産業化に関する政府の役割

序論

1.

目的

経済発展において政府がどのような役割を果たしうるか、そしてどのような活動を行うべきかについての議論は、戦後途上国発展が世界的な注目を集めるにあたって、特に重要な問題になってきた。特に途上国開発のなかでも、国内産業をいかに発展させうるかという点は、いかに国家経済を発展させるかという問題に直結しており、途上国開発のなかでも中核を占めるといっても過言ではないものである。

この産業化に関する政府の役割は、東アジアの急速な経済成長を有効な研究材料として急激な変化を見せている。産業化にいまだ成功していないほかの途上国と一体なにが異なった政策だったのか。あるいは他の途上国とまったく同じ政策姿勢だったにも関わらず、国際的な環境の違いだけによって南米やアフリカ途上国とは違った結果をもたらしたのか。もし政府の政策姿勢が異なっていたことにも少なからずの原因があるとすれば、いったいどのような違いがどのような独自の結果を生んだのか、その点を究明しなくてはいけない。

従来の研究は主に三つに分かれるだろう。一つは純粋な新古典派による説明である。つまり、強い政府の介入にも関わらず、貿易自由化が功を奏し、高率的な資源配分や先進的な多国籍企業の直接投資の恩恵を受けることができたとする議論である。また一方で強い行動主義的政府の重要性を主張する一派もいる。これは、政府が積極的に市場機能を代替し、未熟であった市場機能をあえて歪めたこと(

getting price wrong)が成功の秘訣だと考えたのである。これらの折衷的な見解が世界銀行レポートに見える、市場友好的アプローチ、機能アプローチであった。これらは市場機能を歪めないという大前提のもとでの政府介入は無害であるとし、基礎的な条件を積極的にサポートする点に政府の役割が求められた。高い制度能力をもつ政府はそれ以上の介入も可能だが、特定の産業に対する政策は否定されたのである。そして現在は、これらの議論の根底に流れる「対立的な政府と市場の関係」から「相互に補完し合う政府と市場の関係」を前提にしたより高次の議論が行われている。これは、政府機能の弱い途上国が産業化に成功していない一方で、行動主義的政府を有する国の多くも開発に成功していないからである。東アジア経済はほとんど例外的といっても過言ではないのである。この点から、市場または政府のいずれかのみによって東アジアの奇跡が説明されうるわけではないことが認識されよう。

このレポートの目的は、数ある政府の役割のなかから、産業化に関する部分だけを取り出して分析し、何がそれを正当化するのか、そしてどういった枠の中で行われるべきものであるかを議論することである。もちろん、産業化以外にも途上国開発に必要なファクターはいくつも存在し、それらについてはまた別の姿勢が政府には求められるはずである。急増する人口への問題、識字率に示される教育の問題、社会構造の視点からとらえたジェンダー問題など、政府の積極的な取り組みが必要な要素は産業化にはとどまらないのである。しかし、本レポートは開発一般ではなく、政府はいかに産業を高度化させうるかというその点にしぼって考えていく。

2.

方法

ここで若干、議論の展開の方法について説明を加えておきたい。本レポートは、まず産業化についての再定義を行う。これまで議論された産業化論においても、何が産業化の核であるのか、そして何が産業化の尺度となるのかといった点について共通の認識があったとは思われないからである。次いで、その定義にしたがって、産業化を促進するいくつかの要素を取り出す。もちろんそれら要素には外部的であり所与のものとして扱われるべきものもあるが、ここで重要なのは変数として扱われる要素である。そしてその要素と政府機能の関わりについて説明を加える。もちろん産業化促進の要素が取り出されたからといって、即政府が機能すべきとは限らないのである。なぜそれが政府のみに期待される機能であるかについても同時に説明される。その過程で、従来認識されていたいくつかの事柄について、再考を試みる。特に、市場至上主義あるいは政府の積極的行動主義によって説明されたいくつかの事象は、矛盾を含んでいる可能性があるので、産業化の観点から新たに理解しなおす必要があろう。最後に、政府の役割が規定されたのち、その機能がどのような手続きによってなされるべきかを問う。従来新古典派によって主張された議論の多くでは、政府介入による非効率性の創出が問題にされてきたからである。政府の失敗が常に存在する一方で、それを回避する方法も条件次第では準備することができるということを示しておかなければならない。同時にこれは、東アジア経済で政府の行動主義的介入がいくつかの条件の下で成功し得たということを示すものでもある。このことは、同じ行動主義的政府を有する国家間で経済パフォーマンスが異なる理由の一部分を示すことにもなろう。

3.

注意点

本レポートでは事に触れ、日本を含めた東アジア経済の例をもって説明を加えていく。それは、途上国の産業化で成功した唯一の例であるからである。しかしこの点においてはいくつかの注意を加えておきたい。

東アジアの高い経済成長は、学問的にも注目を集める歴史的な事実であるが、それらの国々をひとまとめにしてくくることは間違いであろう。それぞれの国によって自然条件__国内に産出する資源や人口、あるいは歴史__が異なっているのであり、当然それは政府の権限の大きさ、パフォーマンスのあり方の違いを生むのである。事実、東アジア経済のなかでも香港や台湾経済パフォーマンスでは他に劣るものではない一方で、比較的行政の介入する余地は他の開発国家よりも小さかった。これは政府の介入が各国

"同程度"に必要であったということではなく、"それぞれに応じて必要な程度"の政府介入が"同程度の(量と質で)適切"であったと認識するほうがより現実的だと思われる。つまり、これら東アジア経済はそれぞれ違ったレベルで政府の介入が行われており、最も介入が少なかった香港から、もっとも介入レベルが高かった日本・韓国までさまざまであった。特に日本の産業政策はある種中央集権の計画経済を反映するものであり、香港や台湾の自由主義ベースの政策とは一見して異なったものであった。本レポートの目的は上述したように産業開発における政府の役割を明確にすることである。そこで、実際に実施され、効果があったと思われる政策をより派っきりと説明するためには、はっきりと目に見える強い介入が行われた事例を用いることが有効であろうと思われる。したがって、本レポートでは主に日本と韓国が例として用いられるだろう。

繰り返すが、すべての国が日本や韓国のような高いレベルでの政府介入を必要とするわけではない。各国のおかれた環境によっては同じ内容であっても、介入の度合いは異なっているのであり、国によっては必要とされる介入レベルは相当に低いのかもしれない。しかし、求められる内容は同じである。本レポートは、この役割の強さではなく、内容について説明するものである。何が介入の必要レベルを決めるのかという問題に関してはこのレポートの目的からは外れるが、これを広義にコーディネーションの失敗の是正と捉えるなら、当然市場機能や民間の市場補完機能の発達した先進諸国では比較的少なくても充分であり、それらが未熟な途上国では比較的大規模な介入が必要であろうと推測される。

4.

本レポートの構成

序章の最後に、本レポートの構成を簡単に説明しておく。続く第二章では、戦後から今日に至る産業開発に関する議論が敷衍されている。産業開発の主流的な考えは、これまで一貫したものではなく、さまざまな反論や異論によって進化してきたものである。構造主義から

1993年の世界銀行レポートに至るまで、常に主流派には強い反論があり、趨勢は一様ではなかった。しかしそれら議論の根底には常に市場の失敗対政府の失敗、政府行動主義と市場至上主義の対立的な構造があったのである。第二章では議論の中心がこの二分律にあったこと、そして現在はそれらが新たな関係として認識されつつあることを明らかにする。そして同時に、問題の焦点が新たなところに移動していることも確認する。

第三章では、産業化の定義および、その定義から産業化の核が何であるのかを明らかにする。これまで産業化とは、輸出額や獲得外貨、あるいはGDPの増加などに尺度が求められてきたが、ここでは別の視点から産業化を捉えることになる。すなわち、静学的市場均衡状態では単なる倉庫管理番であった企業家の動態的成長に注目し、従来の新古典派によっては所与のものとして扱われてきた技術革新や規模の経済の存在が企業家への刺激、ひいては産業化にとって要であることを示すのである。次いで、これらに対して政府に期待される役割を分析する。

第四章では、第三章で技術革新能力向上が重要であることを受けて、技術に関する議論を展開する。これまでに議論された技術論を敷衍し、次いで、より具体的に政府に求められる業務を描き出すのが目的である。

第五章は、第三章で新規市場確保の重要性が明らかにされたのを受けて、政府が市場を確保することの意義について議論をすすめる。市場を国内企業に確保することで、国内競争を維持し、かつ企業家を刺激するという過程を描き出すことが目的である。この認識にしたがって、輸入代替政策と輸出指向型政策に対して新たに説明を加えるとともに、東アジア経済の理由といわれた貿易自由化論についても再考を試みる。

第六章では、これら規定された政府の役割に対して、どのような方法でアプローチしたらよいかという方法論について議論する。これまで政府の介入というのは新古典派によって、強い反論が加えられてきたからであり、それらに対する再反論を準備することは必要であると考えるからである。ここでは、従来非難の対象となったレントに対して、状態依存型レントという新しい種類のレントを想定し、その非・非効率性を分析する。

最後に、第七章において本レポートのまとめを行い、この議論が持つ有効範囲とともに今後の研究の展望をもって結論とする。