MASTERPIECES OF ISLAMC ARCHITECTURE
タッタ(パキスタン)
タッタ歴史的建造物

神谷武夫

タッタ

パキスタン・イスラム共和国の南部、シンド州、
カラチの東約 100 km、1981年 ユネスコの文化遺産に登録

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バンボールの大モスク跡

 シンド地方の首都であった古都タッタは、インダス河の港湾都市として富み栄えた。しかし河がその流路を変えたときにタッタの町はその役割を失い、今ではただ、残された歴史的建造物と、近郊にあるイスラム世界有数の広大な墓地(マクリの丘)が、かつての栄光をしのばせるばかりである。タッタの町の全盛時代には、建築工芸における独自のスタイルが発展し、隣のパンジャーブ地方にまで広まった。しかし、今日ではそれらの古い歴史的建造物の多くは、地中の塩分とモンスーンの豪雨とによって かなり以前から深刻な被害を受け、近年建設された実用本位の建物の陰に 追いやられている。
 また、タッタとカラチの間には 興味深い遺跡が2ヵ所ある。両者のちょうと中間点にあるのがバンボールで、かつての古代都市が 711年にアラブの将軍 ムハンマド・ブン・カーシムによって征服され、イスラーム都市となった。ここに、インド亜大陸最初の大モスク跡が 発掘されている。そのバンボールとカラチの中間点にあるのが、もう一つの広大なイスラーム墓地、チョーカンディである。



インダス河とマクリの丘

チョーカンディの墓地

 古来、ペルシア世界とインド世界とを分ける境目として流れる大河インダスは、現地ではシンドゥ河とよばれてきた。「インド」や「ヒンドゥ」の語源ともなったこの河のデルタに港が開かれたタッタの町は、交易都市として大いに栄えた。インダス河上流域のパンジャーブ地方においても、タッタとこの河ほどに深く結びついた都市はない。けれども、インダス河が数度にわたって流路を変えると、タッタの都は衰退し、港は砂に埋もれた。1739年、アフシャール朝のナーディル・シャーが率いるペルシア軍が、長らくシンド地方の首都であったこの都市を攻略したときには、その黄金時代はとっくに過ぎ去っていたのである。

 とはいえ、インダス河との接点が失われた後も、この古都は輝かしい建築遺産を保持していた。町には豊かに装飾された金曜モスクがあり、近郊には 15平方キロメートルにもおよぶイスラム世界最大級の墓地であるマクリの丘に、無数の墓碑とともに墓廟が建ち並んでいる。タッタの最古のモスクと類似したレンガ造の建物も荒廃しながらマクリの丘に残っているが、それら最初期の墓廟は、14世紀から 16世紀にかけてこの地を治めたサンマー朝の時代にさかのぼる。

マクリの丘の墓廟群(I 群) 左がディーワーン・シュルファ・ハーン廟、
中央がイーサー・ハーン・タルハン(弟)廟、右がジャン・ババ廟

 かつて『インドの建築』(1996、東方出版)に、イスラームにおける墓廟と、チョーカンディ墓地について書いたので、ここに採録しておく。

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 偶像を厳しく禁じたイスラームにとっては、キリスト教でさえ偶像崇拝の宗教に見える。預言者ムハンマドは、決してキリストやマリアのように礼拝されたりはしない。したがって死者に対する崇拝は 本来イスラームとは矛盾するのであるが、各地の伝統と結びついて、聖人を祀る聖廟への崇拝がしだいに盛んとなっていった。とりわけスーフィー聖者の廟は ダールガーとか マザールとか呼ばれ、庶民の信仰を集めた。
 しかし建築として大きく発展するのは、それが王侯の墓と結びついたからである。インドには古来「輪廻」の思想があり、死者は49日後に必ず生まれ変わることになっていたから、墓を建てるという習慣はなかった。ところがイスラームがやってくると、墓廟を建てる習慣が持ち込まれ、ヒンドゥのラージプート諸侯も 競って廟を建設したのである。中東では 多くドーム屋根が架けられるので、アラビア語では廟のことを、ドームを意味する「クッバ」と呼ぶ。
 インドではラウザやマクバラーの呼び名が好まれるが、もっと大衆的には「チャトリ」と呼ばれることが多い。サンスクリット語の<傘>に由来するが、4本、または それ以上の柱で支えられた方形、またはドーム屋根をそう呼び、ついには墓廟一般をもチャトリと言うようになったのである。ムガル朝の王族は自身の廟を生前から造りはじめ、これを囲む庭園を公園として公衆に開放することが多かった。これは今でも庶民にとっての、格好の散策地となっている.

  
チョーカンディ墓地における貴族の墓標

 建物以前のイスラーム墓地にも 興味深いものがある。もう15年以上も前のことになるが、パキスタンの古都タッタからカラチへ戻る途中に、長さ数kmにわたる広大な墓地を見つけて寄ってみると、彫刻された砂岩を積み重ねた墓群が夕陽に照らされて赤々と輝き、それがどこまでも延々と続く超現実的な眺めに、深い感動を覚えたことがある。それがチョーカンディの 貴族の墓地であった。
 タッタの近くには もっと立派な廟建築の立ち並ぶマクリの丘があるが、このチョーカンディの墓地に より深い印象を与えられた。これらのレリーフ彫刻のパターンは、国境と砂漠を超えて、遠くジャイサルメルへと連続するものであろう。その彫刻は すべて抽象的なパターンで、なんら具体的な死者の像を与えてはくれない にもかかわらず、石ころを積んだだけの粗末なものから、立派な彫刻のある大きな墓まで並ぶ姿を眺めていると、おりしも沈みかけた落日の余光の中に、何世紀も昔のムスリムの貴族や町人の哀歓が、まざまざと伝わってくるような 感慨に捉えられたのであった。 (1996)

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マクリの丘のミールザー・サレ・ タルハン廟と、名称不明の廟

 マクリの墓廟群で最も興味深いのは、1509年のジャーム・ニザームッディーン廟である。それを建てたサンマー朝の建築家は、西インドのグジャラート地方のヒンドゥ建築と、西アジアのイスラーム建築の技法とを融合した。とりわけ西側の外壁の凸部は石造であるにもかかわらず、まるで木造のように石が組まれ、精妙な彫刻がほどこされている。そこには腕木(うでぎ)や庇があり、ヒンドゥ寺院のような砲弾状をした小シカラ(塔)で飾られてさえも いるのである(その後 ラーリー夫妻によって詳細な報告書が出版された:"The Jewel of Sindh", Suhail and Yasmeen Lari, 1997, Heritage Foundation, Oxford University Press, Karachi。
 さらに1978年には、ハンガリー生まれの女性美術史家 Salome Zajadacz-Hastenrath によって、チョーカンディの研究書も出版された (独語)、英訳版は 2003年 "Chaukhndi Tombs, Funerary Art in Sind and Baluchistan" Oxford Universisty Press.)

  
ジャーム・ニザームッディーン廟


イスラーム建築の伝播経路

 1520年にアフガニスタンからやってきたアルグン朝の後にはタルハーン朝がつづいた。その王のひとりミールザー・イーサー・ハーンの廟は 1640年頃に造営され、塀で囲まれた境内の中央に建っている。2層の矩形(くけい)の廟の上にドーム屋根がのっているが、全体は柱・梁構造をしていて、おそらくファテプル・シークリーの建築様式がシンド地方にまで影響をおよぼしたのだろうと考えられる。
 一方、王族は自身の廟をより偉大にみせるために、中央アジアのティムール朝の廟建築に倣(なら)って、高くのび上がる円筒形の胴部(そこにはしばしば高窓がつけられる)の上にドーム屋根を架け渡すようにもした。
 下図の、タッタとブハラのモスクの平面形の比較でわかるように、これらのモスクの先祖はシリアのウマイヤ朝の横長のモスクではなく、ペルシア(イラン)のサファヴィー朝の縦長の「四イーワーン型モスク」である。ペルシア型のイスラーム建築が 中央アジア経由でインド(パキスタン)にもたらされ、しかし インドでは彫刻的変容をとげて、インド型の「三ドーム型モスク」を生んでいくのである。それでも インドのイスラーム建築は、タージ・マハル廟に代表されるように、きわめてペルシア的である。

  

タッタの金曜モスク(左)と、ブハラのカラーン・モスク(右)の平面形の比較
(From "The Antiquities of Sind" 1929, Henry Cousens, A.S.I., &
"Samarkand Bukhara Khiva" Editions Flammarion, 2001)
タッタの金曜モスクのプランは、ダマスクスのウマイヤ・モスクのような横長とは
正反対の縦長をしていて、中央アジアのブハラの大モスクの影響下にあると言える。
実際の規模は、ブハラのモスクの長辺が タッタのモスクの長辺の2倍である。
(タッタのモスクの 下(東)の 小中庭を従えるエントランス部は、後の増築)



タッタの金曜モスク

  
タッタの金曜モスク、入口部と回廊

 ムガル朝のシャー・ジャハーン帝(在位 1628〜1658)の治下、1644年にタッタの町のジャーミ・マスジド(金曜モスク)の建設が始められた。そのために、「シャー・ジャハーン・モスク」とも呼びならわされているこのモスクは 6,000平方メートルもの敷地をもち、30メートルに 50メートルの長方形の中庭を囲んで 3つの大ドームと 90の小ドーム群が並ぶ大モスクである。次のアウラングゼーブ帝(在位 1658〜1707)の手で完成したこのモスクの礼拝室は、互いに組み合わさったアーチに支えられた大きなドーム天井をいただく。そこから連続した二廊式の回廊が中庭を取り囲んでいて、礼拝室を独立扱いしていないところが ペルシア風である。全体は青を主調とする釉薬レンガと彩釉タイルでくまなくおおわれ、清潔で荘厳なデザインとなっている。その優美な文字装飾のある金メッキの石や彩釉タイルの建物は、ウズベキスタンのサマルカンドやブハラ、そしてアフガニスタンのヘラートでも見ることができよう。

タッタの金曜モスク、天井見上げ

タッタの金曜モスク断面図
(From "The Antiquities of Sind" 1929, Henry Cousens, A.S.I.)

 タッタの建築はムガル建築に通ずるものではあるが、その単純な模倣では決してない。タッタに特徴的な彩釉タイルや、ペルシアと中央アジアの影響を受けたテラコッタ・パネルの技法は、金曜モスクにおいて頂点に達する独創的な装飾スタイルを創りあげているのである。金曜モスクの建物が修復されたのを除けば、雨季の豪雨と地中の塩分に脅かされるタッタの歴史的建造物群の修復工事は、あまり進展していない。

彩釉タイルによるモザイク装飾


タイル装飾
タッタの金曜モスクの壁面構成

 のちの君主たちは永遠の眠りの場を飾るのに、トルコ石のような青色になる釉薬(ゆうやく)をかけて焼いたレンガや、彩釉(さいゆう)タイルを愛用した。工匠はさまざまな色のタイルを巧みに組み合わせて、植物紋や幾何学紋、あるいはカリグラフィー(書)による模様の帯で壁面を飾った。彩釉タイルを小さな断片に切断し、モザイク片として用いるその新しい技巧は、たちまち隣のパンジャーブ地方にも広まった。職人はまたしばしば、レンガの建物を厚いプラスターでおおい、そこに大きなアラベスク模様を描いたのである。

 シンド地方における最初期のタイル仕上げがほどこされたのは、タッタの町に建立されたダブギール・モスクであった。それは北インドのムガル朝の皇帝に任命されたナワーブ(太守)が統治していた 1588年である。このモスクは、初期のタイル工芸がどんなものであったかを見せているが、かつてはすべての壁面をおおっていたタイルも、今はごくわずかしか残っていない。

(『ユネスコ世界遺産』インド亜大陸 1997 講談社)


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