の格好のままがいいな。いつものショルダーパックを下げていたい。わがままだけれど。
時代劇の中では、そういうシーンはないだろう。
「おまえさん、かわった格好してるねえ、どっから来たえ」とか、言われたいな。
「杉並区高円寺です」とか、言って、メールアドレスとか渡したいな。
・・とかいろいろ想像をしてみる。行ってみたい。
ちょっと調べたら、お金と交換してくれるのは、どうも手形で、何枚かくれるらしい。いや、昔のお金とも交換もしてくれるかもしれない。そうでないとしても、ぜひそうしてほしい。おつりももらいたいな。
インドに行ったときも、たしかにこんな感じがあった。
そうだ、インド村があってもいい。これは可能だ。まず両替。そこからだよなぁ。
「鯉のぼりの進化」4/19
鯉のぼりの季節だ。
近くの銭湯の屋根では、きれいに鯉のぼりが春風に並び泳いでいる。それも大きい鯉から極小の鯉まできれいに。
それを見て思う。・・きっと、鯉のぼりは進化しているのだ。
僕の生まれは新潟の小さな田舎町で、どことも同じように、小さい頃から、4月になるとどこかの屋根には、鯉のぼりがあがっていた。しかし僕の記憶では、大きな鯉のぼりが風に気持ち良く泳いでいる姿はあまり見たことがない。いや正確に言うと「お父さん鯉」「お母さん鯉」一般的には、真鯉・緋鯉が風になびいてはいなかった。そのまた小さな、こどもの鯉だけが時々、かすかに風になびいていた。
(鯉のぼりって、そういうものなんだな・・)と、子供心にそう信じたものだった。
東京に来てからも、まあしばらくはそんな感じだった。あの鯉のぼりが家族そろって、風になびいていたら、それはもう大変な風の日に違いない。そう信じていた。
しかし、近くの銭湯の鯉のぼりは、なんだかきれいにいつも風になびいている。何かが変わったに違いない。そこには、科学的アイデアがきっと生かされているのだ。
よく見ると、お父さん鯉もお母さん鯉も、むやみに大きくなく、小さめだけど・・。
ここで、僕の鯉のぼり信念はみごとにくつがえされた。
・・真実No1752『最近の鯉のぼりは風になびく』・・
話は戻って、僕の実家にも鯉のぼりがひとつ(一匹? )あった。それは体が金色で、最近のような、いかにも鯉という感じではなく、細長くデザイン的な鯉だった。生地は厚く、風の入る口も小さい。昭和20年代頃のものだろうか。
僕もなんどか、父に頼んでその鯉のぼりを裏庭にあげて欲しいと、せがんだことがあった。あげると言ってもその専門の棒があるわけではなく、たぶん物干し竿をつなげたかどうかして、なんとかあげてもらった。
しかし、もちろんその鯉のぼりは風にそよぐことは無かった。そよぐどころか、ただ垂れ下がってゆれてるだけだ。自分でほうりあげても同じことだ。そして僕は子供ながらにそのとき悟った。
・・真実No36『鯉のぼりは泳がない』・・
「かすかなもの」4/16
朝、目が覚める。昨日の理由はこんな感じだった。
(よし、今、目覚ましが鳴るぞ)
そう思って、テーブルの目覚ましを手に取ると、二秒後くらいに鳴り出した。それは前日の夜にだいたいで合わせたものだ。
目覚ましが鳴る直前に起きてしまうというのは、どういうことか。毎日同じ時刻ならなんとなくわかるのだが。。
僕はこのことを直感や、予感のなした出来事だとは思わない。
きっと目覚まし時計が鳴る直前な、小さな小さな「カチッ」という音が鳴っているのではないか。僕の柱時計はネジが切れてしまう前になると必ず「グワシャ」と、小さな音を出す。それでだいたいわかるのだ。
インターネットがダイヤル回線だった頃、メールチェックをすると、クルクルっとチェック中のマークが、メールが入っていると、一瞬、カクッとスピードが変わる。それは0.001秒ほどだ。
(おっ、入ってるな)
人間の能力には限りがないと思う。何か微妙なことを無意識にでも察知していることはあるだろう。
僕はよく、人の家の庭にることが多いのだけれど、放し飼いの犬がいる場合は、なんとなくそんな気がして、門をあける前に自分を止めてしまう。
それは、直感や気配とかいうことではなく、微妙な犬の臭いを感じたのだろう。また逆にそれが自分の直感につながっているのかもしれない。
別れ道がある、追いかける犯人はどちらかの道に行った。そこに立ってどっちの道へ行ったかを判断する。「こっちだ」と直感で思うことがあるだろう。それは、微妙な臭いとか、かすかに舞い上がっている埃とか、その回にはえている草とかのざわめきの気配とかあるのかもしれない。
時代の気配だってそうだ。人との付き合いも、同じことが起きていると思う。ほんのかすかものが、ちょっとの先の出来事を予感させている。
「台五郎神話」4/13
とうとう三代目の手引きキャリーカート俗称「台五郎」がこわれて、新しいヤツを手に入れてきた。
「台五郎」とは、日本名で、もともとはどこかの国で作られた、頑丈なキャリーカートだ。普通のキャリーカートに比べたらくらべものにならないくらいに頑丈で、40キロまで荷物を乗せることも可能だ。
まあ「キャリーカー」にはいろいろと種類もあるけれど、その中でも「台五郎」は群を抜いて素晴らしい。
音楽バンドのドラム担当の人たちがみな、一応にこの「台五郎」にスネアを積んでいるのが、その実力を証明している。
僕もまたこの「台五郎」の愛用者だ。いろんな荷物を運ぶときにこれ以上に丈夫で使いやすいキャリーカートはない。もう10年以上、その神話は破られてはいない。
あるときのことだ。僕がこのキャリーカートを持って、ライブハウスに行くと、遠い地方から来たバンドのドラムの人が僕の「台五郎」を見つけて、「やっぱり青木君もこれ使ってるのー。これいいんだよねー」と言って驚いていた。
この台五郎の素晴らしい所は、いろんな箇所が丈夫であり、なおかつ初めから完成されたデザインで、実用性が高いという所にある。付属のひもでさえも、完璧なまでに丈夫で使いやすい。
「台五郎」はキャリーカートの領域越えて、すでに神格化している。このキャリーカートをデザインした人はもっと有名になっていい。そしてこの「台五郎」は、一家に一台あって良いものだ。
ちょっとほめすぎたかもしれないが、まあそれほどに素晴らしいのだ。発明賞をもらってもおかしくないだろう。
「台五郎」というネーミングもなかなかグッドだ。こうして大きな荷物をキャリーカートで運ぶ姿はまさに「子連れ狼」のようでもある。
「犬の記憶」4/10
僕はかって、雑種のワンちゃんしか飼ったことがないけれど、東京では、ほとんどの人が血統症付の犬を飼っているようだ。
柴犬。レトリバー。チワワ。シーズー犬。。
「それじゃあ、同じ犬をまた飼うみたいじゃないかぁ、、そんなことってなんだか。。 」と、以前は思ってきた。
「一度飼ったワンちゃんが亡くなって、また同じワンちゃんがやってくるなんて、信じられない。」と、以前は思ってきた。
飼っていた犬がいなくなるのは耐えられないほど哀しい。それでいいんじゃないかとも思えるのだが、世の中はその事さえも、なんとかしてしまうようだ。
しかし、人はそれぞれなので、そのことについては何も文句はない。
ただ最近思っていることは、また別のことだ。「犬の記憶」って、どのくらいあるんだろうか? ということだ。昨日のことさえも、もしかしたらおぼえてないのかもしれない。1時間前のことも記憶にはとどまっていないののかもしれない。
そのワンちゃんと過ごした、いろんな楽しい思い出も結局は自分の中のもので、ワンちゃんにはぼんやりとした体感なのかもしれない。すべて、自分の記憶の中の話のようだ。
そう思ってくると、同じ血統症付の犬をまた飼った場合、同じ気持ちで飼えるのではないか。
・・実際のところはわからないけれど。
どんな犬を飼ってみても、犬の記憶は最近の数日だけなのかもしれない。そう思ったら、あまりこだわりもなくなった。
「お寺訪問」4/6
昨日、イベントで寺に行った。
実家にいた頃、一番近い親戚がお寺だったので、小さい頃から毎月のように遊びに出かけていた。お寺は広く、鐘突き場やお墓も含めて、遊ぶには広くじゅうぶんだった。そこは自分の家ではなかったけれど、どこよりも落ち着ける場所だったのだ。
だから僕の中にはお寺が、どこかつながっていて、体が空気と一緒になってしまう。
そんな自分の気持ちも知っているのだけれど、やっぱりここは、よその土地のお寺であり、僕はひとりの客でしかない。結局、普通に二階と一階を行ったり来たり・・。
もしも許されるならば、広いお寺の中をどんどんと歩いてみたかった。置いてあるいろんな置物、そして掛けてある古い書き物や、言葉とかちらっと眺めてみたかった。
「夢、20パーセント増量」4/2
ここ二年くらい、ずっと3時間ちょっとの睡眠だった。
最近は腰が痛いせいもあって、5時間ちょっとは眠っている。目覚めると素晴らしく違う。
脳の70パーセントくらいは、よく眠ったというふうだ。実は8時間でちょうどいいのだろう。
3時間と5時間では、かなり眠っている時間が広い。僕の体は、3時間ほどで一度起きようとする。実際起きてしまう。そしてあと2時間眠っていいんだよと、自覚する。あと二時間。。それは夢の20パーセント増量のようだ。
かなり夜が広い。四畳半から六畳になったようだ。いままで夢でいけなかったところまで、行けるような気がする。
「シングルカット」3/30
地下のライブをやっていると、実にいいテイクが録音されることがある。
ぜひそれをシングルカットしたい。と、思えた。僕らはみんなCDアルバムはいろいろ出しているけれど、ライブで偶然(?)にも録られたいいテイクこそ、残したいと思う。それもシングル盤で。
同じCD一枚ならもっと入れられるのにと言う意見もあるだろう。同じ曲ならばちゃんとしたスタジオ録音でと言う意見もあるだろう。
でも、あえてシングルカットとして扱いたいな。
でも、シングル盤なんて、なかなか普通買わないよね。
CDラックにはCDがあふれてしまうので、一部になってしまうと目立たない。聞きたい曲をさっと取り出せるという仕組みがなかなかない。
もし可能なら、インターネットで、曲目の目次を作っていつでもすぐ聞けるようななけばなぁ。
「最初のCD」3/26
先日、5年前(1997)に出した、初めてのCDを改めて聞き直してみた。
最初のCDなので、大変に時間がかかった。そのひとつひとつがいろいろと思い出される。そしてそれ以上に、自分が気持ちを十分に込めて歌っているのが自分自身よくわかった。
しかしそれは丁寧に歌っているわけではない。
・・いや、丁寧に歌っているのだ。
とてもラフだけれど、それはわざとそうしているのが、聞いていてよく伝わってくる。
レコード(CD)の溝はまるで、プールの水のようだ。その水の流れをきれいに泳ぐことは、波さえも立たないと一緒のような気がしてしまうのだ。
できるだけ、何かを刻み付けようとがんばっていて、きれいに仕上げようなんてこれっぽっちも思っていない自分がいる。
以前、ある有名ミュージシャンが言った言葉で「どんなミュージシャンもファーストアルバムが一番いい」というのがあり、印象深く憶えていたのだけれど、それはなんとなくわかるような気がする。
ファーストアルバムには、セカンドアルバムにはないものがある。
当たり前だが、そうだ。
響きだけで感じるならば、ファーストには独特な響きがある。
歌が空気を初めて切り裂いてゆくような新鮮さがある。
ファーストアルバムのCDを裏返してみると、どこか初々しい光が見えるようだ。
「探しもの」3/22
つい先日から、ずっと探しものをしている。
大事にしている「ICレコーダー」だ。その小さなICレコーダーは、三代目で、ここ5年ほどは毎日持ち歩いている。なくしたことは一度もない。ちょっと今は見つからないけれど、まあそのうち出てくるだろうと思っていた。
思っていたけれど、今回はホントに見つからない。
しかし落としたとも思えない。
部屋のどこかにあるだろうと信じてみる。バイト先のロッカーの中にあるかもしれない。探してみる。パソコンの机の下にあるのかもしれない。しまってある服のポケットの中にあるかもしれない。探してみる。
台所の流しの下に落ちてるかもしれない。探してみる。しかし、ない・・。
そのICレコーダーはちょっと前に修理に出していて、お金もかかっている。もう一台買う勇気がない。きっと部屋のどこかにあるはずなのだ。
ICレコーダーを探すために費やしたその時間。僕の頭の中の知恵と探偵能力の限りを使って、部屋のいたるところを探してみた。
・・何かリモコンのようなものがあり、音が鳴って探してくれる機械があればなあ・・。
また買ってもいいのだけれど、きっとこの部屋から見つかることはわかっている。順序がうまく逆になってはくれないものなのか。
目覚まし機能も付いていたので、今度はそれを使おう。と言っても、今では遅い。
探しても探しても見つからないもの、、。
しかしあきらめてはいけない。僕は自分の経験から知っている。
さんざん探したあと、ふと目覚めた朝に、何気なく手を伸ばすと、そこにあるということを・・。
これは真実である。記憶を体の方がさかのぼり、僕自身に教えてくれるのだ。
しかし、今回については、その兆候がまったくない。玄関の洗濯機の下とか見たけれどない。
「ステーキからの伝言」3/17
先日、ステーキを食べた。それもランチサービスのBIGを。
そのステーキ屋さんは安くて、BIGと言っても値段は1000円だ。普段は食べないステーキなので、思い切ってBIGを注文してみた。
久し振りのステーキは腹に沁みるほどうまかった。。
うまかったのは良かったのだけれど、それ以来、朝も昼も夜も夜中もお腹がすいてしまっていて、それは今も続いている。
・・お腹目覚めた?・・
まさに、食欲に火がついたようなのだ。そう、あのステーキを食べた日以来。
お腹の中にお腹があり、そのお腹が呼んでいる。野生の復活のように。
「楽しかった秋葉原」3/14
どっとアルバイトで疲れたあと、秋葉原のソニーの修理受付コーナーに、悩んだすえに寄ることにした。たぶん今日くらいしか行けないだろうと思ったのだ。しかし歩くにも、その店は遠い。
改札を抜けて、まるで抜けがらのようになって、道を歩いて行く。(早く用事を済ませてすぐに帰って来よう・・)
もう閉店まぢかだったので、あたふたと修理品を受け取り、また道に出た。まあ、ちょっと遠回りになるけれど、大通りを通って駅に帰ろう。
もう半分とじかけている瞼に映る色とりどりの看板。ふと覗くパソコンショップは、信じられないように安さの値札が付いている。CDショップがある。バラエティ安売りショップがある。Mac専門の店ではインターネットも見放題だ。最新型のMDはどんなかな。液晶テレビはどんなかな。
この店の次のこの店。次々と目に入ってくるにぎやかさが今は楽しい。なんだか楽しさのベルトコンベアーに乗って歩いているようだ。
帰ってからいろいろすることもあったのだけれど、そのちょっと遠回りした秋葉原の大通りは僕を元気にしてくれた。これは意外だった。
「時計のねじ巻き」3/9
やっと、柱時計のねじをちゃんと定期的に巻けるようになった。
もう柱時計を部屋に付けてから、6年以上たつけれど、思い出すようにしてネジを巻いてきて、時には帰ってくると時計が止まっていたりもした。
・・その哀しさときたら。。
毎朝巻くというのなら、忘れないだろう。しかし一週間以上になると、どうも思い出せなくなってしまう。そうやってもう6年。ここに来てやって、時というものを巻くことが出来るようになった。
柱時計を巻きながら、僕の中にもうひとつの時計が出来たのを感じた。そのもうひとつの時計のネジをまるで巻いているような気持ちになった。
なんともややこしい理論。
変だなぁ。時計と呼応する、もうひとつの時計を持つなんて。
「ニューヨーク」3/5
朝のニュースでニューヨークの事を話題にしていた。
「ニューヨークは今、4度です」
そうだよ。ニューヨークは寒いんだ。1961年、ニューヨークにやって来たボブ・ディランは、その寒さにびっくりしたと歌にも書いていた。
・・それが僕のニューヨークの知識。実際のニューヨークには行ったこともない。ニューヨークに住んでいる人たちは、みんな寒そうに街を歩いているだろう。
東京よりも都会なのに。
(だいたいニューヨークってホントにあるのか?)と、そこまでは思わないけれど、ニューヨークという言葉の響きには、どこか新聞のような、新しさと軽さがある。ニューヨークは常に古くなることがなくて、人を惹きつけてしまう。
ニューヨークに視点を合わせると、自分の体の中の歴史が1500年くらいからになってしまう。
これは完全なる自分の偏見。なんか人間が人間でないような、ビルの一部のような気持ちになってしまう。
それは本当なのか、ただのイメージではないのか? 実際に行ったことのない僕にはわからない。
ニューヨークという言葉が朝のニュースからいつも聞こえてくる。
「ここニューヨークでは、今・・」
「増える荷物」3/2
一大決心してます。
先日、古い写真を整理していたら、アパートの部屋を撮った写真が出て来た。
ときどき僕は、いつか部屋の事を思い出すだろうと、ことあるごとに写真を撮っていた。
ああ、四畳半に住んでいた頃・・
写真を見れば、それなりに整理してあるけれど、その量の少ない事。。そして今、この部屋にある物の多いこと。
ここに引っ越して来てから、かなり整理するためのボックスを買った。相当買った。しかし今ではそれも足りないくらいになっている。
以前6畳に住んでいた頃が、信じられない。・・ それにしても紙が多いね。ビデオはほとんど増えていない。
今、部屋を思い切り整理しているところだけれど、なぜかまったく荷物が少なくなってゆく様子がない。
その謎を解明中だ。
俺は本当に四畳半に住んでいたのか、6畳に住んでいたのか。
その謎を解明中だ。
今日中にかたづけるつもりだけれど。。。借りて来たビデオも見ないとなぁ。
「財布の不思議」2/27
最近また、財布が壊れた。
その財布を買うときは、あれこれ考えて、いくつか失敗して買い直したのだ。
・・何も買い直さなくても・・
それは誰でもが思うだろう。僕だって思う。ただ、より使い勝手のいい財布を見つけてしまったのだ。
その財布が壊れた・・。また買ってもいいけれど、それはなかなか出来ない。
結局、使い勝手のもうひとつの財布を使うことになった。
(・・でも、知ってるよ。すぐに慣れてしまうことを)
そうなんだよね。財布はどんなに使い勝手が悪くても、すぐに慣れてしまうところがある。
きっと、レジ前での、財布の開け閉めのときに、すばやく出来るようになってしまうのだ。
人間って器用なものだよね。結局、新しい財布を買うことはなく、使い続けてしまう。
「服の里帰り」2/24
なぜかひじょうに気に入る服をおいてある店がある。その店の前を通るたびに「おっ」と思ってしまう。
「おっ」と思ってしまうのはいいけれど、僕の場合、そのまま買ってしまうことが多い。どうやらひとつのメーカーが僕の趣味と合っているようだ。
その店のオヤジさんは、僕がよく買うものだから顔も憶えてしまっていて、「また来たね」って表情で迎えてくれる。
先日も、気に入る服を見つけてしまった。
「あのう・・、前に出てる、あのジャンパー着ていいですか?」
「いいよ、あれいいだろう」
そしてコートを脱いでゆくと、ちょっとした偶然か、その店で数年前に買った服を着ていたのだ。
「おぉぉぉ、懐かしいねえぇぇぇ」
その店で買った服を着て、その店に行くなんて、僕にはまず、ないことだ。
「それも、同じメーカーだよ」
オヤジさんはしきりにその服についての想い出を語る。
そして服から声が聞こえてくるようだ。
「お父さーん、帰って来たよー」「おうおう、元気だったか?」
「スピード」2/21
「アオキさん、読むのがハエーよ!!」
それは久し振りに買った漫画のコミック本を読んでいたときの話だ。
「もっと、ひとコマひとコマ、じっくり読まないとだめだよー、アオキサン!!」
その本はサスペンスもので、意味不明な出来事が続く物語だ。ものすごく面白い。。
・・友達よ、ものすごく面白いのだ。
・・友達よ、スピードは関係ないよ。
それはカレーを食べることと似ている。ときには、むさぼるように食べたり、大変にゆっくりと食べたり。
それはギターを練習するときと似ている。ある時間がたってしまうと、ほかのことを始めてしまう。
ひととおり読んだり聞いたりしたあとで、その物語の方から僕に声をかけてくれる場合がある。
(おい、おい、あおきくーん、俺だよ、俺!!)
もちろんそれは、僕自身が呼んでいるのだけれど。
「ハンチン帽ワールド」'03.2.18
「ハンチン帽って何?」
そうきかれても、ハンチン帽はハンチン帽だ。それは、よく言うところの「鳥打ち帽子」のことだ。
僕はいったいどこで、鳥打ち帽子のことを「ハンチン帽」って、呼ぶようになったのだろう。
まったく記憶がない。小学校の頃からよく帽子屋さんに、遊びに行っていたので、そこでお店の人に聞いたのかもしれない。
先日も自分の書いてるエッセイの中で、あたりまえのように「ハンチン帽」と僕は書いた。
しかし、ハンチン帽のハンチンって何だろう? というわけで、検索のgoogleで「ハンチン帽」をひいてみた。
その結果が、これである。
検索結果、7件。おい、それもその中に前に自分の書いたエッセイの文が、二つもしめている。
調べてみて初めてわかったのは「ハンティング帽子」のことだと言うこと。(そうか「鳥打ち帽子」の意味とも合ってるな・・)
その意味は、知らなかった。。
それにしてもなぜ「ハンチン帽」で、検索結果が7件なのだ。僕はまちがった知識をもっていたのか。
「ハンチン帽子」では1件。「ハンテン帽子」だと0件。では「ハンティン帽子」で0件。「ハンテング帽子」では0件。
ではノーマルに「ハンティング帽子」では、約25件。「ハンチング帽子」では・・。
(これだ!!)
かなりの数だ。みんなこう呼んでいるのだ。どうやら正式名称らしい。
しかし「ハンチング帽子」と「ハンチン帽」は一緒じゃないのか?
どうやら世間一般では、ちがうらしいんですけど。。納得いきません。
「2003年 石焼ビビンパの旅(1)」'03.2/15
ほんと、久しぶりに、きっと何年か振りに、僕は食べ物屋を訪ねるために駅を降りた。
今年に入って僕は、石焼ビビンバの旅をしている。
とある一軒の店で、大変に美味しい「石焼ビビンバ」を食べたのがきっかけだ。
韓国の人がやっている店で、食べ方もわからない僕にひとつひとつ教えてくれたのだ。
「コチジャン、モット、イレルイレル!!」
そして、周りの部分にご飯をつけると「ジュー」とおこげが出来た。それがホント美味しかったのだ。
(これが石焼ビビンバなのか・・いいねえ)
そして後日、近くの街で「この街で唯一の本格韓国石焼ビビンパ」というのを食べた。それも1000円も出して・・。
だいだいどんな石焼ビビンバが本格韓国風なのか、僕にはわからない。そこが問題だけど。
最初に食べた店では、周りの部分にご飯をつけると「ジュー」とおこげが出来た。実にそれが素晴らしかった。しかし、その1000円もした石焼ビビンバの店では、おこげさえ出来なかった。。
(これが、本場なのか。。)
そんな疑問を抱きながら、駅へと向かう途中に見つけたもう一軒の「石焼ビビンバ」の専門の店。それも650円と安い。そしてここでも「本格韓国石焼ビビンバ」の文字が。
(よし、もう一軒食べるか!!)
一瞬はそう思ったけれど、さすがにさっき食べたばかりだったので寄るのはやめてしてしまった。しかし僕の心の中に願望が残った。
そして、わざわざ駅を降り、先日その専門店に行った。
その店は小さいながらも、人は入っていた。路地裏にあるので、なかなか目立たない場所だ。誠実そうな若いお兄さんが店をやっていた。そしてもちろん「本格石焼ビビンバ」を注文。
今回は、はじめからコチジャン入り。周りにごはんをつけると多少はおこげになるものの、そんなでもない。しかし前に食べた1000円の「石焼ビビンバ」よりは、温度は確実に高いようだ。
(これが限界・・・?)
まだ味については、まったく語ることが出来ない。でも、650円じゃ安いな。
そして僕はまた駅へと向かった。わざわざこうして、店を訪ねて駅を降りたなんて、ホントに旅をしているみたいだ。なかなかいいね。
「気づいた事」2/12
今はもう新しくなってしまった老舗の喫茶店。
その店はその町でも一番古く、多くの人たちに愛され続けてきた喫茶店だった。
僕がその店を訪ねた1980年代最初でも、もう30年以上はそこで営業していた。1990年代になり、建物の取り壊しに伴い、地下に新しい店を作った。
それを老舗とは、言わないのか?
僕が愕然としたのは、その店の事をインターネットで、書いている情報のあまりに少ないことだ。たったのひとつしかないのだ。
それも、ただ「老舗らしい」の一言。
僕は気がついた。その古い喫茶店を愛した人たちは、ネットに書き込んだり、ページを持ったりしていないのだろう。僕は今、42才になった。インターネット世代の上の方かもしれない。自分のページもこうして持っている。
いろんな本は残っているかもしれない。しかしネットの中には、なかなかないのだ。
もったいない。。
待っていても、どんどんと時はたってゆくだけだ。
40代、50代、60代、70代のみなさんよ、どんどん記憶を書き込んで欲しい。
ほんのちょっとしたことでいい。それが大事だ。
みんな知っていることだったのに、検索でひとつだなんて、哀しいじゃないか。
「実は新しいギターを」2/8
作ってみたのです。
と、言ってもギターそのものは12弦ギターなのですが・・。
ずっとずっと楽器を探していても、見つかりそうもないので、自分で作ってみました。
スチール弦の12弦ギターの弦をまず外して、一番低い方から、クラシックギターの六弦を複弦で。次は四弦を二本。次は、三弦の太いナイロン弦を二本。四番目はナイロンの一番細い弦を二本・・。
12弦ギターの下二つが弦が張っていない状態だ。クラシックの弦には、フォークのスチール弦のように、金属の弦止めがないので、小さな丸い金属の弦止めにナイロン弦を通して、後は結び目を作ってOK。
さて、弦を張ってみる。フラットマンドリンと同じ「G」「D」「E」「A」で合わせたいところだけれど、それだと、弦の張りがきついので、みっつくらい音程を下げてチューニング。バヨリンと同じ、7フレットづつで下の弦と合わせてゆく。
完成!!
弾いてみると、ボヨ〜ンと、いい響きの鳴りがする。音量にも申し分ない。クラシックギターにコーラスをかけた音とかなり似ているだろう。
ずっとずっと欲しかった音。そして楽器。ピックアップ付きの12弦ギターなので、大音量にもできる。
弾き方は、マンドリンと同じなので、すぐ弾けた。
心地よい低音の音。あきない高音。もう、ずっとこの楽器を使って行きたい気分。
でも、どの楽曲も似てしまう。それが惜しい。。ライブで一・二曲ならなぁ、完璧だ。
もうちょっと考えれば、充分に楽器として成り立つはず。売り出したっておかしくない。ただ弾き方が、うまく生まれていないという事だけだ。
・・弾き方が、うまく生まれていない。
「早すぎる夜」2/5
どうも、夜が早すぎる。
昼のバイト中、帰ったらあれもしよう、これもしようと考えていた。メモにも書いて、計画を立てていた。
しかし昨夜はちょっと何かしてたら10時になってしまった。そして(11時だなあ・・)とか、思っていたらもう12時。
部屋の片付けとかして1時。
・・そうだ、本買って来たんだ・・とか思い出して、布団の中で読んでいたら、もう眠くなって来た。
(そんなバカな、やろうとしていたことは何もやっていないじゃないか)
もう、悔しくて悔しくて、どうにも眠ることが出来ない。久し振りの眠れない夜だ。
どうにかして、夜を長くできないものか考えてみる。
やっぱり柱時計は鳴った方がいいな。それも30分でも一回。でもアパートだしなあ・・。
そこで僕は思い出す。
あれだけ、長かった45分の授業を・・。
そうだ、7時〜12時までの「時間表」とか作ってみるか。
「CDラジカセタイムマシン」2/1
今、1964年録音の弾き語りのレコードを聴いている。
約30年前の録音だけれど、その音を聴いていると、そのスタジオの空気や、そのスタジオからつながるイギリスの街の空気まで感じられるようだ。
デビューアルバムには、いつもドラマがあり、そのストーリーまでも音から感じられる。その後の同じ曲の録音にはないものだろう。
もちろん一発録音で、他の日付が混じることなく、そこにあるというのもわかる。
CDラジカセの中のちょっとしたタイムマシン。
テレビでも、よく白黒画面で、古い番組や、インタビューが放送されるけれど、なかなか当時の空気をリアルに感じることができない。
きっと弾き語りのレコードの中の音の隙間から、その回りの空気が聞こえてくるのだろう。
これがバンドの録音だったら、また空気感も変わってくるだろう。
古い弾き語りのレコードもいいもんだ。