第19回
Looking Back 2006

 巨大な置時計の秒針が時を刻んでいく。独特の刻み方なので、あとどれくらいなのかはわからない。しかし明らかにそれに近づいてきていることはわかる。そして・・・
5・4・3・2・1・・・A Happy New Year!!
船内で拍手が起こる。巨大な置時計の脇ではこのときを待っていた花火が上がりだした。そう、2007年の到来である。

横浜コスモクロックと打ち上げ花火
 2007年へのカウントダウン、私がいた場所は故郷「横浜」、夜から横浜中華街に入り夕食、その後山下公園を散歩していると、たまたまシーバス乗り場で臨時の「汽笛クルーズ」の券を発売しているではないか。限定30名まで、2000円で23:40から30分間の横浜港クルーズ、カウントダウンを大好きな海、しかも大好きな横浜の海の上で見ることができるのだ。空は快晴、絶好のカウントダウン日和(?)だ。早速このクルーズに申し込む。出向15分前の23:25に乗り場に到着、すでに何人かは並んでいた。いざ乗り込んでみると席には結構な余裕がある。ギュウギュウ詰めの中でカウントダウンを迎えるのは最悪だが、ここらへんは主催者側のありがたい配慮だろう。先に私が「巨大な置時計」と表現したのは、横浜みなとみらいにある大観覧車「コスモクロック」だ。コスモクロックは独特で、秒針がどこから開始されるのかがわかりづらい。さらに数字表記がないためカウントダウンをするには目盛りを数えないといけない。しかし、そんな面倒くささも許せるくらいの美しい横浜の夜景を見ながらカウントダウン。そして新年を迎えると同時に上がる花火。こうして2007年は幕を明けた。

 2007年は私にとって非常に重要な年になるだろう。その主たる理由は後述するが、何よりも私の中では2007年は「20代最後の年」という意味合いが強い。先日郡山でのプロジェクトルームからの帰り道、先輩で良き友人でもある人の車の中で「もうすぐ20代最後だよ。何を目標にしようかな」と言うと「別に10年ごとに目標定めなくてもいいじゃん」と言われた。確かにその通りだ。やる気さえあればそのときそのときで目標を定めそれを達成していけばいいだけである。しかし、そこはやはり人間、「きっかけ」というものが必要だ。「きっかけ」を設けることで、それを原動力として何かを成し遂げていこうとするちょっぴり弱い人間という生き物の一人である私も、今年をそういう形で捉えているのである。ということで、やはり毎年のように前年を振り返り、少しでも今年を充実させられるようにしたい。

郡山へ向かう暴走特急、やまびこ
 2005年より始めているブログのおかげで毎年を振り返るのは非常に容易になった。2006年の年初は表参道でプロジェクトに参画していた。当初は一メンバーとして入ったプロジェクトだが途中から諸々の事情でプロジェクトマネージャーを務めることになった。2004年の初のプロジェクトマネージャー以来3度目、1度目は「失敗」、2度目は「成功」(あくまで一般的な視点で。個人的な視点では「成功」とは言えない)、3度目はどうなるか。結局構築したシステムの規模はあるが、プロジェクトとしては「成功」と言えるだろう。決められた期間内に、決められた規模で(無理やり押し込んだ感はあるが)、決められた品質でサービスインすることができた。しかも2度目のプロジェクトマネージャーのときのように思い切りオーバータイムをしたわけでもない。なかなか良いペースで進められたのだ。お客様にも非常に喜んでいただき感謝状をもらった。もちろん次にプロジェクトマネージャーをするときに生かすべき考慮点はたくさんあるが、これは自分でも「成功」と言いたい。しかし、仕事面で2006年を振り返るとき、これよりもっと自分にとってインパクトが大きかったのはこの後に入った郡山のプロジェクトだ。本当にいろいろな意味で今後の自分の仕事の方向性を考える上で重要な勉強をすることができた。そもそもこのプロジェクトは提案活動ということから考えると2年前の2004年後半からスタートしている。本来なら2006年の4月にサービスインの予定だったところが、諸々の事情によりサービスインできないでいた。私が参画したのは6月後半、このプロジェクトに参画したのは後述するある事情があって他の新規プロジェクトに参画できなかったためだが、これが運命かと思うほどその後述する事情につながっていくいろいろな体験を私にもたらしてくれた。このプロジェクトはすでに1億円以上という規模のオーバーラン(赤字)を出しており今後どのようにこのプロジェクトを収束させるかで社内でも頻繁にミーティングが行われていた。そこに、最近まるでJAPANを乗っ取るかのように入ってきたUS本社の方々も関わってきたのだ。もともと旅行でも文化交流が大好きな私、ここにきて初めてビジネス上での文化交流というものを肌で体験することができた。もちろん日本と米国のビジネススタイルは大きく異なる。しかし、その議論を聞いていると、どうも私はすべてをロジカルに組み立てていく彼らの考え方にフィットするような気がしてならない。もちろん「理想と現実」という言葉は存在する。しかし、彼らはそれほどまで理想を言っているわけでもないように思う。ビジネスでの着地点、バランス、本来あるべき姿と現実とのギャップ、そういったものを常に考えながら判断しているように思えた。このやり方には本当に同感できた。もしUS、あるいは他の国で彼らのやり方で通用するビジネスがあるとしたら(もちろん日本でも通用させるべきだと思うが)、そここそ自分のステージかもしれない。これが私の来年以降のビジネスに対する取り組み方になんらかの影響を与えるような気がしてならない。ちなみに結局私の力でも当たり前のようにどうすることもできず、このプロジェクトを12月中旬に「途中離脱」という形で去ることになった。自分では「落とし所」が的確に見えていたわけではなかったが、1日も早く落ち着くことを願う。(この文章を書いている2007年5月上旬現在、まだプロジェクトは続行しているらしい)

「アサヒカメラコンテスト」に初入選
 6月後半以降12月の中旬まで、半分以上は郡山で過ごしたと言っても過言ではないだろう。そんな中、趣味や私生活の面に取り組む時間が少なくなってしまうのは仕方がないことだろうと思う。「毎年何かひとつ、体を使った新しいものを習得していこう」と心がけている私も2006年は結局これといって新しいことを始めることができなかった。とは言え、旅行では最後に訪れたい東南アジアの場所であるベトナムにも行ったし、初めてサイパンにも行って予想外に美しい海に驚いた。9月には従姉の結婚式で上海にも行き、結婚式カメラマンに初挑戦した。一人旅という意味では「年に2度は一人旅」のペースを守れなかったが、忙しい中それなりに充実したと思う。写真に関してはとにかく写りにこだわり始め、バカみたいにレンズを買い漁った。また写美でのモノクロ現像&プリントレッスンに参加したり、個人的には一番好きなカメラ雑誌「アサヒカメラ」のコンテストに写真を応募したりした。特に「アサヒカメラ」に関しては、ファーストステップという初心者部門ながら2002年のタイ・カンボジアの旅で撮った写真が入選するという本当にうれしいこともあった。また今年のサイパン旅行、それに10月の後輩の結婚式の写真を写真集にまとめるという新しい試みも行った。後輩にものすごく喜んでもらった(と思う)のでこちらも本当にやって良かったと実感している。音楽に関しては一昨年より始めた「生演奏バー巡り」もうまく続かず、結局残念ながら新しい活動をあまりすることができなかった。ここに関しては今年以降なんらかの形で新しいアクションをしていこうと思う。

 2006年を一言でたとえるなら約半年間だったが本当に「郡山」色が強い1年だったと言える。すべてが「郡山」プロジェクト中心に廻っていた感じだ。はっきり言って普段の私だったらこんな状況だったらすぐに逃げてしまう。しかし今年に関してはあまり不満も垂れずとにかくやることにしていた。それは2007年の計画のためだった。昨年のLooking Back 2005で記述した「以前よりずっと考えていたある挑戦」を実行に移すことに決めたのだ。「ある挑戦」というのはずばり「海外留学」である。

これまでの舞台、Capital of Japan
 思い返してみると、バンド活動に明け暮れていた高校生時代にすでに音楽で留学したいなんて考えも持っていた。でももともとアクティブではない私は結局何もせずに大学時代を過ごし、そんでもって就職。会社という新しい組織体で働いて自分が成長しているのかどうかもよくわからないまま忙しく毎日が過ぎて6年が過ぎた。小学校で言うと卒業する年だ。もちろん、それなりに仕事は楽しいし、プライベートでもいろいろ趣味を増やしていって充実もしている。ただ、やっぱりまだ何かやり残している感があったのも確かだ。非常に不器用で一つ一つ納得していかないと前に進めない自分の性格、このやり残した感はいつもどこかでひっかかっていた。2002年から一人で海外を旅するようになって、少しずつ何かが変わってきているような感覚を覚えた。そして2004年にラオスを訪れ、オーストラリア人のJoshuaたちと旅しているときに、唐突に感じた何か。何か自分が日本という非常に狭い世界で踊らされているような錯覚、もっともっと自分を成長させる舞台がいたるところにあるような期待、大してプロフェッショナルでもないくせに会社名だけでプロフェッショナルと判断されてしまうことのギャップに対する猜疑心、だから何と言えばそれで終わってしまう学歴に甘んじて生きているような焦燥感、そんなものがラオスのバンビエンという小さな田舎の村で一気に湧き出てきた。帰国したときにはすでに「留学」という計画を実行に移すことを決めており、それ以降は「留学」することを最優先に取り組んできた。なんとか20代のうちに実現させたい。次の10年間を思いっきり楽しむためにも。
 
6年間過ごした浅草の一室
 当初は2006年4月から留学する予定だったものの、プロジェクトの都合や会社の制度変更の関係で2006年10月、そして2007年1月からという具合に変更された。選んだ場所はオーストラリアのブリスベン、まず一人旅の間によく気が合った旅仲間にオーストラリア人が非常に多かったこと、それから遊び好きの自分を戒めるためにも近くにそれほど魅力的な遊び場所がない場所、そして気候が暖かく持っていく荷物を少なく済ませられる場所、そんな理由でこの地を選んだ。特に他に候補があったわけではない。思っていたよりすんなり場所を選ぶことができた。期間は2007年1月8日より9月28日まで、35週間、全7セッションのクラスに申し込んだ。昨年まで「語学留学制度」の名目で会社から100万円の補助金が出ていたが、この制度は今年から廃止されたため、すべて自前での渡航となる。まあ、20代最後に自分へのプレゼントと思えばそれほど高くもないだろう。2006年12月中旬に仕事を終了し、下旬には6年間住んだ浅草のマンションから横浜の実家へ引っ越した。準備はすべて整った。後は実行あるのみだ。「行って何をするの?」、特に理由があるわけではない。お得意の「勘」だ。でも今までこの「勘」で生きてきて一度も外したことがないと自負している。今回も必ず何かを得られるはずだ。

日本を発つシンガーポール航空機内
  もうひとつ、オーストラリアでの留学が終了してから職場復帰まで約3ヶ月のブランクがある。もちろん、いろいろな準備もあるため本当に自由な時間としては2ヶ月程度だと思うが、この2ヶ月を利用してアジアを旅しようという計画もしている。2002年にマレーシアから始めて主に東南アジアだがいろいろなアジア諸国を旅した。そんなアジアの中でもまだ行っていない、そして行くべきだという「勘」じている場所がいくつかある。インド、ネパール、パキスタン、スリランカ、チベット、ミャンマー、ブルネイ、モンゴル、そんな国々を20代のうちにできるだけ廻ってしまおうと思う。なぜなら世界にはまだまだ行きたい地域がたくさんあって、とりわけアジアという地域に関しては20代で一区切りをつけたいと思っているからだ。そのためには2ヶ月という期間は十分ではないと思うが、Do my bestでいきたい。

 というわけで2007年は今までの28年間とは全く違った環境での生活となる非常に特別な年となる。毎度ながら1月1日に浅草寺でおみくじを引いてみる。結果は昨年に引き続き「凶」、まあこんなもんだろう。なにはともあれLet it beで行ってきます!!

掲載が遅くなったため「あめましておめでとう」は省略します。
今年もよろしくお願いいたします。
(2007/05/12 Yuki Fukui)

『Looking Back 2006』完

2007/05/12(Sat)掲載