青木タカオ「ちょっくら・おん・まい・でいず」

「最近の事」過去ログ'06.3〜'06.6月

「おーおーおー」'06.6/30

 今日、部屋で「SONG BOOK」を歌っていて、ある事を思い出した。

 ♪♪おーおーおー、と、一番を繰り返すフレーズを歌っていたときだ。

 (そうだよー。。思い出したよ。。)

 僕がストリートで、日曜の池袋で歌っていたとき、いろんな歌い手とも知り合った。

 声をかけられ、そしてギターを渡し歌ってもらうのだ。

 その人はジーンズ姿で、無精ひげをたくわえていたかな。

 ギターを渡すと、Gかなんかのコードで弾き鳴らしながら、♪おー、おー、おー、と、歌い出したのだ。

 そのうち歌詞が出てくるのかなと思っていたら、結局、そのままで歌は終わってしまった。

 「今の、何んて歌?」と、僕はきいた。

 「おーおーおーと、言う歌です」「なるほどね」

 もう一曲くらい、その人は歌ったかな。しかし一曲目ほどのインパクトはなかった。

 そんなふうにギターを渡されて歌うなんて、なかなか普通、勇気がいるものだ。

 そして自信のある歌を歌ってくれるだろう。彼にとっては歌える自信曲だったのだ。

 タイトルは「おーおーおー」。

 僕にとっては、忘れられない出来事のひとつ。


「野心」'06.6/28

 今日、下北沢のライブハウスに友達の企画ライブに行ってきた。

 そのスペースは本当に弾き語りには、もってこいの場所だ。そこで来月、僕も歌う事になっている。

 その日に、中古で新しく買ったギターを初めて使うことになっているのだけれど、今、この部屋にあるそのギターが、実にその日を楽しみにしているのがわかる。

 相当にライブツアーをしたと思われる、そのギター。それはぼろぼろのハードケースでよくわかる。全米中でも、ツアーしてきたようだ。

 スポットライトが好きなんだろうな。いや、ステージが好きなんだろうな。

 そんなふうに思わせる、新しくて古いギター。今はこの部屋で毎日弾いているけれど、ステージに出たくってしかたがないんだ。

 ひしひしとそれが伝わってくる。。

 困ったなぁ。。武道館に出たいって言っているようだ。このギターは、どんな道を歩んできたんだろう。それはわからないが、すごいパワーを感じる。

 高円寺の中古楽器屋で、10ヶ月くらい売れなかったギター。僕ははじめから欲しかったけれど、一度はあきらめ、それでも買ったギター。

 僕としたら、半分、助けたような気持ちもあったのだけれど、買ったその日から、ギターのパワーに押されっばなしだ。

 また息を吹き返した、生き物のようだ。ギターからなぜか強い野心を感じる。ほんと、部屋ギターではなく、ライブギターだったのだ。

 このギターにとって生活とは、ステージに出る事だったんじゃないかな。そこに命があるようだ。

 まいった。。すっかり僕は一本のギターに、魂をつかまれてしまっている。嘘じゃないよ。。こんなことって実際にある。

 このギターには何か力がある。野心がある。


「シングル三曲」'06.6/26

 今頃、こんな事を言っているのは、たぶん僕くらいなものかもしれないが。。

 その昔、、。と、言っても30年ちょっと前の事だけれど。かぐや姫の歌う「神田川」が大ヒットした。

 それはみんな知っているかな。

 僕がとても印象的に思っているのは、それから出たシングル盤の事だ。

 さて、あのビッグヒットしすぎた「神田川」の次は、どんなシングルが出てくるのか。同じようなメロディアスの歌か。。

 次に出たのは「赤ちょうちん」だった。Dmコードの押さえ方で始まる歌。「神田川」はEmとB7、、。

 この歌か。。と、思ったのは僕だけだったろうか。「神田川」はあまりにメロディアスだった。

 しかし「赤ちょうちん」も、ヒットした。何度も聞いているうちに、好きになっていった。

 そこで思うのは、僕らは「神田川」の次のシングルに「赤ちょうちん」を想像しただろうか。

 「赤ちょうちん」もいいメロディーだ。とくにコード転回が変わり、GmからFになるところ。

 僕の中の印象的には「神田川」が金だとしたら、銀くらいの存在だ。

 そして、「赤ちょうちん」の次のシングルは「」。

 これにはまいった。なんちゅうかね。やられたー。と思ったものだ。一回聞いただけで、名曲って思ったものだった。

 コードの押さえ方はD。ホントに歌の印象も「D」だった。メロディーは「神田川」よりも好きだったな。

 「妹」は「神田川」を越えるビッグヒットになると思ったけれど、ちょうどよくヒットした。

 僕は「妹」を聞いて、これこそ地に足のついた歌だなと思ったものだった。前の二曲は、どこかヒット曲という感じが残る。

 「妹」が出た頃、この歌はこのあと、20年くらいかけて「神田川」よりも、名曲と言われると確信したものだった。

 30年たって、それは本当だったか。。

 僕が今日、エッセイで書きたかったのは、この三曲の流れの事だ。この三曲、みんなならどう並べるだろう。

 ちなみに「妹」は、かぐや姫のラストシングルとなった。

 「妹」はブラチナのようだったね。あくまでこれは僕の印象だけれど。。

 これは余談だが、「妹」はなぜかビリー・ジョエルの「オネスティ」と重なる。


「季節の記憶」'06.6/23

 新しく買ったギターは、'72年製のギルドのギター。

 音のボリュームのあるギターで、とても弱くフィンガーピッキングで弾いても、やわらかく、ふわっとした音を出してくれる。

 弾いていると、なぜか、季節季節の響きもまた、その音の中に溶けているように思えてくるのだ。

 '74年の秋、'76年の夏、78年の冬。。そんな季節季節を、みんな憶えているようだ。

 僕はもちろんセカンドハンドで、このギターを買ったのだけれど、前の持ち主は、相当にこのギターを弾いていた様子である。

 '72年製なので、日本で買ったのならば、フォークブームの頃だ。

 ボロボロになっているハードケースの事を考えると、旅を一緒にするくらいに弾かれていたのであろう。

 どこかの旅館。静かに弾く、フィンガーピッキング。。そんなとき、季節の響きがギターに染みこんでくるのか。

 どの年の季節の事もよく憶えているよと、ギターが言う。 (しかし、それは'70年代のような気がするが・・)

 そんな季節を吸い込んだような音の響きを、このギターが出してくれていることは事実だ。

 僕がそんなふうに思えるように、聞いている人にも伝わるかもしれない。

 ライブで弾けるのが、とても楽しみだ。


「のり弁当」'06.6/20

 今日のエッセイについての質問はとりあえず無しという事で。。

 昨日の事、夜中にお腹が少しすいたので、近くの24時間ストアーまで行ってみた。

 ちょっとだけ食べたいだよね。そんなにお金もかけたくないしね。

 「のり弁当」がそこにあった。(ああ、のり弁がいいなぁ・・)。

 値段は380円。現在の感覚では、そんなに高くはない値段かもしれない。

 しかし僕の中の「のり弁当」は、いつでも270円だ。270円でなくては、どうしてもだめなんだ。

 そして「シャケのり弁当」が350円。

 「いったい、それ、いつのこと言っているの?」と、訊く人もいるだろう。

 答えよう。'80年代最初だ。もう25年も前じゃないか。のり弁当だって値段は上がるさ。

 あれから何年たっていようと、どうしても、「のり弁当」だけは、270円でなくてはいけない。

 「理由は?」

 説明しよう。あの長方形のパックは、縦横が、1:2.7 の比で出来ているからだ。(想像上)

 説明しよう。あの「のり弁当」の重さは、270グラムだったからだ。(想像上)

 説明しよう。「のり弁当」の高さは、270mmだったからだ。(想像上)

 ああ、ポケットに300円。300円で、30円のお釣りの幸せよ。

 「3」は、幸せの三角形。

 あれから270円の「のり弁当」も旅に出たのだろう。そして、また帰ってくる。

 帰ってこいよー。


「未来」'06.6/18

 お酒が入ると意見する友達もいる。

 でも、それはみんな現実の話。もちろんそれも大事だ。しかし僕にとって一番のテーマはいつも未来の事。

 そんな未来は、どこからやって来るのだろうか?

 日めくりのカレンダーの向こうからか。まだ書いていない日記帖の向こうからか。

 スケジュール帖の白いページからか。

 人生には何度か、確実に未来が来る場所がわかるときがある。

 今の僕にはっきりとわかるのは、未来は新しいギターのサウンドホールからやって来るという事。

 ・・・・

 こんな気分をどう伝えたらいいのかな。

 今は毎日、新しいギターを弾いている。(まあ、新しいと言っても35年前のギターではあるが。。)

 そのうち、ポロッと、未来がそこから出てくるのを知っている。まだまだ先ではあるけれど。

 いっぱいの友達がいて、会話もあり、約束もあり、仕事も待っていて、ローンもある。

 それはみんな、現在とつながっていて、その中で物事を考える事もできる。

 しかし僕は、ギターに問いかけてみる。何度も何度も。

 新しいギターは、僕にひとつの予感をくれた。それを信じている。

 そのうち、未来がサウンドホールから出てくるだろう。


「僕が今、毎日続けている事」'06.6/15

 アルバイトから帰って来て、まずはひと息。

 熱いインスタント珈琲を一杯入れて、テープルの上には、ポータブルミニディスクレコーダー(携帯MD録音機)とマイクを用意。

 中学・高校時代によくギターで弾いていたソングブックを持ってくる。

 最近、買った素晴らしいギターを手にとり、まずはチューニング。

 100円ショップで買ってきた、MDをレコーダーに入れて、録音ボタンを押す。

 そしてソングブックを開き、1ページ目から歌ってゆくのだ。ほとんどの曲は中学・高校時代のレパートリーであり、弾くのはお手のものだ。

 その昔も、よーーーく、録音したものだった。

 約1時間ほど、歌ってゆくと、まあだいたいソングブックがひととおり歌えてしまう。

 そうして、出来るMD一枚分の僕の歌。僕が中学・高校時代に歌っていたレパートリーの一枚。

 今日は加川良のMDを一枚歌って作った。

 どの歌もさんざん歌った事のある歌だ。

 ・・・・

 次の朝は、携帯MDプレーヤーに、昨日録音した一枚を入れて、バイト先の行き帰りで聞くのだ。

 あれから、30年たった僕の声。そして買ったばかりの良い音のギター。

 ずいぶんライブもやってきたし、アルバムも作ってきたし、さすがに中学時代とはちがうかもしれない。

 それとは別に、新しいギターがどれくらいの表現力があるのかがわかってくるし、勉強にもなる。

 さて、また今日も一枚、僕は作った。明日はそれを聞いているだろう。

 これが今、僕が毎日続けている事。


「良い音の楽器」'06.6/13

 先日、大きなホールのコンサートに行く機会があった。

 席はほぼいちばん前の席を選んで座った。

 アコースティックの楽器がいろいろ出てきて、その生音が音響システムとは別に、じかに聞こえてきた。

 たしかに、ちがうね。。

 それは楽器の良さによるものだろう。

 実力にもよるものかもしれない。

 はっきりわかったことは、PAなしでもたぶん聞こえていたであろうということだ。

 その楽器から、つつみこむようにきこえてくる、もわーとした音。それが命だ。

 演奏から、つつみこむようにきこえてくる、もわーとした音。それが命だ。

 あの音はどこからやってくるのだろうと思う。

 ホールの前の席できいてくると、その音の存在がよくわかる。

 クラシックの楽器なら、もっとだろうなと思う。

 良い音の楽器は、伝わっていくるものがあたたかい。それは本当だ。


「続きのない話」'06.6/11

 夜、すっかりと夜の事。それは、どこかの駅前であった。

 時は現代よりも少し前、昭和50年くらいか。私は用を終え、駅へともうすぐ着こうかというときだった。駅前には屋台のいくつかが見えた。少しお腹もすいたいた私は列車に乗る前に、少し腹ごしらえでもしておこうと、屋台で何か買い、近くの歩道に座りながら食べていた。

 駅からの帰り出てくるほろ酔いのサラリーマンが声をかけてくる。いつもの感じだ。軽く受け答えをしていると、話好きそうな30代の男もそばに座った。ダンボールの切れ端を敷いて今日の話題を話していると、「わたしも混ぜてもらうわ」とピンク色のごわごわしたスカートのスーツを着た先生風の女性も座った。

 辺りはすっかりもう暗く、風も出てきた。少し蒸し暑さも残っているので、この話は7月か9月頃の事であろう。

 メガネの男も座る。駅前でのひと盛り上がりだ。話好きの30代の男は、話をしている人のそばに移動しながら、楽しそうにしている。

 夜10時すぎかな。駅の方からアナウンスが響き聞こえ、何かあった様子であった。

 「どうしたんだろうね、今夜は変なことがありそうな夜だしな・・」

 「じゃあ、先に行かせてもらう、すまん」。そう言って、私は駅へと急いで向かった。ホーム改札は二階にあり、階段を登ってゆくと町全体が暗く、誰もいないように見えた。何かが変であり、いやな予感がよぎった。(もう、おれたちしかいないんじゃないか・・)。

 改札はまだ開いていて、列車はこれから来るようすであるが、ホームは暗く、誰も待ってはいない。どうなっているんだろう。向こうから一人の男子高校生が歩いてくる。すれちがいざまに彼は大きな声で、「ぼーーーっ!!」と声を出した。

 「もう列車は来ないのかなぁ・・」。そんな質問をしているとき、一本の列車が向こうのホームに入ってくるのが見えた。「うわっ、来た」。予想からして、最終になるであろうその列車。反対ホームというのが憎らしい。私は走った。その列車の車両は短く一両編成であった。私はうまく階段を選び、なんとか列車に間に合った。

 すぐさまにドアはしまったけれど。。

 車両の中はけっこう人もいて、普通である様子だ。私は後ろのドアのそばのシートに座り、そこにいた薄いカーキ色の服を着た、青年に声をかけた。

 「この列車はどこ行きなんですかね」「藤沢に向かっているよ」

 藤沢は私の行く方向ではないが、いずれ大きな駅に着くはずであろう。そこで降りればいい。なんとか今夜は無事に帰れそうであった。私はその薄いカーキ色の服を着た青年の隣に座った。よく見れば、かなり泥でスボンが汚れていた。私が「今夜は変な夜だけれど、なんとかなりそうだ」と伝えると、青年は「そうかな?」と答えた。

 「そのドアの辺りはあぶないよ」「どうしてだい?」「どうしてもさ・・」

 列車は夜を走ってゆく。そこそこ人は乗っているし、何かが起こるという風でもない。蒸す夜であったので、途中、若者が真ん中の窓を開けようとして、席の上に乗って、思い切り窓を横に開こうとしたら、窓は外れてしまった。バランスを崩す若者。内側に外れた窓。そして、何とかその窓を元にはめようとした。

 「何やってんだアイツ、危ないじゃないか!!」

 すると、車両員らしき軍服のような服を着た二人の男がやってきて、窓を元通りにはめようとした。しかし失敗して、車両の外に落としてしまったのだった。ぐぁしゃーんと遠く聞こえる大きな音がして、車両は変な揺れ方をしだした。どうやら、車輪にひっかかったらしい。

 線路の途中、列車は止まり、修理のために車両員は降りていった。カーキ色の服を着た青年は、頬杖をついている。これからどうなるのか。不安な時間が流れていた。

 ・・・・

 これは、ついさっき見た夢である。どこまでも続きを見られそうであったが、つい目を覚ましてしまった。この話の続きは誰も知らない。

 僕の見る夢はだいたいこんな感じである。知らないどこかから物語は始まり、不思議な何かの力にいつも巻き込まれてゆく。


「古いウッドベース」'06.6/8

 先日、ホールのコンサートで、古いウッドベースが弾かれているのを見た。

 弾いている人も白髪になっていたが、ウッドベースの方はもっと年とった感じがあった。あれだと100年くらいはたっているのではないかな。

 ウッドベースは大きい。だいたい人の高さほどある。ボディも大きい。楽器の中では、象のようなイメージか。

 見ていると、その古さは、なんだか、楽器の範疇を越えて、おじいさんに近いようだ。

 100年以上も前の楽器であるならば、ひとつの人格がそこに出来ているような気がした。

 名前があってもいいな。ウッドベースやコントラバスと呼ばれるだけでなくて。

 犬にも象にも名前があるように。

 「権左右衛門」とか「ヨシオ」とか。でも普通外国製だよね。「グランドニッヒ」さんとか。。

 楽器に名前が付いててもいいよね。名字がついててもいい。ハンドクラフトの楽器であったなら、制作者の名字かな。

 愛称の付く楽器はあるだろうなぁ。名前を付けてもいいのに、なぜしないのかな。

 とにかく先日見た古いウッドベースは、ひとつの名前を持っているようだった。


「12弦ギター」'06.6/5

 先日、友達が12弦ギターを買った。

 とても欲しかった、その気持ちがよくわかる。

 僕もまた5年くらい前に、12弦ギターを買った。欲しいなあと思ったのだ。

 12弦ギターの響きがあれば、何でもできそうな気がしてくる。新しい音が作れそうな気がする。

 同じ楽曲でも、新鮮に歌えるような気がしてくる。

 そう僕も12弦ギターを買った。今はほとんど弾いていないが、買った日は相当に嬉しかった。

 僕は思う。ギター弾きは必ず12弦ギターを一度は買ってしまうと。。

 だから、12弦ギターを買ったと言ったならば、それは100パーセント僕は納得する。

 それが、2万円だとしても。5万円だとしても。15万円だとしても。

 みんな一度は12弦ギターを買ってしまうのだ。

 本当にそうなんだ。そういう時期が必ずある。

 必ず来る。


「歌が聞こえるとき」'06.6/2

 歌はどこから聞こえて来るんだろう。

 大きなCDショップの試聴コーナーからか。

 街角のショップで耳にする有線からか。

 たまたま訪ねた工場のラジオからか。

 友達の車に乗ったとき、ガチャと入れたカセットからか。

 深夜テレビの音楽番組で、今月の注目盤のコーナーからか。

 大きな街角で、人だかりのあるストリートシンガーの輪の中からか。

 拍手とともに、出てくる舞台からか。

 僕は思う。たぶん、その歌が聞こえてくるのは、僕らが帰ろうとするときだ。

 知り合いの出演者が終わり、次の人がステージで唄おうとするとき、

 「じゃあ」と挨拶をして、お店を出ようとするときだ。

 そのとき、歌は流れてくる。もう、すっかり帰ろうとするとき、歌は流れ始める。

 耳は、後ろながらも、その歌にピンとくる。

 そしてドアを開け出てゆくか、しばらく残るかは、本人次第だ。

 でも、きっと、こんなふうに帰ろうとするとき、歌は聞こえてくる。

 歌との出会いはいつもこんなところにある。


「そんな、おじさんの話」'06.5/30

 あまり電化製品を持っていないもおじさんを訪ねた。

 すると、なんと液晶テレビにデジタル放送が映っていた。先日来たときは普通の小型テレビがあったのに。

 「あれっ、やっぱり壊れちゃって・・」

 「で、どうしたの?」

 「分解してね。ひとつひとつ、燃えないゴミの日に出したんですよ。分解すれば持ってゆくのね。何週にも分けて出したんですよ」

 「へえー。でもさあ、ブラウン管はどうしたの?」

 「そう、ブラウン管だけ残ってねー。だめかと思って、最後に出したら持っていったよ」

 「あれなんじゃないの。清掃の車の人も、徐々にテレビを分けて出してるがわかったんだよ」

 「俺もそう思うよ」

 本当にそうかもしれない。


「録音メモ考」'06.5/27

 ギターを弾いていて、良いフレーズが出来るといつも録音するようにしている。

 もうずーっとそうだ。

 そうして残しておかないと、忘れてしまうからという理由が一番大きい。

 3分前の事でも忘れてしまうからね。次に日になったら、まったく思い出せないという状態。

 何かアイデアが出てきたならば、すぐに録音ボタンを押して、歌詞とメロディーを作りながら唄いはじめる。

 そのぶん安心して、自由に唄うことができる。精一杯の感覚で。。

 しかし、まあ、そう簡単には一曲になるわけもなく、「あはは」で終わってしまう。

 次の日も、なんとなく、続きを作ってみるけれど、進展はなし。そしてボツにして忘れてしまう。

 確かに最初はいいフレーズだなと思ったんだけどね。

 ・・・・

 それからけっこう時間がたってから、思い出したように録音メモを聞いてみると、意外とどれも良いフレーズだと気付く事が多い。

 (何とかなりそうだな・・)

 唄うときとは別の「聞く」という感覚で、自分の創作を聞いてみる。

 まるで、子供の才能を伸ばすかのように、自分の中でイメージを広げてみる。

 押し出す力と引く力が、創作には必要なんだと思う。この二段階がないとうまく進まないようだ。

 キーポイントは、一度すっかり忘れるという事かもしれない。


「リヤカーの歌」'06.5/25

 同じ街の中で、また部屋を借りた友達は、リヤカーを使って引越しをした。

 リヤカーを時間単位で貸してくれる家があったのだ。

 もう10年くらい前かな。リヤカーでの引越しだなんて、今はもうまったく見かけなくなった。

 また別の友達の引越しをリヤカーで手伝った事もあったが、リヤカーは偉大だった。

 立ててあるリヤカーのタイヤを回した事があるかい? いつまでも回っているあの不思議さ。

 下町の古いアパートに立ち寄ると、一台のリヤカーがしまわれていた。

 タイヤの空気はなかったけれど、その昔は大活躍した事だろう。

 ・・・・

 僕は車の免許はもともと無く、唯一持っていた原付の免許も無くしてしまった。

 自転車に乗ったり、歩いたりするのはとても得意だ。

 僕が君のために駆けつける事があるなら、何が出来るだろうと思う。

 財布事情が厳しく、飛行機や電車やタクシーに乗ることや、ワゴン車を出す事が出来なくても。

 どんなふうに君が困っているかも、まったくわからなくても。

 その解決法のアイデアが見つけられないままであっても。

 僕はしばらく考えて、リヤカーを借りるだろう。そして走り出すだろう。

 リヤカーなんてまったく用がないかもしれないが。電車の500倍の時間がかかるかもしれないが。

 僕にはそれしか思い浮かばない。


「地味だった歌、最高だった歌」'06.5/23

 小学校三年のとき、兄の影響もあり、洋楽ヒットポップスのシングル盤をずいぶんと集めた。

 熱中して聞いていた、その二年間。。

 最高だった歌がある。買ってきたもののすごく地味だった歌もある。これがヒットしたのかと思うほどの。。

 あれから、ずーっとたった今年、僕はまた一枚一枚、そのときのシングル盤を集めた。

 ほぼ全部集まったところで、おかしな事を発見した。

 聞いていた当時、すごく地味だと思っていたヒットシングルは、今聞くと、すごく完成度高く、今聞いても新鮮なのだ。 

 そして、最高に気に入っていたノリノリの大ヒットシングルは、今聞くと、恥ずかしいくらいに大げさなサウンドであった。

 当時、どうしてこの曲がこんなに大好きだったのかと思うほど。。

 不思議だった。このことが。。

 しかし考えてみると、自然に納得する理由も考えられる。

 地味なのに、そこそこヒットした歌は、やっばりそれなりにも、地味ながらもヒットする楽曲だったのだ。実に渋い歌だった。

 最高だった歌は、すぐにヒットチャートを登ったキャッチーな歌だった。妙に印象的なデフォルメされたサウンド。。

 地味だった歌と、最高だった歌は、なぜか今、立場が逆になっしまった。

 うさぎと亀の話のように。。・・ちょっと無理があるか。

 その二曲以外は、聞いた当時のままの印象であった。


「いいぞう」'06.5/19

 10年ほど前、同じ街に住んでいた友達が、よく言っていた口癖があった。

 それは、、「いいぞう」だ。

 ライブで盛り上がるような事を、その人がやったとき、その声はかかる。

 街なかで、ちょっと変わったオリジナル野郎とすれちがったときにも、その声はかかる。

 「いいぞう」

 最近の僕も、この言葉をよく使っている。そんなに大きな声ではないが、そっとつぶやくのだ。

 エレキギターケースを背負った学校帰りの中学生を見かけたとき。。

 黒の生ギター用のハードケースを持って、電車に乗り込んでくる若い女性を見るとき。

 そのハードケースに「Martin」の文字を見るとき。

 もらったと思われる電化製品を持って、駅のエスカレーターに乗っている若者と見るとき。

 どこかの壁にサッカーボールを蹴り当てている小僧を見るとき。

 携帯プレーヤーのiPodをしている、初老のおやじさんを見るとき。

 他、いろいろ。。僕はこの言葉をつかってしまう。

 「いいぞう」。僕らはまだまだあきらめていない。


「もののかわり」'06.5/17

 町なかを回り歩いていると、タヌキの置物もいろいろあるのだと知った。

 よく見るタイプから、まっすぐ前を向いたもの、もうちょっとリアルなもの。

 調べてみると、「他を抜く」という江戸時代からの縁起物であるということなので、いろいろあって当然だ。

 しかし、その昔はやっぱり今のタイプとはちがっていただろう。

 現代のものは、どこか漫画チックでひょうきんだ。

 タヌキの置物だけではない。招き猫もそうかもしれない。大黒さんは、最初はもうちょっとやせていた。

 花札の絵柄も、現代ではどこか漫画チックだ。古い絵柄はもうちょっと日本的だ。

 古いトランプの絵柄もそうかもしれない。

 「もののかわり」はしかたがないとは思う。しかし、その流れが、漫画チックにどれもなっているような気がする。

 それで良いという人も多いだろう。現代にとけ込んでいるともいえる。

 古くからある物で、漫画チックに変わった物には、必ずその前のスタイルがある。

 そっと夢に現れるときの姿は、古い姿であるだろう。


「忍びの者」'06.5/14

 いつかのテレビ。東南アジアかどこか。

 河か海の上に浮かべた大きな葉っぱの上を走ってゆく人を見たことがある。昔の忍者のような、その人。。

 ・・・・

 アルバイトで、僕は町中を回る仕事をしている。

 もう長い。17年。。

 普段は普通に回っているが、時間のないときはとても急ぐ。場所の情報の何もかもを熟知しているので、とにかく早い。

 自分でも驚くのだが、そんなときはほんと静かなのだ。まるで忍者ではないかと思うほど。 

 僕は早足で歩きながら、忍者の事を思ってみた。

 忍者。。現代で言うところのスパイという感じか。いやちがう。忍者とは忍びの者だ。

 とにかく音がしないのだ。それでいて早い。抜き足差し足とは言うけれど、それはきっと忍者言葉にちがいない。

 顔の半分に紙をつけたまま、それを落とさないで一里を走りきる訓練とかするらしい。

 もしオリンピックとか出ていたら、サーッと一位を走り抜けてしまうのではないか。

 走り高跳びとか、すげージャンプしたりして。

 とにかく特殊訓練を受けていたにちがいない。幻ではなく、現実の話として。

 そこには何か、極めた技術と、信じがたい能力が備わっていたと信じる。

 10センチくらいの塀の上を、走り抜ける事が出来るような能力。

 それらの秘密については、あまり明かされていない。映像も残っていない。人もいない。

 秘伝書はあるかもしれない。それはきっと国の宝だ。

 僕が素晴らしいと思うのは、音がしないという事実。極めた人たちはきっと音がしない。


「塗り絵効果」'06.5/11

 先日、必要に迫られてチラシにパソコンで色をつけた。

 白黒のイラストに一色塗っていっただけだけれど、なんとも集中した時間が流れた。

 パソコンでの作業であるために、何度も色を塗れ直せるので、何度も試してみた。

 ほんのちょっとのちがいで、かなり印象も変わってくる。

 一度は数色で塗り上げたものの、どうもしっくりこなくて、やっぱりやめたりした。

 色を付けるというより、もうそれは塗り絵の世界。

 パソコンだと、いろいろ色が試せるので、感覚が集中してくるのがわかった。

 他の色との兼ね合いや、塗り具合の自然さを出すための努力。

 ふと気が付けば、一時間くらいたっていた。そして出来た作品

 ・・・・

 塗り絵にむずかしい理屈はない。パソコンであれぱ、無限大に近く色が選べる。

 やってみるとわかるが、実に楽しい時間が過ぎてゆくのだ。

 その日いろんな事があったとしても、、。僕はこれを塗り絵効果と呼びたい。

 思い出してみれば、塗り絵は僕らにとって最初の芸術活動ではなかったか。


「ギター演奏」'06.5/8

 最近、せっせとギター弾き語りのアルバムを集めている。

 昨日も、ジャクソン・ブラウンの「ソロ・アコースティック vol.1」を買ってしまった。雑誌のインタビューを読んで、そのこだわりに同感してしまったのだ。

 聞いてみると、それはライブアルバムで、僕とはちがい大きなホールでやっていた。録音も大変に良い。実際にそのホールで自分が聞いているようだ。

 マイナー調の一曲目が終わったときにくる大きな拍手。それは生ギター一本の良さが十分に伝わったのが僕にもわかった。ソロということではなく。

 そのあとも次々と、ギターが弾かれてゆくが、ちゃんとアレンジされていて、生ギター一本といえど、豊かなサウンドを作りあげていた。

 どの曲も、オリジナルアルバムでは、バンド録音であったろうと思われる曲ばかりだ。しかし、初めて聞く僕には、まるで最初から生ギターで演奏されていたかのような錯覚を感じた。

 お客さんは、きっとどの曲もよく知っているんだろうなぁ。それを生ギター一本のアレンジで歌われるとき、また新鮮に歌が響いてくるのだろう。

 大きなホールいっぱいに響く生ギターの音は、小さな楽器という印象からはとても遠い。僕がいつもやっているライブスペースとは、何かちがう。ここには、はっきりと、バンドではなく、生ギターをあえて選んだ良さが出ている。

 そして、どの曲も昔ながらのフォークソングに聞こえない。その楽曲が浮かびあがっている。

 ・・・・・

 僕はいままで、生ギター一本で、バンドの音を再現しようと一所懸命だったような気がするのだ。ビートとベース、ちょっとしたソロギターを入れたりして。

 そして、バンドで演奏するときも、ソロで歌うときも、ギター演奏はほとんど近かった。それはやっぱり気持ちがどこかバンドの音を意識してたからだろう。

 しかしよく考えてみると、ギター一本なら、やっぱりそのものの音を作るべきなんだな。バンドの音に似せる必要など、どこにもない。

 このアルバムのように、会場いっぱいに響かせることが可能なのだからね。


「僕らが笛を吹く日」'06.5/5

 先日、友達のライブで笛の演奏を聞いた。

 その姿を観て、小学・中学時代の笛修行のことを思い出した。

 学校時代の楽器といえば、なんと言っても笛。最初の最初はハーモニカかな。ピアニカはやらなかった。

 僕は本当に笛が苦手中の苦手で、毎回苦しい思いをして、楽曲の指使いを暗記して演奏したものだった。それでもまちがいだらけで。。

 ああ、、笛は苦しみの楽器。。九九の暗記とかわらなかった。それでも、かなりの年数を吹いていたはずだ。ひとつの楽器として。

 しかし、高校を卒業してからは笛はまったく吹いていない。普通だったら、笛は「親しみのある楽器」となるはずなのだろうけれど。

 僕の場合はそうならなかった。親しみの楽器となった人も多少はいるだろうな。でも、休日とかに笛を出して吹いている大人にはなかなか会えない。

 おかしい。何かおかしい。学校教育よ、何かちがうぞ。

 一本の筒と自分の息で奏でる楽器。そんな一番身近にあった楽器は、なぜか一番遠くなった。こんなことってアリか?

 と、言ってはみるが、無人島に行ったなら、笛を作って吹くのはまちがいない。

 古(いにしえ)の人たちは、笛を楽しんだであろう。原始の生活をしている人たちには、今でも笛こそが親しみの楽器ではないかな。

 そんな気持ちに立ち戻りたいが、その道はなぜか遠い。


「弾き語りアルバム」'06.5/3

 バレーボールがバンド演奏だとしたら、卓球はソロライブかもしれない。

 バレーボールは、選手全体の流れというものが見えてきて楽しい。そして卓球は、個人であっても、体全体の動きがよく見えてくるだろう。

 どちらも十分に味があるし動きがある。ソロはバンド演奏に負けないと僕は言いたいが、それはオーバーか。いや、そんなこともない。

 古代の人たちも、ひとりで演奏したり、みんなで演奏していたことだろう。比べられないくらい、生き生きとして。

 僕は最近とくに、弾き語りアルバムの良さを今更ながら見直している。物足りなさではなく、ギター一本の豊かさがよく出ているアルバムが良い。

 より気持ちや歌に近い演奏。ビートがしっかりと伝わってくる演奏。自由な筆さばきのような演奏。何度聞いても、あきない演奏力。

 卓球をやっている人が僕のソロライブを見て、「ああ、卓球みたいだ」と思えるような弾き語りが理想だ。

 そんな弾き語りアルバムを、僕もそのうち作ってみたい。いろんな音色を用意してね。


「三杯のコーヒーの必要」'06.4/21

 僕の朝は意外と早い。

 目が覚めて、ほぼすぐに作業をする事が多いが、とりあえずコーヒーを飲まないと何も進まない。

 特に冬はそうだ。熱いのがいいね。一杯目のコーヒーは、とりあえずの目を覚ますためのコーヒー。

 それからほぼ二時間くらいしてから駅へと出かける。早く起きてはいたが、体が動くのはこれからだ。

 途中の自販機で缶コーヒーを買う。それは体が起きるためのコーヒー。

 又の名を、リズムコーヒーとも言う。歩くというのはリズムであり、それにうまく乗ってゆくために必要なのだ。

 それからまた電車に30分ほど乗る。このときはまだ僕の一日は始まっていない。ぼんやりと今日の事を想う。

 そして駅を降りて、また20分ほど歩く。駅を出たところに、100円自販機があり、僕はここでもよく缶コーヒーを買う。

 自分でも、さっきも買ったなぁとか思いながら。。

 あと20分もしたら僕はアルバイト先のドアをあけ、おはようございますと言わねばならない。

 やっぱりその前に、コーヒーを飲みたい。今度はちゃんとしたコーヒーの一杯として。それはシャッキリコーヒーとも言う。

 だいたいこの三杯のコーヒーがあって、なんとか一日が始まる。もうずっとそうしているので、体もそう思っているのだろう。

 これは大事な三段活用であり、どれが抜けてもうまく進まないようだ。


「紙飛行機」'06.4/19

 ゆっくりと飛んでゆく紙飛行機は美しいもの。

 もしも遠くまでゆくとしたら。僕はそこにひとつのイメージを見る。

 ・・・・

 さて、紙飛行機。もう何十年も実は飛ばしてはいない。

 小さい頃は、遠くまで飛ばそうと高いところから投げたり、

 円をいつまでも描くように、折り方を工夫したものだった。

 ・・一枚の紙でね。

 今日の話のテーマは、一枚の紙の方ではなくて、飛んでゆく姿の方。

 飛ばし方にも、友達それぞれに個性があり、僕には僕なりの飛ばし方があった。

 どこまでも空気に乗るように、おまじないをかけながら。。

 そーっと、指から離れ、紙飛行機はゆく。スピードがいつまでも変わらぬように。

 高いところから飛ばすならともかく、普通だったなら20メートルも飛ばないであろう。

 遠くまで、もしかしたら遠くまで飛ぶんじゃないかと思いながら、僕は飛ばす。

 紙飛行機が自分で飛んでゆくのではなく、すーっと、最初の力のままで。

 (本当に飛んだらどうしよう)。そして遠くまで飛んでゆく紙飛行機。

 そこに僕はひとつのイメージをみる。できるかもしれないと。

 いつか、ギターと歌でやってみたい。


「弦をゆるめる」'06.4/17

 この部屋で使っているギターは基本的に弦が張りっぱなしになっている。

 それでも、実家に帰るときや遠出をするときはいつも、ギターの弦を軽くゆるめて行くことにしている。

 もう、ずーと。

 なぜ、そうするのかと訊かれても、うまくは答えられないけれど、「いつものギターにお休みを」という感じかな。

 それもあるが、二三日ほっておくと、ギターのネックが反ってしまいそうな気がするのだ。

 ギターの弦をゆるめると、なんだか部屋に満ちている緊張感も、ゆるむようだ。部屋にもOFFを。。

 僕はこのことを、最初の実家帰りのときから、必ず続けている。

 それは、いつもお世話になっているギターのことを、とても気にしているからだ。

 でかけてくるよと、ただそう伝えているだけでしかないのだが・・。

 それでもギターには伝わるだろう。


「アリガトさん」'06.4/13

 僕の名前は自分で思い出せる限りだと、やっぱりひとつだ。

 それでも、この年になって誰かになれるとは思わなかった。

 ・・・・

 ちょうど二ヶ月前の事。

 僕は下町の一軒の中華屋さんに、今日が最後と暖簾をくぐった。カレーライスを食べるために。

 そこに僕は10年以上、仕事の用でたずねていたのだが、担当が次から変わってしまう事になったのだ。

 (新しい担当の人になることだし、僕はそっと去ろう・・)

 最後に好きだったカレーライスを。。と、思ったが、人でいっぱいで、つい定食にしてしまった。。失敗・・。

 そんな別れのあった二ヶ月前。

 そして今日、たまたまその中華屋さんの前を自転車で通った僕は、何も悩まずに自転車を止めた。

 「カレーを食べなくっちゃ!!」

 二ヶ月前、カレーを食べそびれたおかげで、僕はそれを理由に中華屋さんに入った。

 こんなにも簡単に、自分との約束を裏切るなんて、、。そんな僕が好きだ。

 「こんちはー、カレーください」「最近、担当変わったよねー」

 「そうなんですよー」「この近く、まだやってんだー」「ええ、いますよー」

 そんな会話のあと、しばらくして、カレーが出てきた。「おまちー」。何も言っていないのに、大盛りで。

 それだけで気持ちが伝わってきた。

 カレーを食べ終わる頃、店には僕だけのお客さんになった。「ごちそうさまー」 

 「どうもね」。店のおばあさんが、僕に微笑みかけ、店の奥の厨房から、おじさんの声がきこえた。

 「ありがとさーん、ありがとさーん」

 僕は今日、「アリガトさん」だったのか。。コノミセニキタボクノナマエ。


「タンバリン」'06.4/11

 タンバリンは不思議な楽器だ。

 レコーディングに使われた音を聞いていると、オーケストラやドラムセットよりも大きく入っていることが多い。

 歌謡曲でもポップスでも、ロックでもフォークでも、タイバリンの存在は大きい。

 目立つようで目立たず、自然に楽曲を盛り上げている。

 タンバリンの音って相当に古い由来があるではないかと思う。

 僕ら始まりの楽器は、まずは太鼓だったろう。次はタンバリンかな。枝に良く鳴る木の実をいっぱい付けたりしてね。

 そして僕らの祖先もまた、こう気付いたのであろう。

 「タンパリンを入れると、なんでもリアルになるなぁ」と。

 ・・・・

 そう、きっとタンバリンを入れると、なんでもリアルになるのではないか。

 歩いているとき、勉強しているとき、カレーを食べているとき、自転車をこいでいるとき、、etc 。

 ためしてはいないが、たぶんまちがいないだろう。

 古代の人は、片手にいつもタンバリンを持っていたにちがいない。

 もうすぐ化石となって、それは発見されるだろう。

 タイコとタンバリンには、いにしえの響きがある。


「歌を見ていた人」'06.4/8

 先日のライブでは、初めてお店に来た人がだんぜん多かった。

 出演は四組で僕は最初に歌っていた。その間にも次々と来るお客さん。

 いつもどうりにステージから歌っていると、お店の一番奥にいた人が、なんだかとても懐かしい人に思えた。

 (ああ、初めて会う人でも、あんなに懐かしい人っているんだな・・)

 お店の一番奥なので、はっきりとは顔が見えない。しかし、いつも来るお客さんではないのは確かだった。

 ライブが終わり、後片付けをしなから、僕は思っていた。懐かしい人と言っても、まず友達にならなきゃな。。

 後ろに行って、声をかけようと思っていると、あれれ、その人は僕らの古い古い友達だった。

 最後に会ったのも、もう10年くらい前だ。それもここだったかな。「あらら、久し振り・・」

 打ち上げも一緒で、今日のライブの事を話してくれた。

 「今日、歌ってくれた筆箱の歌。あれがとってもとっても懐かしくって、ずっと忘れていたものを思い出したって感じだったよ〜。」

 そうか・・。♪そういうことってあるだろう。めぐりめぐる筆箱のうた。きみとはどこかで、会ったような気がする。


「携帯メール送信に思う」'06.4/5

 伝書鳩を空にはなすとき、普通だったら願いを込めて、目指す方向にはなすよね。

 そんな気持ちって大事だと思うんだ。

 電波もやっぱり空を飛んでゆくものなら、僕もそうやって、メールを送信してみたい。

 その人の住む方向に向かって「送信」ボタンを押す。

 僕には、それが自然な姿のような気がする。携帯メールも最初の頃は実際にそうした人がいるかもしれないな。

 届くまでの時間も、距離に比例しているとよいのに。

 (ああ、今、空飛んでいる飛んでいるんだろうなぁ。もう着いたかな・・まだかなぁ・・)

 ピピピピピピ・・。着信。

 空を飛んできたメールなんて素敵じゃないか。

 僕が携帯電話機能に欲しいと思うのは、簡単なマップと方位磁石が一体化している画面だ。

 メールを送りたいと思う友達の住む町の方向がわかるように。

 ・・・・

 会社の昼休み、ビルの屋上に来た友達がいた。

 「何してるの?」「いやぁ、海外にメールしようと思ってね。。ヨーロッパって、こっちだっけ?」

 そんな会話が、あるといいなと思うのだ。



「ポスター・シングル・今むかし」
'06.4/3

 以前、友達のコンサートにホールにでかけたときのこと。

 チケット受付で列んでいると、後ろの初老のおじさんが、奥さんにこう言っていた。

 「ほら、あのポスターを見てごらん。こんな同じようじゃないか。最近はコンピューターでみんな作っているから、ああなっちゃうんだよ。昔はねぇ、ひとつひとつ手で作っていたんだよ。みんな個性があったんだ」

 (たしかにそうかもなぁ。。でも、まあ最近のポスターとかチラシだって同じようには見えないけどなぁ。。)と、思ったものだった。

 そんな事があった。

 ・・・・

 最近、30年ほどまえの洋楽レコードのシングル盤をもういちど集めようと、中古レコード屋さんにて、いろいろ探して回った。

 同じタイトルのレコードでも、'80年代以降に作られたジャケットは、やっばり何か新しい感じが伝わってきた。何かがちがうんだよね。

 今回、'60年代終わりから'70年代最初のシングルレコードを集めてみて、気がついた事があった。それは、多くのタイトルがオリジナルな書体で書かれていることだ。

 昔の映画ポスターでよく使われていた、典型的なダイナミックな書体もあるのだけれど、シングル盤一枚一枚にタイトルロゴを作っているのも多い。イメージなんだろうなぁ。そんなに力が入っているわけでもなく、どれも味が出ている。

 もし今、同じタイトルでシングル盤が出たとしたら、もうちょっとオシャレな感じになっているかな。

 ライブや演劇もチラシもそうかな。今はパソコンで作る人も多いから(自分もそうだが・・ )、タイトルロゴが、オリジナルでうまく作れないのは確かだ。

 シングル盤を買っていた当時は、これは手書きのタイトルだなんて気にもしなかった。

 ただそれは、「これ、これだ!!」と思わせる目印になっていたのは確かだった。


「ピットかプリット」'06.3/31

 日々いろいろと紙貼り合わせ活動が多い。

 小さな冊子を作るときも、オリジナルのCDジャケットを作るときも、紙を貼る。

 その度に登場するのがスティックのりだ。定番はピットプリット

 ついさっきも使わせてもらったが、このステッィクのりを発明した人には、とても感謝したい。

 こんなに使いやすいものはなかなかない。

 僕が本当に小さかった頃は、チューブ糊が全盛だった。チューブ糊にもそれなりにアイデアがあり、素晴らしい。

 しかし、やっぱり糊がいろんなところに付いてしまう。貼りつけた紙の端っこから糊がはみ出してきて、きれいに仕上がらなかった。

 糊ってそういうものだった。僕は特に糊の扱いがへただった。本当にへただった。きれいに仕上げるなんて奇跡に近かった。

 しかし、あれはいつかなぁ。僕が小学3年くらいだから'71年頃か。。「ピット」と「プリット」が登場したのだ。

 それは画期的だった。「ピットある? ピット」と言うように、すぐに僕らの中に馴染んでいった。筆箱の中にも入ったしね。

 自分では「ピット」を使っているつもりなのに「プリット」だったりもした。どちらも似ているというか、形的にはそっくりだった。

 それからはるばる30年以上。僕の生活にスティックのりはかかせない。僕だけじゃない、日本中、いや世界中のみんなもそうかもしれない。

 特に最近のステッィクのりの接着力には素晴らしいものがある。進化も確実にしているのであろう。

 文房具は、いろいろ素晴らしい発明が多いけれど、スティックのりの発明は、完璧に近い。

 ふと、思う。もしスティックのりが発明されてなかったら、今でも僕らは、糊で苦しんでいるのではないかと。

 ピットとプリット。僕がヨボヨボの老人になっても、「ピットかプリットある?」と尋ねるだろう。

 そして2000年後も、スティックのりは生きながらえていると確信する。


「レコードをかける」'06.3/28

 ここ最近、昔のシングルレコードを買ってきているので、自然とレコードプレーヤーを使っている。

 CDプレーヤーに変わって、ほぼ15年。もうすっかりCDに慣れてしまうと、レコードもあまり聴かなくなってしまった。

 いろいろと面倒くさいよね。

 それは、まるで封筒を誰かに送るようだ。

 でも、考えてみれば、大事な内容であればこそ、電子メールより手紙の方が気持ちが伝わったりするものだろう。

 レコードをかけるという作業も少し慣れてしまえば、まったく自然な作業だ。

 一杯のコーヒーやお茶を入れるのと同じ。

 特に僕が良いと思うのはシングル盤だ。CDだと、ほとんどアルバムの中で選んでかけてしまう。

 しかしEPのシングル盤は、しっかりと手と目がつかめる実感がある。一曲なのにCDよりも大きい。

 そして、トーンアームに指を乗せる感覚がなんとも良い。

 かつて僕の生活の中心にあったはずのトーンアーム。そしてレコード針。

 レコードが終わると自動で戻ってゆくその姿。

 僕は思ったね。レコードをかけるという流れのある行為は、精神的安定をくれるのだと。。

 やっぱりお茶を入れるのと似てるかな。

 医者の処方箋にEPレコードを食後一日三回かけるという薬がでるかもしれない。

 レコードプレーヤーは捨てないように。


「ああ、B面」'06.3/24

  小学生の頃、20枚ほど集めた洋楽ヒットシングル盤を最近また探している。

 その理由のひとつが、B面の曲をほとんど忘れてしまったからだ。

 ・・・どんな歌だったろう?  なぜ、こんなにも思い出せないんだ。。

 A面のヒットシングルは、どこかで聞く機会も多いだろうけれどB面はほとんどない。

 せっかく買ったシングル盤なのだから、もったいなくてB面も何度も聞いたはずなのだ。

 きっと、今聞くと懐かしくて、とても良いにちがいない。。

 すごく楽しみだ。

 中古盤屋で見つけてきた、何枚かの持っていたシングル盤。

 A面を聞いて、、それからB面。。

 (どんな歌だったけなーー)

 流れ出すサウンドと歌。

 ブルースロック調だ。。(ああ、、これかぁ。。)

 何枚も買って聞いてみたけれど、どれもなぜか、ブルースロック調だ。そういう決まりでもあったのか。

 予定では、B面も録音して聞くつもりだったけれど、それもしなかった。。

 結局、またA面が聞きたくなってしまった。

 ああ、B面。

 ・・・・・

 ああ、B面。僕だったらやっぱり、A面とひとつの作品として、どちらも味が出てくるような二曲を入れたいな。

 そして、だんだん地味ながらもB面の曲の魅力に引き込まれてゆく。。A面よりも好きになるようなB面の曲にしたい。

 でも、よーく考えてみると、昔のヒットシングルのB面には、良い曲はなかなかなかったかもしれない。

 だって、良い曲だったら、次のシングル曲としてとっておくと思う。それは事実だろう。


「駅中コーヒーショップ」'06.3/21

 僕の住んでいる街の駅がリニューアルオープンした。

 改札を出て右には、コーヒーショップ。どこの駅にも、よく見かけるコーヒーチェーン店だ。

 テーブルは二十くらいあるかな。まあ、狭くはない。

 オープンした初日、朝、のぞいてみると、もうお客さんも入っていて、モーニングを食べているようすだった。

 (おっ、最初から、なかなかイイ感じじゃないか。)

 帰りにまた、のぞいてみると席はほとんどうまっていた。

 (まあ、初日だしね。)

 次の日もその次の日も、駅中コーヒーショップは、とてもにぎわっていた。

 僕が驚いたのは、改札を出た人が、吸い込まれるようにコーヒーショップに入ってゆく姿だ。

 どのテーブルも人でいっぱい。満席だ。こんなに、みんなコーヒーが好きだったのか。

 つい一週間前までは、何もなかった場所なのに。。これがチェーン店の強みなのか。

 僕はガラスのウインドウから、不思議さをこめて、駅中コーヒーショップを眺めてみる。

 (なんだか、ずっと前から、ここにあったみたいじゃないか・・)

 そんなことはない。事実、そんな事はない。


「いつか聞いたなんとなく良かった歌」'06.3/17

 ロングヒットした歌は、ジャンルにかかわらずそれなりに良いと思うんだ。

 現代だけでなく、何十年も前の歌でも。世界中のどこの国の歌でも。

 以前、僕より若い友達と'70年代最初の大ヒットシングルを一緒に聞いたとき、友達は「俺には、この歌の良さがわからないっすよー」と言った。

 たしかに、古いサウンドの歌だしね。その気持ちもわかる。でも、大ヒット、そしてロングヒットした歌には、耳に残るものが必ずある。

 と、思うんだ。

 ・・・・

 アーティストのアルバムを買うとき、もちろん聞きたい曲が入っているアルバムを買う。

 中古ストアーで、ふと見つけて買ってしまうのが、ベスト盤。知っている曲もあるし、知らない曲も多い。

 なんとなくアルバムを聞いて、そのまままた何年かして、聞いてみると、妙に耳に残っている歌になっている事が多い。

 それもそのはずなのだ。ベスト盤というだけあって、それなりにヒットした歌が多く入っている。

 僕がよく知らないだけで、そのアーティストのファンにきけば、「すげーヒットした名曲だぜー」と言われるだろう。

 ・・・・

 そう、僕がよく知らないだけで、ヒットした歌はやっぱり耳に残る。時代をまさぐる力がある。

 タイミングと歌の残り味がとてもさわやかだ。まるで、いつかどこかで聞いたなんとなく良かった歌のようだ。

 実際、そうかもしれない。

 ちなみに、今聞いているアルバムは「キャット・スティーブンス」のベスト盤。この人、ヒットメーカーだったのですね。


「席のドラマ」'06.3/15

 もう20年以上、お世話になっているライブハウスがある。

 席の数は24。

 マスターはいつもお客さん全員に座って欲しいという気持ちでいるので、多くお客さんが来ると、困ったなぁという顔をする。

 椅子はジャズ喫茶ということもあり、座り心地は良い。老舗のジャズ喫茶からもらい受けた椅子もあるという。

 お客さんがくる。マスターは「好きなところに座って下さい」と答える。

 『好きなところ』・・そこがキーポイントだ。カウンターを含めて、六つの座りどころがある。

 右前並び。右奥。左前並び。真ん中。真ん中後ろ。そして一番後ろのカウンター。

 それぞれの場所に、それぞれの聞こえ方というものがあると思う。そして、よく来るお客さんたちは好きな自分の席を知っているようだ。

 カウンターは、ステージから一番遠いけれど、歌そのものが、はっきりと聞こえてくるようだ。

 真ん中はステージからとても近い。左前は、もっと近いけれど、視線からは外れ、立って歌う場合は見上げる感じになる。

 真ん中後ろの並びは、一番ライブが聞きやすく、特等席かもしれない。ただ入ると、席を出にくいと欠点もある。

 右前の並びは、ひろびろとして、出入りも都合もよく、リラックスして聞ける場所のだ。歌もひろびろと聞こえてくるだろう。

 右奥は、どの席ともつながっていないので、個人的にライブを楽しめる場所のようだ。そこが好きな人もいる。

 それぞれの椅子に、それぞれの役どころ。席にもドラマがあるようだ。

 椅子もまた「おっ、また来ましたね。久し振り!!」とか、思っているかもしれない。


「カタログ集め」'06.3/10

 好きだったなぁ。カタログ集め。

 その最初の物語は、小学校4年のとき、僕はステレオのカタログを集めた。

 家を新築したときに、大きなステレオを家族で買ったのだが、僕はすっかりステレオの魅力にはまってしまい、もうひとつステレオを買ってもらおうと思ったのだ。

 ・・・買うなんて、ありえない話だが、、僕はすっかり本気だった。

 商店街の電気店を巡り、ステレオのカタログを集めるだけ集めた。各ステレオの性能を比べ、ほとんどの機能を暗記するほどにカタログを見た。どれを買おうかと本気だった。話だけは親にしたけれど実現は無理だった。

 買えなかったけれど、カタログ集めの日々は夢のようだった。

 中学に入って、僕はカセットテープレコーダーとラジオのカタログを、山ほど集めた。それは僕ら世代の誰しもがそうだったろう。カタログの写真はどれもきれいで夢があった。来る日も来る日も、見たものだった。暗記するほどに。

 ・・・それはちゃんと買った。

 高校に入ると、今度はギターのカタログを山ほど集めた。各メーカーに「カタログ希望」とハガキに書いて送ると必ず送って来てくれた。僕はほぼ全部の型番をおぼえた。

 ・・・そして欲しいギターを楽器店に注文した。

 今でも電気店に行くと、ついついカタログをもらってしまう。カタログには夢がある。集める良さがある。

 ここ20年くらいは、カタログを集めても、暗記するほどは見ていない。それでもよく見ている方だろう。

 そんなふうに、悩みに悩んで決めたものでも、買うときはいつもひと言で終わってしまう。

 「これ下さい。」

 もっと長い言葉が言いたいな。


「ボンド派、セメダイン派」'06.3/8

 コンサートやライブは見ている場所によって、かなり印象がちがう。

 そんなふうに、住んでいる町も、今の時間も、見ている場所によっては、まるでちがってくるだろう。

 ときどきはすっかり忘れている事を、またはっきり思い出すときがある。

 こんな事、今頃言っても、もう時代遅れの話かもしれないが、僕は今日の帰り道に思い出した。

 僕は接着剤は「ボンド」派だったのだ。

 まるでもう一本の商店街がそこにあるように。

 ・・・・

 僕が小さかった('60年代後半)頃、接着剤といえばまず「セメダイン」だった。。印象的な黄色いチューブに、つーんとくる匂いの透明な接着液。そしてもうひとつは黄色い接着液の「ボンド」。

 同じ接着剤でも僕は黄色い接着液の「ボンド」をよく使った。セメダインの仕上がりは透明だが、ボンドは仕上がりも黄色い。そして匂いはつーんとはではなく、もうちょっと独特に田舎くさい匂いだ。しかし粘着力があり、何でもよくくっついた。

 どの文具店に言っても、接着剤のところには、その「セメダイン」と「ボンド」が並んでいた。(そののち、それに「木工用ボンド」と「アロン・アルファ」が加わるが・・)

 僕は「ボンド」が好きだった。その理由は、何でもくっついたからだ。僕の手はいつも黄色いボンドだらけ。「セメダイン」は仕上がりがきれいだけれど、僕のくっつけ欲を満足させてはくれなかった。

 「セメダイン」は品が良くて、まるで学級委員長のよう。 それにチューブに書かれた「セメダイン」の文字がどうもダイナミックさにかけていた。それに対して「ボンド」はダイナミックだった。呼び名もパッケージも大胆だ。

 ボンドは仕上がりが、黄色くはみ出るという欠点はあったが、僕はいつだってボンドを使った。

 「アオキはボンドが好きだからなぁ」

 もちろんセメダイン派も多くいただろう。

 ・・・・

 僕はあの「ボンド」の事をすっかり忘れていたのだ。最近の街はきれいでセメダインで作った街のようだ。僕はセメダインの帰り道を行っているのではないか。思い出さなくちゃいけない。しっかりと心に「ボンド」を。

 負けるなボンドここにあり。


「僕がアメリカンと声にするとき」'06.3/4

 日本語の響きってとても、いいなといつも思っている。

 最近の日本語は乱れているというけれど、それもひとつのあり方ではないかな。

 今でも、僕らは意味がもうひとつわからないのに、その響きだけで言葉を使っている。

 たぶんそれは古い言葉で、ちゃんとした意味があるんだろうなと思いながら。

 もしも、意味不明の言葉が、適当でないというのならば、そんな言葉たちも消えていったであろう。

 「もう、がっかりだよ」とよく言う。

 その『がっかり』って何?

 『ずっこけ』と似ているのは、言葉の響き具合が、内容と合っているからだろう。

 ここまでくると擬音語に近いのかな。

 僕はなるべくなら、普段外国語で使っている言葉も、日本語の中の言葉を見つけたいと常に思っている。

 日本語の中にない言葉でも。

 無理矢理、日本語に外国語に直してもいいと思う。

 何があるかなぁ。「おニューな感じね」とか。

 そんなふうに日本語主義な僕ではあるけれど、どうしても外国語を使ってしまうときがあるのを知った。

 それはインスタントコーヒーの瓶の最後、スプーン半分ほど残ったコーヒーを飲むときである。

 「アメリカン !!」

 こればかりは、この方がぴったりくる。


「よく降る雨」'06.3/1

 今日は雨がよく降っている。

 まるで仕事みたいに。

 仕事だから、仕方がない。

 部屋の中にいても、雨の音が聞こえてくる。

 よく聴くと、ステレオ効果になっている。

 大昔の太古の人も、同じように、この雨の音を聞いたであろう。

 たぶん同じような気持ちで。。

 だから、これでいい。

 小さかった頃、雨でトタン板が鳴っていた。

 よく降る雨の日。

 こればかりは変わりがない。

 みんながそれぞれに雨の日を持っている。

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