第17回
写真とカメラのお話 - 後編 -

やっと登場した待望のNikon D200。
 時代はデジタルカメラ全盛、デジタル一眼レフも各社で幅広いラインナップが出そろいいよいよ銀塩カメラは風前の灯火と言われている。ニコンのマニュアルレンズ群は2005年夏より徐々に生産終了品が出てきて、マニュアル機のFM3Aは生産完了の噂が流れ、少なくともマニュアルシステムが終息の方向に向かっているのは確かなようだ。実際ニコンでもデジタルカメラとフィルムカメラの事業比率が9:1にまでなってきているという話もある。当然のごとく私もFM3Aを購入する前にデジタル一眼レフに移行することも考えた。ちょうどニコンファン待望のD200がアメリカで商標登録されたという話がインターネットを駆け巡り、様々なサイトで合成画像や希望スペックなどのD200予想がされていた。掲示板等にもD200に対するコメントが爆発し、別の意味でデジタル一眼レフそのものを勉強する良い機会になった。そんな中で私はあえてマニュアル機のFM3Aの導入に踏み切ったのだ。そして11月1日、予想より若干遅れて正式に発表になったD200、インターネット上ではその優れたスペック(ならしい)で大盛り上がりである。しかし、私はこれらを見て、逆に私の選択が(私においては)正しかったことを確信することができた。なぜなら、銀塩カメラとデジタルカメラは全く違うものであり、今の自分のスタンスには銀塩カメラが適しているということがわかったからだ。

 よくデジタルカメラの利点としてランニングコストが安い点と気軽に多くの写真を撮れる点が挙げられる。前者はフィルムを必要としなかったり、また現像代というのがいらないこと、後者は写真をその場でチェックできるので失敗したりいらないものは後で消せばよいのでとにかくシャッターを押しまくることができるということを言っている。まず、前者に関しては私にとってあまり魅力的な話ではない。フィルムや現像を必要としないと言っても高画素化されてきている現在のデジタルカメラでは1枚の画像に大容量を使うなんてことは当たり前になってきている。私の使用しているFinePix F10でさえ、最高画質で撮影した場合3MB程度必要とする。D200では非圧縮RAWのFINEモードで撮影した場合、なんと1画像あたり20MBも使用するのだ。そうすると実売20,000程度の1GBのコンパクトフラッシュに44枚しか入らない。もちろん適当なタイミングでPCに移動すればいいが、PCの容量も無限ではない。これに関して、果たしてランニングコストが安いと言えるのだろうか。またPCのハードディスクがクラッシュしてしまったら、すべてが台無しだ。フィルムなら家が火事にでもならない限り大丈夫だろう。2点目の気軽さだが、こちらはとりわけ私の性格に合いそうもない。おそらく私は撮った写真を捨てることができないからだ。どちらかというと感じるままにシャッターを切ってしまっている私にとって、とりあえず後で整理することを考えてシャッターを切るのはなかなか難しい。それはコンパクトデジカメを使っていても同じである。写真を捨てることができない性格なのである。もちろん失敗写真は数多く存在する。しかしそれは失敗してもいいやという気持ちで撮ったのではなく、ちゃんと撮りたかったのに失敗してしまったものだ。ちゃんと撮りたいという写欲があったものに対して、私は無駄だとは思わない。

PCベースのデジタルレコーディング環境。
 よく言われる2点について否定してしまったわけだが、そもそも私のモノに対する考え方がある。私はモノはどちらかというと一つのモノを愛機としてずっと使いたいタイプだ。そうするとフィルムカメラに関しては機能は高性能になってもフィルムに焼き付けるという仕組みは変わらないため、今のカメラを永遠に使い続けることができる。それに対してデジタルカメラは画素やCCDやCMOSが古くなってしまったら捨てるしかない。つまり今買っても5年後には使えないカメラになっている可能性が高いのだ。それがどうもしっくりこなかった。それと、単にイメージをデジタル処理すると違って「フィルムに焼き付ける」という行為そのものに何か情熱的なモノを感じるというのも大きな理由だ。とまあ、現時点ではデジタル一眼レフに移行できない私でもそのうち必ず移行するだろう。音楽業界でも以前アナログ録音からデジタル録音への移行期というのがあって、当初は「デジタルは音が冷たい」とか「デジタルは感情が入らない」なんて言われたが、今やほとんどのレコーディングはデジタルだ。現に我が家のシステムもPCベースのデジタルレコーディング環境になっている。しかし、カメラに関しては上記の理由により移行はまだまだ先になりそうなのである。

美しきフィルムの世界。
 それにしてもなぜ今になってこんなに写真に魅力を感じるのだろうか。それはデジタルにしろフィルムにしろ写真は同じものは二つとないということに起因するところが大きい。もちろん他にも同じものはないものはいっぱいある。例えば音楽や絵画なんかもそうであるし、家電でさえ微妙な違いがあるなんてへ理屈を言えば同じものはない。しかし、同じものないものの中で写真ほどオリジナル性を持ったものを手軽に生み出せるものはないだろう。私が撮った一枚の写真、これはまぎれもなく私という工場で生産されたオリジナル品なのである。私が撮った写真だから私にしかわからない良さはもちろんある。それでいいと思う。たいそうなセットを構えてCM用の写真を撮るわけでもなし、大掛かりなライティングシステムを駆使して雑誌のグラビア撮影をするわけでもない。誰のためでもなく、何のためでもなく、ただ自分の思い出という資産のためだけに写真を撮る。人から批判される善し悪しはそんなになく、徹底的に自己満足を満たすためだけのものだと思う。だからこそ、例えば初めて行った場所で描いた印象と帰国してプリントした写真を見たときの印象がぴったり重なったときは快感の一言である。もう本当に写真を撮影したその場にトリップできてしまうくらいだ。先ほどは自己満足という話を出したが、このトリップが他の人に伝わればさらに嬉しい。だから写真を撮り続けたいと思うのだ。撮れば撮るほど、何か私の過去にいつでも戻れるような、ある意味で本来の自分が見えてくるような気がする。それが今の自分、そしてこれからの自分にとってとても貴重なものだと思うようになったのである。

 写真の勉強を初めて、カメラとは何と単純な機構で、なんと奥深いものかということが分かってきた。絞り、シャッター速度、構図の3つの要素だけで自分の思い描くイメージを焼き付ける。こんな単純な構成でオリジナルを生み出す。しかし、まるで化粧で眉毛を書くだけで全く別人に見えてしまう女性の顔のように、0.5cm構図をトリミングして撮影するだけで驚くほど被写体の雰囲気ががらりと変わることが多々ある。ここがおもしろい。こうなるともう写真を撮りまくって、この3つの要素を感覚的に扱えるように自分の神経を鍛えるしかない。神経を鍛えて、できるだけ今目の前にあるイメージをパッケージングしたい。今はとにかくその訓練に夢中である。時間があればできるだけカメラを持って散策し、気になったものにどんどんシャッターを切っている。できるだけ自分のイメージ通りの写真を多く撮影して、これからも本来の自分を見るための足跡を沢山残していきたいと思っている。

<<追記>>
今回のコラム、「写真とカメラのお話」は2005年11月の下旬から少しずつ書き始めたものです。そのため掲載する2006年1月中旬と少しばかり状況が変わってきていますので、その説明を付け加えたいと思います。文章中に出てくるNikon D200は2005年12月16日に予定通り発売され、発売から約1ヶ月経った今も各店で品切れ状態が続くほどのヒット商品になっています。私も実際サンプル機を触りましたが、雑誌の評価などとは逆に今はまだ全く魅力を感じませんでした。また2006年1月11日には株式会社ニコンから正式に「フィルムカメラ製品のラインナップ見直しについて」と題して、フィルムカメラに対する経営資源投資を終了する旨の発表がありました。こうなるとフィルムカメラ自体の終焉も近いということでしょう。フィルム派の私としては非常に残念ですが、ファンであるニコンが今後デジタルカメラの世界でも先駆者となり、情熱的なツールを提供し続けてくれることを期待しています。

『写真とカメラのお話』完

2006/01/14(Sat)掲載